上級国民がガラパゴス化するメカニズム

先日JDIについて書いた。政府が税金を投入して液晶技術を救おうとしたが結局中国に売り渡したという話である。中国に技術流出が起きる大変だ!というような論調にしたと思う。




ところがQuoraで聞いてみたら全く様子が違った。液晶は枯れた技術だからそもそも救えるはずはないというのである。あまりにも冷静なのでちょっと戸惑ったほどだ。だが、どの意見もそれなりに冷静で理路整然としている。「あれ?」と思った。

全く別の興味からデュアルディスプレイについて聞いた。最近机周りを整理しているのだが、モニターが散乱しているので(現在3台置いている)これを一つにすべきかなと思っていたからである。結局生産性についてのリサーチ結果などは出てこなかったので自分で調べたのだが(適正な広さ(ピクセル数)がありそれを越えると逆に生産性が下がって行くそうだ)面白い回答が多かった。

この回答について調べて見るうちに面白いことがわかった。当たり前の人には当たり前になっていると思うのだが、実はAmaznでは20,000円も出せば24インチモニターが買えるらしいのである。ああこんなに安くなっているのかと思った。

もちろんワイドモニターというジャンルもあるのだが「ゲームに最適」などと書かれている。つまり特殊用途になっていることもわかる。メインはノートパソコンとスマホなのだから当然といえば当然である。

いずれにせよ、人の話を聞いて「あれ?」と思って調べてみて液晶モニターが日常品(コモディティ)になっていることが実感できる。なのだが、日々政治ネタを書いているとこのあたりのことにも詳しくなったような気になってしまい、「聞く」という作業が出来なくなってしまう。これは政治家やジャーナリストといった「上級国民」の皆さんにも言えることなのではないかと思う。

このような状況では、自治体総出で工場を誘致してもすぐに陳腐化することがわかる。あのSHAPRの亀山工場が華々しくスタートしたのは2004年だそうだが、2018年には衰退を嘆く記事(東洋経済)が出ている。変化はそれほど早いのだ。

実はQuoraでわざわざ聞いてみなくても自分のモニター環境をみればすぐにわかる。SONYの19インチモニターは800円で購入したのだが何の問題もない。部屋にはいろいろな小型モニターが転がっていて日用品どころか使い捨て感覚で使っている。ただ、最新のものを買わずに中古で済ませているとはちょっと言いにくい。こういう声はあまり世間に広まらないのかもしれない。

同じような事例は他にもある。それが岡山のジーンズ産業だ。ベルサーチなどが高級ジーンズブームを起こした時に注目された岡山の伝統技術だが、次第に脱ジーンズ化が進み注目されなくなった。例えば、ベルサーチはシチリア島の凝った刺繍などをフィーチャーすることが多くなった。

しかし日本はこの時に世界に注目されたことを忘れられず「いいものを作っているから必ず世界に受け入れられるはずだ」として高級ジーンズにこだわり続けた。この2012年のnippon.comの記事はいくら高級ジーンズを作ってもそれを買ってくれる人がいなければ何の意味もないということをすっかり忘れている。

なぜ高級ジーンズブームは終わってしまったのか。その背景をなぜかright-onが解説してくれている。リーマンショックでアパレル自体の勢いが止まってしまったのだそうだ。いわばバブルが崩壊した結果高級衣料そのものが売れなくなってしまったのである。

時系列で並べると高級ジーンズブームが起きたのが2000年ごろだったが、2008年/2009年ごろの不況で突然需要が止まり、それでも諦めきれずに2012年ごろにMage In Japanを前面に押し出したがうまく行かなかったことになる。

こうした実感はファッション写真を見ていてもわかる。インスタグラム発信が増え凝ったアドキャンペーンがなくなりつつある。これも「目の肥えた大人」から見るとかわいそうな若者の話に見える。「かわいい」が分からなくなった若者たち。ZOZOやSNSが奪ったモノという「おしゃれ上級国民」が書いた記事を読むと、最近の若者は個性がなくなってかわいそうだと思える。だが、実は単におばさんが時代に乗り損ねているだけということがわかる。ここから抜け出すには自分でSNSを使ってみるしかないが、そういうカッコワルイことはおしゃれ上級国民にはできないのだろう。

