「どうやったら幸せになれるか」を考えてはいけない不機嫌な社会

川崎登戸の事件をきっかけに色々と考えている。今日のお題は「閉塞感」である。とにかく誰が悪いのかという話ばかりで解決策が語られない。




このところQuoraの政治スペースをコツコツと埋めているのだが、マスコミが波及被害をもたらしたという書き込みにはかなりの高評価があった。高評価があると閲覧回数が増えるという仕組みになっているようだ。実はこのブログの「マスコミが人を殺した」という記事もプチヒットになった。それだけ「マスコミが」という書き方は感度が高い。それは閲覧者が「非当事者」として上から語れるからだろう。時事評を格上ではこれが重要である。そして時事評として成功すればするほど問題解決ができなくなる。当事者的感覚から離れていってしまうからだ。

いずれにせよ、みなが当事者として右往左往することに疲れており、非当事者として他人を裁きたがる。

マスコミは犯人探しをして日銭を稼いでいるわけだが同時にターゲットにもなっている。このことに気がついてからテレビの川崎・登戸報道は抑制姿勢に入ったが、テレビ朝日では女性のコメンテータが「それでも精神病の中には危険な人がいる」と自説をぶちまけており局員コメンテータから制止されていた。そして制止されてもまだ自説を叫び続けていた。あとで調べたらやはり非難されている。こういう発言が人を追い詰めるということに気がつかない人が大勢いるのだ。

ところが、自民党批判に結びつくような記事やアメリカ批判に関する記事にはそれほどの高評価がつかない。ブログを書いていても思うのだが、現状批判はNGなのである。ここに日本人が作った見えない障壁があり、閉塞感の一つの要因になっている。

やはり閉塞感は感じているので誰かを悪者にはしたい。だが、現状は変えたくない。だが、藁人形は藁人形にすぎないので問題は解決しない。しばらくはこの状態が続くのではないかと思う。

ではそもそも「現状をよくしようとしているのか?」ということに興味が湧きいろいろ質問してみたのだが、こちらはさらに鬱屈した状態になっているようだ。

最初の質問はマインドフルネスについてのものである。情報産業も便利さだけでなく心の豊かさに資するようなプロダクトを供給しなければならないというアメリカ西海岸的なリベラルさんが喜びそうな内容だ。そこそこの閲覧数は稼げたが回答がつかなかった。唯一ついた回答は「あれ?なんで怒っているの」というものだった。理由はよくわからないが「自分でも追求してみたがなんらかの形でうまく行かなかった」人の反応に似ているなとは思った。2009年から3年間での民主党政治の失敗を見ていてもわかるのだが、改革期待が失望に変わると希望は怒りに変わる。そして怒りを持った人が「新たな希望を持つ人」を妨げる側に回ってしまうのである。

次に現実的なスキルについて聞いてみた。今回の一連の事件には「家族間で感情を話し合えるスキルがない」という問題がある。では、いつまでに自分の気持ちが表明できるスキルが獲得できればいいのかと聞いてみた。この後「どうやったらスキルが獲得できるのか」ということを聞いてみるつもりだった。当初回答はつかず安倍政権をナチスになぞらえたものが来ただけだった。

しかし、こちらはあとになって役に立ちそうな回答がついた。知識を持っている人はとにかく忙しいのでなかなか解決策を提示する余裕がないのだろう。それでもよく書いていただけたなと思う。

ただ、こちらは専門的に深掘りする内容になっている。このアプローチには少し分析が必要だ。砂漠の宗教と森林の宗教を比べた研究があるそうだ。読後感を書いたブログが見つかった。砂漠では位置を間違えると死んでしまうので「今自分がどこにいるのか」という鳥瞰的な見方が発展する。ところが森林ではそのような地図は作れないので「今いる視点」が世界の全てになるというような筋である。

これがどの程度正しいかはわからないのだが、日本人が鳥瞰・俯瞰思考が苦手というのは誰しも感覚的に感じるところではないかと思う。このため、日本人が専門分野について語る時には鳥瞰的な知識を持った人が専門家をまとめなければならない。そうしないと森の中でそれぞれの人がそれぞれの視点で「正解」を語りだしやがて喧嘩になる。かつての企業で「総合職」的役割が重要だったのはそのためである。

