保守主義と農業

植木鉢の整理をしている。植物は、ものすごく調子が良かったのに、ある時を境に著しく調子を崩すことがある。たいていの場合根がなくなっている。だが根がなくなってもしばらくはわからない。勢いがなくなって初めて「ああ、根がなくなっていたのだ」と思うわけである。だからその前に挿し木を作ったり種を育てたりして株を更新する必要があるわけだ。

植木鉢を育てていると、日本人が今でも植物を育てていれば、根の大切さがわかるのになあと思った。日本の保守思想は農業民族だった日本人の知恵を基礎にしているので、農業への理解は非常に大切である。国や会社などの組織を植物に例えると栄枯盛衰が予測できるため、運勢学に応用されたりしている。

今の日本人は根の大切さがわからずに表面だけをみていろいろな議論をしようとする。西洋流にみると目的意識を持たないでその場限りの議論をすると批判するのが妥当だが、日本流にみると根の大切さを学ばずに議論をするから、いつまでたっても「地に足のつかない」議論になるのだと言える。

農作業の場合には、毎年植え替える稲のような植物を除いては、定期的に畑を変えたり、数年に一度植木鉢を分解して根の調子を点検する必要がある。主に見るものは、土壌と根の2つである。

土の中にはさまざまなものがあることがわかる。例えばコガネムシの幼虫が繁殖して根を噛み切っていることが多い。さらに大きかった土の粒が崩れていたり有機質が消費されて土が粘土状になる。こうなると根が窒息するので土をふるいにかけて細かな粒を取り除いてやる必要があるのだ。古来の農法だと山から有機質を持ってきたりして土壌を改良するのだが、現在では化学肥料をまけば栄養分は補給できるので、土の粒を整えるのが大きな仕事になる。

かといって毎年植物を植え替えていると根が伸びる時間がなくなるので却って植物が傷んだりする。だから、毎年掘り返して根を確かめるのもあまりうまい方法とは言えない。

農業的な文化を持っている地域では全てのものは永遠だとは考えない。このようにして盛りのものはやがて衰退する。衰退の仕方は様々だが時々取り出して点検をする必要がある。中国の暦は十二と十を組み合わせて六十の組み合わせでひとまわりになり、どちらも季節の組み合わせを意識している。

では、組織にとって根とは何だろうか。それは多分人材である。人を育てるには時間がかかる。あまりにも入れ替わりが激しいと人が育たないし、かといって全く人が動かないと腐敗してしまう。また、教育は空気に当たるものと考えられる。

例えば日本の自称保守は根の大切さを全く忘れている。そこで本来は国の基礎になる教育を人気取りのための取引材料に使ったりする。見た目にあたり枝葉ばかりを茂らせたがるのだが幼児教育の大切さには全く気がつかない。そこで「幼児教育は大切だから無料にする」などと言っておきながら「ただし例外がある」などということが平気でできるのである。もし、彼らが自称通りの保守であれば、自分たちの国を大切にするはずなので、どうやったら根を育てることができるかに心を砕くはずである。

教育議論一つを見ても保守と呼ばれる人たちほど関心がないことがわかる。国防や戦略といった議論にばかり熱心で、子育てや教育などは人気取りのために適当に利用できるおもちゃだと考えているわけである。彼らは大きな木を育てて周りを威圧したいが、実は全く根っこがない。だからその木はすぐに倒れてしまうだろう。

さらに単に戦争ができる国になれば日本人の民族の誇りが蘇るとか、他の民族をないがしろにすることで自民族の優位性が保たれるなどと考えている人も多い。

こういう人たちのことを「ネトウヨ」と呼ぶのだ。

農作業が日本の保守のこころねであると書いたのだが、もちろん日本の保守思想には欠点もある。農業は日光と水の量で収穫が決まってしまう。つまり誰かが儲けているということは、誰かが損をするということだ。儲けるためには上流で水を自分たちの田んぼに水を流すか、日当たりの良い場所を人から取り上げる必要があるということである。こうしたゼロサムの思想は日本人に染み付いており、ビジネスは「金儲け」という偏見の目にさらされることになる。つまり、日本の保守には「協力して新しい何かを成し遂げよう」という精神的な素地はないので、これは外から持ってくる必要がある。

根の大切さを忘れた国には未来はないし、人を育てることを忘れた組織には未来はない。いずれにせよ、日本人として保守思想を体感したいのならば、まず何かの植物を育てるべきである。

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貴乃花親方と品格という十字架

日馬富士の暴行事件が思わぬ方向に展開している。最初は「暴力はダメだろう」というような論調だったのだが、次第に貴乃花親方の挙動がおかしいという話になってきた。診断書が二枚あり貴ノ岩も普通に巡業に参加できていたというのである。さらに協会側は医師のコメントを持ち出してきて「疑いとは書いたが相撲はできるレベルの怪我でしかなかった」などと言わせた。つまり、状況的には貴乃花親方が「嘘をついている」ということになる。さらに親方は普段から目つきがおかしく「何か尋常ではない」ものが感じられる。

これだけの状況を聞くと「貴乃花親方の挙動はおかしい」と考えるのが普通だろう。

いろいろな報道が出ているが毎日新聞は面白いことを書いている。相撲協会は力士の法的なステータスを明確化しようとして誓約書の提出を求めたが「親方が絶対だ」という貴乃花親方だけがそれに協力しないのだという話である。

普通に考えると相撲は近代化したほうがよい。いろいろな理由があるのだが、一番大きな理由はリクルーティングの困難さである。力士には第二の人生があり、そもそも力士になれない人もいるので、相撲について「仕込む」のと同時に相撲以外の社会常識を教えたり、関取になれなかった時の補償などをしてやらなければならないからである。

そう考えると、この問題の複雑さが少し見えてくる。貴乃花親方は「たまたま成功した」が「相撲以外のことを全て失ってしまった」大人なのだ。

第一に貴乃花親方の父親はすでになくなっており、母親はすでに家を出ている。さらに兄とも疎遠である。さらに実の息子も「ここにいたら殺される」と思ったようで、中学校を卒業してすぐに留学してしまった。現在相撲とは全く関係のない仕事をしているそうであるが、これは家族の離別ではなく「美談」として語られている。相撲界は個人としてもいったん外に出ると戻ってこれない片道切符システムなのだが、それは家族の領域にも及ぶ。

加えて中学校を卒業してからすぐに部屋に進んだため高校に進学していない。中卒が悪いとはいわないが、相撲で現役を退いたあとすぐに親方になっており社会常識を身につける機会はなかったはずである。しかし、相撲のキャリアとしてはいったん外に出て社会常識を身につけた上で復帰するという制度は考えられない。

さらに、相撲の影響で体にかなりの影響が出ているようである。Wikipediaを読むと「右手がしびれて使えない」とか耳が聞こえにくく大きな手術を余儀なくされたとある。

「相撲に命をかける」といえば聞こえはいいが、家族と断絶し学歴や社会常識を得る機会も奪われた。さらにそれだけではなく健康すらも害しており「もう相撲で生きてゆくしかない」ということになるだろう。そして、これは貴乃花親方個人の問題ではない。

