バーニングサンゲートに揺れる韓国芸能界

「バーニングサンゲート」という言葉がある。BIGBANGのV.Iが経営に携わっていたクラブ「バーニング・サン」で起きたスキャンダルを発端にした事件である。これが韓国では連日大きな騒ぎになっていて日本にも飛び火しそうである。詳細は朝鮮日報によくまとまっている。




この事件からわかることは二つある。1つ目は我々はかなり細分化された情報社会を生きているということである。この事件を知ったのはTwitterなので、知っている人はこの問題についてかなり詳しくなっているはずだ。だが、一方で安倍首相批判を繰り返しているだけの人もおり、人によって知っている情報がかなり違ってきていることがわかる。地上波だけを見て知りたい情報だけを捕捉している人と、アンテナを外に向けようとしている人の間にはかなりの格差が開くという社会になりつつある。自分の問題を伝えたいと考える人は「そもそも情報が細分化されている」ということを念頭に置いて話を始めたほうがいい。「NHKが取り上げてくれない」と騒いでいるだけでは事態は変わらないだろう。

もう1つわかるのは日本が経済成長しないことを前提にした定常化社会に入りつつあるということである。韓国は外国からの投資を呼び込んで経済上昇できる社会であり、バラエティー番組を見ていても「投資」の話がよく出てくる。生活を安定させるためにはとにかくお金を稼いで何かに投資することが重要なのだ。日本と生活習慣が似ている点もあるので、こうした違いが人々の生活やマインドセットにどのような影響を与えるのかということがよくわかる。そこから振り返ると私たちの「閉塞感に溢れる社会」のありようも見えてくる。日本の状態だけを見ていても日本の問題を解決する糸口は見えてこない。

BIGBANGは2006年にデビューした有名なアイドルグループだ。スンリ(日本ではV.Iという名前で活動している)はその末っ子(マンネ)であり、他のメンバーが現在徴兵されているなかで一人で芸能活動をしていた。日本語が堪能で日本のバラエティにも度々出ており、通訳なしの早口でダウンタウンとの会話が成り立つほどである。さらに起業家としても知られ、ラーメン屋やクラブなどを経営していた。この顔を利用したバラエティ番組も放送されている。貧しい家からのし上がった「成功者」としてスンリとギャツビーを合成したスンツビーという名前でも知られるという報道もあった。

ところが、2019年2月に経営していたクラブバーニングサンで違法薬物の取引が疑惑が報道され、クラブ代表に薬物の陽性反応が出た。スンリは当初これを「知らない」と否認しており、クラブの代表を降り、電撃入隊を発表する。

ところが程なくして捜査はスンリの性接待疑惑に飛び火した。違法な女性のやり取り(つまり売春斡旋である)が行われているという疑惑である。最初は否定していたスンリだが、非公開のSNS上のやり取りなどの証拠が次々と報道されて炎上状態になった。中央日報の伝えるところによるとかねてから海外での違法賭博容疑などもかけられていたそうだ。2019年3月には芸能界引退を発表したが騒ぎは収まらなかった。SNSのやり取りが公開されると芸能人が次々と巻き込まれていったからである。

スンリが芸能界を引退を発表するのと同時に、女性をやり取りしたり性行為の内容を盗撮してSNSに流した芸能人がいたことがわかってきた。アイドルのファンは女性なので、今度はファンが怒り出す。歌手のチョン・ジュンヨンが盗撮したものを流布したという容疑で警察の調査に応じ、引退を発表する。KBSの日曜日のバラエティーショー「一泊二日」がチョン・ジュンヨン(チョンジュニョンとも)の降板を発表したが騒ぎは収まらず、結局番組が「お蔵入り」になった。KBSは謝罪文を出したがmこれで問題は終わらなかった。一泊二日のプロデューサもグループチャットに参加していたのではという疑惑や出演者の賭けゴルフをほのめかす内容もあり出演者たちが芸能活動の自粛を決める事態に発展している。プロデューサが絡んでいれば番組の打ち切りも決まるかもしれない。

またこの種の動画をチョン・ジュンヨンと共有配布したとしてFTISLANDのチェ・ジョンフンも警察の捜査を受けており、芸能界の引退を表明した。今度はこれが警察に飛び火する。飲酒運転で免許停止処分を受けていたが公にしなかったという疑惑が持たれている。この隠蔽に警察が関わっていたのではというのでは?と囁かれ、騒ぎがさらに拡大した。この警察関係者はチャットの中では「警察総長」と呼ばれている。そのような役職はないのだが、A総警という名前までが出てきており、ついには具体的な名前(氏だけだが)も報道された。現在この人には待機命令が出ているそうだ。

CNBLUEのイ・ジョンヒョンにも関与の疑惑の目が向けられており「グループ脱退間近なのでは」などと言われている。こちらもチェ・ジョンフンとの間の通信記録がある。一連の事件に直接関与したという証拠は上がっていないのだが、やはり「女性をモノのようにやり取りした」ことが不適切だと考えられている。

この事件は日本とはあまり関係がないと思われていたのだが、日本の建設会社も性接待を受けていたという報道がある。まだ匿名扱いだが日本のネットでは名前が特定されている。日本のタレントを家族に持つ社長さんなのだそうだ。

この問題はもともと違法薬物の取引問題が発端になっているのだが、本筋とされているのはスンリさんが韓国の会社と組んで海外投資家からお金を得るために性接待をしていたのではという事件である。そして、その背後には警察の上層部も絡んでいたのではという「癒着」の疑いがかかっている。つまり、官民汚職事件の様相を呈しているのだ。関係者の対応が後手にまわり連日有名アイドルや名物番組の名前が取りざたされることで人々の興味を掻き立て続けている。

さらに国政にも関係するスキャンダルも取りざたされている。バーニングサンゲートは枝葉に過ぎないというのだ。だた、この記事を読むと「私が自殺することはないが」などというほのめかしが書かれており、こうなるともう韓流ドラマの世界である。ネタ元がスポーツ新聞なのでどこまでが本当なのかがわからなくなる。「清潔なイメージで売っていたアイドルが盗撮や女性のやり取りをしていた」という意外性があることからもう何が起きても不思議ではないと思われているのだろう。

ここまで加熱しているバーニングサンゲードだが日本では断片的にしか報道されていない。このためTwitterでこれを断片的に知った人のなかには「何を騒いでいるの?」と不思議がる人もいるようだ。

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全体主義教育・刑罰としての個人・泥状社会

全体主義教育についてのエントリーのページビューがよかった。Quoraの質問にも閲覧者がたくさん集まっているので、学校教育や社会のあり方について息苦しさを感じている日本人は意外と多いのかもしれないと思った。




前回にも書いたように、実際に問題になっているのは全体主義ではなくそのバラバラさなのではないかと思うのでもう少し考えてみたい。これはちょっと癖がある独特のバラバラさである。バラバラなのだが「相手を縛りたい」という気持ちだけはみんなが持っているように思える。砂つぶなのだがベトベトとした砂と言って良いだろう。ベトベトとした砂といえばそれは泥である。日本は泥状社会なのかもしれない。では何がベトついているのだろうか。

