日本のテレビバラエティはなぜつまらなくなったのか

タイトルは煽りでつけたのだが、実は一通り考えてみてそれほど日本のテレビバラエティについて批判する気持ちはなくなっている。なぜならばもう見ていない上に「何をやれば解決につながるか」がわかっているからである。この辺りが正解がなく閉塞しているようにしか見えない政治議論とは趣が異なっている点だ。

今回のお話の要点はかなり短い。「説明できるものは再現できる」し「広く共感される」から「説明は重要」ということである。

YouTubeで韓国系のコンテンツばかりを見ているので、タイムラインが韓国だらけになっている。その中で面白いものを見つけた。「三食ごはん」のナPDが番組について英語で説明している。この人も英語ができるのだなと思った。これが何の集まりなのかはわからないのだが、MBAの授業などではおなじみのプレゼン形式であり、先日見たJYPを見ても明らかなように、韓国にはアメリカ流の経営理念がかなり入ってきていることがよくわかる。JYPはついにSMエンターティンメントを抜いて時価総額で一位になったそうだ。外国をマーケットにし海外からの投資を受けて入れている韓国では新しい経営理念を持った人たちが増えているようなのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=47WPMgg6E2U

KBSからケーブルテレビに映ったナPDが作った「三食ごはん」は有名俳優が三度三度のご飯を作りながら田舎暮らしをするというだけのショーである。ぱっと見にはリアリティショーに見える。ケーブルテレビでかなりの視聴率を取り評判になり、続編も作られている。

プレゼンの内容は単純なものだ。この番組はリアリティショーに見えるのだが、ファンタジーであると断っている。田舎暮らしをして食事を作るだけがコンセプトなのだが、実際にこのような暮らしをしようとすると電気代などにも気を配らなければならないだろうし、近所の人たちとのお付き合いの問題もでてくる。つまり「おいしいところだけ」を切り取って見せているのである。韓国人でも「あのようなシンプルな暮らしに憧れる」という感想が聞かれるそうなのだが、実際にこれを同じ形で真似するのは難しいのかもしれない。ただ、韓国人は手が届かないアンリアリスティックなものではなく、できるだけ手に届きそうなものを求めているので、このような「いっけんリアルに見える」形になったと説明している。

アメリカでリアリティー番組が流行し、当然韓国にも流れてきた。当初は芸能人がソウルで豪華なパーティを開くような番組も作られた流行しなかったそうだ。つまり、韓国流にアレンジして国内で成功したことになる。

またナPDはイ・ソジンのことを自分のペルソナだとも言っている。つまり自分がやりたくてもやれないことを「リアルなファンタジー」としてテレビで再現している。年齢が若干違うのだが、なんとなく二人の顔が似ているのは偶然ではないのだろう。

これについていちいち日本の田舎暮らし番組と比較しようとは思わない。重要なのは、韓国人は外国語でシンプルに番組の狙いが説明できるという点に驚きを感じた。

日本のバラエティ番組ではまず司会者やタレントなどの「数字が取れる人」が選ばれることが多い。そしてその人(たち)を使って何ができるのかを考える。とはいえ最初から当たることは少なく、内容を変更しながら「数字が取れたもの」に着目する。だから、いったんフォーマットが固まってしまうとそこから動けなくなってしまう。つまり、何が受けるのかはわからないけれども、当たってしまったものがたくさんあるということになる。そして結果的に内輪ウケを狙ったものになる。まず業界の内部で人間関係ができており、それを国内の限られた層にプレゼンするからである。当然横展開はできないので限られた層の人たちに「失敗ができない」ものを提供せざるをえなくなる。政治やスポーツで散々みてきた「村が存続すると自動的に過疎化する」という図式がここにも見られるということになる。

これまで、言語化というものを文化的な違いとしてみてきた。それは、主にアメリカの個人主義と比較して日本文化を観察してきたからである。しかし、韓国は文化的には集団的で内向きな社会なので、言語化が得意なようには思えない。バラエティ番組に出てくる「職業的に訓練された」人たちとは違い、実際の韓国人は人見知りだ。加えて外国語で狙いをプレゼンできる人は限られてくるだろう。だからこそ、それができる人がいて実際に成功しているという点が重要である。つまり、文化的違いを言い訳にはできないということになる。

演者も演出者も自分たちの意図を明確に言語で説明ができるので、成功体験はきちんと蓄積する。一方、日本人は結果的に当たったものに固執することになるので、何が数字が取れるのかがよくわからないのだろう。

単純にコンセプトが説明できる番組は多くの人々にリーチする。

韓国の伝統的な生活を扱った「三食ごはん」が面白く見られるのは、なんとなく芸能人の私生活を覗き見しているような感覚が得られるからだろうと思う。見ているうちにぶっきらぼうにみえても本当は仲良しな人間関係が見えてくるのでさらに続きが見たくなる。もともとKBSのドラマである「本当に良い時代」のキャストが中心になっており人間関係が出来上がっているのである。

日本のお笑いタレントを中心としたバラエティショーは実はお笑いタレントたちの序列や背景がわからないと面白みが伝わらないようになってしまっているものが多い。もしくは「回すのに慣れた」限られた人たちがいろいろな素材を「うまく料理して」処理しているものが多い。そうなると結果的には全てが同じに見えてしまううえに複雑で、コンテクストを共有しない人が見ても面白くない。

もちろん日本でも「俳句を作る」ということだけで成立しているバラエティ番組がある。ここで俳句の査定をしている夏井いつきらによると、俳句という感覚的に見えるものが実は論理的であること、出てくる芸能人たちが俳句を通じて成長しつつ新たな側面を見せることなどが魅力になっているという。実は日本でもこのような番組は作れる。ただこの番組も当初は芸能人の査定が主眼であり、俳句はその構成要素の一つでしかなかったようである。

こうした内向きさがテレビのバラエティをつまらなくしているのだと思うのだが「いったいどうしてこうなったのか」がよくわからない。ただ「三食ごはん」みたいな番組を作ろうとすれば、新しい試みを許容して、PDに全てを任せるような文化がなければならないこ。プロパーの社員プロデューサだと安易に切るわけにはいかないのだろうし、そもそも試行錯誤する余裕がないなどいろいろな原因が考えられるなとは思った。いずれにせよ失敗できなくなると過去の成功体験に頼るしかなくなるわけで、それが却って過疎化を進行させることになる。

本来は、バラエティ番組を観察対象として見ていたはずだったのだが、ふと自分のブログについて考え込んでしまった。たくさんの記事を書いてきて当たったものを伸ばしてきたような印象がある。やり方としては日本のバラエティに近い。改めて成功する要素を抜き出してみると次のようになる。

  • 自分がやりたくても成果が出なかったものは整理する。
  • ある程度手応えがあったものは、何が成功する要素だったのかを言語化する。そして言語化された要素はチーム内で共有する。
  • 意図したことは一定期間はやりきってみる。あるいはやらせてみる。

言語化と仮説検証は移り変わりの早いコンテンツ業界ではかなり重要なスキルのようだ。もともと日本の製造業型の成功体験は職人技による暗黙知を経験で蓄積してゆくというやり方なので「言語化して共有する」のが苦手なのだろうと思う。外国文化に接した人は外国語としての言語を話すときに自分の思っていることを概念化して変換する必要がある。こうして言語化と抽象化の能力が鍛えられるのだろうなと思った。

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三食ごはん(旌善編)の村はどこにあるのか

最近AbemaTVで2014年から2015年に放送された三食ごはんを見ている。人気になったシリーズのオリジナルでまだ荒削りな部分が目立つ。厳しい環境の中に追い込まれた芸能人が田舎暮らしをそれなりに楽しんだり、俳優仲間との交流を楽しむ様子が面白い。特にイ・ソジンはこの番組でバラエティータレントとしての才能を開花させた。

この番組を見ていると、江原道という行ったこともなければこれから行くこともないであろう地域に住んでいるような気分になる。なんとなく場所を知りたくなり旌善郡の場所を調べてみた。

旌善郡はオリンピックの開催地で鉄道や高速道路が開通した平昌郡の南隣の山向こうにある。最近ではオリンピック関連施設の存続の是非がニュースになることがある。中央日報によると旌善郡にもスキーリゾートを開発したがあまりうまくいっていないようである。

ソウルからは高速道路を東に向かって終点近くで降りる。国道35号線を南下し42号線に乗り換えると旌善邑に行き着く。ここら旌善郡の中心地のようである。ソウルからは清涼里駅から観光電車がでているそうだ。ソウルからの所要時間は3時間から4時間で、地理的には東京から群馬の山沿いか新潟あたりが近いイメージかもしれない。

米で有名な新潟とは異なり、旌善の名物はソバととうもろこしで農業にはあまり向いていない土地のようだ。番組の中にも「もともとは流刑地だった」とか「農業の専門家にもあまり良い土地ではないと言われた」というエピソードが出てくる。日本でも有名になったウォンビンの出身地としても知られているという話もある。旌善邑はイソジンらの買い出しで多く登場し、夜関門を買った市場もドンシクの金物屋もこの街にある。