もともと相撲は興行(つまり見世物のことだ)のために必要な力士を貧しい農村部などから「調達」してくるという制度だったようだ。

花田一族で最初に相撲の世界に入った初代若乃花(花田勝治)は青森のりんご農家に生まれた。しかし一家は没落してしまい室蘭でその日暮らしの生活をしていた。戦後すぐに素人相撲大会にでて力士の一人を倒したことで相撲界にリクルートされたという経歴を持つ。しかし、働き手を失うとして父親から反対されたので、数年でものにならなかったら戻るという約束で東京に出てきて「死に物狂い」で稽古をして強い関取になったとされる。これは美談として語られている。

しかしながら実態はどうだったのだろうか。厳しい練習をしても相撲で食べて行けるようになるかはわからない。東北・北海道の寒村というものは日本から消えており「全てを投げ打って相撲にかけるしかない」という地域は消えてしまった。

実は、モンゴル人の力士はこのような背景から生まれている。つまり日本で力士が調達できなくなったから貧しいモンゴルから連れて来ればよいと考えられるようになったのだろう。しかし、当初の目論見は失敗に終わる。

最初のモンゴル人力士たちは言葉がわかるようになると「これはあまりにも理不尽で将来に何の保証もない」ことに気がつき脱走事件を起こした。逃げ出さないようにパスポートを取り上げられていたので大使館に逃げ込んだそうだ。これが1990年代の話である。つまり日本がバブルにあったので力士調達ができなくなった時代の話なのである。

しかし、中国とロシアが世界経済に組み込まれるとモンゴルにも経済成長が及んでおり今までのようなやり方で見世物のために力士を調達することはできなくなっている。だから、相撲協会はなんらかの形で現代化してスポーツ選手としての力士を「養成」しなければならない。

ところが、相撲協会は、大相撲が興行だったころの体質を残している。もともと興行主である「相撲茶屋」が興行収入を差配していたようだが、これを力士で運営して利益配分しようという制度に変えつつあるようだ。つまり資本家から独立した労働者が利益を分配しようとした「社会主義革命」だということになる。相撲協会はソビエトのようなものだが、共産主義は例外なく労働者の代表が新しい資本家になってしまう。

2010年の貴乃花一門独立騒ぎでは、貴乃花は「改革の担い手」だと認識されたのだが実際には「旧態依然とした相撲道のために全てをなげうつ」という現在では通用するはずもない価値観の犠牲者になっていることが判る。

相撲はこのように多くの矛盾を抱えており潜在的には存続の危機にあるのだが、相撲ジャーナリズムはこのことを真面目には考えていないようだ。彼らは相撲協会と精神的に癒着した利益共同体を形成しており批判的な態度を取れば取材が難しくなる。

さらに相撲の商品価値を高めておく必要があり話を美しく「盛る」必要があり、全ての矛盾を隠蔽したまま「品格」というよくわからない言葉で全てを包んで隠蔽しているのである。

「品格」という言葉は聞こえはいいが、実は何が品格なのかというのは誰にもわからない。にもかかわらず相撲で成功してしまった貴乃花は家族と孤立し健康も失い社会常識を身につける機会もなく、変化にも対応できなくても一生品格という言葉に縛り付けられることになるだろう。それがどのような人生なのかは想像すらできないが、過酷なものであることだけは間違いがないだろう。

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「アイヌ語は日本語の方言です」の破壊力

Twitterで「アイヌ語は日本語の方言ですがなにか?」というつぶやきを見つけた。日本では民主主義や議論の空間とというものは徹底的に破壊されているのだなと思った。

議論が成り立つためには「お互いに気持ちの良い空間を作って行こう」という双方の合意が必要だ。政治の世界ではこれを「統合」などというようだが、この統合がまったくなくなっているのではないかと思う。その裏には「今まで協力して何かをなしとげたことがない」人たちが大勢いるという事情があるのだと思う。

この<議論>の裏にはアイヌ振興予算の存在がある。かなりの額が支出されているので「アイヌはおいしい思いをしている」という嫉妬を呼んでいるのだが、実際には博物館建設のような箱物にも支出されている。アイヌ系のデヴェロッパがいるという話は聞いたことがないので、実は仕事のなくなった和人系の人たちへの対策になっているのである。

もちろんアイヌ語は日本語の方言ではないのだが、これを言語学に興味がない人に説明するのは実は難しい。言語と方言というものの境界に曖昧さがあるからである。

琉球諸語と日本語には語彙に関連性がある。また文法もほぼ同じで単語にも関連がある。つまり、日本語と琉球諸語には強い類縁関係が認められる。ゆえに琉球諸語と日本語を同じ言語とみなして、お互いを方言関係にあるのか日本語族の中に琉球諸語が含まれるのかというのには議論の余地があるものと考えられる。沖縄の言葉と本土の言葉の関係が方言なのか言語なのかというのは歩い程度政治的に裁量の余地がある。

しかし。アイヌ語と日本語の間には類縁関係は認められない。統語方法も単語も発音も全く異なるからだ。日本語や朝鮮語は膠着語であり文法は似通っているのだが、日本語と朝鮮語には語彙の違いがあり発音も異なり同じ言語とはみなせない。アイヌ語には縫合語という日本語にはない統語法があり、なおかつ語彙もほとんどが違っており発音も異なる。ゆえに、朝鮮語、日本語、アイヌ語を方言関係にあるという人はほぼいないはずである。日本語と朝鮮語は同じ語族であるという人がいたが、アイヌ語と日本語が同じ語族にあるという人はほぼいないのではないだろうか。

何が言語で何が方言かという議論には幅がある。例えば琉球諸語と日本語を言語として呼ぶという立場は極めて政治的なものであり、朝鮮語と日本語が別の言語であるという立場はそれほど政治的ではない。だが、議論するためにはそれを相手に理解してもらう必要があり、理解のためには相互で意思疎通をして共通の問題を解決したいという意欲が必要である。

だが、実はこの議論の基本にあるのは、では「日本語とは何なのか」という認識なのだ。つまり、我々の源とと周辺諸言語の比較によってしか「日本語の位置」はわからない。だから「アイヌ語は日本語の方言」と言い切ってしまうと、実は自分たちのことがわからなくなる。そして、実際に日本人は自分たちのことがわからなくなっており、他者に説明できないがゆえに様々な問題が引き起こされている。

ここまで考えて「この議論には価値があるのか」という問題が出てくる。議論する余地がないなら別に放置しておいてもよいのではないかということだ。そこで「民主主義について無茶苦茶なことを言っていた人たちを放置した結果、今の惨状がある」のではないかと考える。大勢で無理をいうとそれが多数派になり<事実>として受け入れられるという見込みがあるのだろうが、そのような人たちが蔓延しているのでついついいろいろなものに対して防衛しなければならないのではないかと思ってしまうのだ。

アイヌを民族として保護しようという立場に立つと、いろいろな方法でアイヌがなぜ民族なのかということを説明せざるをえない。だが、アイヌは民族ではないという人はいろいろ勉強する必要はない。単に「民族ではない」といえばいいだけである。これはイスラム過激派がシリアやアフガニスタンの遺産を壊して回るのと同じことだ。建設と保全には長い時間がかかるが、壊すのは一瞬で、それが気持ちよかったりする。

本来ならば消えてゆくアイヌ語をどうやって守るかという点に力を尽くさなければならないはずなのだが「なぜアイヌ語は日本語ではないのか」ということに力を使わなければならなくなる。

この背景にはアイヌ振興予算に対する嫉妬のようなものがあるようだ。かなりの予算が振り向けられておりこれを「ずるい」と考える人がいるのだろう。そこでアイヌ語は日本語の方言であるとか、アイヌ料理などというものは存在しないのだなどという話が出てくることになる。しかし、予算の中身を見てみると「博物館や公園を作る」というものが含まれている。アイヌ系デベロッパという話は聞かないので、多分和人が公園を作る言い訳に使われているのだろう。