今回の回答は、心因性と機能性の二つの問題があるというところまではある程度俯瞰的なのだが、そのあと機能性の話になってしまい、そこで終わっている。

いずれにせよここからわかるのは、我々が解決思考になろうとした時に少なくとも二つの障壁があるということだ。まず改革に失敗した人たちの怒りをすり抜けるある種の図太さが必要であり、さらに深くなりすぎるそれぞれの議論を統合しなければならない。なかなかしんどい作業なのではないかと思う。

こうした背景があり、社会全体として解決策を討議できないので「個人の幸せ」や「居心地のよさ」を前面に出して聞いてはいけないという空気がなんとなく生まれている。コミュニティのメンバーとして対応を求めるものは特にNGであり、「非当事者」としての逃げ場を準備してあげた上で語れるような聞き方をしてあげなければならない。これが実に面倒くさい。

ソリューションを持っている人たちは忙しすぎる。まとめる人もいないので、社会や集団を変えてゆくことはできない。だから、ソリューションを持っていない人たちは現状への不満を抱えつつどう表現していいかわからず怒り出してしまうのかもしれない。そうして幸せについて語ってはいけない不機嫌な空間ができる。

と一応分析してみたが、なぜ日本の社会がここまで不機嫌になってしまったのか。わかるようでよくわからない。コミュニティや議論と対話のカテゴリでしばらく観察を続けたい。

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殺人を糾弾するテレビが人を殺すまで

ついに恐れていたことが起きてしまった。川崎・登戸の事件報道が二次被害を生んだようなのだ。正確には最初の事件から「波及した殺人」が起きている。




川崎・登戸の事件は「ひきこもり」が起こした事件として報道された。ひきこもりは社会の役に立たない人たちであるとされている。そのため、世の中はこの決めつけ報道に疑問を持たなかった。

支援者たちはこれに危機感を持ち当事者や家族が追いつめられ「社会とつながることへの不安や絶望を深めてしまいかねません」との懸念を表明していたのだが、実際にはかなり悲惨なことが起きた。最初の事件は福岡で起きた。働かない息子を叱ったら母親と妹を刺して自殺したというのである。ただ、この件はそもそもあまり報道されなかった。

今後、若干派手に報道されそうなのはもう一つの事件である。殺人未遂で逮捕された人が農水省の事務次官という「立派な肩書き」を持った人だったのだ。

「報道との因果関係などわからないではないか」という反論が聞こえてきそうだ。こうした反論が起こる背景には「ひきこもりのような役に立たない人間は殺されても当然だ」という社会に溢れている差別意識に加え、因果関係を認めてしまうとテレビや新聞などの報道を経済的・社会的に制裁しなければならないという他罰的で妙に律儀な意識があるのだろう。さらにその奥には「まともに生きている自分さえ処理されかねない」という危機意識もあるのかもしれない。

続報を読むと「暴力にさらされておりいつ何が起きてもおかしくない状況」だったことがわかる。マスコミ報道は単に背中を押しただけなのかもしれない。早かれ遅かれ問題は起きていたのかもしれない。

つまり、平穏そうに見える家庭にも「やるかやられるか」という状態が持ち込まれている。だから、この件について「マスゴミの姿勢を問う」というような糾弾姿勢は返って逆効果になる可能性が高い。誰が悪いのかと指を指しあっても緊張を高めるだけで問題解決にはならないからである。

マスコミの問題点は「解決策を提示しないで危機意識だけを煽ったこと」だ。例えば老人に蓄えがないと暮らして行けないという報道も別の人たちの背中をおす可能性がある。

ただ、マスコミは問題糾弾だけをしていれば良いという意識もある。日本の報道機関は各社の村の共同体なので問題意識を共有して議論するということがないのだろう。ゆえに、こうした決めつけ報道の歴史は古く根強い。

辿れる源流は1988年から1989年に渡っておきた宮崎勤の事件である。宮崎は今田勇子という名前で犯行声明を出し、これがマスコミの注目を集め続けた。この事件を扱いかねたマスコミは「6000本近いビデオテープが出てきた」ことを根拠に「気持ち悪いオタクは人を殺しかねない」というような報道をし、生育歴を問題にした。つまり家庭を責めたのだ。

当然、世間の非難は家族・親族に向かった。批判にさらされた父親は自殺し、他の親族も仕事を辞めざるをえなくなったようである。報道の二次被害というとこのような関係者に対する直接の影響を指すことが多い。今回の話は「波及効果」なので厳密には違いがある。