ところが三食村を探そうとすると途端に難易度があがる。最初のヒントはエピソードの中にでてくるトンネルだ。トンネルの名前で検索すると旌善邑の南東に伸びる59号線につながるバイパストンネルがあるのがわかる。さらに韓国語で玉筍峰(江原道)で検索すると大体の場所もわかった。59号線からデチョンギルという道がでており、この奥に玉筍峰民泊とハヌルセッコム(空色の夢)民宿という二つの民泊がある。どうやらハヌルセッコムの方がロケで使われた施設のようである。奥さんが教育庁に勤めている人が貸したという話がでてくる。Googleマップの航空写真を見ると今でもテギョンが作ったハート型の畑が残っているのがわかるのだが、指摘されないと探せないだろうなあと思う。旌善の中心地からは5kmくらいしか離れていない。

韓国語で玉筍峰民泊を検索すると「テレビのロケ地に行った」というブログがいくつかあるが、人が大勢押しかけているにもかかわらず特に見所がなくがっかりしたという感想が多い。航空写真をみると、あの石でできた橋も確認できる。近くでウォンビンが結婚式を挙げたというブログがあったので、テレビ局はウォンビン経由でこの場所を知ったのかもしれないなと思う。

番組の現代は삼시세끼である。漢字はよくわからないが、三試三食の意味ではないかと思われる。試行錯誤という意味合いがあるのだろう。イ・ソジンはこの番組と「花よりおじいさん」で新境地を開きバラエティに進出した。旌善編では不満タラタラで田舎暮らしなんかしたくないと言っていた彼だが、この後「海辺の牧場編」などの続編にも出演しているようだ。この番組の中でチェ・ジウとお似合いだという話になっていたがチェ・ジウはその後一般人と結婚した。芸能ニュースの中に「3年間付き合っていた」という話が出てくるので、この番組への出演の前後には付き合っていたことになる。イ・ソジンがあまり結婚したくなかったのではという憶測記事も見つかった。

日本では全く知られていないが脇役として有名なキム・グァンギュは2017年に夜関門というお茶のCFに登用されたという。番組の中の地味な姿とは打って変わってノリノリで夜関門のお茶のCFソング(なぜか「開けゴマ」という題名の歌である)を歌っていた。かなりの年配のように見えるが実は1967年生まれであり、1971年生まれのイ・ソジンとそれほど年齢は違わない。俳優になる前には釜山でタクシー運転手をしていたという苦労人だそうである。

日本でも有名な2PMのテギョンはこの後兵役に就き現在服務中である。これまでいた事務所を離れて俳優の個人事務所に移籍したようだ。2019年まで兵役が残っているそうだが、この後順次2PMのメンバーが兵役に入りメンバーが完全に戻るにはしばらく時間がかかる。中でドラマの準備をするシーンが出てくる。Assembryという国会を舞台にしたシリアスドラマだったが視聴率はあまり良くなかったようである。

韓国のバラエティ番組は面白いなと思ったのだが、放送局はケーブルテレビなどを中心にした局であり韓国としても新しいスタイルだったようだ。アメリカのサバイバル番組を韓国風にアレンジしたのか「罰ゲーム」のような趣があるのだが、特に脱落者がでるわけでもなくゲストは「嫌になったら帰って良い」というゆるさがある。

さらに、韓国の伝統的な食文化がわかって面白い。割となんにでも唐辛子とニンニクが混ざった「タレ」と呼ばれるものがでてくる。また、年長者を「ヒョン」や「ヌナ」と呼んだり、年配者を「先生」と呼んで尽くすなど日本とは違った文化が見られる。年齢による上下関係とは別の関係性も見られる。キム・グァンギュはイ・ソジンからヒョンと呼ばれているのだが「マンネ(末っ子)」として使われるという年齢によらない序列もでてくる。

すでに大御所感が漂い、ソウル出身でニューヨークへの留学経験もある「都会派」のイ・ソジンの乱暴な言い方が嫌味にならないのは裏表がなくちょっとした優しさも見せてくれるからだろう。また年配者には尽くしておりテキパキと動いているので「単に嫌な人」にならないのである。

イ・ソジンのバラエティの才能を見出したナ・ヨンソクPDについてはすでに調べている人がいた。KBS出身でケーブルテレビに移って数々の番組をヒットさせた凄腕だそうだ。イ・ソジンと言い合いをするシーンが度々でてくるが1976年生まれで年下なのだという。

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憲法は権力者を縛るものという嘘

前回は「権利と義務」について考えた。国家は社会契約であると考えると契約者の間には権利と義務が生じる。だから権利には義務が伴うという言い方は必ずしも間違いではない。ただし、契約という前提条件があるので、その契約が不当な場合には破棄することもできるのではないかと考えた。そもそも義務は国家から押し付けられるものではないので「単に押し付けられた義務を唯々諾々と受け入れるべきだ」という主張は正しくないと言ってよさそうである。

ここから得た知見は「国家は社会契約によって成り立っている」という多分一般教養課程で習ったまま忘れていた前提だ。だが、私を含めて多くの日本人はこの社会契約という概念をうまく飲み込めていないのではないかと思う。そう思う理由の一つに「憲法は権力者を縛るものだから変えてはいけない」というものがある。とてもおかしな考え方だが一般的に受け入れられている。日本人の心性にあっているからだろう。

国家が契約によって成り立っていると考えると、憲法は国民と権力者の間に交わされる「契約」を文章にしたものであるということが言える。契約はどちらか一方が義務を負うものではない。例えば家の売買契約の場合、住宅メーカーは品物の品質を一定期間保証し約束した品物(やサービス)を提供する義務を負う。だが、一方で買い手側も期日どおりに対価を支払う義務が生じる。つまり売り手と買い手の間の関係は「相互的」である。つまり契約は相互的(ミューチュアル)である。

日本国憲法の場合にはやや特殊な事情がある。それはこれが国際社会と日本との間の契約になっているという点である。つまり、体裁としては日本人が国際社会に復帰するにあたって民主主義と平和を守りますよという約束が含まれている。が、基本的には国家と国民の間の約束である。

その意味では憲法は「権力者を縛る」という片務的な説明は間違いであると言える。そもそも、すべての国民が平等であるとされる民主主義国家に特権を約束された「権力者」という人はいないので、権力者を縛るという言い方そのものが成り立たないはずである。

ではなぜ「憲法は権力者を縛る」という言い方ができてしまうのか。

日本は村落だという話を始めた時に最初に使ったのは水を引くという比喩だった。日本人は有利な場所を確保してできるだけ多くの水を引き入れたい。多く水を引くと多く稲が取れるからである。これを利権という。そして同時に負担ははできるだけ軽くしたいと考える。このやり方だと「ズル」をする余地が生まれる。水門を操作して水を多く引き入れようとするのである。それをピアプレッシャーで防いでいるのが日本型の村落である。利益は村落単位で収集し分配する。そして周りの村はプレッシャーをかけることで行き過ぎを防ぐ。そこには村を束ねる社会という単位はない。社会がないのでお互いに協力することもない。

日本人はこの村落的な理解を背景にし「永田町という集落に多く水を引かせないために」プレッシャーをかけようとしているのである。これを「縛る」と表現しているのだろう。

ここからわかるのは「憲法は権力を縛るもの」と言っている人は実は永田町を権力者とは見ていないということである。もし永田町を権力者と認めるとしたらある程度の尊敬を持って協力を申し出るはずだ。つまり本来は「永田町だけにおいしい思いはさせない」と言っているだけなのである。牽制が目的なのだから対案などでてくるはずもない。

ではこの見方は単に立憲民主党支持者たちの被害妄想なのか。必ずしもそうは言えないだろう。「どっちもどっち」だからだ。

永田村が憲法を変えたいなら、社会契約説を取ってとなり村を納得させた上でプロセスを透明化しなければならない。しかしながら、実際には彼らはプロセスを秘密にし「日本型の統治」というブラックボックスを持ち出して一人で騒いでいるようにみえる。つまり、品物の中身は明確にしないで「とにかくこれを買え」と言い続けている。つまり、保守の人たちも独自の村を形成しようとしているだけである。彼らは「周りの村をまとめるから協力してくれ」と頼んできたのに実際には自分の村に多くの水を引き入れようとしているだけだったのである。

憲法改正の話はちょっと大きめの契約に似ている。そこで安倍政権を住宅メーカー「安倍ハウス」に例えて説明したい。

住宅メーカー安倍ハウスと買い手の間で契約して家を建てようとしている。営業の人の愛想はよく、なんだか素晴らしい家が立ちそうだった。いろいろ不安もあったのだが、安倍ハウスの営業の人は「なんら問題はない」と言っていたので安倍ハウスを選んだ。よその住宅メーカーの営業ははいろいろな心配を並べ立て「資材が高騰したら価格の見直しもあるかも」などというのだが、安倍ハウスだけは「どーんと大船に乗ったつもりで任せてください」という。なんだか安倍ハウスは安心できそうだ。