本来ならば「議論を有益なものにするためにはオブジェクティブに戻って考えてみよう」などと言いたいところなのだが、そもそも何のために議論をするのかということが幾重にもわからなくなっており、単にそんな議論はそもそも存在しないのであるなどと言っても構わない状況になっている。

この惨状のもとを辿ると今の国会議論に行き着く。その原因は安倍政権であることは間違いがない。では安倍政権の源流はどこにあるのかといえば、時代に取り残された人たちが暴論を振りかざしていたいわゆる「ネトウヨ系」の雑誌に行き着く。

もともと自民党は甘やかされた政治二世・三世が政権を担当していたのだが、2009年の政権交代の民意を受け止められなかった。政権交代など先進国ではよくあることなのだから「否定されたら次はもっと良いものを出してやろう」と思えばいいのだ。だが、彼らは甘やかされているがゆえに政治姿勢を変えたり政策を磨いたりということはせず「政権を失ったのは国民が馬鹿だからだ」と考えるようになった。そこで詭弁術を学んで政権に復帰すると、徹底的に議論を無効化することになった。

彼らは留学経験もあり議論のやり方はわかっている。しかし、彼らに影響を受けた若い人たちは<政治議論>というのはこのようなものだと感がているのではないだろうか。これはイスラム過激派の元で育った戦争しか知らない人たちがその後の平和な時代になってもそれが受け入れられないという状況に似ている。現在はこうした過激派の人たちが大量生産されている。Twitterを通じて我々はその現場を見ているのではないだろうか。

単に甘やかされた政治家のルサンチマンから始まったことなのかもしれないが、今後の日本の言論に大きな影を落とすことになるだろう。

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空中分解社会

最近いろいろなことを考えている。ニュースを元にしているのでかなりランダムなのだがいくつか共通するモチーフが出てきた。

まずは憲法問題だ。何のために憲法を作るのかということがわからなくなっているようである。その背景を探って行くともともと島に囲まれた領域という意味の自然国家として成立し、他者と向かい合うことがなかった日本人が体裁を取り繕うために作ったという経緯がある。ゆえに改めて憲法を作ろうと考えるとどこから手をつけていいのかわからない。従って意見はまとまらずまともな議論さえできない。今の国会議論をまとめると「とにかく自前の憲法を持つのが立派な国家なのでそれが作れるということを証明したい」ということになるのだが、これは作家になりたい人が書きたいこともないのに小説を書き始めるのに似ている。

次に内田樹について取り上げた。内田はかつてのように日本人がまとまれば必ずしも経済成長がなくてもよいという主張の人なのだとおもうのだが、とにかく安倍政権が気に入らないようで、カウンターとなる立憲民主党を応援しているようだ。そこで護憲・解散権の制限というポジションが生まれる。ただし、科学や経済に対してはかなり貧困な情報しか持っていないようである。これは「日本の知性の最高峰」なのだから、日本人が外来概念をかなりいい加減にしか受容していないということがわかる。

さらに相撲について考えた。どうやらモンゴル人を文化的に受容できないままで、旧態依然としたイエの集合体に無理やり近代的な相撲協会というガバナンス制度を入れたことで、まとまりがなくなっているという事情がありそうだ。かといってイエがどのようなガバナンスを行っていたのかということが意識されていないためにそれをどのように守って行けばいいのかということがわからないようである。この問題は「品格の問題」としてまとめられると思うのだが、では品格とは何なのだろうか。

この三者には共通点がある。なんらかの共同体が雛形としてあり、それが日本人の頭の中でかなり明確な雛形を作っているようである。だが、日本人はそれを意識はしても、明確に形にして他者に説明することはできない。明確に説明できない上に、なんらかの外来概念が外からかぶさってくる。これが痛みを引き起こしている。

例えば憲法問題では民族国家とか近代主権国家のような概念があり、それが国家というものは自主憲法を作るものだというイデオロギーのもとになっている。また、内田の場合には民主主義が正しく施行されることでなんらかの日本的な共同体が再興できると考える。そして、相撲協会では近代的な仕組みを作れば近代的なガバナンスが行われるだろうという期待があったのではないだろうか。

このように見てみると、日本人は自分たちが持っていた元型を意識しないままで現代に突入してしまったという問題点があるようだ。その元型が理想社会のことなのか、それとも実際にあったのかが曖昧になっている。

では元型を意識すればおのずと問題が解決思想に思えるのだが、惨憺たる結果に終わることが多い。

憲法には中曽根憲法前文というポエムがある。この中曽根世界では豊かな自然に育まれている日本には何の問題も起こらないということになっている。しかしながら、実際には日本には貧しい人もいれば、利権をめぐる諍いもある。しかし中曽根日本にはそのような人は存在しないのではないだろうか。

同じような失敗はすでに経験済みだ。日本が満州国を作る時に五族が協力してアジアの共同体を作るという理想を掲げたが、田舎から出てきた日本人が満州人や中国人に対して威張り散らすというのが実態だっだ。また植民地経営はそもそも経済搾取のために行われるのだから、五族が満足することなどありえないのだ。

内田の場合はあの文章しか見ていないので、内田が考える理想世界がどのようなものかはわからない。わずかにわかるのは、内田が理想とする社会が、話し合いで様々な意見の違いが解決される世界なのではないかと思う。確かにそれはあるべき姿なのかもしれないが「お花畑」に過ぎない。

ただしこの「お花畑」は問題を解く鍵を含んでいるように思える。つまり民主主義というのは信仰であるということだ。信仰なんので純粋で完成された「正しい民主主義」はありえない。ゆえに民主主義社会では全員が「祈り続ける」しかない。憲法第9条も宗教だということを認めなればならない。だからこそ、実際の平和運動が重要なのである。

相撲の場合にはガバナンスに深刻な問題が起きている。相撲が理想としているのはサッカーのようにガバナンスが効いた協会運営なのかもしれない。例えばサッカーの場合には地域参加というオープンな事情があり、限られたイエが興行利権を独り占めするというクローズな組織にはなっていない。野球も近代的な株式会社方式のガバナンスが引かれておりある程度の法治が行われる。しかし、相撲の部屋は民主的な制度ではない。ここに利権をめぐる争いが起こるのは当たり前で、それが力士という格闘家によって行われれば実際のガバナンスが「拳による制裁」になるのもこれも当たり前である。

日本人は我々は本音と建前を使い分けることで、実際に自分たちが何ものなのかということがわからなくなっているのではないかと思う。そうなるとあとは腐敗してゆくだけなのである。

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日馬富士の暴力騒ぎに見る日本人が憲法を作れないわけ

日馬富士がビール瓶で後輩力士の頭を思い切り叩いたらしい。興味深いのは後輩力士が殴られたのが10月26日頃で表沙汰になったのが11月13日だったということだ。半月のタイムラグがあったということである。故に被害者・加害者ともに隠蔽しようとした可能性があるということになる。貴乃花親方はすでに事件直後に被害届けを出して「撤回するつもりはない」と言っているので、どちらかといえば日馬富士側が隠蔽と示談を模索していたのだろう。少なくとも警察はこれを知っていたのだが、捜査はしていなかったようだ。