日本人は過去の成功にこだわり続けるのでこうしたことは日本各地で起こっているのではないかと思う。

液晶とジーンズという全く違う二つのものを見てきたのだが、明確な共通点がある。いったん売れるとそれが未来永劫続くと思い込むということである。つまり「正解ができた」と勘違いしてしまうのだ。そして勝手に政界からMy価値体系を作ってそれを他人に押し付けようとしてしまうのである。しかし(あるいはだから)お客さんのことにはそれほど関心がなく、ブームが終わってもそれに気がつかない。こうして「昔どおりにやっているのになぜダメなのだろう」と思い込む人が増えるのである。

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上級国民

天から落ちてきた人を叩く

飯塚幸三元工業技術院長が轢き逃げ事件を起こし(日経新聞)た。母子がなくなっており夫の無念の会見が印象的だった。しかしこの件では全く別の件が大きく取りざたされることになる。それが「上級国民」という悪意のあるキーワードである。




飯塚さんが逮捕されなかったことをうけて「上級国民だから警察が忖度しているのではないか」と話題になったのだ。J-CASTが面白い分析をしている。日本では推定無罪原則が無視されており、逮捕が社会的制裁と捉えられている。しかし、上級国民であればそうした制裁を免れることができるのではという疑念が国民の中に渦巻いているというのだ。あるいはそうなのかもしれない。

よく衆愚主義などというのだが、その行動動機は社会正義の追求である。ただあまりにも「勝ち負け」にこだわりすぎるので最終的にはリンチ担ってしまう。もともと法の下の平等も推定無罪の原則も建前としか思っていない国民だが、政府に反抗することはできない。だからそこから落ちてきた人を執拗に叩くわけである。

そこにあるのは弱者叩きの快感だけだ。テレビは一応「この事故を繰り返さないように議論が進むものと思われます」などと言っていたが「嘘つけよ」と思ってしまった。誰かを叩くコンテンツは売れる。だから流しているわけで、問題解決など実はどうでもいいという姿勢があまりにもあけすけだった。

見たくない現実は実は目の前にあった

先日、石窯のあるパン屋に立ち寄った。イートインスペースがありそこで100円シュークリーム(コーヒー付き)を食べていると、次々と高齢者が入ってきた。食事を作るまでもないが何かちょっといいものを食べたいくらいのニーズを持っている人たちがパンを買いに訪れるのではないかと思う。

ここのところ本当に杖をついている人をよく見かけるようになったのだが、彼らが運転してきていることにまでは気がつかなかった。外にあるイートインスペースからは駐車場が見えるのだ。

一人で買いに来ているお年寄りもいたし、あるいは夫婦揃ってという人もいた。夫の方が足が悪くて「運転は男がするものだ」という気持ちが強いのではないかと思う。そして無理を重ねた結果事故を起こすのだ。このことからも「弱者に転落」することを恐れた天国の住人が最終的にとんでもない加害者として人生を終えることになるという悲劇があるように思える。

皮肉なのは飯塚さんが官僚だったということだ。つまり政府の一員も国が助けを必要とする人を救済するなどということを全く信じていなかったことになる。自分で外出できなければ自分も粗末に扱われるだろうという確信があったのだろう。

それでも失敗した人を叩き続ける社会

このようにみな漠然と落ちてゆく不安を抱えており、なおかつ現実に落ちてきた人たちを容赦なく叩く人たちも多い。

ただ、本当にそれでいいのだろうかと思った。なぜならば自分も、加害者家族になるという可能性があるからだ。そこで、家族に免許返納させたことがある人はいますか?」と聞いてみた。案の定答えはつかなかった。さらに「加害者の関係者になる可能性もあるのでは?」と回答もしてみたが、やはり飯塚さんや家族の責任を問うコメントがついた。

日本人は「弱いもの」と認定されるのを嫌い、また「弱いもの」は無制限に叩いて良いという社会である。そしてどうしたら勝てるかを冷静に見ているので決して政府に改善を訴えかけたりはしない。このようにして私たちは毎日息苦しい社会を自分たちで作っている。その間問題解決は「おやすみ」になる。こうして問題ばかりが積もってゆく。