だが、実際の建物は何か変である。設計図とは違っており、なぜか安倍ハウスの事務所ばかりが立派になってゆく。これは違うのではないかと買い手が説明を求めると黒塗りになった指示書が出てきた。どうも安倍ハウスは大工さんへの支払いをちゃんとしていないようだし、材料も安いものを使っているようなのだが、なにぶん指示書は黒塗りなのでよくわからない。そこで買い手が怒ったら、安倍ハウスは「もともとこの契約書は我々の気風には合わないから変えたい」とすごんできた。どう変えたいのかと聞いても要領をえないが、「客が住宅メーカーに指図するとは生意気だ」という社員がいるという噂も聞く。なぜか定期的にそのような声が聞こえてくるのである。

そこで後から出てきた弁護士が「契約書は安倍ハウスを縛っている」というのも無理からぬ話だ。実際には契約書は「ミューチュアル」なものなので、どちらか一方が縛られるということにはならない。だが問題は実はそこではない。信頼が生まれれば契約書について考えても良いわけだが、とてもそのような状態にあるとは言えない。だからまず「契約を守ってくれ」というのが先なのである。

「契約書は未来永劫変えられない」とか「契約書は安倍ハウスを縛るためだけにある」というのは間違いだし無理筋だということは普通の社会人なら理解できるはずである。だが、契約書というものを理解できないにもかかわらずサインしてしまった人(あるいは投票という契約に行かなかった人)は「とにかく、この契約書じゃなければダメだからな」とすごんで見るしかない。いかんせん契約がわからないから「なんらかの理由で変えられてしまったらどうしよう」という不安を抱えることになる。つまり、社会契約という概念を理解しないでいるととても不安な気持ちを抱えたまま生きて行かなければならなくなるわけである。

白紙委任(つまり投票に行かなかった)人も含めて、安倍ハウスで家を買ってしまったわけだから、この人たちに付き合う必要はある。そしてそのためにはそれなりの常識を持つ必要があるということになる。

憲法に戻ると「社会契約などという概念は日本の気風に合わない」という人が出てくるのは想像に難くない。だが日本の憲法は国際社会に復帰するために交わした約束であるという側面もある。それを無視するのかということを聞いてみると良いだろう。相手は多分話をごまかすだろうが、その時点で護憲派の勝ちである。

落ち着いて考えてみると、法律も哲学もすべて大学の「パンキョウ」で習ったものばかりである。授業には出ていたが正しく理解はしていなかったし、わからないならちゃんと質問しておくべきだった。その意味であの時サボッたツケは意外と大きいのかもしれないなどと考えた。不安をなくすためには自分の頭で考える必要があるわけだが、そのためにはある程度の知識の集積が必要なのである。

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権利には義務が伴うという馬鹿はどうやって撃退するのがいいのか

Twitterを見ていたら面白い議論があった。権利には義務が伴うというのは嘘っぱちなのでそんな人のいうことは聞かなくても良いというのである。権利には義務が伴うという人はもともと公益を私物化したい社会の寄生虫なのでこのような対応でも良いと思うのだが、ここはひとつ大人になってその背景について学んで行きたい。

結論だけを知りたい人に短く答えると次のようになる。「権利には義務が伴う」という言い方はできるが、社会や国家が契約によって成り立っているという前提をおく必要がある。もともと契約による国家という新しい概念を説明するための言葉だからだ。だが、日本の議論はこの前提がわざとぼやかされており、いつの間にか他人の権利を侵害して義務だけを負わせることができるという謎理論が生まれた。

さらにそれも面倒で覚えられないという人は、権利には義務が伴うが、気に入らなければ政府は打倒してもいいという前提があるといえば良い。つまり「お前、覚悟はあるの?」ということになる。

過激な考えだと思われるかもしれないが、訪問販売詐欺にあったらクーリングオフ制度を使ってキャンセルするのが常識なのだから、選挙も売買契約が成立したら「あとは何をしてもよい」ということにならないのは当たり前である。


そもそも誰がこれを言い始めたのがよくよくわからなかった。道徳の授業を受けたことがないのだ。そこで直感にしたがって「民約論」あたりを調べてみようと思った。つまり、近代国家の「契社会約」という概念を説明するために作られたのではないかと思ったのである。中江兆民の民約論について研究したPDFには次のようなが説明がある。少し長いが引用する。

ルソーの社会契約説は、人間社会の構成原理を解き明かしたものだから、きわめて複雑 な構成と豊富な内容をもっている。しかし本稿との関連においてその骨幹を提示するなら、 それは以下の三点であると思う。

①人類の歴史は、共同の力を発揮できる新しい結合形式(社会契約)をみつけだすことによって自然状態から社会状態へと移行したこと。 ②社会の平等な構成員はみずからの自由を確保したままで市民として「一般意志」 (volonté générale)を策定し(主権者として「法」を制定し)、かつそれに服従せね ばならないこと。 ③社会の平等な構成員として政治的(市民的)自由を保障された人間は、真に自らを 主人たらしめる「道徳的自由」(liberté morale)を体現せねばならないこと。

①は人間社会の形成史にたいする重要な新視角であり、人民主権論の論理的前提である。 全能の神による天地創造説が常識だったのだから、これは冒頭で述べられ、随所でくりか えし説かれる。②は本書の根幹をなす社会の成員相互の契約関係であって、全構成員が主 権者として法を制定するとともに個人としてそれにしたがう義務をもつという「二重の関 係」がいろいろな角度から丁寧に説明されている。③は実際には考察の対象としないこと を第一編第八章末でことわっているのだが、社会契約に対応的な市民精神をあえて提示し ているのである。

中江兆民は社会という概念がなかった時代に「民」という概念を使って社会と法治主義国家の理念を説明しようとした人である。天皇が臣民に国家を与えるという従来の考え方を否定して、国家というものは国と国民の間の契約であるという概念を広めようとしたことになる。同じことはフランス革命期のフランスでも起きている。今回は触れないのだが、大前提として基本的人権がある。これも誤解されている概念だが「人間は生まれながらに等しく平等である」ということだと思ってもらえればよい。逆にいうと「最初から特別扱いされる人は誰もいない」という原則だ。

日本では、フランスから輸入されたこの考えが自由民権運動や一部の大学の基礎になっている。法政大学と明治大学はフランス法を学んだ人たちによって作られた。一方で国家神道的な系統から出てきたのが今問題を起こしている日本大学だ。彼らは民主主義のカウンターから出てきたので雛形のバグがそのまま騒ぎになって表出しているのである。

フランス式の法概念では、主権者は主体的な契約に基づいて国家の運営に参加することになっている。主体的な契約があるということは、政治家も有権者も契約について熟知しておりまたそのプロセスも透明化されているということになる。だから民主主義には説明責任がある。

国家と国民の間には契約があるのだから、社会の害悪になる不当な権力には従わなくても構わないし、それを打倒する権利もあると議論が発展させられる。ヨーロッパでは抵抗権として知られる考え方である。不透明な政治には従わなくても良いのである。

さらに少し踏み込んで調べてみようと思い、普段は読まない哲学書を読んでみようと思った。だが、何を読んで良いのかわからないので「覚えておきたい人と思想100人」という本を取り寄せた。だが、哲学の素養もないのに辞典を取り寄せても何がなんだかさっぱりわからない。一般教養を積んでこなかったツケだろう。

そこでGoogle先生に「who said the rights comes along with duties?」と聞いてみたところ幾つかのページが見つかった。AIってすごいなと思った。そこで見つけたのが「義務論(Deontological ethics)」というジャンルである。そこで義務論について調べたところBBCのページが見つかった。

哲学は苦手なのであまり深入りもしたくないので概要だけをかいつまんで見る。人間の行動には動機(インプット)と結果(アウトプット)がある、このうちインプット側に着目したのがDuty Basedの哲学だである。日本語のWikipediaの義務論のページには功利主義との対比が書かれている。「覚えておきたい人と思想100人」のカントの項目にも功利主義と対立するというようなことが書いてある。逆にイギリスでは功利主義というアウトプットに注目する哲学が生まれる。みんなが結果的に幸せになれるのがよいというのである。

さてどちらが「正しい哲学なのだろうか」などと思えてくる。そこでBBCのページをよく見ると「義務論の良い点と悪い点」が書いてある。内心に着目すると結果についての責任は追わなくて済むので、悪い結果が出ても気にしなくなる。また絶対的なルールを設定するので硬直的になりがちだという記述もあった。どちらが「正解」ということはなく、目的に応じて使い分けるべきだという理解があるようだ。

ここまで見てきて「この議論は前にも見たことがあるぞ」と思った。一昔前にNHKきっかけで流行したマイケル・サンデルの白熱教室だ。改めて、サンデルのWikipediaの項目を読むと「共通善を強調する」と書いてある。つまり、サンデルは功利主義者ではなく義務論の人なのだが、授業ではどちらも教えている。