この件については未だにわかっていないことが多い。かなりひどい怪我なのだという声もあるのだが27日には巡業に出ていたという情報もある。貴乃花親方も一方的な被害者というわけではなく巡業を監督する立場にあったらしい。また相撲協会はしばらくは知らなかったという情報がある一方ですぐに被害届けが出ているという情報もある。

これが事件化するかというのは相撲界の問題なのでさておくとして、ここではなぜ日本人が憲法が作ることができないかという問題に置き換えて考えたい。端的に言うと日本人は自ら最高規範たる憲法を作ることはできない。善悪の明確な区分けがなく多様な価値観も収容できないからである。

この件が表沙汰になった理由はよくわからないが、表沙汰になると相撲協会の体裁を取り繕うような報道が相次いだ。取り繕ったのは相撲の事情通という人たちで、長年の取材を通じて相撲界と心理的に癒着してしまった人たちである。これは明らかな暴行事件であり刑事事件なのだがこれを「事件だ」とい言い切る人はいなかった。さらに、これを隠蔽しようとした相撲協会にはお咎めがなく、NHKは相撲の中継を中止しなかった。

ここからわかる点はいくつかある。最初にわかるのは「横綱の品格」の正体である。ビール瓶で後輩を殴る人がいきなり豹変したとは考えにくい。普段からこのような激情型の人間であったことは間違いがない。少なくとも一般人の品格とは性質が異なっていることがわかる。許容されている行動の中には、一般人が行うと犯罪行為になるものが含まれているということである。

品格が非難されるのは「ガムを噛む」とか「挨拶をしない」などという村の掟的なものが多く、咎められるのはそれがマスコミに見られた時だけである。すべて外見上の問題なのでいわば「相撲村の風俗に染まる」ことが品格なのだということがわかる。外から見て体裁が整っているのが「品格」なのだ。キリスト教世界であれば品格とは内面的な善悪を指すのだが、日本語の品格は外面的な体裁のことであり、集団の掟と違った行動をとらないという意味になる。いずれにせよ、日本人は内面的な善悪を信じないしそれほど重要視しないのである。

次にマスコミ報道を見ていると、犯罪かどうかは警察が逮捕するかしないかによって決まるということがわかる。警察がまだ動いていない状態では、あたかも何もなかったかのように扱われる。しかしながら、いったん逮捕されてしまうと罪状が確定していない状態でも犯罪者として扱われてしまう。これはどの権威が罪人であるというステータスかを決めるまで周りは判断しないということである。つまり、いいか悪いかは文脈(相撲協会の支配下にあるか、それとも日本で働く一外国人として裁かれるか)によって決めるというかなり明確な了解がある。

例えば、薬を飲ませた状態で女性を酩酊状態にした上でホテルに連れ込んで陵辱したとしても、首相に近い筋であればお咎めはない。これは一般社会ではレイプと呼ばれるが警察が動かない限りこれをレイプとは言わない。さらに「女性にもそのつもりがあったのだろう」といってセカンドレイプすることも許されている。

このことからも日本人が善悪を文脈で決めていることがわかる。横綱は人を殴っても構わない場合があるし、政権に近いジャーナリストはレイプをしても構わない場合があるということである。

これが問題になるのは、相撲界の掟と社会の善悪が異なっているからであり、マスコミと一般の常識が異なっているからである。つまり、今回の一番の問題は日馬富士が貴ノ岩を殴ったことではなく、それがバレて相撲協会のマネジメントが破綻していることが露見したからである。同じようにレイプの問題では被害者が沈黙を守らずマスコミの慣行と一般常識が違っていることが露見して、マスコミが「バツの悪い」思いをしたのが問題なのだ。だから、れいぷされて黙っていなかった女性が叩かれて無視されたのである。感情的には受け入れがたいが、メカニズムは極めて単純である。

さらに、これが公になるのに時間がかかったことから、相撲協会は事件についてまともに調査していなかったことがわかる。多分調査というのは「いかに風評被害が少なくなるか」という研究のことだったのだろう。被害届が出ていたのだから、警察ですら「相撲協会の問題」と考えて捜査を手控えていたようだ。つまり、相撲協会の中の問題であるので、日本の法律は適用されないと考えていることになる。

これを「日本の問題」と捉えるのは大げさなのではないかと思う人がいるかもしれない。しかし、同じことが起こる閉鎖空間がある。それが学校だ。

大相撲では虐待・暴行のことを「可愛がり」と呼び訓練の一環だとする。同じように学校内での暴行はいじめと呼ばれ、それが自殺につながるようなものであっても生徒間の些細なトラプルとして矮小化されてしまう。この「いいかえ」は社会一般の規範が必ずしも集団では適用されないということを意味している。さらに、警察は学校に介入するのをためらう傾向にある。つまり学校の中には日本国憲法は適用されないということである。むしろ学校側は「人権などとうるさいことをいって、学校の事情と異なっているから憲法が変わってくれればいいのに」と考えているのではないだろうか。

さてこれまで日本人には内面化されてコンセンサスのある善悪が存在しないということがわかった。しかし、まだまだ解決しなければならない問題がある。これがモンゴル人コミュニティで起きたということである。モンゴル人の気質についてはわからないが日本人との違いが見受けられる。だから、日本人について分析するのにこの事件を持ち出すのは適当ではないのではないかという批判があるだろう。

モンゴル人と日本人の違いは日本人が擬似的な集団を家族と呼ぶことである。モンゴル人同士の交流がありそこに上下関係があったことを考えると、どうやら血族集団的なまとまりがかそれに変わる何らかの統合原理があったことが予想される。彼らは外面的には「イエ(つまり部屋のこと)の掟に従って師匠(イエにおける父親のようなもの)」に従うということを理解したが、その規範が内面化されることはなかったようだ。中学校や高校の頃から日本語を習得するのであまりモンゴル訛りがない日本語を話すのだが、それはあくまでも外見的な問題であって、実際には日本人化していなかったということになる。彼らは日本社会に溶け込んだ移民集団のようなものなのだ。

モンゴルがユーラシアを席巻するときに強みになったのは徹底した実力主義であるとされているそうだ。つまり年次によっての違いはなく、実力があればとって代われるということである。これも年次が一年違えば先輩後輩の差ができる日本人とは違っている。

マスコミはモンゴル人横綱は日本に溶け込んだと思いたがるので、このことが報道されることはないと思うのだが、社会主義だったモンゴルには敬語があまりないそうだ。貴ノ岩は「これからは俺たちの時代だ」と日馬富士を挑発したということがわかっているが、これが日本語でなければ「タメグチ」だったことになる、。日本人から見るととんでもない暴挙だが、モンゴル人にとってはこうした挑発は当然のことであり、挑発したら「実力で押さえつける」のも当然だったということになる。だからある意味ビール瓶は適当な制裁だったのかもしれない。

今回は、日本人と規範について分析しているのだから、こうしたモンゴル的要素が絡む事件は特殊なものではないかと思えるかもしれない。しかし、実はモンゴル人コミュニティが管理できていないということは、実は日本人が多様な価値体系を包含する規範体系を作ることができないということを意味している。これは日本人が価値体系を作る時に「イエ」というローカルな規範を部品として再利用するからなのである。

