今回はあまり細かいことがわからずに書いている。小林よしのりという漫画家の人がアイヌ系日本人は認めていいがアイヌ民族を認めないといっているそうだ。これにアイヌ民族擁護の人たちが噛み付いていた。
これもいわゆる議論の自動化の類である。
これね。「文化人類学の研究によれば」と誤魔化していますけど、これは河野本道の「研究」。ほかの文化人類学者に「民族としてのアイヌは存在しない」は誰一人も言わない。学問も差別に陥ることがあります。@tokky_ura @odayoichiro https://t.co/1RD9qMuPEq pic.twitter.com/GZQqwv5jPh
— Mark Winchester (@archerknewsmit) January 29, 2019
この小林の議論自体は議論を作り需要を喚起するというマーケティングの一環だと思う。解決すべき問題があるわけではなく、戦うことそのものに価値があるのだ。が、議論の根本になっているところは面白いと思う。それは民族国家というあまり使われなくなった概念だ。
もともと西洋から近代国家の概念が入ってきた時、その国家とは民族国家だった。ここから出発すると日本という枠組みに参加できるのは日本民族だけということになる。
日本は帝国として拡大する過程で普通の国とは逆の経路をたどることになってしまった。よその国は民族という概念が曖昧だった時に帝国が形成され、その内部に民族という塊を作ってゆく。だが、日本は民族概念と帝国概念を同時に作る必要があった。そして、結果的に日本人が何かということも天皇が何なのかもうまく定義できなかった。
日本がアジアの民族をまとめる国になり天皇がそれを主導するのか、それとも朝鮮民族を日本民族に統合するのかということが決められなかった。そこで今でも日本に住んでいるが多くの日本人と民族的に違うという意識を持っている人たちをうまく扱えない。だから「なかったこと」にしたいのだろう。
前回、伊勢崎市議の「人権は相続権だ」というめちゃくちゃな議論を見た。これによると、先住権が支配民族であるという要件になる。がこれをアイヌ人に認めてしまうと日本は日本民族だけの国ではなくなってしまう。ということで、あの界隈の人たちはアイヌ系というのは日本人の亜種であり、民族ではありえないと言いたいに違いない。結論に合わせて都合の悪いデータを消してしまうというのはリベラルに言わせると「隠蔽体質」だが、保守の人たちの「理解可能なものだけを取り扱う」という情報処理上の特性を考えるとこう考えるしかなかったということになる。
しかし、彼らがどのような理論武装をしようと、日本は日本人だけのものではなくなりつつある。相撲では日本人はモンゴル人に勝てなくなり、日本出身横綱という苦し紛れの区分が作られる。テニスでは明らかに見た目が異なり日本語もあまり十分ではない大坂なおみ選手が「日本人初の」というタイトルで語られた。だが、日清食品は彼女の異民族性を消そうとして、彼女の肌の色を白く塗ってしまった。工場には中国人労働者が溢れ、工事現場では聞いたことのない言葉が飛び交っているが、我々はこれを見て見ぬ振りをしている。安倍総理はいままでと何も変わりませんと説明し、自分を世話してくれる介護人材がいなくなることを恐れている高齢者は安倍政権を支持し続けている。
もし仮に、小林支持者に議論を挑まれたとしたら、私は勝つ自信がない。知識も十分ではないし、彼らのように嘘をつき続けなければならないというある種の切実さも持っていないからである。さらに彼らはすでに決まった結論を持っていて不都合なデータは決して受け付けようとせず、次から次へと様々な問題を持ち出しては大騒ぎを続けるだろう。検索可能な情報は豊富にあるのだから、ありとあらゆる嘘がつける。
彼らは例えば論敵を醜く描くことで誰かを貶めることには成功するだろう。だが、彼らが議論に勝ったからといって、日本が外国人依存に陥りつつある状態が変わるわけではない。もはや「日本民族」だけでは、日本人が大好きな競争に勝ち続けることができなくなりつつある。それは彼らにとっては負けだが、鏡を見ない限り彼らは決して負けない。
こうした議論は昔から行われているが着地点がない。それは我々が日本人の中でだけ議論をしているからである。自己意識というのは他者との比較の中で芽生えるのだから、我々の中でいかに理想のわたくしたちという像を作ってもそれはファンタジーにしかなりえない。恐ろしいのは「内心(自己内処理)」を意識しないあまりに、無意識の前提として取り入れた「民族国家」という概念が今も「伝統」として錯誤されているという点だろう。主権国家=民族自決という原則は今ではそれほど実効力のある概念ではなくなりつつある。にもかかわらず日本にはまだ民族国家論を前提にして不毛な論陣を形成し、無駄に他の人たちを傷つけようとしている人たちがいるのである。