お気に入りの靴底を安く補修する

昔買ったちょっと高価な靴を持っているのだがちょっと残念な状態になっているという人は多いのではないかと思う。流行りの断捨離をしてもいいのだが、その前に修理を検討してみてはいかがだろうか。かかとが磨り減っている靴が何足かあったので、実際にやってみた。

まず最初に考えたのは100円均一だけで修理するという方法だった。ダイソーには替え用の靴底やボンドが売られている。釘で打ち付けてボンドで接着するようだ。ちょっとしたビジネスシューズならなんとかなりそうだがサイズが選べないのできれいな状態ににはなりそうにない。

Amazonを探した。シューグーという商品とシューズドクターNという商品を見つけた。今回は安かった方のシューズドクターNを選んだ。何足に使えるかはわからないのだが価格は600円とお手頃である。セメダイン社の製品ということでちょっと躊躇した。なんとなくプラモデル用の接着剤メーカーというイメージがあったからだ。

高価なものに使って取り返しがつかなくなるもの嫌なので、まずは捨ててもいいと思っていたスニーカーから試すことにした。

やり方は簡単だ。付属のプラ板をガムテープでくっつけて土手を作り、そこにシューズドクターNを流し込んで行く。固まるまで24時間かかるのだが待ちきれずに12時間くらいでプラ板を外すと乾ききっていないところがあり、そこからシューズドクターNがはみ出してきた。しばらくたつとここが少し割れてしまった。これをちゃんと修理するためには割れたところにシューズドクターNを再度充填しなければならない。

ちょっとてかてかと光り、デコボコした感じが残ったのだが、歩いているうちにゴムと馴染んでくる。一応履けるようになったという感じである。ただ、やはり空洞ができていて、何回か履いているうちにちょっと沈み込んできてしまった。

次にちょっと勇気を出して少し高めのスエードの靴を。本来なら茶色の製品を選ぶべきだが、今回はテストということもあり黒を塗ったので塗った部分がよくわかる。

今回はちゃんと24時間待ったので問題なく仕上がった。だが、靴底が平らになりらなかった。これは充填するときに量をケチったためである。これももう一度塗ってからやり直せばいいのだが、このまま使用している。

この靴はそれほど高い靴ではないので、かかとが脱着できず、磨り減ったら捨てるしかない。実はこうしたやや低価格帯の靴の方がシューズドクターNには向いているのだと思う。

ということでいよいよ本番の靴に試すときが来た。昔デパートで買ったものの擦切れるのが惜しくてあまり履いていない靴がある。少し傷が入っていることから新品ではないことがわかると思う。こうした傷はヤスリをかけて平らにした上で色付けして補修するのだそうだ。

ただ、高い靴の靴底は脱着修理が前提になっているので、駅前にあるミスターミニットなどに持ち込めば修理してくれる。ミスターミニットのラバー張替えは2600円だそうである。靴底を全て張り替えると14000円と少し高価だ。一万円以下の靴はこうした仕組みになっていないものもあるので、実は数万円台の靴の方が長い目で見るとお得かもしれないのである。

あまり履いてはいないのだが、それでも靴底が擦り切れている。歩き方が悪いので後ろだけが擦り切れてしまうのである。あらかじめ二足で練習したこともあって、かなり綺麗に修理することができた。コツは2点だ。

  • 多めに塗っておいてあとでへらでこそぎ落とすとよい。細かいバリはハサミを使って切り取ってヤスリで整える。
  • 出来上がりが見たいからといって焦ってプラ板を取らずにきちんと24時間以上待つ。

後ろの方のデコボコがないところが今回埋めたところである。少しバリが残っている。一応、紙やすりで仕上げることになっているのだが、誰も見ないだろうし、歩いているうちに擦切れるだろうと思う。

この製品は接着剤になっているので、少し開きかけているつま先の部分に塗り込んで開きを抑えることもできた。セメダイン社によると靴底の割れにも使えるそうだ。

一応セメダイン社は「高い靴には使うな」と言っているのだが、多分ビジネスシューズであればシューズドクターNで問題なく対応できるのではないかと思う。

文章だけではわからないよという人が多いと思うのだが、セメダインのチュートリアルビデオを見るとやり方のコツはつかめると思う。お芝居が臭いのと最後のオチが笑えないのが気になる。