前回のエントリーでは、戦前の日本人論が破綻した裏には、国の1/3を占めるまでになった朝鮮人コミュニティをうまく取り扱えないという事情があるということを学んだ。日本人はこれを身近な集団である家族で表現しようとしたのだが、実はこの家族という概念は極めて日本的で特殊な概念だった。中国・朝鮮との比較でいうと「血族集団対人工集団」という違いがあったのだが、モンゴル人と比べると「年次による秩序の維持対実力主義」という違いがあったことになる。かといってアメリカのような完全な個人の集団ではなく、例えば年次の違いや風俗の違いに完全に染まることを要求され、その習得には一生かかる。

つまり、日馬富士問題を相撲協会が管理できず、マスコミが適切に報道できなかった裏には、第一に内在化された規範意識がないという問題があり、第二に家によって記述された秩序維持が必ずしもユニバーサルなものではないという事情がある。

これらのことから、日本人は国の最高法規である憲法のような規範体系を自ら作ることができない。それは必ず曖昧でいい加減なものになる。

もし、日本人が一から憲法を作るとそれは学校でいういじめが蔓延することになるだろう。つまり「校長という家族の元でみんな仲良く」という規範意識だけでは、生徒の間に起こる様々な軋轢や紛争をうまく処理できないということだ。相撲協会の場合には「みんなが見て立派な人間に見えるようだったら何をしてもよい」とか「部屋の父親である親方の顔にドロを塗るなよ」いうのが規範になっており、これではモンゴル人集団のような多様な価値観が収容できなかった。

保守という人たちは既存の体系に疑問を持たないので、決してこの欠点を超克することはできないのだ。

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日本人の内向きさはどこからくるのかあれこれ考えてみる

先日、選挙結果を見ながら記事を一つ書いた。記事で言いたかったのは「日本では都市と地方で関心が異なりつつある」ということだったのだが、それでは誰も興味を持たないと思ったので「安倍首相が民意をつかんだ」というようなタイトルにした。

日本の選挙結果には興味があるのだが、安倍政権側が勝つことはわかっているのだから分析してみてもあまり面白くはない。イタリアやスペインでは都市部と地方部の分離が起こっているので、なぜ同じ先進国脱落組の日本に同じような動きが起こらないのかという問題について普段から考えている。そこで都市部の票を見てみたのだ。

そこでわかったのは日本の都市部の広がりが思っていたよりも小さいということだ。せいぜい都心部だけが都市と言えるのであって、イタリアやスペインほどの広がりがないのである。カタルニアのようなことが日本で起こるためには九州程度の地域が繁栄する必要があるのだが、日本は全体が地盤沈下しているのでこうした動きが起こらない。さらに大阪のように南北格差がある地域もあり、南でポピュリズム汚染が起きても北部が同調しないという現象もある。

ここから予想できるのは日本で景気対策がうまく行くと「自民党離れ」が起こるので、自民党は景気を悪くしておいたほうが政権が維持できるという結論である。つまりなんらかの事象について観察すると、ある仮定が得られる。

その一方で、多くの日本人がこのような事象には全く興味を持たないこともわかっている。日本人は関係性には反応するが、政策などの「オブジェクト」に対する反応はほぼないと言っても良い。だから、人物の名前を挙げた方が「引きが強くなる」のである。だが、それが時にはハレーションを引き起こす。ではそのハレーションは良いことなのだろうか。悪いことなのだろうか。

結論から言うとハレーションにはそれほど良い効果はない。かといってそれほど害になることもない。これも日本人のコミュニケーションの特性になっているようだ。

このエントリーは書かれてからしばらくは忘れられていたが一週間程度経過して突然閲覧数が伸び始めた。いわゆる「バズった」。その波及の具合を確認してみよう。

最初に異変に気がついたのは11/1にメンション付きのツイートが増えたことだった。シェアボタンなどを押すと自動的に送られるものだ。

Facebookからの流入が増えていた。つまり誰か有名な人がエンドースした結果、そのフォロワーが閲覧し「読みましたよ」というつもりでシェアボタンを押したのではないかと思われる。

とはいえなんらかのコメントがついたわけではない。単に「読みましたよ」というだけだ。つまり、作者に対するリアクションではなく、紹介した人と同じ経験をしたという意思表明でありある種バッジの役割を果たしているのではないかと考えられる。注目すべきなのはエンドースメントに二次的な広がりはないという点だ。Twitterからの流入はそれほど期待できないのである。

そして次の日になってはてなブックマークからの閲覧が増えた。はてなブックマークは検索ができるので調べてみたところ否定的なコメントが多く見られた。単なるお遊びではないかというものと、分析が雑だというものだった。どちらも当たっている。本人も「雑だなあ」と思っているので特に反論するところはないのだが、こちらは一度シェアされるとそれなりに「外野」の人たちが見にくるのだなと思った。つまり冷笑的な広がりのほうが二次的に広がりやすいのである。

冷笑的なコメントには核がない。核がないゆえに若干広がりやすいのではないか。

このどちらも「書いた本人のあずかり知らぬところで盛り上がっている」という意味では完全に等価である。つまり、悪口もレコメンデーションも「同じ価値がある」ということである。だが、広がり方には違いがある。と同時に冷笑のほうが遅れてやってくる。少数のアーリーアダプターであるインフルエンサーがおり、冷笑はラガードなのだと言える。企業が好ましい効果を求めてインフルエンサーを探す理由がわかる。インフルエンサーは露出を増やすのだが、それは必ず冷笑系のコメントを伴うのである。

なぜこのような行動になるのかを考えてみた。いくつかの行動原理があるのではないかと思った。

第一に、日本人は接触によって他人から影響を受けることを極端に嫌うのではないかと思う。誰かに何かをいうということは相手から影響を受けるということである。日本人は賛成意見であれ、反対意見であれ影響を受けることを極端に嫌う。

例えば、最近「賛同的な意見がTwitterで寄せられたとしてもそれに追加的な譲歩を乗せてはいけない」ということを学んだ。相手は教えられたいとは思っていないことが多く、「追加意見に影響を受ける」ことを恐れて反応を止めてしまうのである。これは「違った情報が出てきたときにノーと言えない」からなのではないかと思う。つまり対象物ではなく「賛成」「反対」という態度表明のほうが優先順位が高いのである。

相手は賛同しているのだから、ここではそのポジションを崩さずに「そうですね」などの共感的なフィードバックだけである。たまに語りが止まらなくなる人もいるが、大抵は同意されると満足するようだ。悪口をいっている人も、その悪口が相手に届いてしまうとそれに反論される「リスク」がある。反論されるとそれに影響されるリスクがあるので、2ちゃんねるやはてブのようなところから離れて冷笑的な態度を取るのだろう。

ここで本来考えるべきことは「変質」が必ずしも負けにはならないという点だ。変質は個人の成長につながる可能性があるのだが、受け身で情報を覚える教育ばかりを受けてしまうと「いうことを聞いたら負け」というような思い込みが生まれるのかもしれない。先生と生徒という関係が固着してしまうのが日本の教育だからだ。

従って、ここから二次的に出てくるのが他者には興味がなく優劣のバッジのようなものだけを欲しがっているのではないかと思う。賛成反対が「左右」だとしたら「高低」に当たる関係も固着するのだろう。

例えば「日本人は韓国人よりえらい」という高低の関係がある。いったんこういう思い込みが生まれるとどういうことになるのだろうか。

最近、柳美里という作家のところに「通名を使うのは止めてはどうですか」というTweetを送っている人がいるのを見て大笑いしてしまった。この人は「ユウミリ」という本名で活動しているのだが、そのことを知らなかったのだと思う。つまり、本人のプロフィールを知らずに、在日=通名=狡猾という図式を持っているのだと思う。だから特に韓国系の作家に興味があるわけではなく、単に「在日には何を言ってもいいのだ」と思い込んでいるということになり、それを自動的に当てはめているのである。

