アメリカ人はどれくらい議論をするのか

Twitterを見ながら今日は何について書こうかなと思っていたところ、日本人と議論についてのつぶやきを見つけた。多分テイラー・スウィフトを見た感想だと思う。テイラー・スウィフトの表明でリベラル系の登録者が増えたとされているので、それを日本でも広めるべきだという意見がある。それをやっかんだ人が「日本の芸能人は政治的に意見を言わないといっているが、普通の日本人でも政治的な話はしないだろう」というような意味の書き込みをしていたというわけである。

確かによくある議論で、これを一般化して「日本人は議論をしない」という話をよく目にする。ではアメリカ人はよく政治的議論をするのだろうか。だとしたらアメリカ人は何のために議論をするのか。

アメリカの地上波は昼にソープオペラと呼ばれる主婦向けの番組を流し、夕方にはニュースをやる。その間を埋めている番組の一つにオプラウィンフリーショーという番組があった。1986年から2011年まで放送されていたそうである。Wikipediaではトークショーとして紹介されているのだが、このトークの内容が実は議論担っているものが多い。だが、やはりこれは討論番組ではない。

試しにYouTubeで「the oprah winfrey show discussion」と検索してみた。議論には本の作者が持論を展開するもの、政治家が批判に答えるもの、普通の人たちが自分の体験について語るものなどさまざまな形式のものがある。英語がわからなくても「喧嘩をしている」ように見えるものがあるはずだ。意見が別れる(英語ではcontroversialという)見解をよく扱うのが、オペラウィンフリーショーの特徴だった。

例えばこの議論では、ムスリムのアメリカ人が9.11のあとに自身の体験を語っている。この後、ブッシュ大統領はこの時の憎悪感情をナショナリズムに利用し中東への戦争へと傾いてゆくのだが、その前夜といえる。

彼らは訓練された人たちではない。途中でオプラ・ウィンフリーがムスリムの人たちに拍手されるところがあるが彼女は「普通の白人のアメリカ人」に「あなたの考えるアメリカって何なの?」と聞いているからだ。つまり、司会者は政治的に中立のポジションを取っていない。

この番組帯を見ているのは主に昼間に家庭にいる主婦か子供である。つまり「普通の人」が議論している番組を「普通の人」が見るのがアメリカなのだ。そして彼らはControversialだから見る価値があると感じている。それくらいアメリカ人は対話が好きであり、対話は議論になる。

対話が結果的に議論になるというのがアメリカの特徴なら、対話そのものが起こらないのが日本式である。このために日本では本音を語らせるために議論の体裁をとるという手法が考えられたが、それでも誰も本音を語ることはなかった。例えば田原総一郎の朝まで生テレビでは「訓練された」人たちが「議論をするために」集まってきて「議論が好きな人」が見るという番組になった。つまり議論はお金を貰うための道具であり、相手に理解を求めたり社会的な解決策を導き出すための手段ではないのだ。

また、議論をしていると自然と「リベラル対保守」のような枠組みが作られる。他人に鑑賞してもらう議論なのでキャラを作る必要があり、そのキャラと技術を品評するのが日本の議論と言えるだろう。朝生の議論はこの過程で曲芸化してゆく。ここからネトウヨ雑誌のスターがうまれ、これが政治的に取り入れられたのが「ご飯論法」である。それ自体が曲芸であり鑑賞の対象なのだが、そもそも国会はショーではない。

アメリカ人は対話のために議論をする。つまり彼らには解決したい問題がある。もう一つ重要なのは民主主義国家では一つの共存すべき空間があるということだ。これを「公共」と呼んでいる。日本に議論がないのは、共存すべき空間がないからである。お互いに村に住んでおり資源の奪い合いや譲り合いが起きているので、そもそも対話も議論も発達しない。

「みんなが好き勝手にいろいろ言い出したら収拾がつかなくなるのでは」と恐れる人たちも出てくるのではないかと思う。それは日本にはマネジメントスタイルが三つしかないからだ。

  • 「昔からそうなっている」:つまり、自分の前の担当者はそうやっており、自分もその真似をしてやっているということである。その前はどうなっていたのかはわからない。
  • 「みんなそう言っている」:居酒屋で愚痴交じりに文句を言ったら同僚の一人が同調してくれたので、多分みんなもそう思っているのだろう。
  • 「コミュニケーションを円滑にしろ」:専門分野の細かいことは俺にはわからないから、現場で適当に話し合って解決しろ。俺は成果だけがほしいのであって、お前らの保護者ではない。