ただ、あまり世の中を嘆いてばかりもいられない。最近は忙しくて余裕のなさそうなお母さんや高齢者の運転が増えている。携帯電話で連絡を取りながら車を運転している人も珍しくない。だから、車を見たら運転席を覗き込むようにしている。向こうから「どうぞ」と言ってくるまでは絶対にこちらからは(たとえ信号が青でも)渡らないようにしている。

社会が弱者叩きに邁進し問題解決をしないのだから「自分の身は自分で守らなければならない」のである。多分、今回教えるべきだったのは「車は絶対に信用してはならない」「青信号を鵜呑みにしてはいけない」ということなのだろうと思う。

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努力しても報われない社会 – 上野千鶴子が投げかけた疑問

野千鶴子が東大で行った演説が話題になっている。上野さんのような人が東大にいると日本の民主主義は崩壊するだろうと思った。




全部読んだわけではないが、東大生は頑張れば報われる社会を生きてきたのだが、彼らが今後直面する社会は必ずしもそうはなっていないということを言っているようだ。これを聞いて「キリスト教的民主主義の伝統がないと、人はこういう疑問を持つんだな」と思った。やはり日本に民主主義は無理なのかもしれない。

我々は民主主義・自由経済社会を生きていると考えている。人々が平等であるのは当然善であると考え、なぜそうあるべきなのかということはブラックボックスに入れて考える。特に最近の中国バッシングを見ていると一党独裁は最初から悪で民主主義こそが正義だと考えていることがわかる。その一方で日本の民主主義には誰もが不満を持っている。自分の思っているような社会がおのずから作られないからだ。だからこそそうでない社会を叩き、自分たちは善であると思い込もうとするのだ。だから日本人は政治的問いかけが自分たちに向くのを極端に恐れるようになった。

このようなことになるのは欧米型の民主主義国の支配体制が終わり非民主的な国が経済的に成功してきているからである。実は、日本人が持っていた民主主義に対する感覚を我々自身が疑い始めているのだ。

民主主義というのはキリスト教の考える「愛とか平等」から神様というエッセンスを除いたものだと考えられる。結果的に経済的に繁栄したために「まあ、この考え方に乗っておけば問題はないだろう」ということになった。

もう少し突き詰めて考えるとキリスト教が「愛」と呼んでいるあのふわふわしたものが経済発展に良い影響を与えているということはわかるだろう。つまりまずお互いに信頼して経済のプラットフォームを造ることで我々は破壊ではなく生産に専念することができるようになったのだ。また「多様性」を認めることで、それぞれが持っている才能を経済発展と繁栄に活かせるようにもなった。

その背後にあるのは、実はかなり楽観的な世界観だ。キリスト教では我々が生きられるのは神様からの恩寵があるからだと考える。そして特にこれを感じることができるのは実は失敗を経験したことがある人なのではないかと思う。

「もうここまでだろう」と思って全てを諦めた瞬間に回復に向かうということが人生には確かにある。水の中でバタつくのをやめたら実は浮いていたというあの感覚だ。この浮力をキリスト教では奇跡と言ったりする。キリスト教の実践は、助け合いの輪に加わることによって「こうした奇跡」を身近に感じるということでもある。実は助け合いを通じてその環境を作っているだけとも言えるのだが、実践と参加が需要な宗教である。

シスターも上野と同じようなことをいうだろう。「東大生は特別に恵まれている」という言い方はキリスト教的には「普遍的に存在する奇跡」によって守られているということになる。だから、感謝してそれを周囲にも広げて行かなければなりませんというというのが多分教会的なメッセージになる。

だが、日本にはこうしたキリスト教的な伝統はないということが上野の発言からわかる。日本はまず自由主義経済から受け入れたがその時にたいした疑問は持たなかった。戦後民主主義が入ってきた時もアメリカが戦争に勝てたのだからきっとそれはいいものに違いないと考えた。だから、今になってジタバタと闘争を始めると、実はその根底にある楽観を理解していなかったということに気がつくのだ。そして「溺れるかもしれない」と思うともっと体を激しく動かすことになる。

日本人は極めて苛烈な競争意識を持っているので溺れた人を助けない。それどころか叩いてもいい存在と認識して群衆になって叩き始める。すると人はもっとバタつく。日本人は弱者が認められることがない社会だ。社会に弱者が存在することも認められないし、身内にいることも認められない。そしてついでに自分の中にもそういう弱者がいることも認められない。だから溺れている人もそれを見ている人も実は恩寵や奇跡を実感できなくなる。