考える材料はちょっと断片的である。まず、多くの人が学校に抑圧的なものを感じているというのを出発点にしたい。よくわからないルールとかとにかくお仕着せられている教育課程などというものだ。これが社会に出ても続くので、全体主義に感じられてしまう。会社には誰が決めたかよく分からない昔からのルールがあってみんなの上にべっとりとのしかかっている。だが、この<全体主義>には核がない。つまり、誰が声をあげて「私はおかしいと思う」と言っても絶対に賛同者が出てこない。みんなおかしいことはわかっているのだが、個人が声を上げたというだけでは無視されてしまうのである。

もう一つの断片はワイドショーだ。みんなが見たいものがなくなり、唯一残ったのが有名人のリンチという社会である。視聴率が取れるのは確かなようだが、見てみても何も残らない。正月のめでたい時期を除いて誰かが血祭りにあげられ次々に捨てられてゆくだけなのである。誰が叩いているのかと思っても首謀者は出てこない。司会者は世間が許さないといい、コメンテータに賛同を求める。だが、コメンテータも言われたことに応えているだけで、自分の意見というわけでもなさそうだ。

叩く側に顔がない一方で、叩かれる側には顔がある。芸能人として突出した人には公的人格という刺青が与えられる。このブランドを使ってビジネスもできるのだが、何か間違いを犯すと容赦なく叩かれて文句は言えない。みんながまとまって知りたいものがない社会ではこのリンチだけが唯一の娯楽とされている。ワイドショーは現在のコロッセオなのだ。

もう一つヒントになったものがある。それが「子供の顔を隠した写真を撮影する」という親である。こんなことをする人は見たことがないのだが、Quoraの質問からヒントをもらった。いろいろ考えたのだが、セレブの親を真似しているのだと思う。日本でのセレブは自分が顔を晒して「有名人という刺青」をつけることでビジネスをしている人のことを言う。ママタレともなると子供も商売の道具にしなければならない。が、子供の顔を晒してしまうと特定されていじめられる可能性があるので、子供の顔だけを隠すのだろう。この質問でわからないのは一般人の親は顔出しをしているのかという点だ。おそらく顔出しはしていないのではないだろうか。

実は同じようなことがWEARでも行われてる。WEARはファッションSNSなのだが、アプリで顔を隠すのが流行っている。シールで隠す人もいるのだが、顔をぐちゃぐちゃに潰す人がいる。中には子供を顔出しさせて自分は写らないという親もいるのだ。作品としてのファッションや子供は自慢したいのだが、特定されないために顔を潰しているのを見ると、どうしても個人の尊厳を否定しているように見える。つまり、個性を出したいのにそれを罰しているように見えてしまうのである。

多くの日本人が「個人としてStand outしたいのだが、それをリスクとも感じている」ということがわかる。確かに、ネットで個人情報が特定されると何が起こるかわからない危機管理意識はあるのだろうが、目立つと何をされるとわからないという漠然とした不安感もあるのではないかと思う。

こうした断片的な情報を集めると、どうやら「個人として存在する」ということは日本ではリスク要因なのだということがわかるのだが、どうしてそうなるのだろう。それは、自分もまた個人を攻撃することがあるからではないだろうか。

学校で、個人の名前を出すことがいじめになることがある。たいていの場合SNSなどで本人に知られないように噂話を言い合っているらしいのだが、そもそも名前が出た時点でそれは「刑罰」になる。学校は村なので、個人というのはすなわち「仲間はずれとして追放された」ことを意味するのだ。

最近のネットいじめは「24時間経つと消えてしまう」メッセージなどが利用されるらしい。つまりいじめられている本人は何が書かれてあるかわからないのに「対象とされている」だけでいじめられたと感じそのまま自殺してしまう人もいるのだ。リンクされた記事では「友達が教えてくれて気がついたという人が多い」と言っているが、この友達が本当に親切心で言っているのかは疑わしい。本人が村八分にあっているということがわからないとつまらないと感じている人がいるはずである。つまり刑罰を与えたらそれを知らしめたい。罰を与えられた子が苦しむのがその他大勢の人たちには報酬になるのである。

ここまで考えてくると日本人が考えている個人というのは村に属さない「村八分」の人だということになる。つまり、日本の個人というのはなんらかの目的があって村八分にされているか、特に優れが業績がある人かどちらかのだということになるのだが。それは村が持ち上げるか貶めるかのどちらかであり、本質的には同じことなのである。村にいる人には個人を叩く権利が付随しているということがいえる。そこにいるだけで満足できなくなった村では、村人であるだけではダメで、常に「村人である理由」が必要なのだ。「村を出たら叩かれる」から出て行かないのである。

日本には公共がないので人々は公共のニュースには興味がない。政治や公共は単に自分には関係がないことである。このため日本人の政治感には独特のものがある。質問サイトでいくつか質問してみると特によくわかるのだが、誰も自分に付帯する政治のことは語りたがらない。特に自分が弱者認定される可能性があったり、組織に問題があるというような話題は意識して避けるところがある。が、誰かを叩くための政治についてはみんなが統治者目線で語りたがる。

だが、同時にこれは村人を縛り付けている。つまり自分も個人として発言すれば叩かれる側に回るということである。公共に興味がないので、ルールが環境に合わなくても自分たちで変えることはできない。出たら叩かれると思い込むことで実は自分を村の中に縛り付けている。

こうして泥の中で窒息しそうになっている人たちが感じるのが「全体主義」という言葉の響きによって刺激されるのではないだろうか。だが、実は自分たちが自分たちを縛って溺れさせようとしているということには気がつかない。実は鎖などどこにもない。単にそういうものがあるとみんなが思い込んでいるのだ。

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ピエール瀧が出た映像作品はお蔵入りにするべきなのか?