だから、日本のマネジメントスタイルの根本は「みんなに我慢させること」である。マネージャーは自分が知っているやり方でしか組織が管理できない。だからそこから外れたことがあっても我慢して文句を言うなとしか言えないのだ。

しかし、議論は何も政治的なことばかりではない。日常生活の中にも議論はある。

昔みたフレンズのエピソードの中でスターバックスを念頭に置いたセリフがあったのを思い出した。スターバックスでは短い時間の間にカフェイン入りにするかそれともカフェインなしにするかとか、ミルクは普通のミルクにするかソイミルクにするかなど様々な選択を迫られるというのである。つまり、こうした選択にプレッシャーを感じている人もいるということになる。さらにその選択によってこの人はつまらない人だなど評価される可能性もある。デキャフを選んだ人はその理由を他人に説明しなければならないし、それも議論の対象になる可能性があるということだ。選択は価値観を意味し、それはその人の本質だと見なされる。表明されない意見には意味がないというのものアメリカ式だ。

このフッテージではロスがフィービーに「進化は確かな科学的真実である」と説得しようとしている。最終的にはロスがフィービーに説得されてしまうのだが「あなたの信念ってそんなものだったの?」とからかわれるというのがオチになっている。

https://www.youtube.com/watch?v=cXr2kF0zEgI

こちらでは、ファーストキスがどれくらい大切かについて男性と女性との間で意見の隔りがある。男性が女性に同意する必要はないが、それでは「彼女ができなくなる」と脅かされている。ここでいうコメディアンはコンサートの前座のことである。

フレンズには様々な議論が出てくるが大抵はくだらないものであり、理由付けも雑なものが多い。それでも、自分の言いたいことを言って、お互いに心地よい空間を作ってゆくのが友達であるという前提がある。だが、日本のマネジメントは友達の間であっても基本的には「我慢する」ことなので、誰かが自己主張を始めたらみんなで足を引っ張って潰してしまう。「話が崩れる」とか「しらける」というのがそれである。日本人は意見が違う人を見ただけで「自分は否定された」と感じてしまう。アメリカ人はお互いを理解し合うのが友達だが、日本人は君は間違っていないと相互承認して慰めあうのが友達である。

さらに、自分に関係がない空間がどうなっても構わないので、Twitterのような空間でだれかが自己主張をすると、ご飯論法などを交えながら「お前が言っていることは実にくだらない」といって潰そうとするのである。普段から我慢しているので、相手の意見だけが通ると「損をした」と感じてしまうからだろう。

このことから日本人は言語や脳の構造が非論理的だから議論ができないわけでなく、そもそも対話そのものが成立しにくいということがわかる。このような状態で不特定多数の好感度を前提とするテレビタレントが特定の政治的ポジションを取れないのは当たり前だ。タレントとは相手の好ましい思い込みが商品になっているので、それをつぶすようなことは言えないのである。

しかし「アメリカがこうだから未来永劫アメリカ人は対話や議論が得意」ということにはならない。

今回ご紹介したプレゼンテーションでは普通のアメリカ人が「それは本来のアメリカでない」として集団に沈黙させられてしまっている。この「普通のアメリカ人」を代弁したのが実はトランプ大統領だったのだろう。トランプ大統領は小学生のように腕をぶんぶんと振り回して「そんなのは全部デタラメだ」と主張して、これまで発言できなかった「普通のアメリカ人」を満足させた。

逆に日本では「普通の日本人は政治的な発言をしない」ということになっているが、これも大きな揺り戻しを経験する可能性がある。安倍政権化の数年間でわかりやすく政治が劣化しているからである。

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豊洲移転騒動の原因となった対話できない私たちの社会

豊洲が新市場に移転した。この報道を見ていて最初は「報道管制があるのでは」と思った。だが、しばらくワイドショーを見ていてそうではないということがわかった。これをTwitterでは「制作会社の内戦状態だ」と表現する人がいた。テレビ局がある視点を持って問題を追っているわけではなく、各制作班がバラバラに情報を追っているのである。