本来民主主義・自由主義経済は「通貨などという形のないものをみんなで信頼するところから始めよう」という極めてあやふやなところから始まっている。「自分が使った金が自分のところに戻ってくる」と考えるのはかなりおめでたい人だ。管理する人が誰もいないのに経済がおのずとうまく回り人々は豊かになれるなどというアダム・スミス理論はキリスト教的には神の恩寵でも日本人にとっては妄言でしかない。つまり、民主主義・自由経済はかなりおめでたい理論なのである。

神の奇跡が本当にあるかという保証はどこにもない。神は人間をこの世界に送り出す時にメーカー五年保証のようなものもつけてくれなかったし、契約条件も新約聖書で無効になってしまった。人は十戒の世界を追放されて、イエス・キリストによって「ただ信じなさい」と荒野に放逐されとも言えるのだ。

フェミニズムや環境保護といった戦いが自己証明を始めるとそれは闘争になってしまう。例えば捕鯨運動や菜食主義などは欧米でも批判が根強い。「なぜ神は我々を愛してくれないのか」という代わりに「肉は食べないから私を愛してください」というのは実はキリスト教的ではないのである。モーゼのように神の言葉を聞けない我々が新しい契約条件を作ることはできないのだ。

努力しても報われないかもしれないという疑いはおそらく合理的なものだろう。が、合理的に接している限り永遠の闘争が続いてしまうのだ。叩き合いはもうおまけみたいなものである。多分、この叩き合いに疲れた人たちは独裁という「確かな政治」を求めるだろう。自由からの闘争は多分何度でも起こり得る。

西洋流の民主主義や自由経済には突き詰めてゆくと根拠のない領域がある。それは信仰と個人の理想という日本人に取ってみると極めて曖昧なものに支えられた実にあやふやなものなのではないかと思う。

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豊洲市場の殺人エレベーター事件

豊洲市場でターレに乗った男性がエレベータに挟まれるという事故が起きた。このニュースについて取り上げるのだが、取り上げるのは豊洲の問題そのものではない。日本人の問題解決能力についてである。日本もついに「アメリカ型」になったのかと思ったのだ。




この事件を最初に知ったのはTwitterだった。が、Yahooニュースにも出ていなかったのでフェイクではないかと思った。やがて本当だったということがわかり、Twitterでは程なくして大騒ぎになった。毎日新聞は発見から5時間後に死亡が確認されたと書いているので最初のつぶやきはややフライング気味ということになるのかもしれない。

Twitterには豊洲コミュニティができており、それ以上に意見が広がることがない。そこでQuoraで世論に訴えられるような環境を作ってみようと思った。が、掲出するときにすでに「でも当事者たちはコメントを書かないだろうな」と思った。理由はよくわからないがこういう洞察はなぜか当たる。

程なくして「豊洲の問題ではないのでは?」というコメントがついた。これもQuoraではよくあることだ。質問は「Twitter世論」を受けて質問は小池都知事を非難する内容になっている。するとそれを察知した人がほぼ本能的にバランスをとって「大したことはないのでは?」と収めようとする。これが今の日本社会だである。

小池さんではなく安倍晋三さんでも同じことが起こるし、例えば過剰労働やレイプ事件の問題でも同じ反応が見られる。なぜか日本人男性はこうした騒ぎが起きると「それは問題ではない」と言いたがる。本能的に集団が揺れることを嫌うのだろう。

その一方で、Twitter組は閲覧には来るが(外部からの閲覧者は増えている)書き込みはしない。これもあらかじめわかっているのだが理由がわからない。Twitterは集団の中で「そうだそうだ!」という群衆になれるのだが、Quoraだと最初の一人になってしまうからなのかもしれない。これも本能的な反応だ。

ところが事件はどんどん悲劇的な方向に展開してゆく。エレベータにフェイルセーフ装置がついていなかったことがわかってきた。これはエレベータにはあって当たり前の装置なのだが、闘争状態になっているために「これすら社会に訴えなければ振り向いてもらえない」というマインドセットになっているのだろう。つまり自分たちから「当たり前」のラインを下げてしまっていることになる。そしてそれを見た周りの人たちは「そんなの騒ぎすぎだろう」といってそれを反射的に打ち消してしまうのだ。中には親切心からか「監視を強めては」などという人も出てきた。

