安倍首相の嘘はどういう経路で国を衰退させているのか

本日は安倍首相が嘘つきであるという前提で文章を書く。なぜ嘘つきなのかという証明はしない。嘘を嘘と認めることが重要だと考えるからである。誹謗中傷だと取られても構わないが、人格攻撃が嫌いな人は別の言葉で置き換えても良い。

安倍首相は嘘によって政権を維持しようとしている。昨日の決算委員会を見て、嘘を認めるときにも嘘をつくことに驚きを感じた。今回は太田理財局長の答弁をきっかけにTwitterで「太田さんが嘘を認めたぞ」というようなつぶやきが流れ、ほどなくして新聞の記事になった。あまりにも嘘が多すぎるのでそれを認めるのに長い時間がかかり、本当のことを言ったというだけでニュースになるのだ。

この件NHKが「抜いて」、西田参議院議員が指摘し、太田さんが認めたという流れなになっている。ニュースでは西田さんが太田さんを罵倒したところが多く使われたのだが、空々しいにもほどがあると思った。たぶん隠し切れなくなったか佐川理財局長にすべてをかぶせるという落とし所が見つかったのだろう。野党が指摘して見つかると「彼らの得点になってしまう」という気持ちもあったのではないかと思う。しかし、マスコミの人たちもこれがお芝居だということを知っているはずで、知っていて「財務省が嘘を認めた」と言っているのである。異常としか言いようがない。

嘘がいけない理由を倫理的に説明することもできるのだが、ここではPlan/Do/Checkというサイクルで説明したい。計画を実行してチェックすることで学びを得るという一連の流れだ。意思決定がすべて正しいということはありえない。もともと思い切ったことをしているのだから、時々見直せばよい。ことわざ「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」とあるのだから間違えること自体は悪いことではない。

しかし安倍政権はこのチェックのサイクルを無視している。チェックすることによって万能感が損なわれるのが嫌なのだろう。

例えば、観察したように北朝鮮を巡る会談から除外されているのに、自分たちのおかげで交渉が進展したのは嘘というより現実否認である。しかし首相が現実否認するとそのあとの議論が一切許されない気分が作られる。それどころか、事実を隠蔽することまで日常的に行われるようになった。自衛隊の日報改竄は霞ヶ関で作った嘘がばれないように後世の教訓になりそうな日報をなかったといって捨てていたという問題だ。首相が過ちを認めて改めないので、その下にいる人たちは間違いを隠蔽して認めないようになってしmったのだ。

安倍政権は学ばないので自分たちの自分たちの政策がどんな影響を与えるのかを予測できない。これが嘘の最初の副作用だ。

現在の保守政治家は学ばないことを怖がらない。すべての教訓はすでに経験によって獲得していて自分はすべて知っていると考えているからなのだろう。西田議員と彼に続く自民党議員たちの質問を見ていて彼らhが学ぶ必要がない理由がわかった。西田議員はある意味選挙で何が一番重要なのかを正しく認識している。有権者は経済が成長しない理由を取り除くことなど望んではいない。彼らが欲しがっているのは当座の仕事である。

今回の質疑で西田さんは「どんどん鉄道を作ればよい」と主張し、プライマリーバランスの改善などどうでもいいと言い出した。経済成長すればプライマリーバランスはおのずと改善するのであって今は経済成長を再び起こすことが重要なのだという。多分念頭にあるのは世銀からお金を借りて新幹線を作ったように借金で鉄道建設を促進することなのだろう。新幹線ができてから経済成長が始まったという明確な経験が元になっているのだろう。これは戦争で破壊された生産設備が現代的な形で復活したので借金が役に立ったという点をまるで無視しているのだが、彼らにとってはそんなことは些細でどうでもいいことなのだ。

とにかく景気が良くなるまでお金を使えという話なので特に学ぶ必要はないし推移を注意深く見る必要もない。経済成長しないなら使い方が足りないといって騒げばいいのである。

これに対して政府側は議論せず「国際的信用も大切だし、地方にもお金を回したいし」というあいまいな答弁をしていた。足元では情報の改竄が恒常的に行われているのですでに自分たちが何をしているのかが分からなくなっており何も決められなくなっているのかもしれない。

だがさらに深刻なのは野党側だ。政府与党が小出しに嘘を回収するので、嘘を追及することが存在意義になってしまっている。政権運営の経験が乏しいかほとんどないので対案を出したりチェックしたりということができないのだが、嘘をついているのだろうと糾弾することはできる。小西ひろゆき議員は数まで数えて執拗に「安保法制が違憲だということになったら総理をやめますか」と質問をしていた。安倍首相がそれを認めるはずはないのだが、森友問題で旨味と達成感を学んでしまったのだろう。

本来ならこうした野党議員は淘汰されてなくなるはずなのだが、安部政権がこまめに嘘をついてくれるおかげで仕事ができてしまっている。こまめな嘘と隠蔽は野党に対する安倍政権の雇用対策でもある。