このビデオはあまりすり減っていない靴を修理している。製品の説明には4mm以上のすり減りは数回に分けて塗れというようなことが書いてあるのだが、実際には1/3くらい減っていて、すり減りが1cmくらいあっても大丈夫だと思う。

50mlでどれくらいの靴が修理できるのかと思ったのだが、スニーカー・スエードの靴・ビジネスシューズと3組修理してまだ余っているので4組くらいまでは使えると思う。一足あたり200円以下で修理できるということになる。

修理してまで靴を履くというのはなんだか貧乏くさいなあと思ったのだが、今回調べてみて意外と革靴修理の情報は多いということがわかった。道具を手入れして長く使うのがかっこいいと考える男性は意外と多いのかもしれない。

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要望を聞くことの大切さと難しさ

実はアンケート欄が嫌いだった。フォームを設置しても閲覧数ほどにはレスポンスが集まらないので「無視されている」感じがするからである。だが、今回防弾少年団の記事に注目が集まっているので試しに置いてみることにした。検索でたくさんの人が訪問するのだが、いったいどんな気持ちで検索してくるのかがわからなかったからである。

フォームを設置したからといってすべての人の要望がわかるわけではないが、時々フィードバックを求めるのは大切だと思った。しかし、その大切さは当初思っていたのとは少し違っていた。アンケートフォームは読者サービスなのである。

今回のフォームは公共や政治についての態度について聞くものと、防弾少年団の原爆Tシャツ問題について2つ設置した。結果を軽くまとめてみたい。

公共や政治についての態度は当初予想した通り「現状の政治に満足できておらず」なおかつ「政治家は選挙区のことばかり考えているべきではない」というものが多かった。回答数はそれほど多くないので統計的には使えないが、約10名のうち1名は「専門家にまかせるべき」と回答し、自由回答として「課題は有権者が見つけるべきだが、解決策は政治家が作るべき」と書いた人がいた。

防弾少年団の方も約10名の投票があった。謝れという人と日本での活動をするなという人を合わせると80%になった。しかし、アンケートに答えてくれた人のなかで「防弾少年団を非難しようとして情報を集めに来た」との回答は2つしかなかった。擁護する情報が集めたいという人が2つあり、予断なく情報を集めたいとしたものが3つだった。1名は「擁護したいが予断なく情報を集めたい」と複数回答しており、ファンの揺れる気持ちがわかる。アーティストしては応援したいが、日本では原爆に肯定的な意見はほとんどないので、被害者感情が優先されるべきだろうという気持ちが強いのだろう。

防弾少年団のフォームを作った時トピックに関する意見を聞こうと一問だけの設置にしたのだが、少し時間が経過してから思い立って「なぜ検索してきたのか」という設問を設けた。最初の設問はトピックに焦点が当たっているのだが、置いてから、新しく加えた設問は「あなた」に焦点が当たっているという違いがあるなと思った。これが今回の一番大きな発見だった。

普段「日本人は議論ができない」と書いていることからわかるように、どちらかといえばトピック型人間で、あまり誰が言っているのかということは重要だとは思っていない。むしろ、誰が言ったから受け入れて、誰がいったから受け入れないという態度は問題解決には不向きだとすら考えている。ところが、実際に読んでくださっている人はやはり文脈を意識しているはずで、だからこそ自分の文脈が表明できるならそれを記録に残しておきたいという人もいるのだろう。つまり、文章を書くなら自分の考えを述べてもよいのだが、フィードバックフォームは相手のフレームワークを分析したり気持ちに共感したりしないと作れないということになる。

当たり前のことを書いているように思えるかもしれないのだが、こういうことになかなか気づけないのである。なんでも試行錯誤してやってみないとダメなんだなと思った。アンケートフォームを置いて「なんだフィードバックがないじゃないか」と感じると無視されているように思ってしまう。だからあまりコメントやアンケートは重視しなかったのだが、一人でも「こういうものを期待して読みに来た」と言いたい人がいるならば、時間をもらって読んでいただいている以上はそれを知った方が良いのかもしれない。