ピエール瀧容疑者がコカインの吸引容疑で逮捕され、違約金が30億円になるのではという報道がある。あとから「作品を全てお蔵入りにすると言っているが、そんなことはしなくてもいいのでは」という議論が出てきた。坂本龍一も音楽に罪はないと言っているそうだ。




これを見ていて全く別のことを考えた。地上波ってもう無理なんじゃないかなと思ったのだ。

こうした自粛祭りが起こるのは「不特定多数の人達」を相手にしているからだろう。いつどこでどんな炎上騒ぎが起こるかわからないので、とにかく一度遮断して様子を見ているのである。つまり、不特定多数を相手にしてビジネスをする以上何が起こるかは予測できないから当座の処置としての自粛は避けられないということになる。

音楽にも特定の人たちに支持される「サブカル」とされる音楽と「メジャーな大衆音楽」の間にはなんとなく境目がある。「電気グルーブの音楽はどちらか」ということになるのだが、紅白歌合戦への出場が検討されていたということなので、ちょうど境目に来ていたのだろう。もし電気グルーブが本当のサブカルだったら自粛騒ぎにまでは発展しなかったかもしれない。

映画はピエール瀧容疑者が入ったままで公開に踏み切るところが出てきているようである。マージャン放浪記2020という大人向けの名前がついているので「話題を呼んだ方がトク」という判断が働いたのだろう。大衆映画だがサブカル風味で売っているものは「少々傷があったほうがハクがつく」というそろばん勘定が働く。ピエール瀧容疑者は北野武監督作品にも出ているそうだが「その手の物」は地上波は無理でも配信などでは許容される可能性が高いと思う。

しかし、これだけでは地上波全般が無理とまでは言えない。地上波が無理と考えた背景は別のところにある。こうした炎上騒ぎが起こる環境で「みんなが満足するもの」はもう作れないのではないかと思ったのだ。地上波は、みんながないところでみんなが楽しめるものを提供し続けようとするとどうなるのかという惨めな実験になっている気がする。

どうやら、政治にしろ文化にしろ公共は「ある種のエンターティンメントになっている」のではないかと思う。つまり、他人があれこれ詮索して非難をしても良いジャンルなのである。よく「公人」という言い方がされる。政治家が公人なのはわかるが、芸能人が公人であると言われると違和感がある。だが、個人の名前でビジネスをしている突出した人には無条件で「公人格」が付与される。権利でもあるが「いざという時はみんなで叩きますからね」という刺青になっているのである。

日本では「みんなで支えて維持する」という公共は作れなかったが処罰の対象としての公共はできつつあるのだろう。日本人の考える公共とはテレビの中にある別の世界なのである。視聴者はつながっていないので、公のコンセンサスというものが消えつつある。例えばみんなが楽しめる音楽番組はもうない。紅白歌合戦では誰かが必ず退屈な時間が出てくる。

報道情報番組にもそんな傾向がある。最近、SNSでテレビについての議論を見る。NHKが政権を忖度しているとか、民放のバラエティーショーが同じような芸能人の不倫ばかりを追いかけるというような不満だ。なんとなく、今のテレビに不満を持っているようだ。「みんなの共通認識」がなくなったのにみんなを満足させようとするから誰も満足させられなくなってしまった。唯一残ったのがワイドショーの「突出した個人を叩く」という娯楽なのだ。つまり、大衆の個人に対するリンチだけが残ってしまったのである。

このため、本当にニュースが知りたい時にはネットに頼る必要がある。今ではCS放送に代わってネット配信が盛んになりつつあるようだ。Huluを使えば月額1,000円でBBCとCNNが見られるそうである。原語でよければ直接配信されたものを見ることもできる。試しに見てみたが、アメリカではトランプ大統領と共和党上院議員のバトルが起きており、イギリスではEU離脱交渉でメイ首相が声を枯らしながら議会を説得していた。また韓国ではバーニングサンゲート事件が起こり芸能人が次々と引退に追い込まれている。日本の地上波を見ているだけでは現地の興奮は伝わってこないし、いったんこれらを見てからツイッターの炎上議員の様子を見ると「大阪のチンピラがまったりと騒いでいるな」くらいにしか思えないほど、世界は動いている。

このように選択肢が豊富にある状態で地上波だけを見続ける理由を探すのはとても難しい。テレビは番組の合間の自局CMを見て次に見たいものが決まるシステムなので、いったん離れてしまうとテレビを見る習慣そのものがなくなってしまう。こうして地上波のニーズはどんどんなくなってしまうのである。

よくNHKしか見ない高齢者が騙されるというような話を聞くが、高齢者というのはかなり上から目線なので「自分の価値観に合わないものがあればこちらから叱り飛ばしてやる」くらいに思っているはずだ。高齢者の万能感をなめてはいけないと思う。これからのテレビは高齢者の思い込みに合わせて番組をつくることはあっても「扇動してやろう」などとは思っていないと思うし、実際にはそんなことは不可能である。だからNHKのニュースは政権ではなく高齢者に忖度したものになるだろう。彼らが理解できないものは流せない。

ピエール瀧容疑者の問題は芸能コンテンツの問題として捉えるよりも「皆様が安心して楽しめてご満足いただけるコンテンツはもう作れない」という観点から見たほうが有効な議論になると思う。多様化した世界で「皆様のNHK」という「皆様」はもうどこにもいないのだ。

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日本の教育は全体主義化しているのか?

少し前の記事だが、ネットでいじめの原因は学校の「全体主義」にあるという評論を読んだ。ちょっと乱暴な記事だなと思ったのでQuoraで聞いてみたのだが、これが割と感情的な議論になった。政治議論は意外と抑制的なQuoraなのだが、学校という共通体験が入ると感情が露出するというのは少し意外な気がする。政治は多くの人にとってはもはや中核的なテーマではないのかもしれない。




もう一つわかったのは日本でコミュニティの問題が解決しない理由である。リンク先を読んでいただけるとそれぞれが真剣な気持ちで書き込みをしていることはわかるのだが、それが一つの像を結んでいない。というよりお互いに一つの像を結ぼうという意思が全く感じられない。日本には公共という概念がないので、自分たちで社会を作ろうという気持ちにはなれないのだろう。例えば議会政治が暴走する過程において「いやこれはまずいのではないか?」と言い出す人が誰も出てこないのに似ている。

この内藤朝雄の短い論評の中で「全体主義」という用語はかなり特殊な使われ方をしている。外世界から孤立した集団が社会とは違った歪んだ規範を獲得してゆく様子を全体主義と言っており、それを学校に当てはめている。その目的は学校教育の断罪であり不満の表明だ。インサイダーとして教育を変えようという意欲はない。

内藤が挙げてのは、日本陸軍・オウム真理教・連合赤軍である。これは全て外への攻撃性を持った集団であり最終的には犯罪集団と認定されている。が、学校は外への攻撃性を目的とした集団ではない。犯罪集団の中に学校を混ぜ込むことによって、あたかもそれが犯罪集団であるかのように誘導しようとしているのだ。

このような決めつけは本や新聞を売るのには有効だが、問題解決には有害である。学校で本当に何が起こっているのかが分析できなくなるからだ。学校で苛烈で陰湿ないじめが横行しそれが自殺にまでつながっていることは明白なのだが、そうした問題は学校の閉鎖的体質を非難しただけでは解決できない。

Quoraの回答を読んでみたのだが意見は二極化していた。学校・教育関係者は「学校が機能不全を起こしている」ということを認めたがらない上に、学校を失敗していると決めつける評論に否定的な態度を取っていた。一人は楽観的な統計を持ち出して「これは事実とは違う」と言っていたのだが、最終的には持論に誘導しようとしている。つまり、いじめのような「暗い問題」には興味がない。もう一人の学校の先生は「これは不幸な事例であるが、研究者の決めつけこそが全体主義である」との姿勢である。これも学校の正当化である。村が攻撃されたから「代表して」それを守るというのも日本人としては普通の感覚だろう。