さらにマスコミは明らかに嘘だと分かっていることでも、政府が公式見解を出すまではなかったこととして報道する。そして政府が嘘を撤回するたびに恭しく「認めた」と伝えるのだ。マスコミが政府のお芝居にお付き合いするのは自分たちが責任を追求されたくないからだろう。「誰かが言っている」と書いている限り、自分たちの責任が追及されることはない。

日本は強い中央政府が協力に産業を推進することで成り立ってきた国だ。だから官僚機構の政策立案能力の低下は国の成長を著しく阻害する。すべての官僚がチェックではなく嘘のためにリソースを浪費しているので、経験から学びながら政策立案能力を磨くことができなくなっている。そして議員にはそもそも政策立案の意欲はない。

最初に安倍首相が嘘つきであるという前提で議論を始めたのは嘘つきであるということを証明することに時間を割かれると経験から学ぶことができなくなってしまうからである。このままでは日本は何も学べないどころか、今どこにいて何をしているのかすらも分からなくなってしまうだろう。すでにそうなっているかもしれない。

嘘という価値判断を含んだ言葉が嫌いであれば「現実から学ばない」と言い換えてもらっても良い。学ぶつもりがないというのは恐ろしいことなのだが、「全てを知っている」と思っあがっているとその恐ろしさもわからなくなってしまうのである。

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NHKのシビリアンコントロール違反というプロパガンダ

本日のエントリーはある意味失敗作だ。最初に日報を隠すのがどうしていけないのかということを説明しようとして失敗した。隠してはいけない理由が見つからなかったのである。

前回、日報を隠すのはクレジットカードの明細を隠して総額だけを渡すようなもので、それは社会通念的に認められるものではないと書いたので、これは全体の筋立てに無理があったということになる。つまり、日報を隠すのは法的にはいけないことなのかもしれないが、必ずしもいけないとは言い切れないということである。

例えば、全体例に出したクレジットカードの場合には、支払いという社会的な義務を正しく行うことが重要だ。もし、クレジットカード会社が「支払いがなかった」かのように振る舞うと利用者はどう思うだろう。最初は裏があるのではと疑うかもしれないのだが、周囲の人にも請求書が送られていないことがわかると次第に慣れてしまい「まあ、いいか」と思うかもしれない。

もちろん、誰かが支払いをする必要があるわけだから、請求は回り回って大きくなるはずである。だが、その結果がわかるまでには時間がかかる。それまで「なかったことにしょう」と思う人も出てくるかもしれない。

日報は不都合なことが書かれていた。自衛隊は憲法の制約があり戦地にはいけない。それは彼らが軍隊ではないからである。だから行った先は戦地であってはならない。しかし、非戦地が戦地になったからといっていち早く撤収することはできなかった。それは「かっこ悪いから」である。外国には軍事的貢献をしていると見られなければならないので撤収の決断ができなかったのだろう。

確かに、送り出した人たちは悪い。だが、反対している人たちも「本当に軍事的な国際貢献が必要ないのか」とか「この状態で本当に日本人だけが逃げ出してもよいのか」ということを議論しなかった。

政権運営に失敗して国民の信任を失った野党には他に攻め手がなかった。軍事・防衛は彼らにとっては格好の逃げ場だった。戦争がいけないという意見に反対する人はおらず、実際に戦争が起こるような状況にも置かれてこなかったからである。

もちろん、ここを攻められる原因は与党側が作っている。これまでだましだまし既成事実を作ってきたから法的な整備が一切進まず、さらに国民の理解もえてこなかった。

加えて、軍事防衛に固執するようになってしまった野党に対峙するうちに「あのうるさい野党が唯一根拠にしている憲法さえなければ、日本はもっと国際的に尊敬されるのに」と考えるようになる。さらにそれを単純化して「軍隊さえ持てば世界から尊敬される」などと考えるようになってしまった。

日本は今回の朝鮮半島対話から完全に切り離されている。これは、日本が軍隊を持たないからではなく、国内的な意思統一ができていないからである。

日本はアメリカの周辺国家に留まるのか大国として振る舞うのかというポジショニングの問題を解決していない。仮に大国として振る舞うなら「主権」に対して国民が関心を持つはずで米軍の常駐に拒絶反応が出るはずだ。しかし、日本人は軍事的にはコンパクトのような協定を憲法の上において満足している。コンパクトのような自由協定は軍事基地を置く以外に主要な産業がないような小さな国々にとっては合理的だが、日本にとっては必ずしも合理的なシステムとは言えない。それは政策オプションがアメリカのポジションに制約されるからだ。小国としてもピボットができなくなるので不利に働くということは以前のエントリーで説明した。

日本政府に大国指向があれば周辺国を挑発することはないはずだ。これは中国が経済圏を作ろうとしている大陸中央部の国を挑発しないのと同じことである。だが、実際に安倍政権がやっているのは中国への対抗心からくるバラマキであり、一帯一路のような戦略性が見られない。