よく我々は「テレビが情報を統制している」とか「あの局は偏っている」などということがあるのだが、実は今のテレビ局は自分たちが何をして良いのかがわからなくなっているのではないだろうか。かつてはテレビ局の中に村があって、その村の意見がそのままテレビ局の意見になっていた。SNSがないので全国民がこの「村の意見」を一方的に聞くしかなかったので、結果的にテレビ局は国民の意見形成に影響を持つことができた。だが、この村がなくなることで、私たちの社会は共通認識を持つ能力を失った。あるいは最初からそんなものはなかったのかもしれない。

現在でも例えば「与党対野党」というようなはっきりした構図があるものは意見がまとまりやすい。永田町記者クラブという村の意見がそのまま全国の意見になるからだろう。しかし、築地・豊洲のような「新しい問題」には対処できない。築地・豊洲問題には核になるお話を作れる村がないからである。

実はこの問題は豊洲の混乱そのものともつながっている。豊洲は明らかに目的意識が異なる3種類の人たちがそれぞれの物語に固執しつつ「どうせわかってもらえない」という諦めを持ったままで仕事をしている。これは結果的には経営の失敗を生む。端的にいえば数年後に東京都民は「市場会計の赤字」という問題を抱えるはずだ。すでにこれを指摘している識者もおり、テレビ局の中にはこれを理解している人たちもいる。しかし、その認識が全体に広がることはなく、問題が具体化した時に「想定外」の新しい問題として白々しく伝えられるはずである。

今回は主にフジテレビとTBSを見た。まず朝のフジテレビは「今日は豊洲への市場移転だ」というお祭り感を演出しているような印象があった。若い藤井アナのたどたどしいレポートをベテランの三宅アナが盛り上げるという図式で演出していたのだが、手慣れた三宅アナが盛り上げようとするたびに虚しさだけが伝わってくる。

だがこの目論見はうまく行かなかった。まず渋滞があり、続いてターレが火を吹いたからだ。小池都知事もいつものように前に出てくる感じではなく「早く終わって欲しい」という感じが出ていた。彼女のおざなりな感じは短いスカートに現れているように思えた。気合を入れたい時には戦闘服と呼ばれる服装になるのだが、どうでもいい時にはどうでも良い格好をしてしまうのである。

この時点からTwitterではネガティブな情報が出ていた。まるで世界には二つの豊洲新市場があるような状態に陥っており、マスコミが「嘘をついている」という感じが蔓延していた。実際には「お祭り感を演出して無難に終わらせたい」東京都の意向を受けたテレビ局と現場の対立が二つの異なる世界を作っているように思えた。

午前中は、TBSも豊洲を推進する立場からの放送をしているように見えた。恵俊彰の番組では「2年の間すったもんだがあったが、全て解決した」という態度が貫かれており、早く終わらせて次に行きましょうというような感じになっていた。八代英輝という弁護士のやる気のないコメントがこの「事務処理感」を効果的に際立たせる。

いつも「俺が俺が」と前に出てくる恵俊彰は一生懸命に「豊洲に移転できてよかったですね」感を演出していたのだが、専門家や業者さんたちの様子は冷静だった。彼らは問題があることも知っているのだが、ことさら移転に反対という立場でもなさそうだ。恵俊彰が得意とする、下手な台本を根性で料理しようとする感じが床から0.5cmくらい浮いていた。彼らは時に「体制派なのでは」と誤解されることが多いのだが、実は何も考えていないんじゃないだろうかと思う。

様子が変わったのは午後のフジテレビだった。安藤優子らが問題のある豊洲について報じていたのである。朝の情報番組とは様子が全く変わっているので、テレビ局としての統一見解はないのだと思った。この番組は視聴率があまり芳しくないようなので取材に人が割けない。彼らはTwitterで拾ったような情報を紹介して「問題が起きている」というようなことを言っていた。TBSでは築地に人が残っていざこざが起きたことも紹介されていた。

面白いのは安藤優子が長年の勘で問題をかすっていたところだった。「除湿機がないならおけばいいじゃない」と言っていた。聞いた時にはバカバカしい戯言だと思ったのだが、実はこれが本質なのだ。週刊文春を読むとわかるのだが、実は安藤のアイディアは一度採用されていたが「通行の邪魔になる」として撤去されていた。そして文春はなぜそうなったのかについては分析していなかった。安藤の不幸はこの「ジャーナリストの勘」を深掘りしてくれる人がいないという点だろう。意識低い系ジャーナリストである大村正樹には興味がない。