一方の側の人たちも「全体主義」という言葉には反応しているが実は学校にはそれほど興味を持っていない。社会になんらかの閉塞感があることは確かなようだが、いじめという「他人の問題」にはそれほど興味がないのだ。別にふざけているわけではないし、彼らには彼らの課題がある。日本人の「公共のなさ」がわかる。公共というよりお互いに関心がない。

ある人は反安倍デモのプラカードの写真を掲載し政権批判を繰り広げそうな勢いだった。社会に問題があるのか政権に問題があるのかと聞いてみたのだが明確な返答はない。つまりとにかく苛立っていて「教育というお題」でそれを表明したがっていると。別のトピックがあっても同じ回答をするだろう。

「このブログを読んでくださっている」という人はいいところまでは行っているのだが、やはり学校には十分に言及していないように思えた。村と全体主義を比べている。Wikipediaの全体主義の項目には「充実した全体主義」という言葉が出てくるのだが、これは村落が全体主義的に異分子を自ら進んで排除するというようなコンセプトである。あとは、これを学校に当てはめて、学校という村が「充実した全体主義なのか」ということを論じればよかった。いじめが横行し自殺によって裁判騒ぎや炎上が起きているところから、学校教育が「充実した状態」にないことは明らかなので、学校は機能している村とまでは言えない。かといって、学校が全体として異分子を排除し一つの反社会的な方向に向かっているとも言えないので、機能不全を起こした全体主義とも言い切れない。そこで初めて「では閉塞感のある学校はどのような状態に陥っているのだろう?」という疑問が出てくるのだと思う。

あとは「お役所仕事だから」と「農耕民族だから」という理由付けになっている人たちがいた。これはマジックワードだ。つまり。これをいうとそこから先は考えずに済むのである。農耕民族さんも自分が言いたいことの宣伝につなげていた。日本型の農村は明確なリーダーがいないのに自律的に集団を維持するのだから、これがいわゆるリーダーが他者を抑圧するような「全体主義」につながるとは思いにくい。でも、そんなことは彼の主張の宣伝には関係がない。

良い悪いは別にして、これは日本の<議論空間>をよく表している。日本には公共がないので「社会の宝である次世代を育てる教育」という概念がない。そのため誰も教育やいじめ問題には関心がない。関心を持っているのは自分の教育理念を売り込みたい人と学校関係の当事者だけである。つまり、語りたい人はたくさんいるが、聞いてくれる人はいないし、全体をまとめようとする人はもっといないという社会なのである。ある意味「全体主義」とは真逆の「バラバラ主義」の社会なのだ。そして、どうしてこうなるかも明確である。日本人は学校で討論をしたことがない。教育の問題というより社会に討論のニーズがないのだろう。

討論の授業というと人は勝つことや話すことについては知りたがる。しかし考えてみれば、60分の授業に6名がいたとしたら、一人が話せるのは10分未満で、あとは人の話を聞いたりまとめたりする時間である。つまり討論というのは人の話を聞くことを学ぶ時間であり、人の話を聞くからこそ自分の話も聞いてもらえるのである。日本人が興味があるのは問題解決のための討論ではなく、相手を従わせるスキルとしての議論である。この議論は勝たなければ意味がない。

日本型の教育は誰が先生になるかを決める。つまり、役割を固定して意見を押しつけるのが教育であり躾なのである。だから生徒の「場を掌握したい」という欲求が満たされることは決してない。生徒は意味がわからなくても英語の授業を受け、理由がわからない校則に縛られながら大人になる。

こうしたいびつな教育空間で「先生になりたい」という欲求を満たすのは実は簡単だ。生徒役を一人決めて支配すればいいのだ。一人にその役割を押し付けてしまえばあとはみんな「話す側」に回れる。それぞれの<先生役>にとってそれは単なる小さな欲求の発散なのだろうし「単なるいじり」なのかもしれない。そしてそもそも支配する側が支配される側に意見を押しつけるのは日本の教育現場では当たり前のことなのだ。

だが、やられた方にとってはそれは「決して個人の人格が認められることがない」という地獄だろう。が、それをクラスメイトたちが聞き入れることは決してない。彼らもまた「聞いてもらった」経験がないからである。

つまり日本の教室は99人が先生で1人が生徒という空間になりつつある。そしてその不幸な1人は決して教育を受けているとは感じない。いじめられているという感覚を持つのである。

ただ、残りの99人も同じように感じているかもしれない。何かはわからないが誰かに従わさせられていると感じている人は確かに多いようだ。それが何だかはわからないので「全体」という言葉を使うのだろう。日本の教育現場は静かに破綻していて、それが時々「いじめの犠牲者」という形で社会に突きつけられるのだ。

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もう誰にも止められない日本の劇場型政治

これまで劇場型政治を見てきた。小西議員のように国会をクイズ番組にしてしまおうというやり方は、それだけを見るとたいして害がないように見える。だが、こうした手法はエスカレートする。




では、我々が心を入れ替えたらこうした劇場型の政治から脱却し「まともな」政治体制に戻すことができるのだろうか。改めて劇場型政治を振り返ってみたい。

近年になってシングルイシューの劇場型政治を始めたのは郵政民営化の小泉純一郎だが、この時は選挙のためだけの劇場だった。この敵を作る手法を選択したのにはいくつかの理由があったのだろう。一つは自民党に集まった批判をそらすためだった。もう一つは古い体制に慣れきった中の人たちにたいする「このままでは大変なことになりますよ」という警告だったはずである。

しかし、いったん劇場に引きつけてしまうと、そのあとも演目が続かないと観客が飽きてしまう。さらに劇場によって危機を乗り切ったと安心してしまった人たちは内部改革の必要性を忘れてしまった。実際に「小泉劇場によって救われた」と感じた人たちが失言を繰り返し三年後に政権を失ってしまった。

特に麻生内閣の末期はひどかった。一旦担ぎ上げた総裁首相を降ろす動きがあり、失言や不祥事による閣僚の辞任も止まらなかった。ネトウヨ発言(当時はそんな言葉はなかったが)を繰り返して辞任した大臣や酔っぱらったままで会見に望んだ大臣もいた。つまり、小泉劇場は内閣を延命させるのには成功したが、自民党の意識改革には失敗してしまったのだ。前回ご紹介した「昭和戦前期の政党政治」にも危機感を持たずに内輪もめに没頭する政党政治家たちの様子が紹介されているが、集団思考状態に陥った日本人は状況を客観的に判断することはない。ましてや、中側から改革することなどはできない。麻生政権の末期をみるとそのことがよくわかる。

小泉型政治は「党内を説得して体質変換をしなくても、マーケティングキャンペーンで選挙にさえ勝てれば問題がない」という楽観思考を生み出した。だが、シングルイシューの劇場はそれが成功してしまうとごまかしがきかなくなる。これが露呈して飽きられるまでが3年だったのだろう。自民党は小泉総裁を選んだ時点で「演技し続けなければ国民の支持が得られない」政党になってしまったのだといえる。