野党に対峙していくなかで、日本政府の軍事・防衛戦略は「ボーイズクラブの妄想」のようになってしまった。幼稚な中国への対抗心や軍隊を持ったらもっと威張れるはずというような国家像なので、大人になる前の中学生的な妄想と言って良いかもしれない。

戦争は全部いけないという野党、軍隊を持ったら強くなって威張れると考える与党、面倒なことを考えたくない国民。これを総称して「文民」と呼んでいる。これが統制しているのが自衛隊である。

ここまで考えてくると日報の隠蔽問題がどうして国民の間で問題にならないのかがわかる。つまり、何も考えたくないし、不都合なことは見たくないからだ。だから、日報が隠されるのは実は「文民の要望だ」ということになる。野党は騒いでいるのだから非難の対象から除外されるべきだと考える人がいるかもしれないが、彼らは政権が欲しいかあるいは気に入らないから騒いでいるに過ぎない。問題そのものに関心があるわけではない。

国民は無関心から自衛隊を難しい立場に追いやっているという点で改竄や隠蔽に加担している。しかし、みなさまのNHKは優しさからくるのかもしれないが嘘をついている。それが表題になっているNHKのニュースの伝え方である。つまり、文民統制に違反しているとほのめかすことで国民の責任を曖昧にしているのである。

日報は国民が「不都合なものはみたくない」から隠されてきた。しかし、隠すこと自体は悪いことであり肯定できない。そこで「文民統制の点で問題がある」という認識にすり替えた。もともと統制するつもりがなく不都合があれば現場で適当に対処せよといって送り出しているのに、実際に文書が隠されていることがわかったら「軍人(自衛隊)が勝手にやった」「暴走した」と騒いでいる。これは戦前の国民が大陸進出を支持したのに、結果的に失敗して第二次世界大戦で負けた途端に「大本営発表で隠蔽した」とか「関東軍が勝手に暴走して戦争を始めた」などと騒ぎ出したのに似ている。

クレジットカードのたとえに戻ると、日報を見るということは「使いすぎてしまった明細を受け取る」のと似ている。ここで「なぜお前はそんなに使ったんだ」と夫が妻を攻め立てて、妻が黙ってしまうというような話である。だが、ここでやらなければならないのは「なぜそんなことが起こったのか」を検証することであって、離婚だ、家を出て行けと騒ぎ立てることではないはずである。

しかし、日本人は戦前と同じ過ちを繰り返そうとしている。誰かが勝手にやったことだと騒ぎ立てて問題の解決を避けている。確かに文書の隠蔽はいけないことなのだが、この話は多分そこで終わらせてはいけないのではないだろうか。

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自衛隊の日報隠しがなぜいけないのか理解できなかった……

今日の話はちょっと気が進まない。普段わけ知り顔で得意そうに政治について書いているのに、今回は自分があまり賢くないということを示しているだけのエントリーになってしまうからだ。

実は自衛隊が日報を隠したことがなぜいけないことなのかがよくわからなかった。よくわからなかったので興味がわかず、あまり取り扱ってこなかった。

この疑問を解決するためには解決しなければならない二つの要素がある。一つは日本の防衛戦略に関する基礎的な理解である。これについては別に書くかもしれないのだが、要約すると次のようになる。

日本は国民の理解を得ながら防衛戦略を推進するしかない。変化の多い環境では「一人のリーダーが独占的に意思決定する」か「みんなが納得して意思決定してゆく」という二つの選択肢しかない。北朝鮮は前者を取ったわけだが、いったん国際社会に組み込まれてしまうと今度は経済的競争という「平和な戦争」が始まり、やがて労働党独裁では対処できなくなるだろう。中国のように限定的な解放という戦略は狭い北朝鮮では取れない。

ということで、この文章には日本は国民に理解してもらいながら権限を委託してもらうしか生き残る道がないという前提がある。これは民主主義が美しいから民主主義社会になるべきだというお話ではないし、武器を取るとやがて全面戦争になり地球が滅びるというようなお話でもない。一方で、自民党の強いリーダーシップと長い民族の歴史があればおのずと世界から尊敬されるというようなお話でもない。

そもそも、日報って何だろうと思った。何だかわからないので身近なものに例えようと思って題材を探した。最初に思いついたのはプログラミングだった。外付けハードディスクに日報の断片があったということなので素人プログラミングと状況が似ているなと思ったのだ。チームでプログラムをやる場合、当然ながら勝手にローカルにコピーして保存してはいけない。チーム内で共有しているプログラムが持っている変更を常に引き継いで行かないと思わぬバク担ってしまうからである。

しかし、この例は無理がある。森友学園の文書改竄問題のような契約書や決済文書の場合ローカルコピーが様々なところにあるのは問題だが、日報はそのようなものではないからである。このプログラミングのメタファーは日本人が協力できないということを考えるには重要なのだが、今回の例には当てはまりそうにない。