まとめると、アンケートは「トピックについての態度や意見」について聞くものではなく、実は「訪問してくれた人のことを知りたいと思っているのですよ」という態度の表明にもなるのだなと発見できたということになる。これは本や雑誌にはないITならではの特徴だ。

ただし、レスポンスが得られたという感動に浸ってばかりもいられない。今回は失敗も多かった。

当初、冒頭にアンケートを置いて滞在時間が減った。特にスマホの画面だと「限られた時間で効率的に情報だけ収集したい」と考える人が多いのだろう。こういう人は冒頭に面倒なアンケートが置かれると逃げていってしまうのではないかと思う。ということで、途中で位置を下げた。

まず、設問をチェックボックスにしてしまったので、複数回答が可能になってしまった。もちろん、途中で質問を一つ足すというのも、統計を取るためには正しくない判断だ。

また、選択制の設問だけでなく、テキストの入力にも対応している。イベントの予定を立てるために日付を入力してもらうことも可能である。自分が投票してしまうとテストができないとぶっつけ本番でやったのだが、よく考えてみると単にテストフォームを作ればいいだけだった。事前に練習すればよかったと反省もした。

さらにGoogleフォーム独自の限界もある。

今回はメールアドレスを取得していない(取得すると管理の手間が出てくる)ので、一人が何回も回答できる。設定上回答してくれた人には結果が見えるようにしているのだが、それでもブラウザからバックボタンで戻ってフォームを再送信すると二回カウントされる。またブラウザーを変えたりCookieを消去したりすれば何回も投票が可能だと思う。場合によっては、悪意のある第三者が結果を誘導することもできるようになるだろう。

今回使ったGoogleフォームは簡単にアンケートが設置できて便利なのだが、答えなかった人に結果だけを自動表示してくれるような機能はない。ブログの場合いつアンケートを閉じるのかという問題もあり、答えていない人には何人が投票してくれたのか、またどういう傾向になっているのかがわからない。このため期間を限定して質問した上で、結果は別ページに掲載するなどの運用上の工夫も必要なものと思われる。

ただ、Googleは、Googleフォームを、レジャーの計画を立てたり、イベントのフィードバックのために利用することを想定しているようだ。

先に述べたように、政治的主張の正しさを正当化するために「みんなこう言っていますよ」と言いたい欲求はある。ただし、それをやってしまうといわゆる「アンチ」と呼ばれる人が投票を荒らしに来ることもあるだろう。また、書き手としてはつねに「褒めて欲しい」という欲求はあるが、これも評価フォームを置いて結果が期待通りでないとかなり落ち込むことになるだろう。あくまでも「相手の声を聞く」という姿勢でやらないとアンケートフォームはうまく機能しないのではないかと思う。

だが、それでもきちんと使えばある程度読み手の期待は感じられるのではないかと思う。課題も多かったが設置してよかったと思う。ご協力いただいたい方々には感謝したい。

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日本には村があっても公共がない

Twitterでメンションされた。「きっとお前は知らないだろうから広めてくれ」というようなことだったのではないかと思う。アメリカと岸の間で核兵器持ち込みの密約があったというのだ。一応読んでみて確かにこういうことがあったのかもしれないとは思った。でも密約なので日本側が「聞いていない」とか「もうやりたくない」といえばすむだけの話だろう。トランプ大統領はもっとおおっぴらにちゃぶ台返しをしているのだから、やってできないことはない。要は日本側にその意思がないのである。

だが、時々こういう「誰にも知られていないがひどい話」を訴える人をTwitterでみかける。何かの問題に火をつけたいと思っている人は多いのではないだろうか。最近では築地・豊洲の問題で「マスコミが伝えてくれない」というようなTweetが多かった。難民申請者の人権無視の問題ももう長い間「マスコミの関心が向かない」というようなツイートがあり、今回の入管法改正の問題(このブログでは奴隷輸入法案として少し煽った)はこの話にスポットライトを当てるきっかけになるはずだっったのだが、実際にはそうはならなかった。