宮崎勤は今でいうひきこもりだったのだが、当時この言葉はあまり一般的ではなかった。このひきこもりという言葉も元の意味を離れて一人歩きしてゆく。そして解決策が見つからないまま単なるレッテル貼りに使われるようになってゆく。

ひきこもりという概念の歴史(1) 稲村博先生と斎藤環先生という文章に経緯が書いてある。まず、精神医が不登校問題を考えるうちにアメリカの資料から「社会的ひきこもりという問題があるらしい」ということを発見する。そして不登校の原因はひきこもりかもしれないという解決志向の啓蒙活動が行われた。

ところが、発案者や啓蒙者の思惑を離れて使われるようになってゆく。2000年に入ってひきこもりと犯罪を結びつける報道がなされたという経緯である。

この間、マスコミは根本的な対処はせず「その日の仕事を済ませるため」に「番組や記事の派手なタイトル」を欲しがっていただけだった。そこから継続的に「オタクやひきこもりのような暗い人たちは何をしでかすかわからない」というような報道だけが繰り返され、今回のような事態にまで至ったことになる。

今回の農水省元事務次官の件も「暴力を受けていたから止むを得ず殺した」という情状酌量の方向で短く報道されるのではないかと思われる。なぜこの元事務次官がこの問題を誰にも相談できなかったのかというようなことは語られないだろうし、語られたとしても「行政が悪い」という話で終わるはずだ。

ただ、この「やっつけ報道」は違和感も生じさせているようだ。宮崎勤事件の記憶のあるマスコミは型通りに「岩崎容疑者の自宅から出てきたもの」を「速報」として報道した。テレビを見ているのは主に高齢者なのでいつも通りの報道に疑問を持たなかったのではないだろうか。

ところが、出てきたものがテレビとビデオゲーム機だけだった。宮崎勤の件を知らない人たちは「テレビとゲーム機などどこにでもあるのに」と不思議に思ったようである。J-CASTニュースは山田太郎前参議院議員の違和感を紹介している。

山田さんは「傷つく人がいる」とソフトな表現をされているが、実際には傷つくどころか殺人事件まで起きてしまった。本来社会の問題を解決するために報道があるとすればそれはとても間違った恐ろしいことである。

しかしそれを責めて見ても何の問題も解決しそうにない。「直接的な因果関係は証明できない」わけだし、そもそも「社会の迷惑は死んだり殺されたりして当然」と思う人も多いのではないか。

我々はどうも人が「片付けたり・片付けられたりすることを」仕方がないと思うところまできているようだ。前回の記事にはこのような感想文をいただいた。

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取引に依存する社会はやがて虐待に走る

登戸の無差別殺傷事件をきっかけに社会と取引について考えている。日本社会にはある属性が欠落していてこれが取引社会を作っているというお話である。では何が欠落していて、その欠落は何をもたらすかというのが次の疑問になる。




取引には飴と鞭すなわち恫喝と包摂があるなあと考えていたところ、全く違うニュースが見つかった。自分の子供に犬用の首輪をつけてしつけようとした親が逮捕されたという事例である。子供を犬のように考える「血も涙もない」人が出てきているのである。では「血や涙」とは一体何なのかということを考えながらニュースを見て行きたい。

小中学生と専門学校生のきょうだい3人にペット用スタンガンで虐待を加えたとして、福岡県警小倉南署は29日、傷害と暴行の疑いで、無職の父親(45)=北九州市小倉南区=を逮捕した。捜査関係者などによると3人の腕には通電の痕が複数残っており、3人の話から虐待は10年ほど前から続いていたとみている。

スタンガンで子ども3人虐待 傷害・暴行容疑で父逮捕 福岡県警小倉南署

犬に使うのすらどうかと思うようなものを子供に使っている。ここでの犬はモノ扱いでありペットのような愛玩の対象ではないのだろう。それを人間に使うのは「常軌を逸している」ようにも思えるが、恫喝系取引の一種だと考えれば説明がつく。「子供に訴えかけて行動を変えてもらう」という可能性を全く考慮に入れていないというのは、相手が人間に見えおらずなんだかよくわからないモノのように思っているということである。

毎日新聞を読むともう少しよく見えてくる。一度始まった取引が一方的に拡大されている。わけのわからない他者を説得できない人は「恫喝力」をエスカレートさせてゆくしかない。