このことはある種の救いにはなる。例えば柳さんはこうした声を聞いても「単に記号としての韓国」に反応が集まっているだけなのだと考えればよい。その韓国は実際に東京から数時間で行けるあの韓国ではないし、柳さん個人に対しての中傷でもないということになるだろう。

これは応用ができる。丁寧に対応したり、同じ土俵に立っていないということを見せることによって「相手より格上である」という印象が与えられるのである。こうしたスキルに慣れている人がいて、SNSでコメンターを相手にしないという態度を見せつけることで「高低差を演出」している人たちがいる。

最後に日本人は公共や社会というものに関心がないのではないかと思う。つまり、お互いにアイディアを出し合えばよりよい智恵が得られるというようなことを信じていない。普段から「社会のためには個人を抑制して我慢しなければならない」ということだけを教えられるのだから押し付けにはうんざりだと考えても無理もない。新しい参加者に対して「お前は黙っていうことを聞いているべきだ」という高低の関係を押し付けることによって、コミュニティは核を失ってゆくのではないか。ある人たちは単にインフルエンサーに追随するようになり、別の人たちは冷笑的に外からコミュニティを見るだけになるのではないだろうか。

ここで重要なのは、集団がその要件を失ったとしても、個人主義が徹底しているわけではないので、自分一人の考えというものは持てないという点だろう。日本人は集団で行動しているように見えてしまうのだが、こうして作られる「集団」は集団の要件を満たしてはくれない。意思決定につながる情報伝達のプロセスがあるわけでもないし、集団による保護機能もない。

それがディスコミュニケーションを生み出しているのだが、このディスコミュニケーションは何を生み出すのだろう。

例えばこんな事例があった。トランプ大統領の娘が来日し、安倍首相がそこに57億円支出すると表明したというニュースが流れた。これは共同通信の報道を鵜呑みにした新聞社各社の誤報だったようだ。だがそれを鵜呑みにした人たちが、普段からの安倍首相の言動を思い出したのか「海外にばらまくのはけしからん」と騒ぎ出した。しかし、後になってこれは世界銀行が関与しているファンドであり、すでに国会にも報告があったようだという情報が加えられた。すると「サヨクの早とちりである」という応酬があった。これも普段からおなじみのパターンである。さらに夜になると「実は世界銀行はアメリカの関心をつなぎとめるために、トランプ大統領にすり寄っておりガバナンス上の問題が出ている」という話や、外貨準備金は塩漬け資金と言われているが実は利用しようと思えば利用はできるのだなどという情報が出てきた。

つまり、この事例を追いかけていると「世界銀行の問題点」とか「グローバルインバランス」について勉強することができるのだが、相手を叩くことにしか関心がないために、いつまでも知識が増えて行かない。

つまり、核がなくなった集団では知識が更新されないので、成長が止まってしまうのだと言える。逆に高齢化して成長が止まってしまったからこのようなディスコミュニケーションが起きてしまうのかもしれない。今まで「日本人」を主語にしてきたが、これを近所の頑固なおじいちゃんに置き換えても同じような文章が書けるように思えるからだ。

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座間の連続殺人事件について考える

座間の小さなアパートでクーラーボックスに9人分の遺体があるのが発見された。どうやら8月からの短い間に殺されたようだ。連続殺人事件としては日本で一番の犠牲者の数なのだそうである。当然のことながら殺人事件として扱われ、容疑者の人格などが問題になっている。

このニュースが一筋縄ではいかないのは「世の中には死にたがっている人がたくさんいる」ということだ。しかしながらこの人たちが本当に死にたかったのか、それとも別の何かを求めていたのかはよくわからない。こうした自殺願望を持った人たちはTwitterなどの可視性の高いソーシャルメディアを使っており、拾いあげようとすれば拾い上げることができた人たちである。しかしながら、日本の社会は生きている意味がないと考える人たちを大量生産しており、なおかつ可視化できるにもかかわらず放置している。もちろんそれだけではなく、生きていたいが貧困に苦しむ多くの人たちをも放置している。

そこで「1933年の死なう団」という昔書いた記事を思い出した。日本が第二次世界大戦という集団自殺行為を始める前に自発的に死のうとした人たちがいたという話である。つまり、死にたがる人たちが大勢出てくるという社会はなんらかの破滅的な行為に突っ込もうとしている可能性があるということである。

死なう団と今回の事件には共通点と違いがある。死なう団も今回の事件も死にたいという人たちが集団になっていたという共通点がある。人生に目的が見出せず、死だけが集団を結びつけていたのである。死なう団は集団で行動したが今回の事件は一対一だった。さらに死なう団は運命をともにしようとして活動したのだが、今回の事件には搾取の構造がある。

ここまで生きていたくないという人が多いということは、そうした主張にもなんらかの妥当性があるのだと考えざるをえない。こういう願望を持つ理由はよくわからないが生きていたくないと考えたときに、その願望を肯定してくれる人は多くない。

例えば「美味しいご飯が食べられるかもしれない」とか「楽しいイベントが待っているかもしれない」とは言ってくれるだろうが、だからといって一生美味しいご飯が食べられるように所得の保証をしてくれる人はいないだろう。さらに、このさきもっと苦しいことが待っている可能性も否定できない。ということは「生きているといいことがある」というのはとても無責任な主張であると言える。

よく考えてみると、公立の学校のカリキュラムでは答えのないことは教えてもらえない。宗教教育の代わりに道徳があるようだが、これは社会的常識にちょっと色付けした程度のもので、哲学というような領域にまでは踏み込んでいないはずである。生きてゆくことの意味を教えられることがないわけだから「もう終わりにしたい」と考えても、それが正しいのか間違っているのかを考えることができない。このジャンルに「リテラシー」があるとしたら、多くの人は文字が読めない程度の状態にあるものと考えられる。

しかも、道徳以外の授業では、すべてのことには意味があり正解があるということを教えられる。それを勝ち抜くのが人生の目的だということになる。従って人生に「意味」を失った人は生きていても仕方がないと結論付けざるをえなくなる。勝つことが人生の意味だから負けてしまっては続ける理由がない。

人生はゲームだというような認識がある。すべてのことには意味があり勝つことが目的になるからである。多くの人はこれを「成長」と呼ぶ。つまりステージをクリアしてゆくことが人生の目的になっている。では、もし目の前のゲームが「クソゲー」や「無理ゲー」だったらどうしたらいいだろう。そもままプレイし続けるべきだろうか。このままゲームを続けていてもいいことはあるだろうかと考えてもなんら不思議はない。だからリセットが一つの選択肢になるのだろう。

ここで興味深いのは、容疑者の言っていた「転生」理論だ。天国や地獄に行くのではなく、新しい人生が始まるというのだが、これはゲームでいうこところのリセットである。

ワイドショーにせよ新聞にせよこれは「自殺」や「殺人」だという思いこみで書かれている。しかし、実際にはこれは「ゲーム」なのかもしれない。唯一の誤算は、ゲームと違っているのは人生をリセットしたところで体が消えてなくなるわけではないということである。このことに気がついた容疑者は「処理に困って2ちゃんねるで処理の仕方を相談した」という話がある。