それでも訴えたいことがある人のTweetに目を通してRetweetしたりはしている。しかし例えば築地豊洲の問題を見ているとそれに反応するのは「一部の界隈の人だけ」になってしまっている。どうやらある種のコミュニティができつつあるのではないかと思う。そして、これが誰か特定の人の問題になってしまうと、他の人たちは「彼らがなんとかしてくれるだろう」と考えて興味を持たなくなってしまうのである。人権の問題も「あの界隈の人たちが騒いでくれる」というような見込みがある。

本当に目を向けて欲しい問題について、広がりを持った人々の興味や関心を惹きつけるにはどうしたらいいのかということを考えた。解決策は思い浮かばなかったのだが、やはり公共という問題に戻ってきてしまった。日本人がこの問題を解決しない限り、自らの手で解決策を導き出すのは難しいのかもしれないと思う。

外から政治・経済ネタを書いていて思うのだが、政治・経済エリアの関心時は大きく二つに大きく分かれている。

今、参議院予算委員会を聞きながらこの記事を書いているのだが、自民党の関心事は「テレビ中継のある場所でどれだけ予算確保にお墨付きをもらえるのか」というものだ。日本人は公共を信じないので「自分が関係している村がどれくらい利権をもらえるか」だけが政治への関心事である。「イノベーティブな新しい技術があるのだが、それを実現するためには国の援助が必要」というような議論になっている。イノベーティブな技術ならすでに市場を通じて買い手がついているはずで、国に援助を求めるというのは、あまり見込みがないということである。そこで時間が余ると整備新幹線と高速道路が欲しいという。おらが村にも水を引いてくださいということだ。だが、財政再建の話はでてこないし、消費税でさらに国民に負担をさせるのだからどう切り詰めて行こうかという話にもならない。つまり、借金でもなんでもして足りなければ消費税をとってもっとばら撒けと言っている。今の国会議論はアル中になった人がもっとお酒をくださいというのに似ているのである。

一度虚心坦懐に国会議論を聞いてみればいいと思う。村が大変なので少ない水を自分の田畑に引き込みたい気持ちはわかる。しかし、そこに雨を降らせるのは一体誰なのだろうか。雨は自然と降ってくる。降らないなら借金をして降らせばいいし、人が足りないなら外国から連れて来ればいいというのが今の日本の政治議論だ。では全体の問題は一体誰が考えるのだろうか。天から救済策が降ってくると思っているようにしか見えない。

一方で村ではないところで感心を呼んでいるトピックがある。最近、このウェブサイトへのアクセスが増えているのは「自己責任」と「BTSの原爆Tシャツ」である。自己責任の記事の内容はちょっと忘れてしまったのだが、イラク人質事件を非難するために「自己責任」という用語が発明されたという説をご紹介したのではないかと思う。最近、小池百合子が使い始めたという週刊文春の記事が話題になっているので、また検索されているのだろう。BTS(防弾少年団)の原爆Tシャツ問題は国連で演説をして話題になっている防弾少年団のメンバーであるジミンが原爆を正当化するTシャツを着ていたという問題である。

この自己責任論とBTSの問題には共通するのは誰かに引き立てられている人を引き摺り下ろしたいという欲求だ。非難するためのお話を自前で構築するのも面倒なので筋道の立ったお話を求める人が多いのだろう。

政治課題はこのように二つの使われ方をしている。一方で村への水の引き込みがある。しかし、多くの人はもう村には属していない。その不安や苛立ちを誰かを引き摺り下ろすことでなんとかおさめようとしている人が多いのだろう。日常的に渋谷のハロウィーンが行われていると考えてよいのではないだろうか。

自己責任論問題で叩かれるのは組織の後ろ盾のない安田さんというジャーナリストである。フリーのジャーナリストというとなんとなく怪しい感じするし、組織に縛られずやりたいことだけやっている人には失敗して欲しいという気持ちがあるのだろう。一方、BTSもアメリカのビルボードで一位を取り国連で演説をしたBTSが羨ましいという気持ちがあるのではないだろうか。

いろいろ考えたのだが、日本人が政治課題に関心が持てず、かといって今の暮らしにも満足できないのは、自分たちで理想とする社会を描けないからだと思った。そもそも社会を自前で構築するという概念がなければそれは作れない。そして最初から立派な社会は築けないだろう。最初の一歩はとても小さなものになるはずである。