同署などによると、後藤容疑者は30代の妻と子供3人の5人暮らし。虐待は長女が5歳前後から始まったとみられ、「宿題をやっていない」「家のルールを守れない」などの理由で、1日に数回通電することがあった。

「しつけのため」1日数回通電も 子供3人に犬用スタンガン 北九州

テレビの情報も合わせると「いうことを聞かないから」という理由でルールがどんどん増えていったようである。それが最終的に社会の規範とぶつかった。長女には物心が付き他者が介入することでこの人は逮捕されてしまったのである。

この父親は自分のイライラを抵抗してこない子供にぶつけた可能性がある。また、子供というコントロールできない異物を「調整する」ためにリモコンをつけた可能性もある。両者に背景するのは「他者に対する潜在的な脅威」という意識である。

考えるのも恐ろしいことだが、このような「支配するかされるか」という意識を持っている人は意外とこの社会には多いのかもしれない。それは我々の社会が義務教育の時点で「他人と話し合う」ことを教えず、一方的に聞いて暗記することを重要視しているからだろう。

なので、社会の側も同じような意識を持っている。つまり「この人について理解しよう」とはせず「懲罰するつもり」で事件報道を見る。つまり社会の側も犬用の首輪を他人につけたがっているわけで、その首輪が突破された時に「それ以外の解決策がない」という無力な状態に置かれてしまうということである。

このパターンを読み取るのは実はさほど難しくない。日本は国際社会から「表面的な制度」は学んだが、周囲と協調して安全な環境を確保する術を学ばなかった。そこで力による外部への拡張を始め、国際連盟を脱退し、最終的に第二次世界大戦で破滅した。

我々の社会が基本的に相手を理解できないのだということを受け入れると、この手の事件が日本社会から無くなることはないだろうという予想が立つ。日本人は自分とは異なる価値体系をもった人の内面を理解しようとはしないし、その能力も持たないのではないかと思うのだ。その代わりに条件を提示して誰かを操作しようとするのである。これは日本人が経験を同じくする人たちの中でしか社会ルールを構築してこなかったために起こることだ。

ここからわかることはかなり衝撃的である。日本人は村の外で「心を通わせて社会を作る」術を学ばなかった。ゆえに他人は操作するものだと思い込んでおり、そうした関係が家庭内にも入り込んでしまっているということになる。そのことがわかる事実がニュースには書かれている。

このニュースにはさらに興味深い点がある。西日本新聞には「一緒に暮らす母親は「その場にいなかった」と話しているという。」と書かれている。が、毎日新聞には別の一節がある。

もっとも、本人による訴えがなくても被害に気付けた可能性はある。一家が住んでいた家の近くに住む女性は、数年前から「風呂場辺りから1日置きくらいに子供が『ギャー』『痛い』『やめて』と叫ぶ声が聞こえた」と証言する。捜査関係者によると、子供たちの皮膚にはペット用スタンガンによるとみられる等間隔のやけど痕もあったという。

「しつけのため」1日数回通電も 子供3人に犬用スタンガン 北九州

近所の人も気がついていたのに母親が知らなかったわけもない。この母親が「自分が生き残るために」子供たちを切り離したということがわかるし、社会に相談できるところを探すという技術がなかったこともわかる。つまり、家庭という環境が内も外もサバイバル空間になっているのだ。近所の女性もこの家族と話し合わないし、行政も知っていて本質的に介入することがない。社会全般として「形式を守る」ことはできても「心を通わせる」ことはできないという極めて砂漠化した社会である。

日本の村には多くの制限があり「心を通わせなくても」なんとかなる空間だったのだろう。が、今や村のような外的な装置はない。村を出た人たちはその場その場で心を通わせる必要があるのだが、日本人は未だにそれができない。そして恫喝と懐柔という取引だけが解決策だと思い込むのだ。

そんなことを考えていたらQuoraで「故意な殺人を全て死刑で片付けると困ることがあるのですか?」という質問を見つけた。ついに「人を片付ける」ということを悪気なく質問する人まで現れていることにいささか驚いた。心を通わせない以上それはモノと同じなのだから、この質問の動機そのものは極めてまっとうなのだろうが、それはすなわち「自分が用済みになったら片付けられても構わない社会」を受容するということを意味している。

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