コンスタンティノープルからカラコルムに行くには何日かかったのか

ムガール帝国への興味からモンゴル人がどのように移動したのかを調べている。面白いことに中世の旅行だけを研究した本というものが出ている。誰が読むのだろうなどと思うのだが、たまに物好きな人がいるのだろう。

さてこの本の中に「アジアの旅」というセクションがあり、モンゴルへの旅について書かれている。1245年にイノセント四世が使節団を派遣した。この命令を受けたフランシスコ会のギヨーム・ド・リュブリキは1253年から1255年までモンゴル帝国を旅行した。

リュブリキは5月7日にコンスタンティノープルを出発し5月21日にクリミア半島に到達した。6月に旅行が始まり、7月20日ごろにドン川を渡った。8月5日にはボルガ川に到達し、9月27日にはウラル川(カザフスタンを通過して黒海に注ぐ)を通過する。途中有力者のテント(幕屋と書いてある)に逗留しつつ1254年の4月にカラコルムに向かったと書いてある。

当然パスポートなどはない(そもそも外交関係もない)ので有力者に旅行許可をもらいながら旅をしたということを考えても2年で帰って来れるというのはかなり意外である。

リュブリキは2年かけて往復しているのだがその距離は15,000キロ以上を旅しているそうだ。試しにGoogle Mapで検索してみたが、カラコルムからオデッサまでゆき、そこからフェリーでイスタンブールに行くと1320時間かかるそうである。1日8時間歩くとして165日だそうだ。ユーラシア大陸はかなり広大に思えるのだが、実際には半年かければ歩けるわけでやってやれないことはないような気持ちになる。

実際にユーラシア大陸を歩いて横断した人がいるようだ。この人のウェブサイトには、2009.1-2010.8ユーラシア大陸徒歩横断約16000キロと書いてあるので2年くらいかければ歩けるということになる。

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ロンドンで騙された話 – ジャージー代官管轄区

その昔ロンドンで「このコインは受け取れないよ」と言われたことがある。なぜかはわからなかった。後から見るとコインの表にはエリザベス二世女王の顔があるが裏面には見慣れない名前が書いてある。それが原因みたいだ。

スキャンだとよく読み取れないが「Bailiwick of Jersey」と書いてある。日本語ではジャージー代官管轄区などと訳されるようだ。よく、フランスに一番近いイギリス領などと説明されている、イギリスの南にある島である。イギリス王室がフランスにある領土を奪われたときに残ったようだ。

しかし、ロンドンでこのお金が通用しないところをみると、ジャージー島はイギリスではないのだろう。誰かがイギリスでは使えないお金を持っているのに気がついて旅行者である僕に押し付けたに違いない。イギリスを旅行するときにはコインには気をつけたほうが良さそうであるが、慣れないお金だといくらだかわからないし、瞬時に判別するのは難しそうだ。今の価格でいうとだいたい七円程度の詐欺である。

外国旅行から帰ってくるとコインがたまるのだが捨てるのはもったいない。かといってスクラップブックに入れて整理するほどマメでもないのでそのまま紅茶の缶に入れて死蔵してある。そのうちにドイツマルクのように使えなくなってしまったコインもあった。そこで、とりあえずそれをスキャンしてデジタル保存することにした。そうい昔のお金を見ているうちに、騙されたことを思い出したのだ。

さて、ジャージー代官管轄区だが、ここは正確にはイギリス領ではない。イギリス王家が私的に管轄する領地ということである。だからイギリスの法律は通用しないし、EUの一部でもないということだ。外交や防衛についてはイギリスが管轄しており、パスポートコントロールもイギリスと共通なのだという。イギリスの法律や税制の管轄外なので租税回避地として知られている。パナマ文書で有名になった租税回避地だが、イギリスがこのような悪知恵を思いついたのはこのような伝統を持っているからなのだろう。

面積を調べてみたがジャージー島は意外に大きいらしい。小豆島の2/3程度の大きさがある。小豆島の人口は23000人程度なのだが、ジャージー島には95000人が住んでいる。当然議会もあり最近では内閣や政党もできたということである。

今ではロンドンからは格安航空を使うと10,000円前後で往復できるということだ。また、ロンドンから車を借りてフェリーで移動するルートがある他、いったんドーバー海峡を渡ってフランス側からフェリーで移動するルートもあるのだという。