次に考えたのは日報が「トランザクションデータだ」というたとえである。つまり、最終成果物を作るために必要な材料というわけだ。この線で考えてゆくとすぐにそのヤバさがわかった。

「トランザクション」という考え方はコンピュータシステムを嗜まない人にはあまり馴染みがない概念かもしれないので「明細」と言っても良い。つまり日報は最終レポートを作るための原材料だ。

例えばフレンチレストランで食事を楽しんだあとに、ワインでふらふらになった頭で請求書をもらっても、明細は確認しない。これは私たちがお店を信頼しているからである。お店を信頼しているからこそ安心してへべれけになれるのだ。だが、あとになって支払いを思い起こし「過剰請求」されたのではないかと考えたとする。慌てて店に電話したところ「いや、もう明細は残っていないんですよね、そういう決まりなんで」と言われたらどう思うだろうか。多分「ぼったくりだ」と直感するに違いない。

日報は途中成果物なので最終レポートがしっかりしたものであれば特に見る必要はない。しかし仮に疑念があった場合には日報を取り出して「ちゃんと現地の情勢は反映されていますから」と説明しなければならないし「なんならご覧になりますか」と言わなければならない。

レストランの例で説明するとわかりやすいのだが、日報などと言われて「これは法令や省令で保存しなくてもいいということになってるんですよね」などと説明されると、法律じゃ仕方がないなと思ってしまう。稲田前大臣は「請求書は絶対に正しいし、その明細は捨てた」と言っているようなものなのであり、これは無理筋の説明だ。

ここまでドヤ顔で書いてきたが、多分みんなこれがわかっていて騒いでいるんだろうなと思った。新聞を読んでいる政治通の人たちもこれがわかっているんだろう。自分だけが理解していなかったわけで、ちょっと恥ずかしい気分になった。

途中成果物と最終成果物は不可分なので、最終成果物が取ってあるから途中成果物は捨ててもいいという理屈は成り立たない。明細を見せられないということは少なくとも不誠実の証だし、決まりにより捨ててもいいなどというのは、最初から騙す気満々だったということになる。レストランの例でいうと日本政府はぼったくりレストランなのだ。

しかも「何が何でも騙すぞ」と思っていたわけでもなかったらしい。財務省の例を見て「あとで問題になったら誰かのクビを差し出さないと収まらなくなるぞ」とビビったのだろう。ぼったくりレストランとしての覚悟もなかったようだ。

例えば新聞社は記事が最終成果物なので途中成果物は捨てても構わないとは主張できない。確かに取材源の秘匿という問題があり、普段は表にださないのかもしれないのだが、何か疑念があった時には取材メモを出さなければならないだろう。加えて別のところから「実は結論と違った事実を掴んでいた」というような話が出てきたら読者はどう思うだろう。多分、その新聞社は潰れてしまうか世間から叩かれるのではないだろうか。

さらに、調書も途中成果物である。普段はこれをおおっぴらにすることはないのかもしれないが、もしどこかから犯人を有罪にするためにはあってはならない調書が出てきたらどうだろうか。間違った情報だけで有罪判決を出してしまったとしたらその裁判はやり直しになるだろうし、警察は大いに責められるはずである。調書が判決の基礎になっているからである。

調書に関しては刑事事件として刑が確定したものに関しては情報が開示されるという法律があるそうだ。不起訴になった場合には開示されないともいう。

これらのことを考えていて、日報が隠蔽されていたということのヤバさがわかったのだが、一旦理解できると「なぜみんなもっと騒がないのだろう」と思えてくる。よくわからないが一部の人たちが騒いでいるだけなので「あの人たちは政権が欲しくて言っているんだろうな、お気の毒さま」と思っているのかもしれない。

さて、最初のややこしい話に戻る。日本は防衛戦略として「国民の理解を得ながら防衛政策を進めてゆくより他にない」というちょっと硬い話である。この部分はいったん文章を全部書いたあとに付け足した。なぜかというと結論が書けなかったからである。

日本人にとって民主主義は儀式(リチュアル)にすぎないのだから防衛文書が隠されていても儀式さえ滞りなく終わればそれで良いようにも思える。フランスのジャーナリストには「民主主義のお芝居をしている」と書かれているそうである。この人は紳士なのだろうがこれは皮肉ではない。多分事実だ。

政府も官僚も国会も司法もメディアも国民も、日本の民主主義を構成するすべての人たちが表面上はそれぞれの役割を果たしているように見えて、実際には「民主主義というお芝居」を演じているだけなのではないか?という皮肉すら言いたくなってきます。(ルモンド特派員 フィリップ・メスメール)