これを引き継いだのはテレビで派手なショーを繰り返した民主党政権だった。彼らのスローガンは「コンクリートから人へ」だった。つまり公共事業を無駄とみなしこれを潰してしまえば全てが解決するとやったのだ。だが、彼らには政策実現力がなく、財源の見通しも裏打ちもなかった。そのため、消費税を増税せざるをえなくなり国民の信頼を失った。マスコミも改革に浮かれ、「本当にそんなことができるのか?」などと確かめる記者はいなかった。

小泉選挙に学んだ民主党は「簡単なスローガンさえ掲げて政権さえ取ってしまえばあとはどうにでもなる」という楽観思考は学んだのだろうが、政権運営について教えてくれる人は誰もいなかったのだろう。こちらも3年で嘘がバレてしまい、結局野田政権を最後に退陣することになった。

そのあとの安倍政権はまともな政権運営をするようになったと感じている人が多いかもしれない。が、彼の2012年のスローガンは実は「日本を取り戻す」だった。Make America Great Againのように「失われた」とか「誰かに盗まれた」という被害者感情を利用している。安倍首相が学んだのは、閉塞感は漂っているが誰も問題を解決しようとしない日本では、まともな政権運営をしようとすると3年程度しか持たないということなのだろう。

安倍首相が作った敵はもっと大きなものになっていた。戦後レジームに縛られているから中国に負けるとほのめかし、内政では「悪夢の民主党から日本を取り戻す」とやった。言っていることは無茶苦茶だが、いい続けるうちに「ああ本当なのかな」と思えてくる。そして徐々にネトウヨ発言を露出して行けばそれは「新しい標準」担ってしまうのである。麻生政権下の中山成彬発言くらいで辞任する大臣はもう一人もいない。

安倍政権が準備した政策は3年ほどはうまくいったようだが、2015年には景気はピークアウトしてしまった。だが、敵を指差し続けている間はそれがバレることはない。つまり、安倍政権は小泉政権と民主党政権から「嘘は吐き続けなければならない」ということを学んだのだ。

そのあとは、特区を作って政権が安倍首相に近い人たちを優遇しているのではとか統計がごまかされているのではなどと小さな攻撃が続いているのだが、これは実は政権側からみると「野党勢力が体制転覆を図っている」という嘘理論の正当化に使える。小西さんの小さなクイズ大会もそのうちの一つである。

野党勢力が立憲民主主義について騒いでいる間は「政府は景気が良くなったというのに、なぜ我々の暮らしはよくならないだろう」と疑問について深く考えなくてもすむ。実は政権攻撃は安倍政治が存続するための手助けにしかなっていないのだ。

だが、劇場型政治は確実に自民党を破壊しつつある。都市部を中心に自民党は政権維持能力を失いつつあるようだ。この間、大阪では「東京のように特別区を作ったら大阪は再び発展する」という約束をした維新が躍進し、東京では「自民党型の旧弊な政治をなくせば問題は全て解決する」とした都民ファーストが躍進している。どちらも自民党は「悪者」扱いされており、安倍政治がなければ国政でも同じようなことが起きていたことが予想される。その他の地方はもっと悲惨で、対抗軸すら作れず翼賛体制を作って中央から支援を引っ張らざるをえなくなっている。

民主党は多くの地域で翼賛体制に組み込まれている。大阪で躍進しているのは維新であり、東京は都民ファーストだった。どちらも現実的な政権維持能力は持っていないが先導能力には長けた人たちである。つまり、ここで政治家だけが冷静になっても自民党よりもっとひどい劇場型に特化した政党が躍進する可能性が高い。それは政治家が現状維持を望んでおり、国民は「勝利」を望んでいるからだ。このままでは大変なことになると思っている人は一人もいない。

だから、外敵から攻撃されるか状況が劇的に変わるまで、政治は現実的な問題解決能力を持つことはなく、いつまでも劇場型の政治を続けざるをえないということになる。劇場型をやめるともっとひどい劇場型政治がやってくる。この国でリーダーシップといえば嘘を吐き続ける能力であり、成長とは途切れることのない闘争という意味でしかない。いったん始まった集団思考的な興奮状態を中から止めることができる人は誰もいないように見える。

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繰り返される劇場型政治

先日来「不毛な国会運営」について見ている。変化を嫌う有権者に支持された与党と院内活動家として嫌がらせに走らざるをえない野党が劇場型の不毛な争いを繰り返す中で、次第に問題解決はおろか現状把握すらできなくなってしまうという光景である。




この様子を観察していると、「ああ日本人には議論はできないのだなあ」という諦めに似た気持ちが芽生えてくる。さらに二大政党制の歴史について研究する本を読むと劇場型政治は政党政治とともに始まったことがわかる。今回は筒井清忠という人の昭和戦前期の政党政治―二大政党制はなぜ挫折したのか (ちくま新書)という本を読んでみた。そもそも日本人に議論をさせてはいけないのである。

先日見た小西洋之議員の「クイズ型国会質問」は劇場型政治の一つであると考えられる。これは国会が国民世論の調整機能を失ったということを意味している。もともと国会は「裏ネゴ」で意見調整をしており会議には本質的な意味はなかった。これが安倍晋三という日本の伝統を理解できない首相が政権をとってしまったために裏側での調整ができなくなり、表に出てきてしまったのである。劇場型政治というと小泉純一郎を思い出す。言い切りで世論を挑発し選挙に勝つという手法である。安倍政治はその劣化版である。選挙という限られた期間劇場が開催されるのではない。毎日の議会が大騒ぎなのだ。

ここで、劇場型政治はいつ始まったのだろうかという疑問が出てくる。小選挙区制度のもとで劇場型政治が始まったのならそれをやめればいい。だが、筒井は「普通選挙が始まる時期にはもう劇場型政治があった」としている。

大正デモクラシーの結果、庶民を政治に組み込むことが必要だと考えた政府は、普通選挙制度の実施を決めた。が、その直前に朴烈(パクヨル)事件が起きた。朝鮮人のパク・ヨルが天皇の暗殺を図ったとされる事件である。だがこの事件は意外な展開を見せる。獄中でパク・ヨルと内縁の妻が寄り添っている当時としては「たいへん不適切な写真」が流出した。政権を転覆しようとした反対派が騒ぎを大きくするために写真を流出させたとされているそうだ。週刊誌がなかった当時の新聞がこの問題をセンセーショナルに取り上げ、実際に政権は退陣直前まで追い詰められたのだが、大正天皇が崩御し「政治休戦」になった。