ここまで見てみると、哲学の「義務」の意味が見えてくる。義務は誰かから背負わされるものではなく自ら進んで選び取り遂行するものを指すのだ。このような装置を置いたほうが社会が円滑に運営できる(結果に着目)し、より多くの人が善を追求できる(内心に着目)からである。そして「なぜ人間は善を追求すべきか」についての説明はない。つまり、人はそういうものなのだという前提が置かれている。

私を含めた多くの日本人は義務と権利を「税金と公共サービス」という概念で捉えているのではないかと思う。つまり、なんらかの義務を支払うことで公益サービスを受ける権利を買っていると考えるのである。これは国と国との関係ばかりではなく村落共同体でも「お互い様理論」として受け継がれている。お歳暮をもらったら送り返さなければならないという程度のことだが、常識としては深く浸透しており、立派な哲学と言えるだろう。

こう考えてみると働いていない人(杉田水脈流にいうと「生産性の低い人」)は対価を支払っていないのだから、公共サービスを受ける権利がないのだという理解が成り立ちうることがわかる。だが、実際の民主主義ではこのような考え方はしない。本来平等であるべきものが歪められているから社会で補填しようというのが人権保護の基本的な考え方である。

社会契約説に従えば権力者は統治権限を委託されているだけなので、契約を示し、過程を提示し、信任を失えば抵抗される可能性がある。選挙だけが民主主義ではなく、やり方によっては社会の写し鏡にならない可能性があるので、途中で抵抗される可能性は残されている。それが東洋の伝統に合わないというのなら「徳」という天との契約がありそれが履行されていないという言い方をしても差し支えないだろう。東洋では徳を失えば革命が起こる。

ルソーの社会契約説での義務は契約締結に伴って生じる。また、義務論の義務はより良い社会の構成員になりたい人が内心に従って自発的に義務を果たすことでより良い社会を実現すべきだと考える。つまり、これらの考え方を理解するためには、内心や社会という概念を受け入れる必要がある。だが、日本人には内心(良心)という考え方もなければ、社会や公共という概念もない。だから議論ができないのだろう。

これを稲田朋美を例にあげて説明してみよう。稲田さんは、国民一人ひとりに価値はなく日本という全体に価値があるのだから、いざとなったら戦争にいって犠牲になって全体を守れと主張している自民党の国会議員だ。

稲田さんら、自称保守の人たちは、国民は国の従属物であり歴史の総体という前提がない個人は無意味だと考えている。生産性は経済性に着目しているが、保守の人たちは精神性を取り入れている。歴史に従属する公共善という概念はあるので、ここまでは西洋と近い。

だが、その義務を負うのは「日本人」である。日本人というのは彼女とそのお友達を除いたすべての日本人という意味であり、彼女たちだけは「歴史によって形作られた保守的な価値観」を知っているのだから特別な存在であり、責任からは除外されるか「もっと重要な責任を担うのだ」として「低位の責任」は免除される。

最終的に「国民は生まれながらにして私たち(統治者)に負債を負っているのだから義務を果たして死になさい」という謎理論が生まれてしまうのである。

ここで二つのことが起きている。西洋では全体は不可知なので「全員で追求して行こう」ということになるのだが、なぜか稲田さんは答えを知っているという前提がある。だからこそ歴史の総体としての善を国民に知らせることができるのである。だが、それが何かということは開示されないし、その途中経過も明かされない。

なぜ彼女たちだけは特別な知識を持っていて特権を享受できるのかということは決して明かされない。さらに途中のプロセスも黒塗りされていてわからない。自称保守の人たちが政権をとると政府資料はことごとく黒塗りされ、外交文書はそもそも明かされず、その他の話し合いはなかったことになる。それは彼らだけが知り得る秘密であって、国民が知る必要がないものだからである。

こうした状況下では議論は成り立たない。そもそも日本人の側は言葉を持たないわけだし、政治家の側は言葉を明かさないからだ。

かつてカトリック教会が「神の意志はラテン語で書かれており庶民には理解できない」といったのと似ている。カトリック教会はこのロジックを使い「免罪符を買えば罪は洗い清められる」と主張し、神の意志を私物化したのだが、ヨーロッパの人たちは「神の意志は個人の中にも存在し、従ってローカルの言葉でも理解し得る」と考え方を改めるまではカトリックの権威に対抗できなかった。その意味では日本の政治状況は中世と同じなのである。

だから、これに対抗するには耳を塞いで「そんなのはデタラメである」と泣き叫ぶしかない。

そのように考えると、サンデルが倫理や哲学について語ることができ、BBCが「倫理」についてのページが持てることの意味がわかってくる。サンデルは自分の立場にも「ベネフィットとデメリットがある」ことをわかっている。それは哲学は単なるツールにすぎないからであろう。聖書がドイツ語になり活字に乗って普及したのと同じように、サンデルは哲学という言葉を広めようとしているのである。自分にも主張はあるが、主張があっても理解されなければ何の意味もない。

その前提になっているのが社会である。サンデルは自分も相手と対等に社会の一員であるということを自覚しているからこそ、言葉を広めて「一緒に考えましょう」と言っている。民主主義とは問題を「みんなで一緒に考えること」である。

少々長くなったのでこの辺りでまとめる。私たちが「真理は一人ひとりの心の中にある」と考えない限り「権利には義務が伴うから、あなたたちはボランティアで無料奉仕したり、徴兵に応じて権力者を守るために戦わなければならない」というデタラメな主張に対抗することはできない。言葉がないのだから唸り声をあげながら逃げるしかないのである。

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わかっているのに変えられない日本社会

今日のお話は「迷っている」というものである。情報発信としてはかなり伸びているのだが、それは同時に問題解決から遠ざかるということを意味している。これをどう折り合わせて行こうかと思っているわけである。

朝、投稿を終えてからメールをみたら深刻そうな問い合わせが入っていた。外国人だが職場いじめられているという。まず本当のことかはわからないし、メールだけでは詳細なことはわからない。書き言葉の日本語は堪能である。

一応、本人にはメールを書き、QUORAにも相談を載せたのだが、どちらからもレスポンスはなかった。つまり、当人は「わかった」とも「がっかりした」とも言わないし、周囲の人からも有益な情報は得られなかったわけである。以前ならがっかりしたり憤ったりしていたと思うのだが「ああ、やっぱりな」と思った。(本当のことを書いてあると仮定して)相談してきた当人はレスポンスどころではないだろうし、日本人は個人での協力を嫌がるので具体的な問題を提示すると逃げてしまうのである。

日本社会はこのように閉塞した状態にあるので相談してきた本人が「ああ、相談してよかった」というようなアドバイスは書けないだろうなと思った。普通なら、できるだけいじめに対処してそれでもダメなら転職を考えろくらいの話になると思うのだが、外国籍の場合スポンサーシップの問題がある。つまり、日本人ほど転職は楽ではないかもしれないのだ。日本は経済的にも未来のない状態なので、外国籍があるなら、在日韓国人・朝鮮人のように実質的に日本社会に居場所を求めざるをえない場合を除いては没落しつつある国にこだわる必要はないとさえ思うが、それも書くのはためらわれる。

プライバシーがあるのでメールの詳細は書けないし書かないのだが、これについて書こうと思っているのはそろそろ年頭からやってきたことをまとめようと思っていた矢先だったからだ。村落の問題から始まって組織されない「群衆」の問題にまでたどり着いた。構造はなんとなくわかってきたが、閉塞感の背景はわかっても理由はあっても解決策はないだろうことも明白になってきている。日本人は個人に自信がなく、社会を信頼していないので、根本的に社会の問題解決に向かわない。しかもその状態に直面したくないのである。

閉塞感が自分たちに起因していることは認めたくないので、社会問題に構造を与えることで「他人や社会が悪いのだ」という主張には需要がある。だが、問題を作り出しているのも日本人なので原理的に問題が解決できない。日本人はという大きな主語はこの点便利にできている。実体はあるが、そこから自分だけを取り除くことができる。

例をあげると安倍政権が信任される理由はわかってきた。有権者が何もしないことを好んでいるからである。背景には「もう何をやっても日本は衰退して行くばかりだし、自分たちはなんとか逃げ切ってきたのだからこのままでいけるだろう」という意識があるのだろう。そして、安倍政権を首相に選んでいる日本人は馬鹿だと主張してもその中に自分が含まれることはない。

しかし、介護やいじめなど問題の当事者になった場合には事情が全く変わってしまう。根本的な治癒方法が見つからないので病変として切断されるかなかったことにされてしまう。これはいじめ、差別、介護の問題で私たちが日常的に見ている光景である。いじめはなかったことにされ、あったという事実認定に数年かかるのが当たり前である。しかも「当人が自殺した」という取り返しのつかない状態にならない限りいじめが認められることはまずない。女性のレイプ問題も同様で海外のプレスに英語で自分から情報発信するくらいのことをやらなければ社会にもみ消されてしまう。