お芝居でも国は動いているわけだからそれでもいいじゃないかという見解は成り立つ。だがこれが成り立つのは固定的な環境があって、そこに順応するストーリーを時間を書けてでっち上げられる場合だけだ。現実の国際情勢は刻一刻と変化し、アメリカ大統領までもが「日本はアメリカの防衛戦略にフリーライドしている」といって拍手喝采されるようになってしまった。隣の国は核兵器を持とうとしている。この状況に対応する唯一絶対の正解があるという人がいたらその人は十中八九大嘘つきだろう。

こうした情勢の変化を受けて意思決定しなければならないことは増えてゆくはずのだが、その度に「センソー(何の戦争かはわからないけどとにかく「センソー」)ハンタイ」というデモを起こされて国会が止まっては困るのだ。だから、軍が関与する国際情勢上の変化はありのままに伝えられる必要があり、その意思決定はお芝居や儀式では困るということになる。そしてそれは防衛だけでなく経済にも影響が波及する。経済競争は多分「平和な戦争」である。

この点について考え出すとかなり長い文章になりそうなので、今日はここまでにしたい。今日の結論は日本政府は、意気地のないぼったくりレストランだということである。

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西部邁さんの自殺幇助はなぜ許容されるべきではないのか

西部邁さんの自殺を幇助したとして二人の知り合いが逮捕された。最初の感想は不謹慎だが「これが本当の確信犯だな」というものだった。これについて島田裕巳さんがこのようにツイートしている。人によってフレームワークはそれぞれだなと思ったが安楽死の問題だとは思えなかったし、そもそも議論の対象にしてはいけないのではないかと思った。

いろいろ考えていて、この問題は戦後の保守思想の限界をよく示していると思った。がさらによく考え他結果、保守思想ではなく日本の戦後思想の限界があるのではないかと感じるようになった。事前に安倍首相が国際情勢に乗り遅れてゆく姿を観察したからだと思う。

安倍首相が国際情勢に乗り遅れた理由は、彼と彼の取り巻きが「国際情勢をよく理解している」と思い込んでいるからだった。価値観を含んだ言い方をすると「知っていると思い上がっている」ということになる。ところが「自分たちだけが真実を知っている」と思っているのは保守だけではない。護憲派が盛り上がらない理由として共産党の人が「自分が戦争の悲惨さを一番よく知っていて、それ以外のすべての取り組みはすべて不完全である」と考えていることを観察した。

どうやらこの全能感は広く共有されているようである。ではそれはどこから来るのだろうか。

一足飛びに話を始めてしまったために西部さんの問題に戻る。西部さんは自分の人生の価値は自分がよく知っており役に立たなくなったら自分で終わらせて良いと考えていたようだ。つまり、自分の人生を「アンダーコントロール」な状態にしたかったということになる。そして、彼の信奉者たちはその思想に乗ったのだ。

このニュースについて聞いた時に最初に思ったのは、誰かの自殺を認めてしまうと別の人たちの自殺を考え直してもらうことができなくなると考えたからだ。学生たちは極めて閉鎖的な空間で「学校だけが人生だ」と思い込むようになる。周りの人たちも学校生活から脱落したらこの先社会から受け入れられず、人生は終わりだと考えることで、さらに追い詰められて行く。だが、この考え方は必ずしも正しいとは言えない。

島田さんがいう安楽死の問題は苦しい病気を逃れられない上に治癒の見込もない場合には死期を早める選択肢がありうるという話であって、西部さんには当てはまらない。加えて西部さんが学生と同じような心理状態に陥っていた可能性すらある。多分西部さんは「自分はよく考えた」というだろうし「衰えてゆく恐怖はお前にはわからないだろう」というののだろうが、それは多分学生たちも同じようなことをいうだろう。

そもそも、人間は自分の人生の意味を自分で理解できるのだろうかという疑問がある。キリスト教ではこの考え方を明確に否定している。人生の価値を知るのは神だけであり人間はそれを知ることができない。だから自殺はキリスト教圏では犯罪なのである。だが、わからないから考えないということにはならない。わからないからこそ追求しようという姿勢が生まれるのだし、人知を超えたものだから他人の命も大切にしようということになる。

日本はキリスト教圏ではないのだから、こうした考え方を当てはめることはできないように思える。日本の場合には村の外に人知を超えたものをおくことで「畏れ」を通して人間に謙虚さを教えていた。

最近、欠損村落について考えている。日本人は書かれた契約を大切にしないので社会が作れないのだが、それでも村落コミュニティを持続させるための知恵を置いていてそれを「伝統」という名前で括ってきた。

だが、日本人が村落を捨てた時にこの人知を超えたものを捨ててしまったのかもしれないと思った。人間はすべてをコントロールできるのだから、自分の命を自分で処分してもよいと考えるようになったのである。これは何も保守だけの心情ではない。