だが、区役所に設置しているエレベータがお年寄りを「食った」らどんなことが起こるか想像してみればいい。業務用であろうと一般用であろうとフェイルセーフ装置があるのは当たり前のことで「監視員を置こう」などという人はいない。そもそも騒ぎ立てるような問題ではないはずなのだ。

この問題はすでに「ヒヤリハット」な事故が相次いでいることがわかっており未然に防止することができてたはずの事故でもある。だが、この対応も極めてずさんだった。貼り紙対応だったそうだ。

しかし、共同通信社は「取材して初めてわかった」と悠長な書き方をしている。知っていたが一生懸命に言い立てる人がいなかったせいで、マスコミは知っていても伝えてこなかったということである。この事故が起きてからも市場は「ルールを守らなかった人が悪い」というような発表をしているようだ。よくある自己責任論である。

東京都の運営がずさんだとは思うのだが、我慢して引いてみてみると、全体的に「集団思考状態」が起きていることがわかる。誰かが状況を整理してなんとかしてくれるはずだとみんなが信じている。だが、誰もその勇気ある一人にはならないという状況である。

Twitter人たちは被害者なので「なぜ外に出て世間に訴えかけないのか?」と問い詰めるわけにもいかないし、当事者ではないのでどっちかに肩入れして騒ぐこともはばかられる。できるのは訴えられる場所を作ることだけである。

それでもやはり重大事故が起きてから責任のなすりつけあいをするまで問題は解決できないんだなあと思う。過労死の問題も女性のレイプの問題も同じような経緯をたどって結局犯人探しだけをして終わりになってしまうことが多い。問題解決ができないのは誰も問題解決に向けて動き出さないからだ。

いろいろ考えたのだが、結局のところ、当事者たちが理路整然としかも継続的に問題を他人に説明できるようにならなければならない社会になったんだなあと思った。これが、20年前のアメリカ社会とそっくりなのである。

アメリカも地域コミュニティが崩れて自分のことに忙しく誰も助けてくれなくなった社会である。なので、問題を察知した人は継続的に問題を訴えて行かなければならない。このことがよくわかるのが2000年のエリン・ブロコビッチという映画だ。法律を正式に学んだことがない女性が公害問題で訴訟を起こすという筋だが、映画の中では最初問題を取り合ってもらえないというシーンが出てくる。

アメリカ社会の状況を知ったうえでこの映画を見て「アメリカは大変だなあ」などと思っていたのだが、いつの間にか日本もそんな社会になりつつあるようだ。ただ、集団の中で「丸く収める」のを良しとしていた日本人が最初の一歩を踏み出すのはかなり大変なんだろうなあとも思う。アメリカはまだ助け合いの精神がある共和国的な風土があるのだが、日本人はともするとお上の側に立って他人を裁きたがる人が大勢いる。

豊洲のこの事件は人が亡くなっても「エレベータでは死ぬことがあるので気をつけましょうね」で終わってしまうかもしれない。だが、それを見て「我慢しろ」と言っている人たちも実は命の危険がある設計のよくない設備で溢れた職場で働いているのかもしれない。声をあげたり他人を助けたりしないことでどんどん自分たちの環境を貧しいものにしてしまうのである。

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大きな政治と小さな政治

わけあってQuoraの政治議論をまとめている。ここで人々が政治を語るときに大きな政治と小さな政治を分けていることに気がついた。




政治というトピック付けをされている話題を見てみたが、日米同盟や中国の台頭、財政のサステナビリティ、選挙制度や野党に対する懐疑的な見方など「大きな話題」が政治にタグ付けされている。一方で、身近な話題は政治とは分けて議論されている。例えば人権やまちづくりは政治課題とは考えられておらず、それぞれ別のトピックになっている。つまり、人々は大きな政治と小さな政治を分けて考えており、それぞれ別物と認識しているのである。そして、日本人は小さな政治はあまり重要視しない。

政治問題を捌く上ではとても面白い視点だと思うのだが、エンドユーザーにはあまり興味のわく話題ではないかもしれない。ここにメディアとしての政治論評の難しさがあるように思える。人々の認識を変えるのはとても難しいのである。