一般には公共(パブリック)というのだが、日本人は漢字の意味合いにとらわれている。公が「おおやけ」と読まれると、それは人々ではなく支配する側の社会や国家を意味する。みやけが天皇の家を意味するところから「やけ」にはそういう意味合いがあるのだろう。一方、英語のパブリックは人々のという意味のラテン語からきており人々が作り出すものだ。英語で公衆酒場をパブというところからそれがわかる。

同じように競争も意味が脱落した翻訳語になっている。英語のcompeteは共に+目的というラテン語の複合語が由来だそうだ。そこから人々が協力したり競い合ったりするという意味が生まれた。しかし元からあった日本語は競い+争うなので、協力という意味合いがない。このためTwitterには「日本人が競争すると足の引っ張り合いになる」と指摘する人がいた。過去にスパイト理論について調べたことがあるのだが、この指摘はある程度当たっていると思う。

そもそも日本人はまだ「自分たちの居心地の良い社会を共に協力したり競い合ったりして作って行こう」という気持ちが持てない。だからどんなに訪ね歩いても日本人から公共についての説明は得られないのである。

近視眼的に考えると、自分に関係のない問題に日本人を惹きつけるには、叩ける犬を探してきてそれを叩けば良いと思うのだが問題は全く解決しないだろう。その状態では、誰かが問題を解決しようと動くとそこに「ゴミを投げ入れるように」問題を捨てに来る人たちが出てくるようになるからだ。

一般の善意で作られた子供食堂に政治家が群がり、捨てられたペットを救済している人のところに新しいペットが捨てられる。これは村と村の境目にある誰のものでもない土地にゴミが捨てられるのと同じ感覚である。利権誘導以外の政治課題もネガティブな感情を匿名で捨てるゴミ捨て場になっている。

まともに問題を解決しようと思えば社会は与えられるものではなく、自ら作るものだという認識を持たなければならない。だが「社会という立派なものは誰かが与えてくれるはず」とか「世の中を変えてくれる興味関心というものはマスコミが作り出してくれるまで待つしかない」と考えているばかりでは、それはいつまでたっても実現しそうにない。限界は多分自分たちの気持ちの中似あるのではないだろうか。

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韓国の国民情緒法と日本の改憲議論の共通性

朝日新聞が韓国の国民情緒法を批判する記事を掲載し話題になっている。かなり扇情的な内容になっているのだが、主語が「関係者」となっており、どのような立場の人が発言したのかがわからない。つまり民主主義というのは国民感情に合わせていると言っているのか、それとも国民情緒で法理が歪められていることを否定しているのかがわからないのである。だが、修辞が見事なために一人歩きしやすい文章になっており、様々な立場の人が「国民情緒法」という言葉を好き勝手に利用している。

韓国では大統領が司法機関を含む人事や予算などの権限を一手に握り、「皇帝と国王の力を足したほどの権力」(大統領府の勤務経験者)を持つ。半面、その政治が世論に迎合しやすい例えとして、「法の上に『国民情緒法』がある」ともいわれる。今回も、世論の支持を得るための政治ゲームに徴用工問題が巻き込まれたとも言える。

国民情緒法は韓国憲法の上位にあるとされる民意のことである。軍事政権を経てデモで民主化を達成した韓国では国民感情が一気に燃え上がることがある。それが政権さえ転覆させることもあり、政権といえどもそれを無視できないと考えられている。その一方で、国民世論があるから仕方がないという言い訳のためにも使える便利な言葉でもある。朝日新聞は国民情緒法に従った司法が間違った判断を下したと言いたいのだろうが、実はベクトルは逆かもしれない。つまり権力が世論に訴えかけるためにこれを利用したかもしれない。つまり革新政権が正当性を示し続けるためには保守を否定するのが一番なのである。

すでに見たように、今回の問題の原点になっているのは朴正煕大統領の対日処理の否定である。クーデターで成立した朴正煕には正当性がない。政権を安定させるために、ベトナム戦争に参加してアメリカの関心を買おうとしたり、日本からの実質的な賠償金を得ることで国内経済を活性化しようとした。アメリカがこれを容認したのは共産主義との闘いを優先したからである。韓国を経済的に豊かにし、日本との関係も改善する必要があったのだ。このため民主主義の理想は棚上げされ、矛盾した状態が固定化することになる。これが今回の「パンドラの箱」の中身だ。