ではこのアンダーコントロールは何を生み出すのだろうか。

例えば、安倍首相は世界に向けて福島原発の問題はすべてアンダーコントロールだと宣言した。多分、その当時安倍首相は本気だったのではないかと思う。しかし、実際には原発の問題をコントロールすることはできない。廃炉の見込みが立たないばかりではなく、放射性物質が海に撒き散らされる事態も収束できないようだ。しかし、安倍首相はアンダーコントロールだと宣言してしまったので、戻れない人たちを「自己責任だ」といって切り捨てたり、放出される放射性物質をなかったことにしようとしている。

自分はすべてがコントロールできるはずだという傲慢さは現実の否認につながり、さらに他人の人生を否定することになる。保守の場合「日本の伝統についての解釈はすべて自分が知っているのだから、それに当てはまらない人は生きている価値がない」という展開になる。

「自分の人生は自分で処分できる」と考えているうちは自己責任だから良いではないかと思えるのだが、実際には他人の人生を巻き込んで暴走してしまう可能性があり、実際にそういうことが起きているのである。安倍首相は「国際情勢は自分がよく知っており、実際に自分が言った通りになった」と思い込むことで国力を衰退させてしまう可能性が高い。しかし彼らはそれを反省せずに「脱落した人は自己責任だから自分で自分の命を処分すべきだ」と言い出すことになるだろう。

もし、西部さんが保守であったとしたら日本人が持っていた畏れのようなものを織り込んでいたはずなのだが、その根をみると多分出発点は日本の伝統ではなかったのではないだろうか。

こうした倒錯がどうして起こるのかを考えてみた。科学というのは神の領域に近づこうとする人間の試みである。しかし、その成果だけを見るとすべてのことが「ぱっきりと」説明できているように思えてしまう。追求や探索の過程がすべて終わっているからである。

日本人は戦後西洋から「科学的思考」を取り入れた際に、科学を正解の束だと誤解した可能性がある。一方で村落が持っていた鎮守の森の得体の知れなさなども捨ててしまい「自分たちが知っている理論だけがすべてをコントロールできるのだ」と思い込んでしまったのかもしれない。

平たく言ってしまうと「日本人はもっと謙虚になるべきだ」ということになるのだが、かつてはそうした謙虚さをきちんと持っていたのではないかと思う。本来ならばそれこそが保守が追求すべきことなのではないかと思う。

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どうせ誰も助けてくれない

このところ毎日のように村社会について書いている。日本には村社会的な慣行が残っていて成長を妨げているというような話である。ただ、これは概念的な話で、やはり現実的には村空間は破壊されており援助が得られない人もいる。今回はそんな話である。

先日、Twitterで「この人の言っていることはどの程度本当なのだろうか」と思う人を見かけたというような話を書いた。結論からいうと虚実が入り混じっていた。この件についてさらに話を聞いたのだが、いろいろ考えさせられることが多かった。Twitterは顔が見えないのでいろいろなバックグラウンドの人がいるということと、他人を「助ける」のはそれほど簡単ではないということがわかった。

この人の主張をまとめると、いろいろな政治家のところに行ったがみんな悪い人ばかりで、結局は誰も助けてくれないというものだった。どうせ誰も助けてくれないというので「そんなことはない」と言いたくて話を聞くことにしたのだが、どうも一貫しない。そこで話をまとめてもらえるようにお願いしたところブログのURLが送られてきた。途中まではまとまっているのだが、最後がかなり乱雑になっている。そして、まとまった話の内容がどうも少しおかしい。

前回のビートたけしの件でも書いたのだが、日本人は「どちらが悪いか」ということを経緯の中からわかってもらいたいという傾向が強いようだ。この人にも同じ傾向がある。だから「何がしたいのか」とか「何がして欲しいのか」ということは後に来る。「何がして欲しいかわからないのに、誰も助けてくれないと思ってしまう」というのはよくあることなので、そこを整理すれば良いのかなと思った。だが、DMなどを使って話を聞いていると何かがおかしい。

そこでわかったのはこの人が「情報の刈り込みができない」ということだった。話をしているうちにいろいろな思いが溢れてきて「全部伝えないといけない」と思ってしまうようである。その中に「逮捕された」とか「強制入院させられた」というワードが出てきた。投薬経験もあるようで「眠らされたと」いうこともあるようだった。それが「医療過誤」という話につながり、だから訴えたいとなる。

ここで病気の名前を書かない理由はいくつかある。まず、精神科医ではないので適切な診断名がつけられない。どこからが正常でどこからが正常ではないという境目がない。この人もいろいろな人からそれを指摘されて「自分は違う」と考えているようである。さらに、大した診断もしないで適当に病名だけつけて薬漬け二するということも行われているようである。本人は納得しないままに薬だけが増えてゆくということになる。

病気が重いか薬の量が多いと作業はできないと思うのだが、ブログサービスやTwitterに登録して自分の情報を発信することもできているようだ。さらに、政治家のところにいって意見をいうこと自体はできているようである。だが、言っていることがまとまらず終わりもないので最初は親切のつもりで聞いてあげていても途中で嫌になってしまう人が多いのではないかと思う。