安倍政権を退陣に追い込むためには安倍政権を罵ればいいのか?という直球の質問がありこれに「罵ることは逆効果である」という回答を書いた。すると、たくさんの「高評価」をもらった。お気付きのように昨日書いた塚田国交副大臣の辞任についての記事を焼き直したものである。これが「あたる」かはわからないのだが、安倍政権にうんざりしている人が多いが野党には当面期待できそうにないという人たちの「聞きたい歌」だったからだろう。

これも大きな政治議題の一種であると考えられる。やはり人々は枠組みに興味があるのだ。だが、この道路が必要かという議論だとどうなっていただろう。あまり興味を引けなかったのではないだろうか。つまり日本の政治議論には三種類ある。

  • 従来型の永田町の人間関係(政局報道と呼ばれる)
  • 大きな政治問題(枠組みと制度)
  • 小さな政治問題(人権やまちづくり)

ここに一つ問題がある。小さな課題を積み上げて行かないと安倍政権の後継政権ができないのだ。民主党系の野党の問題はそこにあった。彼らはテレビという大きな問題ばかりを扱うメディアで風に乗ってしまったので、政権が維持できず野党に転落した後も復活ができなかった。統一地方選の一報を見ながらこれを書いているのだが、どうやら立憲民主党も国民民主党も地方の政治課題をすくい上げることができなかったらしい。大きな問題を掲げる(そしてあまり中身のない)維新だけが政権維持に成功した。

メディアとしては大きな問題について取り上げないと読者や視聴者が集まらない。がそればかりを書いていては実際の問題解決につながらないばかりか空中分解につながってしまう。かといって既存のメディアは「政局」という村のいざこざしか取り上げてくれないし、有権者は大きな話題にしか興味がない。だからいつまでたっても実際の政治課題が解決できる新しい勢力が育ってこないのである。

その中でリベラル野党はほとんど期待されていない。どうやらリベラルは「自分たちの正解を押し付ける高慢な人たちだ」と思われているのではないかと思う。さらに彼らは自分たちの理想を仲間と語り合うことに満足してしまい、それをどう実現するのかということにはほとんど関心を向けない。お勉強会の成果をひけらかすばかりで他人の問題解決には興味を示さないのでいつの間にか孤立してしまうのである。彼らの掲げる個人視点というのは「大きなもの」を好む日本人には受け入れてもらえない。彼らの過ちは小さな問題を大きく語るということである。具体的にもなれないし、日本人の好みでもないのだ。

さらに現実的な野党も台頭してこない。こちらの人たちは自民党の失敗待ちになっているのだろう。日本の政治課題は有権者の犠牲なしには成り立たない。今一番の支出は年金であることは誰でも知っている。経済が成長せず少子化も進む以上、年金制度を諦めるか税金の負担を増やして年金制度を支える必要がある。2009年は民主党がリーマンショックの尻拭いをして大変苦労させられた。今度も同じ轍は踏みたくないと彼らが考えていても実は当然なのだ。

小さな政治課題(への認識)がないために、リベラルな野党勢力は「市民が支持する政治」を作れない。さらに国政と地方行政は「細かな利権構造」が異なるためにやがて離反する運命にある。東京、大阪、福岡などの都市圏ではそれぞれ自民党からの離反が起きているのだが、受け皿はリベラル系政党ではなかった。東京と大阪では改革できない改革政党が躍進し、それよりは経済規模が小さい福岡には中央のいうことを聞かない独立王国ができつつある。

北海道の与野党対決を自民党が制したことからわかるように自前で経済が回せない地方は自民党にしがみつくしかない。「分配する人とされる人」のうち「される人」ばかりが自民党にしがみつき、偉そうに負担を命じられる人は自民党本部から離反してゆく。実は日本でも欧米型の「都市対地方」という図式が生まれつつあるのだが、民主党も社会党も役割がもらえなかったというのが、今回の統一地方選挙の総括だろう。そして都市部は明らかにバラバラになりつつある。都市部の意見を集約するアメリカ民主党のような政権が日本にはできなかった。

日本は予算編成(地方では国の補助金の分配のことだ)に関われない野党は没落する運命にある。中央では野党の仲間割れが起こり、地方では共産党を除く総与党化が進んだ。中央の与党は多分ありもしない「市民が主導する立憲民主主義」という机上の理想論を追いかけ続けている。