この市場はコールドチェーンとユビキタスを売り物にした市場建築である。これも広く指摘されているが、簡単にいえば巨大な冷蔵庫である。冷蔵庫が冷蔵庫として成り立つためにはドアがいつも閉じられている必要がある。しかし、これまでのオープンな築地に慣れている人たちはこれを理解していない。このため冷蔵庫のドアは開きっぱなしになってしまう。そこで温度湿度管理がめちゃくちゃになるという具合である。ユビキタスに関しては理解さえされないだろう。コンピュータで在庫管理できてレシピも検索できる冷蔵庫が主婦に理解されないのと同じことである。つまり、そんなものは売れないのだ。売れないからユーザーのいうことを聞かずにとりあえず作って押し付けたのかもしれない。

多分、フジテレビは当初東京都のオフィシャルな人たちからしか情報を取っておらず、午後はこれにTwitter情報が加わったのだろう。これを全く分析することなしに単に紹介して「報道した」ような空気を作っているわけである。さらに安藤優子の番組と小倉智昭の番組には人的交流がないのではないだろうか。小倉の番組に出ている識者の中には経営問題を指摘している人もいるので、彼らが交流していればこの「冷蔵庫の失敗」に気がつけていたと思う。が、彼らにはもはや目の前で起きていることから学ぶという能力はない。能力が低いわけではないと思う。だがお互いに話をしないのだろう。

豊洲で温度湿度管理がうまくゆかず、道路渋滞で近づくことすらできなければ、他の市場から魚の買い付けをする人が増えるはずだ。実はこれも情報が錯綜している。自分が指摘したから通行が改善されて問題がなくなったのだと主張する記者や、噂が広がり豊洲離れが始まっているとする「一般業者」の声を伝える人たちもいる。

すでに週刊ダイヤモンドが指摘している通り豊洲市場は物流量がV時回復することを前提として経営計画が作られている。ところが実際には品質管理の問題と周辺の道路事情の問題などから「豊洲離れ」が起きかねない状況になっている。これを築地の売却益(もしくは運用益)だけで穴埋めし続けることはできないのだから、将来的には東京都は「これをどう穴埋めするか」という問題に直面する。しかしその時には担当者も(多分都知事も)変わってしまっているので誰も責任を取ることはないだろう。

テレビ報道の混乱だけを見ていると問題がよくわからないのだが、週刊誌情報を入れると実はそれほど難しい問題が起きているわけでもなさそうだ。多分、東京都は当初「コンピュータで物流管理された巨大な冷蔵庫」というコンセプトを持っていたのだろう。ただこれを「ユビキタス社会に適用したコールドチェーン」と格好をつけて言ってしまったために誰にも理解されなかった。さらにここに「巨大なバカの壁」である小池百合子都知事が登場したことでさらにややこしくなる。小池さんは自分でも理解できない専門用語をニコニコと語るのが大好きなのである。

しかし、築地の現場の人たちが「巨大な冷蔵庫」を欲しがっていたとは思えない。彼らが欲しかったのは「今まで通りに好き勝手に出来る柔軟なスペース」である。多分、壁や柱などは直して欲しいとは思っていたのだろうが、それ以上のことは望んでいなかっただろうし、ハイテク冷蔵庫はお金もかかるので小口の業者がついて行けなくなるだろうなという予測は立ったはずだ。

政治家はそもそも、これが冷蔵庫だろうがこれまで通りの市場だろうがそんなことはどうでもいい。彼らは「銀座の隣にある平屋の土地」が地上げできたら自分の懐にはいくら入ってくるだろうということを夜な夜な会議室や料亭で考えるのが好きなのである。なぜ彼らがそれに惹きつけられるのかはわからないが、多分それが好きだからなのではないだろうか。高級なお酒やお寿司の味が美味しく感じられるのだろうが、それが誰の手で作られているのかというところにまでは関心が及ばない。

テレビ局の関心は視聴率だけなので、何のために情報番組を作るのかという意欲や方向性は失われている。だからお互いには競争の意識は働いても協力の意欲はない。ところが、取材対象である東京都と市場関係者の間にも意思疎通がなくなっている。つまり、理由はわからないが、日本全体で同じような「協力し合わない」という問題が起きていることになる。

社会に共通認識がないゆえに築地・豊洲問題には正解がないのだが、市場離れだけは確実に進んで行く。だから、最終的に東京都民の目の前には巨額の請求書が突きつけられるはずである。