こうした人の話を聞くのにはスキルが必要だ。だが、突然こういう体験をすると何をしていいのかわからない。そこで市役所の福祉の窓口に相談をしてみた。職員は「福祉メニューは紹介できる」という。だが、プライバシーの関係から家族でもなく資格もないという人は大したサポートはできないようである。

そういう意味では、こういう経験をしたときに最初に聞かなければならないことは「サポートできる家族がいるのか」ということと「すでに福祉サービスに乗っているのか」ということのようだった。そこで家族について聞いてみたのだが、失踪したとか見捨てられたとか、家がなくなったなどと辻褄があわなくなったので、市役所の人とコンタクトできているのですかと聞き変えてみた。すると「市役所(この時点ではどこの市役所なのかがわからない)の人は気に入らないからお付き合いしていない」と始まり、市職員にいかにひどい目に合わせられたのかという話が始まった。

この拡散がこの人の特徴なのだろうと思った。誰でもいろいろな経験をすると良い可能性や悪い可能性を思い浮かべる。普通の人であれば対話を通じて情報を刈り込んで行き最終的にもっとも高い可能性を残す。これが他人の推論と合致してはじめて「現実」だと認識されるわけである。だが、刈り込みがないと突拍子もない可能性について言及してしまい、それが他人の推論と合致しないので結果的に「幻想」などと言われるのかもしれないと思った。

ここまでで「聞いてもらえていない」とか「適当にあしらわれている」という感じを与えずに思考の拡散を防ぐためには、必要なことを「はい」か「いいえ」で答えられる形式で聞くべきだということがわかった。ここで「優しい私」をアピールしようとするとかえって曖昧な態度になってしまい相手を怒らせるか、手応えがないといってやめてしまう人もいるのではないかと思う。

Twitter経由ということもあり、聞けたのは「生活保護は今でも受けているか」ということのみだった。生活保護を受けていれば(本人は市役所とコンタクトがないと主張していても)少なくとも市役所の福祉網には捕捉されているということがわかる。

ただ、家族との連絡は取れていないようなので、不安は大きいだろうなと思った。さらにいろいろなところに助けを求めるうちに悪い人に騙されてもいるようだった。どうやらこういう人を騙して保護費を中抜きする人がいるようなのだ。

よく生活保護とか精神的に不安定であるということに対して概念的な話を聞くのだが、いざ自分が接したときにどうしていいかわからないものだなと思った。精神的な介助だけでなく例えば車椅子の介助であったとしてもある程度の知識がないままでは手出しができない。また「いい人」をアピールしたいとか生きがいを見つけたいというような動機で手を出すと続かないだろうと思う。話を聞いてもそれが賞賛してもらえることはないからだ。ただ、今回の場合は相手は納得したのか「話を聞いてくれてありがとう」と言ってもらえた。「大して役に立たなかったな」とは思われたかもしれないのだが、まあ怒られるよりはマシといったところではないかと思う。

「誰も助けてくれない」という感覚は自分で経験しないと苦しいものなので、なんとかしたくなってしまうのだが、やはり社会的な仕組みがないとサポートは難しいと思った。また、よく他人に勝手に病名をつけて排除しようとする人がいるが、世の中には過酷な体験をしている人もいるのだろうから、それは本来控えるべきだし咎められるべきでもあると思う。

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私利私欲と公益性の間で

先日、投げ銭をいただいた。投げ銭システムを導入した時「この人もお金が欲しいのか」と見られるのではないかとちょっと躊躇した。また、いただいたらいただいたでお礼をすべきかなどと迷っている。今のところこちらから連絡はしないでお気持ちだけいただこうと思っているのだが、これはおいおい考えることにしたいと思う。

「お金が欲しい」と思われて何が悪いのかということを改めて考えてみると「無私・公平」とか「私利・私欲」という言葉にある印象があることがわかる。どちらかというとお金をもらうことは悪いことで、お金とは関係なしに正義を追求するのは良いことだと感じられる。これが正しいのかどうかについての答えはすぐに出ないので、疑問を持ったまま先に進みたい。

今回、投げ銭システムについて書こうと思ったのは、一緒にコメントをいただいたからである。PayPalのコメントは130文字近くしか入らないらしいのだが最後の方に「やるせない気持ちに……」と書いてあったので、少し申し訳ないと思った。扱っている様々な問題について解決策が見つからないことでがっかりすることは少ないのだが、読んでいる人がそう思っているとしたらそれは少し申し訳ない。

解決策をあまり書かないのには理由がある。

もともと、このブログを書く前に「世の中はこうなるべきだ」というようなことを書いたことがあるのだがその文章は全く読まれなかった。そこでそれをやめて読んだ本のことを書き始めたのがこちらのブログのはじまりになっている。