この事件が政治問題化したのは「普通選挙を実施しないと国民が納得しない」というほど大正デモクラシーが盛り上がっていたからだ。だが、政治に関与したことがない国民は政策論争には興味を示さず「破廉恥な写真のスキャンダルを政治家がどう処理するのか」という肌感覚で政治を見つめた。世論を味方につけようとした政治家たちは、天皇を殺そうとした不逞の輩が獄中で内縁の妻とふしだらな関係を持っていると騒ぎ立てたのである。今でも政治的な失敗で国会議員のクビが飛ぶことはないが、不倫などの女性問題はすぐに進退に直結する。日本の政治状況は今も昔もそれほど変わらないのである。

この後も、政党は一つにまとまって議論をすることはなく、自分たちの勢力争いのために地域をも巻き込んだ罵り合いを始めた。大分県では、公共事業、医者、旅館、消防警察とも二系統に分かれていたという。ヤクザも二系統ありついに殺人事件が起きるのだが、それを阻止したところ両陣営から感謝されたらしい。あまりにも対立が激化し両陣営とも「ヤクザを持て余していた」というのである。

知識人たちは政党を見限り、第三極になりそうな無産政党に希望を持つことになるのだが、それもやがては見限られてしまった。最終的には「結果を出す」人たちが支持されることになる。それが軍部なのだ。日本は戦争に勝った結果大陸に権益ができた。軍部はそれを守る必要があったが財政が苦しくなっていたことから議会は軍縮に傾く。世界でも日本の軍縮を求める声がありロンドン軍縮会議が行われていた。結果的に軍部は単独でことを起こし満州事変が起きた。

マスコミも文化人も軍部こそが問題を打開してくれるとして応援するようになる。当初朝日新聞は満州事変に懐疑的な見方をしていたのだが、朝日新聞の満州事変の取り扱いが気に入らないとして不買運動が起こり購読者が数万人単位で減っていった。代わりに大阪毎日が拡大するのを見て焦った朝日新聞は満州事変支持を会社の方針とする。山本武利の研究によると、朝日新聞の購読者は日清日露の両戦争で23%づつ増えそのあと減少していた。朝日新聞が満州事変支持に転じると27%も購読者が増えその後そのトレンドは続いたのだという。つまり、一般の人たちは議会ではなくもう一つの劇場を戦争に見出したのである。当初日本人は戦争を「自分とは関係のないところで行う派手なショー」だと思っていたことになる。それが間違いだと気がつくのはずっと後のことで、その時にはもう取り返しがつかないことになってしまっていた。

議会は対立に陥り地域をも巻き込んだ全面対決があった。ちょうどTwitterで人々が罵り合っているのに似ている。日本の対立構造は表面化すると抑えが効かなくなる。リーダーになる人がいないので「誰にも止められなくなってしまう」のである。だが、この騒ぎは最終的に収まった。犬養毅が軍人に暗殺され萎縮した政治家たちは軍人に内閣を仕切らせたからだ。こうして政党は軍部を追認する大政翼賛会を作る。つまり不毛な対立は誰にも止められず首相が命を落とすことで怖くなってやめてしまうのである。

大正デモクラシーという改革によって生まれた普通選挙制度下の二大政党政治は何の成果を出すこともなくすぐに萎縮した。そのあと揺り戻しとしての軍閥内閣から大政翼賛会への道が開かれた。対立に嫌気をさした人たちは「軍国政治」という正解を賞賛する道を選び、国民もこの劇場型の政治を支持したということになる。原敬の最初の政党内閣は1918年、成人男子普通選挙法の成立が1925年、五・一五事件が1932年である。原敬から数えると14年、普通選挙法下ではわずか7年だった。

このことからわかることはいくつかある。一つは日本人が「表で議論」を始めるとそれは決してまとまらないということである。そして「最も成果が出ている」ところに流れてゆくか、正解がわからないとして延々と議論が続くことになる。つまり現在のような不毛な劇場型の<政治議論>が続いているということは正解を見失っており、軍部のように一発逆転してくれる大正解がないということである。もともと日本人は観客として派手な劇場に関わることと正解を叫ぶことが大好きであり、正解のない地道な議論には耐えられないのだ。

今回の国会議論を聞いていても「足元の数字をきちんと確認してもう一度考え直そう」という議員たちがいないわけではない。だが、彼らの声は派手な劇場型を求める人たちと正解を賞賛したい人たちにかき消されてしまう。クイズ番組化した質問や答弁者への恫喝が蔓延する国会中継は「この劇場型」の表れなのだが、こうした退屈なショーに飽きた国民が「さあ議論しましょう」と言いだす可能性は低い。リーダーシップが働かなければ国民はさらに派手なショーを求め、さらにわかりやすい正解を賞賛することになるだろう。

安倍政権が「停滞する国内経済を活性化するために勝てるチーム(米軍中心の同盟)で中国をやっつけたい」と考えていることは明白である。これは多くの日本人が持っている「何か派手なことをして勝ちたい」という気分を象徴している。だが、実はこれに反対する平和主義なはずの人たちも「とにかく派手なショーを演出して勝ちたい」と考えている。個人ではおとなしい日本人は集団の対立構造を提示されると「とにかく勝ちたい」として戦いをエスカレートさせてしまう悪癖がある。日本人はみんなで正解を模索するという退屈な行為には耐えられないのだ。

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何もしない人たちとCOBOLの村

これまで「日本人の政治姿勢」を見てきた。今の所「採集できた」のは次のような類型である。




  • 何もできないことがわかっていて受動攻撃性に走る人
  • 正義が実行されないとして怒るが、受動攻撃者の餌になってしまう人
  • 受動攻撃はしないが怒っている人を見て楽しんでいる観衆

なかなか荒んだ光景ばかりが集まったが、これは問題ばかりを見ているからである。問題だけを見ていると、状況がまずくなる前になんとか手が打てなかったのかとも思うし、日本人が全て愚かなバカに見えてしまう。しかし、その前段階には「問題の芽」があるはずだ。そこで、今問題になりつつある現象を眺めてみたいと思った。それがCOBOLである。

厚生労働省の統計偽装問題で「COBOLプログラム性悪論」が出てきた。COBOLは一般的には古びたコンピュータ言語と見なされており、日本のITが世界にキャッチアップしていない象徴とされることも多い。国会で統計偽装の問題が取り上げられた時「RではなくCOBOLが使われている」と非難していた国会議員もいた。汎用機でバッチ処理を行う話をしているのに、なぜRなのだろう?とは思ったのだが、多分質問者はよくわからないまま又聞きしたことをあたかも自分が発見したかのように話しているのだろうと思った。これを立憲民主党なども問題視しておりコンピュタの仕組みを知らないフリージャーナリストが面白おかしく拡散する。週刊ダイヤモンドIWJなどで中途半端に取り上げられているのが見つかった。

そこで現場はどう思っているのだろうと思って聞いてみた。先日思い立って官公庁ではなぜCOBOLが使い続けられているのかを聞いてみたのである。これだけ世間に叩かれているのだから現場もさぞかし吹き上がっているのだろうと思ったのだが、それはとんでもない間違いだった。現場はいたって平和なのである。