さらに、死ぬ側は一緒にゲームをリセットしてくれる人を求めていたが、死なせる側はそこになんらかのゲーム性を見出したようだ。中には「性的興奮を得ていたのでは」と変態性を持たせようとする人もいるのだが、感情的な盛り上がりをすべて性的と捉えてしまう点に性急さを感じる。いずれにせよ、効率的に犠牲者を狩ることが彼のゲームになってしまったのだ。

ここにある倒錯は「生きている意味がわからない」という人が「生きることをやめる」というイベントを生きる目的にしてしまうということである。つまり人生をともに終わらせることだけでしか他人と共感を結べないということなる。この考え方は狂っているように思える。

しかし、実際には人生には必ず意味がありそれに勝つ必要があるという考え方も狂っているし、人生はゲームであるという思い込みも狂っている。

容疑者の狂気はわかりやすいので話題になりやすいのだが、実際には我々の社会も同じ程度には狂っているのである。

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民進党のグダグダぶりに見る日本が集団主義ではないわけ

「日本は集団主義ではないのか」という疑問がツイッターで流れてきた。ホフステードについて教えたら、代わりに別の本を紹介してもらった。さらにQuoraでも日本は集団主義かという質問があった。

ここで「日本は特に集団主義でもないのにどうして集団主義だという人が多いのか」という疑問を持った。真面目に考えてみてもいいのだが、それではつまらない。そこで、民進党のグダグダぶりから日本が集団主義ではない理由を考えてみたい。

民進党は短い間に代表が何回も変わった。選挙の顔になると期待された蓮舫代表だったのだが、東京都議会選挙で惨敗すると途端に「蓮舫のせいだ」という声が起こった。そこで、前原さんが新しい代表になったのだが、独断で何の話し合いもしないで希望の党との合流を決めてしまった。しかし、希望の党のガバナンスがめちゃくちゃであることがわかり有権者の期待が失速すると、今度はたちまちのうちに前原批判が巻き起こり「今すぐやめろ」とか「いややめない」という話になった。だが、冷静に考えてみると、前原さんの方針は議員総会で示されてみんなで賛成したものだった。つまり、前原さんの思いつきにみんなで飛びついたのである。

ここまでのグタグダぶりはマスコミから伝えられる他、Twitterでも発信されていた。いくらなんでも反省しただろうと思ったのだが、今回の大塚代表になってもまだもめているようだ。共産党との連携に期待する人たちは蓮舫さんを担ごうとしたのだが「協力する」とか「しない」という話になり、独自路線を期待されている大塚さんが代表になった。しかし、共産党連携派の人たちは納得しておらず、さらに分裂する可能性があるのだという。背景には連合の中にある左派と右派の対立がある。連合は名前が示す通り複数の労働組合の共同体でありまとまりがない。大塚さんは分党を狙っているのではないかという懐疑派と共産党のような卑しい人たちとは組めないという人たちがいていつまでもいがみ合っている。

民進党が一貫しているのは「共通の目的を作って一致団結しよう」という気持ちが全くないという点である。つまり、個人が集団に貢献しようという気持ちがみじんも見られない。つまり、民進党は集団主義的とは言えない。

これを民進党固有の問題だとみなすことはできる。では、希望の党はどうだっただろうか。こちらは、小池さんの同意なしに代表を変えられないという規則になっているようだ。民進党出身者が大半を占めるのに、彼らは党のことは決められない。選挙名簿も小池さんの独断で決められるようになっており、民進党出身者には不利なものだった。その上「ガバナンス長」というような仕組みもあり、個人である小池さんが議員の言論を統制できるようになっている。つまり、集団の意思疎通と意思決定がそもそも最初から全く信頼されておらず、独裁主義と言える。独裁は集団主義とは言えない。

こうした独裁にもかかわらず民進党の一部が合流したのは「党の規則がどうであれあとでどうにでもなる」と考えた議員が多かったからだろう。つまり、民進党は「集団で決めたことでも都合が悪くなれば覆すことができる」という認識を持った個人によって構成されていることになる。

さらに、選挙期間中に細野さんや若狭さんは勝手に小池さんを代弁して好き勝手なことを言っていた。後になってわかったのは、彼らは話し合いをしておらず、お互いに何を考えているのかさっぱり理解していなかったようである。

ここまでを見て「集団で何かを決めてそれをみんなが守る」というような政党は皆無だった。しかし、それは民進党出身者がバカだからんではないのだろうか。

ということで、維新の党を見てみよう。こちらは丸山穂高という議員が「惨敗したんだから代表選をやるべき」だと発信した途端に、ほぼ部外者である橋下さんから罵倒された。しかし、橋下さんはそれがどのような影響を及ぼすかを考えなかったようである。丸山議員は選挙区で勝っているので票を持って外に出ることができる。そして、本当に離党してしまった。丸山さんは票を持って自民党に行くこともできる立場になった。今になって松井府知事・代表が「橋下さんは言いすぎた」などと言っているが、発信が始まった時には何も言わなかった。松井さんは代表でありながら定見がない。つまり党のガバナンスを行っている人が誰もいないのである。

この三党の事情を見てわかることは何だろうか。それは集団の中で意思疎通ができておらず、それぞれが好き勝手に自分の言いたいことを言い合っているということである。さらに集団は個人を守ってくれず、不祥事を起こしたりすると「党員資格停止」とか「除名」などの処分がいとも簡単に下される。それぞれの党がどのようなイデオロギーによって結びついているのかもさっぱりわからないし、ましてや血族集団のように離れようとしても離れられないような集まりでもない。

ここでわかるのは日本の政党は、意思疎通もできていなければ、何のために集まっているのかもわからず、また安全保障の装置としても機能していないということである。これではとても集団とは言えない。

では、自民党は集団としての体裁を整えているだろうか。自民党の人たちが安倍首相に逆らわないのは、政府の役職を安倍首相が決めるからだ。だからこちらも後ろから安倍さんを撃つような発言が時々出てくる。最近では麻生副総理が「北朝鮮のおかげで選挙に勝てた」などと言い出した。

日本で集団主義的と言える政党は公明党と共産党しかない。どちらも何のために集まる集団なのかということが明確であり、個人よりも集団の考え方の方が優先されるという世界である。だが、日本で政党を作ると集団になれるのはごく例外的な団体だけなのである。

では、なぜ日本は集団主義の国と呼ばれるのだろうか。第一に個人の考えは全く尊重されず、評価されるのも集団だという事情がある。例えば個人の主張はそれほど重要視されないが「東大出身の人が何か言っている」ということが信頼される社会である。

さらに、個人同士の調整をするのに顔を出した個人が出てくることが少ない。どちらかというと匿名のままで無言の圧力をかけたり、同調圧力を使って「規則だから」といって個人を抑圧することが多い。この個人を隠したがる態度はかなり徹底している。例えばTwitterでは個人で政治を批判する人はいない。リベラルあるいはネトウヨというポジションをとってコピペした意見が交わされている。これは個人でポジションを形成し、個人の名前で発言するという文化が全くないからである。

確かに政治的発言にはリスクがあると考えられるのだが、WEARでも同じような姿勢が見られる。こちらでは顔を隠した個人がうずくまるようにして洋服のコーディネートを披露するという構図がよく見られる。つまり、個人を表明するということは日本では避けられなければならない行為だと考えられているようだ。個人の意見は受け入れられないが、個人は攻撃の対象になってしまうからなのだろう。