その時には、日本人は個人の意見を受け入れないから影響力のない個人の解決策は読まれないのだと思っていた。日本人にとっては影響力のある組織に属している人とか、名前のある人の意見を好む傾向がある。その他に外国人を連れて行って「アメリカでは」とか「スウェーデンでは」などというと話を聞いてくれる人もおり、実際にそういうアドバイスがお金になることもある。「東大を出た人の意見」や「MIT卒業の人の意見」などというものもあり、意見よりも人間関係などの背後にある文脈を見られることが多い。

影響力を保つためにページビューを集めれば良いのだろうかと思ったのだが、それも違うようだ。ページビューを集めること自体は実はそれほど難しくはない。最も簡単なのは人格に注目することである。誰かを批評するか同調するのが一番簡単だ。だが、それは個人の意見ではなく誰かの意見だ。そしてその誰かの意見も別の人の意見だったりする。玉ねぎの皮を剥くようにどこまでも個人の意見というものが存在しないし、有名人がメンションしたコンテンツは2日程度で読まれなくなる。ページビューを集めてある程度のプレゼンスを維持するのも重要なので、時々安倍政権の悪口を書いたりもするが、問題の解決にはあまり役に立たないし、ブランド構築にも役に立たない。

しかし、解決策を書かないからといって、解決策が見つからないというわけではない。

例えば森友学園を巡る文章改竄事件について見ていると、その動機はさておき、改竄自体は村落の際で起きていることがわかる。問題を解決しようと思えば関係者をひとところに集めて、実際に何が起きているのかを聞けば良いはずだ。そこで本来力を発揮するはずなのが情報ハブである官邸である。官邸は省庁間の調整機能なので中立な立場でものを見ることができるはずだからである。

ご存知のように問題になっているのは実は官邸そのものである。司令塔であるという役割を放棄してプレイヤーになっている。これは日本人が村落の共同体として社会を認識し、リーダーとは何かということを教育されてこなかったからだと考えられる。つまり、官邸も村になってしまっており、力の強い村として近隣を押さえつけているのである。

一方で、野党も安倍政権打倒に夢中になっている。こちらは安倍村を潰そうとしているまとまりに欠ける村々の集まりである。だから安倍村は影響のある村に命じて「情報を出さないように」と指令して問題は隠蔽されつつある。

だから、問題を解決するためには野党が「民主主義にとって記録は大切なので、政権に関する議論は棚上げにいたします」と言ってしまえばよいことになる。すると国民は「野党は本当に日本のことを考えているのだろうな」と思うだろう。何が起きているのかがわからなくなってしまえば民主主義国家としての体裁をなさなくなってしまう。政府が恣意的に法律を運用する国に投資をする人はいないだろうから、経済的な打撃も大きい。

だがこんなことは起こりそうにない。それで「日本終了」かとか「絶望だ」などと思ったりもするわけだが、自分の意見をあえて持たないことであることに気がつく。つまり、与党は問題を隠すことで問題を大きくしており、野党は政権奪取の口実に森友問題を利用しようとすることで積極的に「問題を解決しないこと」を選んでいる。つまり、問題を解決できないわけではなく、積極的に解決しない道を選んでいるということになる。そして、政治に関心がある人はたいていどちらかの立場で積極的に問題を解決しないことに加担している。

もし、その気になったなら政権選択という村同士の小競り合いをやめて問題を解決するためのプロジェクトチームを作れば良い。それがリーダーシップというものである。だが、積極的に解決しない道を選んでいるのだから、それも民主主義というものだということになるだろう。

人間が党派性に夢中になる気持ちもよくわかる。例えばマクドナルドのwi-fiの問題について調べている時にカスタマーサポートや店長と話していると「彼らはこんな簡単な問題」についてなぜ非を認めないのかという気分になる。逃げると追いかけたくなるのだ。だが、よく考えてみるとwi-fiがつながらないで困るのは彼らであって、自分は別の店に行けば良いだけだ。だが、その問題に直面しているとつい「相手に自分の正しさを認めさせたい」という気持ちになる。

日本人が個人の意見を聞かない理由の一つには、相手に支配されたくないという気持ちが強くあるからではないかと思う。強い党派対立の世界を生きているので、相手の言うことを一度受け入れてしまうともっと無理難題を聞かなければならないのではないかと思うのだろう。また、個人が情報を受け取っても組織の説得という問題が出てくる。日本人はリーダーシップを嫌うので問題意識を持つことすら拒否するということになる。だから、問題をなかったことにする方が楽なのだ。だが、このような気持ちを持てば持つほど「隠蔽している」と怒り出す人が出てきて炎上案件が増える。でもやりたくてやっているのだから、それも通らなければならない道なのだと認めるしかない。

公益を追求しているつもりで自分だけの正義を押し付けることもあれば、逆に自分が面白いと思うことが他人の役に立つこともある。また、解決策を探そうとすると問題そのものが見えなくなることもあれば、答えを出さないと決めると答えが見えてくることもある。この辺りの頃合いは試行錯誤しながら見つけて行くしかないのかなと思う。

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