今回の問題もいじめなのだが、組織としては「なかったこと」にするんだろうなと思う。一応公的な窓口があるわけだが、これがどこまで外国人の見方になってくれるかはわからない。あるいは「日本の恥」と認識されてしまうこともあるわけで、その場合には社会が総出で「問題をなかったこと」にするのだろう。

本来ならば、これについて「どうするべきだろうか」と相談したいところなのだが、これまでのコメント欄の反応などを見ていて、提案はないだろうなと思う。外から問題を語りたい人はたくさんいるのだが、中から問題を解決したいという人はこの社会にはいないと考えてよい。

日本人はすることよりもなることを好む。だから、個人の意見で「こうすればよい」という提案が来ることはないだろう。それは責任に直結するし、責任は社会から切断される危険を伴うからである。だが、流れを掴んで訴えかけるようにすれば「なった」ことになり閲覧は増える。一転して「切断する」側に回れるからである。

メールにはそのことが端的に書かれていた。「日本人の構造はわかるのだが、自分が抱えている問題についての解決につながりそうもない」というのだ。いじめは閉鎖的な空間で起きているわけだが、その閉鎖性が個人を苦しめ、中期的には組織も閉塞するということは目に見えている。まともな文明社会から来た人は「で、あればなんとかすべきではないか」と思うわけだが我々の社会ではこれが通用しない。

このため理不尽に突き当たると大変悔しい思いをすることになる。我々にできることは、これが個人の問題ではないということを認識することと、ありふれているということを自覚することくらいかもしれない。「自分だけが苦しんでいる」と考えてしまうとどこまでも追い込まれる。そして問題を発信すればするほど切断される側に回るリスクが増える。だから、回復したら立ち上がって、また普通の側に立って歩き出すしかないのである。

もちろん、自分の問題について情報発信し続けることには意味がある。普段からそうした情報に接している人は、いざ自分がその状態に直面した時に「自分一人が孤立しているわけではない」と考えることができるからだろう。例えばTwitterには、体が不自由で動けなかったり、普段から介護についてつぶやいている人がいる。日本の介護事情は細かく理不尽な規則のためにとても大変な思いをされている人が多いようだし、逆に自分の好きなことを見つけて精一杯に楽しんでいる人もいる。いろいろな選択肢があり一人ではないことは少なくともわかる。こういう人たちは「誰にも理解されないし、社会の役に立っていない」と思うかもしれないが、実はパイオニアになって同じ問題に直面するであろう人を先達している。杉田水脈流にいえば「生産性」があるのだ。

だが、やはりなんらかの問題に直面している人たちにとっては「問題ばかりみつめても何の役にも立たなかったな」というがっかり感の方が強いかもしれないなと思う。いくらあなたは一人ではないと言ってみたとしても、役に立つと説得してみても、問題は一人ひとりに違って見えるものだし、その時に協力を求めても同じ境遇の人はそれほど多くはない。さらに、自分が「生産性がある」と考えない限り他人からどう言われても嬉しくもなんともないにちがいない。

そうしたがっかりされるリスクを受け入れるべきなのかということについてはやはり躊躇がある。どうしても「問題を解決して有能だと見られたい」という意識が働いてしまうからである。

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「いい人」が日本社会を滅ぼす

昨日書いたように、サマータイムについて考えている時に面白い反論があった。介護が必要な高齢者はベットの環境を変えただけで亡くなってこともあるのに、サマータイムなどとんでもないという。

確かにそのようなことがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

がそこで、当事者が気がついていないであろうある面白いことがわかる。「なぜ命に危険のある高齢者の時計を変えなければならない」のだろうかという問題である。介護に直面している人の声を聞くと(直接は聞けないがTwitterには経験者の声が溢れており、フォローしている人の中にもそいういう人たちがいる)中央が決めたルールに翻弄されている人や現場が勝手に決めたルールに苦しんでいる人が多いことがわかる。社会から切り離されていると感じているうえに「上が勝手に決めるルール」に憤っているとしたら、その気持ちは理解しなければならないなと思う。

今回のサマータイムは「政治家を引退した無責任な人があまりよく考えずにとりあえず言ってみた」ということがきっかけになっているので、議論する必要はないし、議論になったら冷静に反論すれば良いと思うのだが、仮に通ってしまったとして実際に行動すべきかという議論はできる。サマータイムは時計というわかりやすいものを扱っている。だが、実際には無理な指示の結果裏で「ズル」をせざるをえない人も多いのではないだろうか。こうして、結果的に誰のためにもならない社会ができるのなら、最初から無理なルールには無理というべきである。

もし仮に「オフィシャルの時計が変わるわけだから当然病院や介護施設の時計もとにかく変えるべきだ」ということになるとしたら、それは専門性の放棄である。つまり、命に問題があることがわかっているのに「とりあえず世間がそうなっているからそうするのだ」ということになるからだ。その人は考えることを放棄している。だから、上から無茶苦茶な命令がきたら「専門家の良心に従って拒否」すべきだ。

ただ、実際にそれをやるのは難しい。日本人にはとにかくいうことを聞くというマインドがあるからである。

先日区役所に行ったのだがそこのカレンダーが8月10日の金曜日になっていた。そこで「今日は月曜日ですね」と言ったところ担当者は札を月曜日に変えた。だが、10日の札はそのままになっていた。この市職員は「言われたことはやるが本質は理解しようとしない」という癖がついているのだろう。つまり、曜日が間違っているねと指摘されたら曜日は変えるが、カレンダーを正しい日付にしておくべきだという規範意識はないのである。

そこでカチンときて「なぜ13日にしないのだ」と怒鳴ってしまった。彼はきょとんとしていた。つまり「言われたことをやったのになぜ怒られるんだろうか」と思ったのではないかと推察する。これも日本人としては割と普通の対応である。日本人は内部に規範は作らない。つまり「自分が正しい判断をして他人に正しい日付を教えるべきだ」という様な規範意識はできない。社会がどうなろうが知ったことではないからである。学校教育が先にあるのかこうした日本人のメンタリティの結果今の学校制度ができているのかはわからないのだが、学校教育も本来の目的意識よりも「どう決まりを守るか」ということに重点が置かれる。そのため、熱中症で死者が出かねないのに学校行事を優先させることが起こる。決まりを守るとき生徒の命は忘れられているが、日本の学校ではそれはきわめて当たり前のことなのだ。

日本人言われたことだけをやるが、特にそれを悪いこととは考えていない。ここで異常だとされるのはカレンダーの間違いを指摘した方である。日本人は「この人は自分のことでもないのになぜ怒るのだろうか」と不思議になってしまう上に「きっと何か面白くないことがあったから八つ当たりしているのだろう」と考えてしまうのである。

介護施設の話に戻ると、時計が変わるから時間をずらすのが当たり前で、その結果高齢者の命がどうなっても構わないと考えているとしたらそれは大変問題なのだが、実際にはその様なことはありふれている。

しかし、持ち場を守るということを考えた場合「影響を抑えるためには時間をずらさない」という選択をする人たちが出てくる可能性はある。さらにこのほかに「現実的に時計がずらせなかった」という人たちが出てくるだろう。技術的に不可能だという人と、費用的にそれをやる余裕がないという人が出てくるだろう。例えば中小業者はレジを変えられないという理由で時計をそのままにするところが出てくるだろう。技術的にはそれほど難しくないかもしれないが、レジを変える改修費が出せない人は多いだろう。

ここで「時計は変えません」と宣言すればそれで治るのだが、実際にはごまかしが横行する。なんとかその場を取り繕ってやり過ごそうとするのだ。この結果社会に嘘が蔓延する。政府はすでに行政文書を隠したりなかったことにして嘘をつく人で溢れかえっている。

さらに「政府の時計が変わっても好きな時間に起きればいいじゃないか」などと言うと逆に怒り出す人おいるのではないだろうか。それは日本人が「みんなが決めたことには従わなければ罰せられる」と思っているからであろう。つまり、いい子でいたいのである。

このいい子は社会の害悪になっている。官僚は上から無茶なことを言われた時、とりあえず体裁を守らなければと、なんとなく理屈にがある様なないような答弁を考えて首相にメモとして手渡したりしている。そのうち、そのメモにつじつまを合わせるために嘘をつかなければならなくなる。ただこれも官僚が自己保身を図ったという側面の他に「いい人でいたかった」という気持ちがあったのだろう。

いい人でいることを優先したために、プロとして「国家の秩序を守るにはどうすべきか」とか「職務を公平に全うすべきか」ということを忘れてしまっていたことになる。外から見ていると恐ろしいことなのだが、意外と当事者の人たちは市役所の職員のように「言われたことをやっているだけなのに何がいけないのか」と思っているかもしれない。教育委員会が決まりを守ったら死者が出たのだがそれは仕方がなかったと思うのと同じように、官僚も組織の秩序を守ろうとしたら結果的に嘘が出ただけだと考えて反省はしないのである。

もし仮に官僚が「いい子」でなかったなら、首相は二つのことをやらなければならなくなる。一つは政府がきちんと回る様なロジックを自分で考える必要が出てくる。さらに、自分の人格を律していうことを聞いてもらえるように振る舞う必要がある。英語だとこれをリーダーシップという。日本はいい子に囲まれておりかばい合うので、影響力のあるリーダーが生まれにくいのだ。