この破滅の予感を救うのは、小さな社会改良の積み重ねと統合なのだとは思うのだが、日本ではこれは政治課題とは認識されず共有もされない。ここに行き詰まりの原因の一つがあると思う。政治テーマの議論を整理していて、個人的な問題と見なされがちな小さな社会問題をどう「国内政治課題」に格上げするのかというのが大きなテーマなのではないかと思った。

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スポンジケーキの工程にはそれぞれ意味がある

定期的にスポンジケーキを焼いている。理由はない。最近、惰性になっていたのだが「これはいかん」と思った。美味しくないのである。




最近、なぜか全体がべちゃっとする。

まず、スポンジケーキの作り方をおさらいしてゆく。材料は卵と小麦粉と砂糖だけなのだが、結構面倒くさい。

  • 材料は室温に戻しておく。
  • 卵を白身と黄身に分けそれぞれ泡立てる(別立て)か全卵をよく泡立てる(共立て)。黄身は温めながら泡立てる。砂糖は後から加える。
  • 振るった小麦粉を数回に分けて入れる。あまり混ぜすぎないように切るように混ぜ合わせる。
  • あらかじめ熱しておいたオーブンに入れて所定時間焼き上げる。
  • 焼きあがったら型に入れたままで粗熱をとり冷めてから切る。

最初のケーキは別立てにした。別立てとは砂糖入りのメレンゲを最初に立てて卵黄を後から入れる方法である。卵一個について35gの小麦粉を入れるという配分は全て統一した。この別立てのケーキはあまり膨らまなかった。細かい泡は立っており硬くはないのだが泡が小さすぎて膨らまない。そしてなぜか全体がべちゃっとする。

どうやら、別立ては卵黄も泡立ててから混ぜるのだという。卵白は泡立ち易いので別にすることでふんわりとした仕上がりになるというのだ。まず、卵黄を泡立てないというのが失敗だったらしい。

そこで、今回はちゃんと手順を踏んでみようと思った。教科書的には卵を室温に戻しておき全卵を湯煎すると膨らみが良くなるはずなのだ。だが、膨らまなかった。

食べてみて理由がわかった。湯煎することで頭がいっぱいになっていて、砂糖を入れ忘れてしまったのである。食べてみるとふわふわにはなっておりこれはこれで美味しいのだが、甘くないのでケーキではない。理屈はわからないのだが、卵に砂糖が混じると空気を含みやすくなるのかもしれない。

ということで、すぐさま焼き直した。今度は砂糖を入れた全卵を湯煎して5分ほど混ぜた。

今度はちゃんと膨らんで「いつもの」味になったのだが、切り口が汚い。主婦の書いたブログなどを読むと「1日おいてください」などと書かれているものが多い。つまり冷まさないとダメなのである。プロの料理研究家が作っているものはもっとキメが細かい。これはブレンダーで高速で泡立てた後で低速で泡を潰している。これをなんとかてでもできないかなと思った。ブレンダーがないのだ。

とても基本的な作業の積み重ねなのだが、ついつい基本作業をおそろかにしてしまうと結果がそのまま現れる。お菓子作りには嘘がない。

ということでここまでをまとめて作り直してみた。まず砂糖入りの卵白をツノが立つまで泡立て、砂糖入りの卵黄を湯煎しながら泡立てる。これを小さな泡立て器でそれぞれ混ぜて泡を細くする。小麦粉を数回に分けて入れて焼いた。これを30分ほどきちんと冷ましてから切り分けた。

そこでできたのがこれだ。あまり膨らまなかったので失敗したのかと思ったのだが、食べてみたらほろりと崩れた。これはこれで成功しているようである。何回も作り直したのでそれぞれ卵を1つしか使わなかったのでこの厚みなのだが、卵を3つくらい使えばきちんとボリュームが出そうである。プロの書いたものには、共立てと別立てには「違いがない」としているものがある。ただ、今回作ってみた感じだと、共立てにすると大きな泡で膨らんだ素朴な感じのケーキになり、別立てで作るとキメの細やかな上品なものができるように思える。

毎回思うことだが、レシピ通りにちゃんとやらないときれいな仕上がりにならない。だが、レシピを逸脱して失敗してみないとレシピのありがたみがわからない。失敗も重要なんじゃないかと思う。

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