長年韓国の保守政権は朴正煕の経済優先路線を継承してきた。つまり、日帝強占からの独立を国家の正当性を示すために利用しつつ、経済大国としての日本も利用してきたわけである。ところが本質的には矛盾してしまうので、行政と司法を分けることでなんとなく処理してきた。

現在の安倍政権でも同じような構造が見られる。日本はもともと軍事的に無力化される予定だったのだが、朝鮮戦争が始まりそうも言っていられなくなった。このため憲法と自衛隊の間には矛盾がある。実質的に世界屈指の軍隊なのだが憲法上は認められていない。

もう一つの矛盾が憲法そのものである。この制定に参加できなかったとして不服を申し立てる国内勢力がいるのだ。

安倍政権が憲法を改正したいのは、これがおじいちゃんの仇である吉田一派によって作られたからだ。もともと旧政権で重要な役割を果たした岸信介らはこの交渉に加わることができなかった。彼らはアメリカの意向を背景に保守本流を名乗った。さらに岸の一派(保守傍流と呼ばれる)は、体制を保証してくれるアメリカと民主主義を導入したアメリカを分離する傾向にある。アメリカとの軍事同盟は是認するが天賦人権は左派的すぎて認められないという具合だ。旧社会党系野党は自衛隊までは認めるがアメリカとの軍事強調には巻き込まれたくないという立場を取っている。これは韓国が日本を「日帝」と「経済協力国」という二つの姿に分離してなんとなく折り合わせてきたのに似ている。

一つの対象をいくつかに分離して文脈の解釈で処理するというのが共通点である。この解釈ができる人たちのことを権力者と言っている。「解釈」は書かれたものや実態に優先するというのが文脈主義なのである。日本の契約書の最後には「問題が起こった時には双方でよく話し合うこと」という条項が入れられている。そして契約書そのものはアメリカのような文脈非依存の国より短くなる。

憲法にしろ国家間協定にしろその上にいろいろなものが積み上がってゆく。ここで、韓国国内の文脈によって65年協定が覆るようなことがあれば日韓関係はめちゃくちゃになってしまうだろう。それが今起こりつつある。

だが、この変化の背景にアメリカの変化を見ることは容易い。アメリカは中国をかつてのように絶対的な敵とは見ておらず、コンペティターだと考えている。ゆえに極東に同盟国を置く理由もかつてのような絶対的なものからディールの一部に変わってきている。この顔色を見て今まで押さえつけてきたものが浮かび上がったというのが今日本と韓国で起こっていることなのだろう。「国民情緒法による民主主義の未成熟」というわかりやすい図式を安易に入れてしまうと、この簡単な図式が見えなくなる。一方、日本の改憲運動も「安倍が戦争をしたがっている」と考えるとわからなくなることが多い。

これまで、アメリカはマネージャーとしての役割を果たしてきたのだが、トランプ大統領はプレイヤーとして参加することが増えている。ということは日本のアメリカに対する姿勢も変わらなければならないということである。

これを真面目に考え出すと、国のあり方は変わらなければならないということになり、憲法の書き換えだけの問題ではなくなるのだろう。しかし、変化が起こっているということも見えにくい上に、当事者たちの意識も変わらないので、具体的にどのような変化があり、それに対して何をすべきなのかも見えてこない。

護憲の立場をとると、憲法をおもちゃにし国民の人権を制限したいという自民党の憲法改正を論議を容認するわけには行かないだろう。だが、そこに止まることなく「なぜ民主主義が守られるべきなのか」ということを自分たちの言葉で語れるようにならなければならない。代理で守ってくれる人はもういないのだ。一方、逆に国を守る保守の立場をとると、我々はアメリカが極東に同盟国を置く理由が変化しつつある状態に対応しなければならない。アメリカが日本という国を自動的に守ってくれる時代は終わったということだ。

これを読んでいる人がどちらの立場をとる人たちなのかはわからないのだが、少なくとも「相手がバカだから間違った判断をした」という地点に止まってしまうと見えなくなることもあるということは知っておいて良いのではないだろうか。いろいろやるべきことはありそうだが、まずはそこからだろう。

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