Quoraには大勢のCOBOL関係者がおり彼らに質問を送った。だから、当然COBOL擁護の声ばかりが書き込まれることになった。面白かったのでぜひリンク先を読んでいただきたいのだが「十分に使えるものをなぜ入れ替えるんだ」という声が多いらしい。経営者はなぜちゃんと動いているのに新しいものにするのだと入れ替えに渋い顔をし、担当者も何かあったら責任は誰が取るんだと言われると下を向いてしまうということのようである。そもそも現在の設計思想ではうまく動いており、機能的にも十分に支えているという。平和な村の声を聞くと「あれ、世間はなぜCOBOLを悪者にするのだろう」と思えてくる。ただ、問題が出てくると今度は逆に「なぜ今まで放置していたのだ」と言われてしまい「俺はコンピュータに詳しいぞ」という人たちがいきり立つのだ。

ただ、この村の意見に一人だけ違ったことを言っている人がいた。当然バッチ処理の世界にも「新しい要件」はあり、これを現場の工夫で乗り切ってきていたという。しかしそれが局所依存になっており「新しい仕組みに乗り換えるのにどれだけお金がかかるかわからない」ことになっているらしい。つまり、経営者の無関心の他に、現場が良かれと思って工夫をしてきたことが足かせになっているのである。

こんなことになってしまう理由もわかる。COBOLは「中央集権的」に全てのデータを一つの所に集めてくる仕組みになっている。大量の単純なデータを一括処理するにはとても優れている。しかし、仕組みが大きすぎるので「ちょっとずつ入れ替え」ができない。一方今のコンピューティングは分散型といい「いろいろなことをいろいろなところで行う」ことになっているので、パーツごとの入れ替えが(容易とは言わないまでも)可能なのである。つまり、設計思想が全く違うのだ。

こうした中央集権的な仕組みのため「担当者がいなくなったら中で何が行われているのかが全くわからなくなった」ということになる。だが改めてこの中央集権から分散処理という流れを踏まえて回答を読み直すと、中にいる人は「マイグレーションができればCOBOL自体は問題がない」と言っており、この時代転換(よくパラダイムシフトなどという)に全くついてこれていないことがわかる。だから問題が捉えられない。

一方外から見ており問題点を指摘した人は「ハードの供給がなくなりつつありこれからどうなるのか見もの」と言っている。部外者だから問題が見えるが、この人にも対処はできない。インサイダーではないからだ。

このように「村」ができると中からは村の問題が見えず、外からは手が出しようがないという問題が生まれる。今実際に問題が起こっている。最近、新幹線の予約システムが止まった。日経系の伝えるところによるとMARSで時刻表を組み替えた際に不具合が起き、鉄道情報システムが不具合を起こしたらしい。どのようなプログラミング言語が使われてるかはわからないが、中央集権的なシステムなので、中央が不具合を起こすとJRが全てが止まってしまうのである。

日本人は基本的に「村を作り昔と同じことを繰り返す」のが好きだ。現場の声を聞くとわかるように「新しい仕組み」に乗り換えようというと様々なやらない理由が考案され改革は潰され、それを一人ひとりの善意と職人技で乗り切るということになっている。COBOLは長い間(1959年に作られたので今年で60周年だったそうだ)安定的に動いており地味な裏方として使われていたために更新が遅れたのだろう。そして、いよいよ持ちこたえられなくなると「村がなくなるか」というような騒ぎが起きてしまう。しかしそれをまた村人の職人技で乗り切ろうとするので「結局何も変わらなかった」となり、最後は座礁してしまうのである。受動攻撃性の原因はこの「諦め」だが、実はその前段階には「村の平和」があるということになる。

さて、今回はかなり絶望的な前駆状況をみたのだが、興味深い発見もあった。かつてと違い、現場の生の声がマスコミの情報なしでも手に入るようになったということである。今回の話は加工もしていないし知見はすべてたった4人から集めてきたものだが、問題の輪郭がかなりよくわかる。よくインターネットの情報はゴミばかりだという人がいるが、実はそれは全くの誤りなのだと思う。必要なものは全て手に入るのである。ただそれをまとめて解釈して社会改善に生かせる人がいないのである。

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ネットの巨大な嫌韓いじめ需要

Quoraで韓国や北朝鮮を見下す質問が次から次へと出てくる。こうした質問に答え続けていたのだが「ああ、これは合理的に説得しても無理だな」と思った。いじめの対処に似ているところがあるのだ。




一つ目の「こりゃダメだ」ポイントは「どっちもどっち」という書き方をすると否定的なところだけをつまみ食いして高評価をつけてきたり「仲間だ」というコメントをしてくるという人が多いというところだ。彼らはもう「嫌韓を正解だ」と思い込んでいる。「バカの壁」現象が起きているので公平な論評を書いてもあまり意味がないのである。

書き込んで来る人はある程度能動的な人たちなのでまだ説得ができるかもしれない。しかし実はこの裏に何倍もの受動的な人たちがいる。嫌韓的な回答に多くの「高評価」がつくという現象がある。回答者はそれほど多くないのに閲覧がたくさんいるということになる。彼らは「観客」として「見ましたよ」という印を残して行く。一つだけならまだ偶然だと片付けられるのだが、こうした回答を飽きずに眺めている人がいるということになり事態の深刻さがうかがえる。

彼らにとって問題の対処方法は実に簡単だ。「韓国と断交しろ」という意見が時折見られるし、憲法改正をして自衛隊を軍隊にしたら竹島を奪還できますか?という人もいる。国連憲章の話をするとスルーされてしまうので、あまり深いことは考えていないし、実際にはそんなことをするつもりはないのだろう。単に「一泡吹かせてやりたいなあ」と思っているだけなのだ。

もちろん、こうした嫌韓回答に嫌悪感を持つ人もいるのだがそれは無視される。観客はPCな人たちを無視したり嘲笑したりすることで「シャーデンフロイデ(メシウマ感覚)」を得ている。これは人権擁護論にも言えることだが、感情的になった時点で彼らの餌食なのである。

これを合理的に否定するのは難しい。声高に否定すると笑い者になり、それがまた攻撃者の餌になるという悪循環がある。これがいじめの対処に似ているのである。

観客たちは普段自分の意見を求められていないかあるいは意見が組み立てられないのだろう。現代社会は「コミュ力」がもてはやされる時代であり、口が上手いやつのおかげで自分たちは割を食っていると考えている人が多いのではないだろうか。だから「正解」に加担することで自らも正解が持つ権威を帯びようとする。ただ、こうした沈黙する多数派の静かな怒りは日本特有のものでもない気がする。トランプ大統領を支える「失われたという怒りを持っている人たち」も同じようなものではないかと思う。正解に加担する人たちは容易に扇動に乗ってしまう。多くの人がファシズムやポピュリズムを恐れているが、日本にもすでに素地が整いつつあるのだろう。複雑な状況や不確定な状態を人々は嫌悪し単純な正解にすがりたがる。