この問題は共通認識を持てなくなってしまった社会の混乱がそのままの形で「プレゼン」されていると考えるとわかりやすい。目の前に見える景色は単なるカオスである。このまま進めば同じことがオリンピックでも起こるはずであり、その混乱は国際社会を巻き込んださらに大きなものになるだろう。

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ネトウヨおじさんと日本の学校教育の欠陥

今日のお話はネトウヨと日本の学校教育の欠陥についてである。誰にでも(もちろん私にも)当てはまるところがあるので、自分ごととして読んでいただきたい。

ある人がTwitterで池上彰に噛み付いていた。池上彰が「国が借金をし続けたらお金が消えてなくなる」と言っているというのだ。添付してあるビデオを見てみたのだが、そんなことは言っていないのでそうリツイートした。するとツイートした本人からフォローされた上で「直接は言っていないが池上彰は確かに貯金が消えると言っている」と主張する。本人は続けて「こんなことはお金が消えてなくならない限り起こらない」と言うツイートを送ってきた。

この時点でこの人がわからない点がわかった。お金が消えてなくならなくても価値が失われるということが起こり得るのだが、その可能性に気がついていないようだ。国が個人から一千万円の借金があったとして、それが「一夜のうちに」千円分の価値しかなくなれば、実質的に国は借金が軽くなり、国民は財産を失う。これを一般的にハイパーインフレと呼んでいる。ハイパーインフレは課税の別形式(あるいは実質上の政府課税)と言われることがある。

池上彰はかつて日本で起きたハイパーインフレを念頭に置いているのだと思う。が、池上には失念していることがあるようだ。つまり、これを知らない人が脳内の常識で「勝手に」穴埋めしてしまう可能性を忘れているのだろう。何も知らないのがあたりまえの子供には起こらないが、大人は「予断を持つ」ことがあるのだ。

日本は第二次世界大戦の時に軍票を印刷して戦費を調達したので戦後になってハイパーインフレと財産課税が起きた。Wikipediaでは敗戦の混乱からハイパーインフレが起きたと説明しているが、Diamond Onlineにもうすこし分かりやすい説明があった。戦前から返せる見込みがない金融政策が行われており、戦後になって破綻が表面化したと説明している。ただし、これでも金融は安定しなかった。そこでアメリカから専門家が呼ばれて急激な財政緊縮を行われた。この緊縮財政をドッジラインと呼ぶ。この一連の出来事が安倍政権が2012年に政権を取った時に話題になったので、池上はこれを「当然のことであり興味がある人は理解した上で知っているだろう」として議事を進めているのだ。

だが知ってはいても内容を理解していない人もいるということになる。実際に安倍政権の側からは「日銀が面倒を見てくれれば消費税増税さえも必要がない」という主張が出ているし、自由党も「今は財政出動だ」と言っている。これは言い換えれば「政府がなんとかしてファイナンスしろ」と言っているのと同じである。この副作用に言及せずに支持できる人が多いところをみると、仕組みを理解しないで結論に飛びついてしまう大人が多いということがうかがえる。

Wikipediaによると1945年から1949年の間に物価が70倍に上がったそうである。1000円が14円の価値になったということになる。1000円でうまい棒が1.4本しか買えなくなったというとなんとなく感覚がわかるかもしれない。

池上彰に突っかかった人は「自分が理解できない点」を常識で補っていたことになる。だが、自分が何がわかっていないかということがわからないがゆえにどこを常識で補っているのかがわからないのである。ところが、相手を避難する時には「経済政策をわかりもしないでいい加減なことをいうものではない」と言っているので、自分は経済について知っているという自意識を持っていることもわかる。

なぜこのようなことが起こるのだろうかと考えた。しばらくして思いついたのが日本の学校教育の特徴だ。穴埋め式のテストが主なので日本人は知識を溜め込むことを「穴埋め」の概念で捉えがちなのではないだろうか。大人は知識量が豊富なのでいろいろな穴を埋めることができるのだが、中には単なる勘違いや予断なども多く含まれていて、正確な知識とそうでないものの区別がつかないのだろう。だが、穴埋め問題は穴さえ埋まってしまえば一応の答案が作れる。答え合わせの必要もないし、そもそも問題が間違っているかもしれないなどと疑う人はほとんどいない。「先生が間違った問題など出すはずはない」からである。