この通貨はジャージーポンドと呼ばれる。ジャージー島の中ではジャージーポンドとイギリスポンドが使えるが、イギリスではジャージーポンドは利用できないそうだ。

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なぜ少女は髪の毛を染めることを強要されたのか

生まれつき髪の毛が茶色い生徒が髪染めを強要され最終的には登校拒否に追い込まれた挙句、学校を提訴した。

学校を訴える以外に解決方法がなかったところをみると、教育委員会などからの調整はなかったのだろう。さらに、学校や関係者の間には外見上の理由をもとに学業の自由を侵害するのは人権侵害にあたり憲法問題であるという認識がなかったことが伺える。だが、それとは別にこの問題にはなぜ学校側が追い込まれていったのかという背景がある。学校がなくなるという危機感があるが、どう対処していいかわからず、外見を取り繕おうとしたのである。つまり、体裁を守ることの方が生徒に必要な教育を施すべきだという理念や目的に勝ってしまったということだ。

問題になった学校は羽曳野市にある府立の懐風館高等学校だ。口コミサイトを見ると市内にある二つの学校が合併してできた学校のようで、偏差値が45であることがわかる。平均点を50とすると平均よりやや下の学校ということになる。

生徒が口コミを書き込むサイトを見ると積極的に入るというよりは、入れるから入ったという学生が多いようだ。制服はかわいいと評判が高いが、その一方で髪型や服装の検査は厳しかったのだという。外見に力を入れていたことはわかる。

大学進学はできないことはないが、あまり手助けをしてもらえなかったという声が散見される。が、高校受験で思うような成果がでなくても、思い直して勉強し近畿圏で名前が知られた私立大学に行くことはできる。先生が相談に乗ってくれたということを書いている生徒もいた。

しかし、どちらかというと専門学校に行く生徒も多いようだ。懐風館は専門や就職なども多く、進学を目指してる方はやめておいた方がいいという情報があった。一方で、専門学校に行きたいと言ったところ嫌味を言われたという人もいる。

口コミサイトには、一定以上の大学に入る人は面倒を見てもらえないという情報があり、また定員割れだったから入ったという情報が複数ある。また、先生が指導したにもかかわらず盗難が多い学年があったそうだ。羽曳野高校時代は野球部が有名だったので、今でも野球部の活動に力を入れているらしいが、学生の方はあまり熱心ではないらしくうちはほとんどがクラブに入ってないですねみなさんバイトや遊びの方を優先してますという評判もある。

つまり、外見の保持には厳しいが、その教育内容はまちまちであることがわかる。さらに、学校全体で取り組む行事がない。羽曳野高校時代には野球部が有名で、文化祭もそれなりの規模だったがそれが縮小されたという書き込みがあった。学校が一丸となって何かを成し遂げるということがなく、それが内面での風紀の乱れに及ぶことがあるということである。

中でも気になった書き込みは以下のものである。

ひとり学校で一番偉そうにしている先生がいる。みんなその先生を恐れているように見える。その人の言うことは絶対。間違っていても言うことを聞く。先生が言っていることは絶対。先生同士のほめあいなれあい、見ていてしんどい。

伝統的な神学校のように「伝統を守ろう」という共通の目的がないために先生の間でまとまりがないのかもしれない。まとまりがないから「皮膚がボロボロになる生徒がいるから例外措置をみとめてはどうか」という調整ができなかった可能性があるのではないだろうか。さらに不登校になったがどう処理していいかわからず、名簿から名前を決して、周囲には「いなくなった」と説明したようだ。マスコミの取材がTwitterに流れてきていたが「裁判で判断してもらえばいい」という他人事のような教頭の言葉だった。あまり、当事者意識もなさそうだ。

確かに多くの生徒はそれなりに学校生活を楽しみ、そこそこの進路を見つけて卒業してゆくのだろう。しかし「規格」にはずれた生徒は大変だ。名前が通った大学に行きたいといえば支援してもらえないし、髪の毛が茶色だと染髪を強要される。

今回の学生は母子家庭に育っているという。さらに肌に合わないのか髪の毛を染めて皮膚がボロボロになった。それで染髪を止めたいと言ったところ、それでは学校にこなくても良いと言われ、過呼吸を起こし、実際に登校できなくなった。