この複雑さへの熾火のような怒りは百田尚樹の日本国記でも見られた現象である。日本国記はテキストそのものが面白かったわけではないのではないだろう。だが、その本を読んで「討論」に参加し、リベラルと呼ばれる人たちが抵抗する様子を眺めるのは楽しかったはずだ。最近では副読本まで出ておりそれなりに盛り上がっているようだ。これは慢性的な病のようなものだが、彼らは気にしない。産経新聞はこうした熾火のような怒りに頼ってまともなジャーナリズムを放棄したので経済的にはますます苦しくなってきているようだ。落ち目だった新潮45は過激さに走りついに事実上の廃刊に追い込まれた。でも、また別の落ち目のメディアが見つかればお祭りはずっと続く。

先日来、野党から「このような安倍政権が続くのはありえない」という声が聞かれるのだが、実は安倍政権は二つの無関心層に支持されているのかもしれない。一つは「政治などに関与しても無駄」というポリティカルアパシーな人々だが、もう一つは「特にいろいろな勉強をしたいわけではないが帰属感を得たい」という「仮想万能感」を持った人たちである。無関心層はそもそも政治に関与しないのだろうが、仮想万能層は自民党に票を入れる(つまり高評価する)ことでお祭りに継続的に参加できてしまう。そしてこの無力感が官僚の受動攻撃性を加速させるという悪循環が生まれる。つまりジャーナリズムだけではなく政治もこうした慢性的な病に罹患していることになる。

この病の解決策は騒ぎからは一定の距離をとりつつ「できるだけ穏健な意見を広げてゆく」ことなのだろう。だが、これはかなり絶望的である。いわゆるリベラルと呼ばれる人たちは「このようなことは感覚的におかしい」とは思えても、それを組み立てることができない。感情的になったところでネトウヨに捕まり、彼らの餌にされてしまうのである。

だが、この状況を一歩引いてみてみると、やはり「感情的に疲弊すること」を控えることだけが、状況の悪化を食い止める唯一の道なのではないかと思う。

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セブンイレブンが行うべき遵法闘争

セブンイレブンが揺れている。フランチャイズ店のオーナーが団体で「24時間営業をやめさせて欲しい」と申し入れたのだが、本部側がこれを断ってきたというのだ。セブンイレブンのフランチャイズは団結して「受動攻撃」すべきではないかと思う。




受動攻撃という耳慣れない言葉を聞くと「それは何だ?」と思われる可能性があるのだが、実は日本人はこれまでも管理された組織的な受動攻撃を行ってきている。それがサボとか遵法闘争である。サボるという言葉の語源になったサボタージュは大正時代から行われているそうだ。また、遵法闘争は、戦後になっても公務員の間で行われていた。国鉄がマニュアルを律儀に守りダイヤを遅らせるという手法がとられた。

こうした受動攻撃の怒りを沈めるために、私たちの社会は終身雇用と家族的労使関係という「温情的」な労使関係を作ってきた。が、それも高度経済成長期が終わると簡単に忘れ去られてしまった。つまり、私たちは新しい時代を迎えているわけではなく過去の「本来の形」に戻りつつある。それは「村の外は全員敵」という社会である。

本来、こうした闘争は資本主義社会では必要がない。セブンイレブンフランチャイズオーナーは契約形態が気に入らないのなら別の系列と契約を結べばいいだけの話だからだ。それができないのは、新しいアイディアを手に入れられなくなった各コンビニ系列がフランチャイズを搾取する構造に依存せざるをえなくなっているからだろう。つまり、閉鎖的な経済空間ゆえに、トもできなければ自由主義的な市場経済メカニズムも働かないという不思議な「失敗した市場」が生まれているということになる。

コンビニエンスストアはマニュアル労働なのですべてのことはマニュアルに書かれている。これを杓子定規に守ることで営業成績を落とすことができる。すべてサボタージュしてしまうと売り上げにも響くのだから「本部が政策的にやっている」ものだけを止めてしまえばいい。例えば(どうせ売れ残る)恵方巻きを大量に仕入れるというようなことはやめても良いだろう。コンプライアンス流行りなので「食料廃棄は減らせ」というようなルールもあるはずなのでそれを守ればいい。

24時間営業にしても、お客と協力して「夜中は開店休業にします」と宣言してしまえばいい。形式的に開けておいて何もしなければいいのである。本部のいう通りにするためにはバイトをたくさん雇う必要があるのならそれもやめればいい。問題なのは、本部に言われたことを全部やってしまうことなのである。この辺り「決められたことはきちんと守り顔を立てたい」という高度経済成長期の美風がかえって仇になっている様子がわかる。だがこれは労働が長期的に報われていた時代の文化であり、残念ながら過去の遺物だ。

もちろん、こうした受働攻撃性には問題がある。社会のすべてが「ちょっとずつ」頑張れば社会は少しづつよくなる。が、社会のすべてが「ちょっとずつ」反抗すれば、社会は少しずつ悪くなってゆく。だが、社会は問題を認めようとしないし、その環境から逃げ出せもしないという環境では他にやりようがない。

Twitterを10分くらい巡回すれば、今の日本社会には選択肢が少なく受動攻撃性とその怒りで溢れている様子が観察できる。安倍首相も厚生労働省も虚偽を認めながら決して反省はしない。小池百合子東京都知事は築地は守るが市場は作らないと言っている。アイヌ民族は存在せずあれはアイヌ風文化だ主張したマンガを載せた雑誌が売られる。また、女性がセクハラ被害を訴えるのは気持ちに余裕がないからであり、子育てをママが一人でやるのは昔からやってきた当たり前だと言われる。村に守られなくなった日本は慢性的な受動攻撃社会になり、その怒りが新しい炎上を生む。

いったん受働攻撃性が溢れ出すと怒り出すことはとても虚しくなる。この怒りそのものが「受働攻撃者の餌」になってしまうからである。他人が怒っているのをみて「気分がスッとした」経験をしたことがある人は意外と多いのではないか。「あなたは私が問題を指摘した時にはいうことを聞いてくれなかった」だから「今回は私たちの番なのだ」ということであり、これは報復合戦である。こうして管理されない受動攻撃性は社会を徐々に蝕みSNSに乗って拡散する。

今回ほのめかした「受働攻撃性」は行き場のなくなった怒りが自覚のないまま漏れ出てくるという悪性の報復合戦になり得る。例えば今流行っている「バイトテロ」は仲間内だけに見せる反抗が悪意の第三者によって拡散したものなので、これは悪性の受働攻撃性と言えるだろう。自分たちのワンクリックで社会が混乱する様子が面白い人たちが大勢いるのだ。

これを防ぐためにはもう「合理的なサボタージュ」くらいしか道が残っていないのである。選択肢のない閉鎖された社会で我々に残された選択肢は管理された受動攻撃性と管理されない受動攻撃性の二つしかないのかもしれない。

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