安倍首相の問題は彼個人の資質によるところが多いのだろうが、あんな人がリーダーになってしまったのは周りにも責任があるということになる。

実際に社会に反抗する行動を取るのは難しいのかもしれないが、まずは「その指示には従わなければならないのか」を考えるべきではないかと思う。そして、考えがまとまったら感情が擦り切れない様に淡々とそれを発信すべきだろう。

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承認を待ち望む人々

先日来、政治を離れて「マーケティング」について見ている。まず、韓国人がインドをマーケット捉えるところを観察し、かつては日本にも同じ様な時代があったことを確認した。つまりよい製品があっても現地のマーケティングに受け入れられなければ意味がないので、現地のマーケット事情を学ぼうという姿勢が大切であり、日本もかつてはそうしていたということを確認した。マーケティングとしては極めて自然なアプローチであり、K-POPもホンダのバイクもカップヌードルもこのやり方で成功している。

日本すごいですねマーケティングの失敗をなんとなくにらみ「自分たちの製品は優れているがその本質を理解できるのは日本人だけ」という姿勢が日本製品の海外進出を難しくしているのだろうなと考えた。なんとなく当たっている様な気もするが、どうしてそうなったのかはわからない。

次にZOZOTOWNを見た。オペレーションはデタラメだがZOZOTOWNはそこそこ成功するだろうと考えた。若者の認知率が高いからである。この認知率の高さはインターネットからの流入に支えられている。コンシューマーが作ったコンテンツで認知度をあげるという戦略なのだが、これがうまくいっているわけである。これはリーマンショックの前に提唱された概念でUGCと呼ばれる。

アメリカ型のUGCは個人の意見表明に支えられている「発信者主体」のメディアだが日本はそうではなかった。ZOZOTOWNはそのことに気がついたのだろう。個人が確立しないままで自己責任社会に突入した日本では「相互承認」こそが重要なのだ。このためWEARには顔を隠した人たちが大勢掲載されている。彼らは承認は欲しいのだが人前に顔を晒すのは嫌なのだ。

つまり、日本のUGCを支えているのがユーザー間の「いいね」である。自分の露出を高めるために仲間のコンテンツにもいいねを押すことが習慣化していて、それなりの社会的承認が得られる仕組みができている。そしてこれがコンテンツになりZOZOTOWNの流入を支えている。かつて私鉄に乗って渋谷のPARCOにおしゃれをして出かけたようなことがインターネット上で行われていることになる。アパレルは衣服を売っているわけではなく、自己承認の機会を売っているのである。

スマホがこの「いいね」の核になっていて、人々はLINEやその他のメディアで承認したりされたりすることで認知欲求を満たし、それを持ち歩いている。「スマホがないと死んでしまう」のはそのためである。学校では個人を殺して先生の意見を受け入れることを強要される上に、自分をどう表現していいかは習わない。だから自己承認は成績を上げて学校に褒めてもらうか、クラブ活動で成果をあげるか、仲間同士で慰め合うかの三択になってしまうのである。

かつての人々は読んだ本やイデオロギーなどを個人の核にしていたのかもしれないのだが、今では商品のプロモーションに紐づけられた相互承認によって自己を満たしているという可能性がある。

なぜ人々があれほどまでに「モテ」にこだわるのかがよくわからなかったのだが「モテ」こそがその人の価値を決める指標なのではないかとさえ思える。モテとはより多く承認が得られる状態のことだ。

ただし、この「モテ」には正解がない。個人の美的感覚が優れていても「モテない」ファッションには全く意味がなく、そのモテもマーケティングの関係で移り変わることになっている。ここにキャッチアップする人もいるだろうが、できない人もいると考えると、モテに乗り遅れたであろう人が確実に出てくることがわかる。

他の人たちが相互承認を得ているのに自分だけは得られないと考えた人が、「信念を持て」などと言われても「よくわからない」と思うのではないだろうか。信念を持ったり自分なりの学習で何かを極めたとしても「モテ」なければ全く意味のないことだからだ。モテない人生はないも同じである。モテるためには消費しなければならないし、消費するためには稼がなければならない。

しかし、こうした不確実な状態に人はどれくらい耐えられるのだろうとも思える。より簡単なのは誰かを貶めることでこうした不確実な状態に形を与えることなのではないかという仮説が成り立つ。クラスにおいては誰でもいいから一人をつまみあげて悪者にしていじめればよい。そうすることで「自分はかられる存在ではないので正しい側の人なのだ」という確信が得られるだろう。また政治においては問題解決は面倒だが、在日韓国人や同性愛者を叩いて「自分は正常な存在なのである」と言えれば、それで承認の問題は解決する。アカウントに日の丸を付ければ、正当な社会の一員となれる。保守というのは居心地のよいバッジだがそれについて理解する人はない。だから消費行動のないモテには犠牲が必要なのだ。ひどい話なのだがこれで説明できることはたくさんある。日本の政治はこうした犠牲の元に支持を集めている。

問題なのは消費者も自己承認を求めているのに、メーカーも自己承認を求めていたということだろう。かつてドルチェアンドガッバーナなどに取り上げられて「日本すごいね」の象徴だった岡山と広島のジーンズ産業は低迷期を迎える。イタリアのメーカーがジーンズに飽きてしまったからだ。そこで彼らは日本の顧客について研究する代わりに「自分たちがいかに優れているか」を宣伝する様になった。それは男性に捨てられた女性が過去の恋愛について自慢する様なもので、とうぜんジーンズブームはこなかった。現在ではてレビ番組を使って100円均一商品がヨーロッパで人々を驚かせているという様な番組を作って悦に入っている。

例えばホンダのバイクを作っている人は「このバイクには自信がある」と考えていただろう。ただ、アプローチの仕方がありそれを研究しなければならないと考えるわけだ。またインスタントラーメンにも自信があるわけだが「箸と丼がない国の人に得るためにはそれなりの工夫が必要」と考える。同じ日本人なのにこれほどまでの違いが出るのは、一度出た正解に固執するからなのかもしれない。

日本人は勝てるゲームが好きなので、正解がないときには一生懸命に正解を模索するために協力する。しかし、一度正解ができてしまうと仲間内から「なぜ面倒な試行錯誤をして時間を浪費するのか」という声が出る。こうして日本は勝てなくなってしまうのではないだろうか。いずれにせよ他人からの承認を求めようとすると相手が見えなくなりますます泥沼にはまりこむ。

いずれにせよ承認を与えてやることは無料な上に力強いマーケティング効果があることは間違いがなさそうだ。安倍政権はここに着目しており問題解決よりも「あなたたちは正しい道を進んでいる」と言い続けることで若者への支持を獲得しているわけだし、ZOZOTOWNも「いいね」を提供することで若者への認知度をあげている。人間を常にどっちつかずで曖昧な状態に置いておくことで、自分のアイディアを買わせることができる。これが良いことには思えないのだが、現実的にはその様な状態があるという結論になった。

もっともこれが個人主義が確立しないまま自己責任社会に突入した日本特有の問題なのか、ありふれた問題なのかはよくわからない。かつての日本人は市場に学べていたわけだから、今回は「日本人が」という主語の使用は極力控えた。なんとなく「最近の若い人は」という主語を使いたかったが、これも控えた。メーカーの関係者もまた自信を失っており周りが見えなくなっていることが多いからだ。

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ホモモベレ (移動する人)

タイトルのラテン語はデタラメ。Google翻訳で移動するを調べたらmovereとでてきたのでそれをそのまま使っている。

ZOZOスーツを手に入れたのだが動かせる端末がないのでiOS機器を入手した。結局ZOZOスーツは動かなかったのだが、型落ちでそこそこ使えるiOS9.3.5の機器が手に入った。iPod Touch第五世代でヤフオクで5000円だった。iPod TouchはiPhoneの電話ができないバージョンだ。

今回買ったやつはアプリがそこそこ使えるのでお猿さんの様にアプリを入れた。LINEが使える様になったが通話する人はいない。最初に入れたのはPinterest、Instagram、TwitterといったSNSだった。やたらに「通知」したいと言ってくるので「いいよ」とばかりに通知を許可した。すると、SNS経由の通知が入ってくる様になった。あのピロリとかピロロという音がなんとなく自己承認欲求を満たしてくれる様でなかなか気分が良い。スマホが手放せなくなる気持ちもわかるなあと思った。現代はこの小さなガジェットで承認欲求が充たせる良い時代なのだ。

次に思いついたのがポイントカード系である。これを使うとプラスティックのカードを持たなくても済むのである。もっとも外では通信できないところも多いので実際に使えるかどうかはわからないのだが、これも財布を広げてお猿さんのようにアプリを入れた。パスワードを入れたり面倒な登録作業を済ませるとこれも使える様になった。