ここからわかるのは、日本の集団は特に何かのために機能しているというわけではないということとだ。だが、個人主義が確立していないので他人に圧力をかけるために集団を使うということだけである。

これを集団主義と呼ぶことはできない。強いて言えば「全体主義」とか「封建主義」と呼ばれるべきだろうが、実際には個人主義が確立していないだけでなんとか主義とは言えないのではないかと考えられる。

政党の場合はこれがかなり悪い出方をしている。集団としてまとまることもできないし、かといって個人で何かを考えて打ち出すこともできないというような人たちが、まとまれないままで好き勝手なことを言い合っているように見える。

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なぜ維新の党は保守政党とは言えないのか

懐風館高校の髪染め事件について調べている。この件についての世間のリアクションは固まってきたようだ。「人権やマイノリティの問題だ」とする人が多い一方で、規則なんだから守って当然だという人も多い。マスコミは係争中の事件ということもあり「ネットで人が騒いでいた」という話と「芸能人も苦労したようだ」ということを伝えるのみである。

確かに人権の問題にするのは簡単なのだがどうも違和感がある。何か言ったつもりになるのだが、かといってそれに納得していない人も多い。最近では人権というと自動的に集団に意を唱える人は排除してしまえというようなカウンターがくる。だからいつまで経っても議論が収束せず、従って問題は何も解決しないのである。

この両者を統合するともう一つ別の問題が見えてくる。それは「価値の体系の根本的な混乱」である。価値の体系という概念を説明するのは難しいけれども、これを導入すると最近の日本型ポピュリズムが何なのか見えてくる。また、保守が実は保守ではないということもある程度はわかる。

価値の体系の混乱はわかりにくいので、まず基本的な価値をおいてみよう。学校は何かを勉強するところであるべきであるという価値観だ。

もちろん全ての正解を暗記することができればいいのだが、それは不可能だ。いつも教師がいて指導してくれればいいのだが、そうもいかない。だから、大人になる前にある程度自分で考えて自分なりの正解が導き出せるようになるために必要なものを学ぶのが学校である。これも価値観である。

つまり、学校のゴールはある程度自立した人を育てる場所であるべきだということになる。特に、この価値を受け入れる必要はない。ここで「これに賛成か反対か」を考えていただきたい。そして反対であるなら何に反対なのかを考えておくと良いだろう。

この価値を受け入れると、学校の規則というのは、こうした判断基準を教えるための教材であるべきであるということになる。もちろん、一人ひとりが生きたいように生きて行ければいいが、社会生活を円滑に送るためには他人と折り合う方法も身につけなければならない。そのためにはある程度の規則は必要である。ここで重要なのは「ある程度の」という点である。つまり、優先されるべき課題があり、学校の規則というのはその下位に位置付けられる。

ここで重要なのは「教育は生きてゆくための手段である」ということである。だから生存が脅かされるような規則はあってはならないということになる。こうやって価値の体系ができてゆく。

これを整理したい。

  • 生きてゆくこと。
  • 生きてゆくための知恵を学ぶこと。
  • 知恵を獲得する一環として社会と折合うために規則を守ることを学ぶこと。

ゆえに、規則のために生存が脅かされることがあってはならないのだということになる。さらに規則は教育なのだから「契約」という側面がある。つまり、社会に受け入れてもらうためには前提になる約束事があるので事前にそれについて合意を結ぶべきである。学校の場合、校則はある程度決まっているはずなので、それが守れるかどうかを決めた上で入学すべきだし、そこに抵触する可能性があるのであれば、何らかの調整がなされるべきであるということになる。

さて、ここまでを考慮した上で実際に何が起きたのかを見てみよう。

  • まず女子生徒は入学前に「中学校でも同じ問題があったので考慮してほしい」と言っているようだ。つまり校則については知っているが守れそうにないのでなんらかの配慮をしてほしいとお願いしている。学校がこれにどう返事したのかはわからない。
  • 口コミサイトを見ると髪の色には厳しいがその基準がどこにあるのかよくわからないという話が複数出ている。つまり、恣意的な運用がなされていて教育以外の目的に乱用される余地があるということになる。
  • 髪の毛の色を黒に保つために4日に一度髪染めを強要されておりそのために健康被害が出ている。しかも行きすぎた指導の結果過呼吸を起こしており、精神的にも追い詰められているようである。つまり、当初の目的を逸脱している。
  • 学校は生徒との調停に失敗したようで不登校が起きている。しかしながらそれを正直に申告せず「生徒は退学した」と嘘をついている。学校は教育機関であり、生徒に善悪を教えるべきだと考えると、これは学校本来の目的を逸脱している。

つまり、懐風館高校ではまず規則が優先されており、そのために生徒の生存が脅かされている。さらに、規則を守らせることを優先するあまり、生徒や保護者に対して嘘の申告をしている。つまり、規則が守られるなら嘘をついても構わないということである。規則がすべての上位に来ている。

こうしたことが起こるのはどうしてなのだろうか。それは規則の運用の裏に「本当の価値体系」があるからだと思われる。それは、学校というのは少ない予算で効率的に社会に部品を供給する工場であり、規格外品があればそれは排除しても構わないという価値観である。

ところが、実際には日本には憲法というものがあり生徒の人権は守られなければならないと考えられており、さらに教育機関であるという建前もある。しかし、大阪府からは学校のリストラという別のメッセージが来ている。この2つの異なる価値観がコンフリクトすることで、価値体系に本質的な揺らぎが出ている。

しかしながら、大阪府当局はほのめかしによる恫喝は行うが、具体的な行動規範は示さない。そこで、それぞれの執行は校長に一任される。しかし、校長は具体的な行動規範を示さず、現場教師に丸投げする。そこで「好き勝手な」執行が行われて現場が混乱するわけである。

前回のエントリーではこうした価値の焼け野原を作ったのは、維新流のパフォーマンスの延長にある新自由主義的政策なのではないかということを考えた。維新の党は「学校の統廃合」という危機感を煽ることで下位校をパニックに陥れて、価値の体系を撹乱したということになる。しかし、さらにその背景にあるのは有権者側にある価値体系の混乱であると考えられる。

価値の体系が崩れ去ったところで生産される人材は、すなわち自分自身で善悪を判断する基準を持たない人たちである。つまり、価値体系の混乱は今始まった問題ではなく、すでに進行していたものと考えられる。これが政治を通じて社会に影響することになり、拡大再生産のループが完成したということになるだろう。

この話を人権や少数派の話にしたくないのは、実際には価値体系の破壊はかなり広範囲で起こっており、決して少数派だけの問題ではないからだ。しかも一旦始まってしまうと拡大再生産されてしまい歯止めが利かなくなる。

面白いのは、維新の党は保守政党を名乗っているという点である。保守とは民族集団が持っている価値体系が大きく揺るがないように緩やかな変化を目指すという立場である。しかしながら、実際には価値体系を大きく揺るがすような政策をとっており、府民もそれを黙認している。

維新の党が保守だと見なされるのは、共産党や社民党のような左翼政党ではないからなのだろう。だが、実際には新しい価値を提示せず、単に価値体系を破壊しているだけで保守とは言いにくい。かといって革新とも言えないので、単なる破壊的簒奪者だとみなすのが良いのではないかと考えらえる。革新ならば、ある程度の行動規範を持っており、価値変化がスムーズに行われるように措置するはずだからである。

このことからわかるのは、価値を提示しない保守政党というのはとても危険だということだ。

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