だが、こうしてできた知識体系が常識外の主張と出会うと摩擦を起こす。大人は心の中で過去に解いた穴埋め問題をたくさん知識として蓄えている。だから彼らが「お金が消えて無くなるはずはない」と考えるのはとても自然なことである。このチャンネル桜を視聴しているという方はこの「常識」を知っているからこそ池上に反論したということになる。

だが、よく考えてみると、普通の大人が金融政策に詳しい必要はない。実際に「戦後のハイパーインフレと預金封鎖の説明をしろ」と言われたら答えられないと思う。だが「仕組みがよくわからない」ということは自覚しているので、他人に説明する前に下調べをしたりする。その時に「なぜ、日本人は短い期間の間に財産を失ったのか」という疑問を持つことが大切である。つまり、知っていることではなく、知らないことに着目するアプローチもあるのだ。

だが、よく考えてみるとこれはかなり贅沢なスキルであると言える。日本人は大学まで穴埋めで過ごすので、小論文(つまり他人に何かを説明すること)を書くチャンスが少ない。人によっては小論文が卒論だけだったという人もいるのではないだろうか。そのあとの社会人経験でも経営陣や経営企画室が考えた筋に従って穴を埋めてゆく仕事が多いので、自分で何かを調べたり身につけたりするスキルを持たないままで大人になってしまう人の方が実は多いのではないかと思った。

だから、ネトウヨの人たちの決め付けたような言い方を聞いても「バカだなあ」とは思えない。そういう教育を受けているのだからそういう大人が量産されて当たり前なのだ。だが、その一方で価値観や世界観が急速に変化しており、この穴埋め式だけでやって行けないことも確かである。

一般的な常識では「借金は真面目に働いて返さなければならない」し「政府が国民からお金を取り上げるような酷いことをするはずはない」ので、池上さんに反発するのも当たり前である。今回の議論を通じて池上彰の番組は見ないほうが良いのではないかと思った。子供にわからないことを伝えることはできても、常識でガチガチに固まった大人に短い時間で「一見ありそうもない」ことを説明してしまっては却って誤解や反発が生じかねないからである。

今回もう一つ感じたのが社会的方言の大切さだった。タイムラインをみると多分同年代からそれより上の方のようである。「チャンネル桜を見ている」と書いているのでもしかしたら定年されているのかもしれないなと思った。そこで、普通の日本語ではなく「おじさん言葉」で返信することにした。「おじさん言葉」はかつてサラリーマンの間で使われていた共通言語だが今では社会方言化している。すると返事がなくなった。

もし仮に普通の日本語で書いていたら「この人は若いのだな」と認識されて罵倒されていたかもしれないと思った。つまり、我々の年代から上の人は女子供をみると居丈高になりかねないのである。「社会常識的に」女子供は補助労働者だという認識があるので「この人はバカにしてもよいのだろう」と思うのではないだろうか。店頭でおじさんが女性店員に上から目線で話しているのをみると実に嫌な気分になるが、これが一般的に浸透してるのもまた確かなことだ。

おじさん語というとわざとぞんざいに話すことだと考える人も多いと思うのだが、実際には相手の面子を立てるためにあらゆる手段を使う。今回も「知識がおありのようなのですでにご存知ですよね」と書いたので、それ以上突っ込まれることはなかった。これも「先生や年長者は文句なしに偉いのだ」という学校教育を引きずっているように思える。実際に走らないことが多くても、やはり知識がある大人としての体面は保ちたい。しかし、妥協したりへりくだったりするのもよくない。逆に侮られてしまうからである。「おじさん語」は実に面倒な社会方言だ。

さて、この穴埋め世界観の脱却ということを考えていて問題に直面した。穴埋め世界観から脱却して疑問を持つためには「人に説明をする」という機会を作ることが重要である。だが、人に説明をするために調べ物をするという機会を日常的に作るのはとても難しい。

多くの人が知っていることではなく、知らないことを自覚できるようになれば政策議論も進みより暮らしやすい世の中が作れるとは思うのだが、自主練はなかなか難しい。結局「学校でディベートや論文を書く時間を増やすべきだ」というありきたりな結論になってしまったが、学校を卒業した人が今から学びなおすのは不可能なので、できれば「エア説明」をしてわからない点に目を向ける訓練をしたほうが良いと思う。

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