そこであらためて「これ無くしちゃったら大変だな」と思った。iPodなので決済機能はついていないわけだが、それでもこれだけの「アイデンティティ」がこの機械に詰まっている。Mac製品には「なくしたらリモートで使えなくできる」という機能が付いているのでそれもオンにした。

次に気がついたのがいわゆるアイデンティティがポイントカードとSNSなのだということだった。つまりスマホは私が私であるための名札の様な役割を果たしている。そして、そうした名札はほとんどが「消費」や「購入」に結びついている。つまり、私たちは「何を買ってどう使いそれをどう表現するか」ということがアイデンティティのほとんどになっており、それを常に持ち運ぶ存在なのだということになる。

果たしてそれが正しいことなのかと思った。常々「個人はそれぞれが持っている理想を追求するために生きるべき」みたいなことを書いているのだが、実際にはイデオロギーはその人のアイデンティティにはそれほど結びついていない。その証拠に人々は民主主義や保守思想そのものにはあまり興味がなくその理解は乏しい。政治が満たしてくれるのは所属欲求なのだが、デモの一員になったり逆に少数者を叩いて良い気分になることが目的になっている。中には経済のことなんか考えたこともないのに専門家を攻撃する人もいる。社会としてはとても危うく、中核のないそれは群れとしか表現しようがない。問題は解決せず、問題が次から次へと湧いてきては忘れられてしまう。その繰り返しである。

さらにかつてはその人の部屋に遊びに行き本棚を見て「その人の人となりがわかる」と思ったものだった。今でも中高年のある一定以上の年齢の人はその様なやり方で「アイデンティティ」を判断している人がいるのかもしれないのだが、最近では本棚のない家も多いのではないだろうか。

ただそれを「正しくない」と断罪してみたところで、実際のアイデンティティがポイントカードに残る購入履歴ややSNSのアカウントによって形作られているという事実は変わらない。財布を持って外に出ないということは「裸で街をうろつく」と同じ感覚なのだが、今ではスマホがその役割を果たしているのだろう。スマホにはいろいろなアイデンティティが鍵束の様になってぶら下がっているのだが、それを総合的にみて「あなたは一体何者なのですか」と聞いてみても、よくわからないということになりかねない。

我々人類は「賢い優れた」という意味のホモサピエンスという属名を持っている。このほかにホモルーデンス(遊ぶ人)という定義もある。本質的に生き延びたり働いたりすること以前に「遊び」があるのが人類だというわけである。ソーシャルメディアで消費を評価するのは遊びの一種かもしれないのだが、評価と社会的承認には単なる遊び以上の意味があるのかもしれないと思う。人類は基本的に群れの中で生きる存在だからである。

政治や社会問題は実はアイデンティティと関わったこうした動きと競合しなければならない。弱者救済とか人権などと言ってみてもSNSのいいねには勝てないわけだし、他人の人権を蹂躙することでいいねが得られるとわかった人はこの魅力には抗えないだろう。むしろ自分で表現できない人が他者をあげつらうことで初めて「自分が表現できた」と考えても不思議ではない。それを評価することによって政治の私物化に利用しようとする人が出てくるのも自然な流れと言える。それは無料で与えられる数少ない贈り物だからだ。

また企業もお知らせを一方的に消費者が受けてくれると思ってはいけないことになる。褒めてもらえるという承認欲求の甘美さを加えなければ、消費者から最も簡単に見捨てられてしまうことになるのだろう。このためにポイントを贈って購入者を常に「褒めてあげなければ」ならない。

前回インドと韓国の関係を観察した時に「良い商品をローカル市場が受け入れる形で提示してやれば売れる様になるだろう」という見込みを提示したのだが、アイデンティティが内にこもってしまい他者のリファレンスを必要とする日本人はSNSでの承認などのエンカレッジメンとが必要ということになる。そうなるとより内に篭った特殊なマーケティングが求められることになる。逆にこうした内向きのマーケティングに慣れてしまったら、製品が受け入れられる様に学習しようという意欲は失われるに違いない。

人は褒められるために政治的意見を選択し、褒められるために消費する。こう考えるといろいろな不合理に思えるものの別の意味が見えてくるかもしれないと思った。そして誰にも褒めてもらえない人が、自分より劣っている弱者を探して結びつくことにもなるのだろう。

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学ぶ韓国と学ばなくなった日本

大げさなタイトルだが、もちろん韓国と日本の芸能について包括的に語ろうという話ではない。YouTubeでKBSのプログラムを見た。これをみて「日本と韓国では番組の作り方が違うんだなあ」と思ったといういわば感想文である。何が違うのかと考えたのだが、一言で言うと「彼らは営業をしているんだ」という結論に行き着いた。つまり、日本人は営業をしなくなったということである。

https://www.youtube.com/watch?v=Szdx3WOUF9w&list=WL&index=4&t=1873s

YouTubeでK-POPばかり見ていたらある番組をオススメされるようになった。1時間モノでEP1と書いてあった。つまり見るのに時間がかかるわけで、しばらくは見るのをためらっていた。しかし、見はじめたら面白く、ついつい最後まで見てしまった。全部で4話あったので4時間以上を見たことになるのだが、3が欠落しており3だけは英語字幕なしのものを探して見ることになった。

番組は韓国の有名なK-POP歌手、スーパージュニアのキュヒョン、SHINeeのミンホ、EXOのスホ、CNブルーのジョンヒョン、Infineteのソンギュの5人がインドに特派員として派遣されるというものである。テーマはK-POPのインド進出である。日本やヨーロッパでは大成功を収めている彼らなのだがインドでは全く知られていない。そこで、落ち込みながらニュース番組の3分枠に向けて準備をする。韓国はもとより日本などでは大成功している大スターなのにインドでは全く知られていないという落差が面白い。

日本と違っているのは、彼らの番組が放送されているかが保障されていないという点である。多分NHKがジャニーズのタレントに同じことをやらせたら「顔を立てて」ボツにするというようなことはしないはずだ。さらに近年のスポーツキャスター騒ぎからもわかるようにカメラが回っているところと回っていないところがあり「裏では何をしているかわからない」という状態になると思うのだが、この番組では寝ているところもカメラに映される。中にキュヒョンのいびきが大変うるさいというエピソードが出てくる。

このブログで何回か書いた通り韓国は集団主義の国である。調べたところ冒頭に出てくる東方神起のチャンミンを加えた彼らは同じ事務所の先輩後輩にあたり仲良しグループを形成しているらしい。練習生としてデビュー前の苦労を共にしたりしていることもあり仲が良いのだろう。年齢が上のキュヒョンが実質的なリーダーになっている。チームは「全く経験がないニュース特派員」という役割を与えられて戸惑うのだが、リーダーとして明示的に指名されたわけでもないキュヒョンが年長者として緊張するという場面が出てくる。

チーム内に年功序列はあるのだが、これは階層社会が前提になっている。ここではKBSの記者が「キャップ」として上司の役割を果たしている。そしてキャップもソウルの上司の指示に従わなければならない。最終的にニュースをボツするかどうかを決めるのはソウル側なのである。こうした関係性があるので、同僚グループはあるときはライバルになるが基本的には協力して行動することになる。ここが人間関係が曖昧な日本とは異なっているのである。日本は表面上みんな友達なのでマウンティングが起こることがある。テレビ局の記者がタレントを扱うときにはどうしても「お客さん」の関係にするか「友達」として振る舞うのではないだろうか。

キャップは心構えとプロセスは伝えるが具体的な内容は記者たちが考える。だから、現場には介入しない。キャップには上がってくる情報をソウルが判断しやすい形式に整えて連絡をとるという別の役割を持っているほか、メンバーを選択するという評価者としての顔がある。みんなに「よくできたね」などというのだが、目は笑っておらず冷静に才能の違いを見極めようとするというシーンが出てくる。また、キャップが一日中べったりとついてこないことにメンバーの数人が安心するシーンが出てくる。上司と部下の間にはかなりの緊張関係があるのだ。

日本だと友達のように振舞いつつ圧力がかかったり「現場に任せる」と言っておきながらいろいろ口を出してきたりすることがあると思うのだが、韓国の場合は集団主義に基づいたチームワークでプロジェクトを進めようとする。

こうした社会構成の違いを見るのは面白いが、もう一つ目に付いたところがある。それがインドの取り扱い方だ。

日本でアジアを紹介する番組を作る場合には「かわいそうで貧しい地域」として紹介するか、素晴らしい日本の文化を教えてあげるというアプローチをとるのではないかと思った。前者で思いつくのは「世界ウルルン滞在記」だ。基本的にアジアは施しの対象であり日常とは切り離された現場だいう認識があった。現在ではこれが、世界に跋扈する偽物のスシやニンジャを日本人が成敗するというような番組や100円均一の製品を見せて「日本すごいですね」と言わせる番組が増えている。どうしても関係性がにじみ出てしまい平等なふりをしながら「上に立ちたがる」人が多いということである。かつては「当然すごい」だったのだが、今では「今でもすごい」なのだろう。

しかしながら、韓国人はインドをマーケットとしてみている。途中でスラムもでてくるが、これもかわいそうな存在として書かれているわけではない。韓国はすでに先進国化しているのでインドを未開発の国としては見ているのだが、かといって施しの対象ではなく学習の素材として扱っている。そして、自分の売り込みも忘れない。つまり、商品に自信があるのであとはアプローチだけだと考えているわけだ。

アイドル5人組はちょっとダラダラしたり文句を言いながらも、言語が複雑なインドでは共通体験である歌と踊りの入った映画がプロモーションになり、そのあとで音楽が売れるということを実地で学んでゆく。

最初は学習と競争の絶妙な組み合わせだなと大げさなことを考えていたのだが、よく考えてみるとこれはマーケティングリサーチと営業なんだなと思った。つまり彼らは普通に当たり前の営業活動をしているだけなのである。面白いのはそれを当事者であるアイドルがやっているという点だけだ。

いったん普通を見ると日本の異常さが浮かび上がってくる。日本人は「日本の文化は素晴らしいのだが高級すぎて現地の人たちにはよくわからないだろう」という見込みを持っているので、現地のマーケットに学んでコンテンツをローカライズして行こうという気持ちにならない。つまり成功実績があると考えてしまうと学習機会を失ってしまうということだ。しかしその一方では所詮日本は小さな島国で自分たちには大したことはできないのではないかという劣等感もある。

とはいえ、かつては日本も自分たちの商品に自信をもっておりなおかつ海外から学んでいる時代があった。例えば、本田はアメリカでどうやったらバイクが売れるのかということを試行錯誤してきたし日清が世界進出を念頭に入れて即席麺からカップラーメンを発明したという有名なストーリーもある。KBSが目をつけたのは「未開拓でK-POPがとても売れそうにない」インドだが、かつては本田宗一郎も安藤百福も「全然売れていないから売れたらすごいことになるぞ」と考えてアメリカに渡ったのである。

K-POPは特殊なやり方で成功したのかと思っていたのだが、実際には当たり前のマーケティングリサーチで現地で学習しながら展開してきたのだなと思った。これは日本もかつて通った道であり、今からでもやってやれないことはないのではないかと思う。つまり、日本は国がダメになったから成長しなくなったわけではないということだ。

いろいろと難しく書いてきたが、そのような小難しい視点がなくてもこの番組は面白かった。K-POPのアイドルは普段からカメラに日常生活を撮られることに慣れているようだ。飾り気や裏表があまりなくお互いに中もよさそうなので「いい人たちなんだろうな」と思える。意外とこういうところも魅力になっているのだろうと思う。屈託がないので「裏では何を考えているのだろう」ということを考えなくて済むのである。日本のアイドルスポーツキャスターのように、カメラが回っているところでは良い記者のふりをして裏で遊ぶということもできたと思うのだが「タージマハルに行きたい」とか「まずは観光がしたい」などというわがままを言いつつしっかりと仕事をこなしていた。長時間二渡る番組をダラダラと鑑賞しながら、日本のテレビ局が陥ってしまった様々な「屈託」に疲れているのかもしれないと思った。

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日本語、韓国語、英語の「エ」について

このところYouTubeにはまっている。なぜかはわからないが、日本のテレビは報道という名前がついた何かに占拠されていて、一日中スポーツの不正とか政治の問題ばかりをあつかっているからかもしれない。逆に夜のバラエティーやドラマにもなんとなく閉塞感が漂う。コンテンツの大半がいじめか転落である。

YouTubeには世界各国のコンテンツが集まっていてこうした息苦しさが少ないのだ。

最初は東映などの昔のコンテンツとか英語のHowToものを見ていたのだが、最近はK-POPも見るようになった。歌番組もあるのだが、英語か日本語で字幕が付いたバラエティを見ているとタレントの人となりもわかる。とはいえ、言葉がさっぱりわからないので韓国語をなんとなく勉強しはじめた。日本語とよく似ているという人がいるのだが、実際にはほぼ一言も理解できない。

さて、韓国語には文字上で애と에という二つの「え」にあたる母音がある。現代の韓国語では区別しないとか、最近の若い人は区別しないなど諸説があってよくわからない。どんな音なのだろうと思っていたのだが、最近「ああ、あれかな」と思うことがあった。

スーパージュニアのドンヘという歌手が自分の名前を叫ぶ「ダサカッコイイ」떴다오빠という曲がある。辞書上は「浮かび上がったお兄ちゃん」という意味だそうだが、Yahoo!知恵袋によると有名になったという含みがあるそうだ。内容は特になく「世界中で大人気のお兄さんたちがやってくるよ」みたいなことをダサ明るく歌っている。この中で最初に自分の名前を叫ぶのだがこの「エ」の音がなんとなく東北弁っぽい。ああ、これが애なんだなあと思った。ということは韓国人の中にもこの二つの音を区別する人がいるのではないかと思って調べ始めた。

この애の発音が東北弁のように聞こえたので、まずは東北弁のエの音を調べた。ちょうど山形県で線状降水帯ができていてインタビューが流れていたのを聞いたばかりだったのである。ところがこれもなかなか複雑だ。東北にはɛとeの両方が使われている地域もあるらしい。標準日本語の「え」はeになるがナマエのようにaeがɛとなる地域があるそうだ。wikipediaの秋田県の方言の項目を読むと秋田県は6母音地域なのだそうだ。日本語にも5つ以上の母音を発音する方言があるのだ。いずれにせよ東北方言の「訛ったエ」の音がɛであることは間違いがなさそうである。애はɛと同じ音なので「あの音」が애なのは間違いがなさそうだ。

このドンヘ(東海)の出身地を調べてみると全羅南道の木浦の出身ということなのだが、全羅道の方言はエは애と発音するらしい。また京畿道の言葉でも애と에は区別しないとか、区別はしないが微妙な変化があるなどと人によっていうことが違っている。韓国語は蟹と犬が개と게であり「弁別はできるが普通は気にしない」という同音異義語扱いになっているようだ。

すると、音韻的に区別されているということではなく「方言である」のかもしれない。韓国語がきちんと読めればダサカッコイイ曲の中では実は方言が使われているなどということがわかって面白いのだろうが、さすがにGoogleTranslate頼りではそこまではわからなかった。かろうじて見つけたのは標準語で괜찮아요(クェンチャナヨ・大丈夫ですよ)という単語が南部の人には発音ができないという話だ。クェがケになってしまうので、ケンチャナヨになるのだが、そうすると文中では濁音化して「ゲ」になってしまうのだそうだ。日本人の耳にもクェは聞き分けられないので「ケンチャナヨ」と発音する人が多い。同じようなことが国内でも起きていることになる。

ここまでだらだらと書いてきた。何が言いたいかというと、実は日本人でもɛとeが区別できているということだ。東北弁が訛って聞こえるというのは標準語との違いを認識できているということを意味する。ただ、早い時期に文字を習ってしまうので周囲の音を全て「え」に吸着してしまうのだろう。

では日本語の「え」はどんな音なのだろうか。実は「い」と「あ」は一つの線の上に並んでいる。この並びは「い」「ɛ」「e」「あ」となっている。ところが、日本語の「え」はこの「ɛ」と「e」の中間なのだそうだ。厳密にはeに補助記号をつけて表している。ちなみに英語のbedのeは「ɛ」であり、catの「a」はæという音だそうだ。æは「あ」と「ɛ」の中間音だというので、この線状に並んでいる音には連続的な変化があり、それを言語によっていろいろ聞き分けていることがわかる。

英語でも同じような状況があるようだが、こちらはさらに複雑である。イギリスには容認発音と呼ばれる標準化が存在し、それによるとEの標準発音はɛ(日本人から見るとややぼやけた感じのエ)が標準なのだそうだ。だが、米語には標準発音そのものが存在しない。そもそもローマの言語(5母音)を前提にしたアルファベットは英語の複雑な「え」の揺れを捕捉できない。このため英語は国際記号より前に作られた発音をそれぞれの辞書が「工夫して」使うことになっている。辞書によりバラバラな発音記号が存在するのである。多分「ɛ」(日本語の「え」よりぼやけている)のだが、文字では捕捉できないので、ローマ字の常識にとらわれずビデオなどをみて真似したほうが早い。小学生や幼稚園児のほうが発音が良い理由がよくわかる。

日本人が英語を話すときカタカナの音に吸着され、それを離脱しても英語の発音記号の揺れに悩まされるという可能性がある。子供の頃に正しい発音ができていたのにローマ字を覚えてしまったためにわからなくなる人もいるかもしれない。日本の本がどのような発音記号を採用しているのかはわからないが、その道の権威が持ってきた米語の学派の一つをとって権威化しているかもしれない。そうなると、実情とずれていても気がつかないということになりかねない。

実際には弁別ができているのに、文字や学習に引っ張られてわからなくなってしまうということが起きているのかもしれないと思った。こうしたことは英語と日本語という二つの言語だけを比べてみてもよくわからない。早いうちからいくつかの言語を「かじって」おけば、英語の習得も楽になるのかもしれないなと思った。

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