ここまでを読むと「学校の管理責任」を問いたくなるし、多分マスコミが取材をするときにも学校を責めるようなトーンになるのでは無いだろうか。だが、学業もそこそこで先生や生徒にもそれほどのやる気はないし、場合によっては窃盗も発生するというような学校で「生徒の品質」を守るためにはどうすべきだろうか。

一番良いのは、やる気のない生徒を退学させて良い生徒を集めることなのだろうが、そもそも学年によっては定員割れを起こすような状態なのでそれはできない。だから、外見を整えて「きちんとしようとしている」ように見せることが優先されるのだろう。このようにして少しでもよい学生を集め、企業からの評判を保とうとしている様子が浮かんでくる。

つまり、どうしていいかわからないから、間違った方向に努力が進んでしまったということになる。背景にあるのは先生のリーダーシップの問題なのだが、先生も「成果」によって、やりがいのある進学校に行けたり、どうしようもない底辺校に飛ばされるわけだから、それなりに必死だったのではないだろうか。

しかしそのリーダーシップが行き着いたのは人権侵害である。が、いったんモラルとモチベーションがなくなってしまった状態では「これはいけないからなんとかしよう」と言い出す人はいなかったのかもしれない。

結果的にうまくいっている学校はやり方のノウハウを意識的に持っている(つまり形式知によっている)か伝統という形で暗黙知的に持っている。前者ならふわふわなケーキを作れるノウハウをレシピ本にして持っているか、美味しい味噌ができる味噌蔵を抱えているということになる。どちらにせよ、美味しいケーキ屋さんやうまい味噌屋さんになれる。すると大勢のお客が集まり、店員にもやる気と熱意が生まれる。

しかし、それが失われたところではとりあえず店内をきれいにして、そこそこのケーキや味噌を売るしかない。そこに形の崩れたケーキや味噌があってはならず「規格外品」としてはじき出されてしまうのである。

こうした問題が起こっているのは何も学校だけではないのではないだろうか。「憲法問題だから人権は守られなければならない」という人が多いが、実は人権侵害の裏にはもちべーしょんの低下がある。つまり、どうやったら競争できるかがわからなくなると、組織は集団による弱いものいじめを始めてしまうのだ。

学校側には多分生徒をいじめるなどという意図はなかったのだろうが、結果的には生徒を育てるという最優先すべき問題を「とりあえず外見を取り繕う」という問題のしたにおいてしまったということになる。さらに、社会も当事者たちもそのことに全く気がついていない。

このような状況にある人が多いのだろう。多くの人の共感を集めた。しかしながら、これに共感する人たちもまた何が悪いのかがわからないので「憲法上の人権問題だ」と騒ぐだけだ。だから、逆に「だったら憲法から人権条項を取り除こう」などと言い出す人が現れる。

我々の社会が、意欲が低下したかなりまずい状態にあるということがわかる。

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選挙とデモでわかったリベラルの課題

選挙が終わって2日間、なぜ自民党が勝ったのかということを考えていた。選挙日から政治系の記事に多くのアクセスが多く集まったからだ。日本人は表立って何かを言ったりはしないのだが、かなり集団的に動く。だから、一挙に動向が変わるのである。

アクセスが集まったものを眺めていると、あるべき姿と現実との間にギャップがあり、それが受け止められなかったのではないかと推察される。政治的ブログというのは自分の理想とする政治をプロモートするのが目的なのだろうが、その意味ではこのブログは政治的ブログではないのかもしれないとも思った。それよりも認知的な不協和を癒して悩みを癒したいという人の方が多いのだろう。

認知的不協和を修正するためには現実か自分の認知を変える必要がある。現実が変わらないわけだから自分の認知を変えるべきだろう。これが叶わないと怒りの感情が生まれる。

例えばTwitter上では「有権者は愚民だ」とか「バカだから」という声が渦巻いていた。気持ちはわからなくはない。安倍首相に政治家としての意欲があるとも思えないし、困った人を助けるのが政治だとしたら目の前で起こっていることはでたらめとしかいいようがない。安直な言い方をすれば「正義はない」ということになるだろう。

ただ、見たことがない有権者を愚民とか家畜などと罵ってみても状況は改善しない。却って離れてゆくだけだろう。

例えば、選挙に行かないような人たちを選挙に行かせて正義をなすように働きかけるにはどうしたらいいだろうかなどということを考えてみるとよい。例えばお昼頃のコンビニの駐車場にはたくさんの車が停車していて車内でぼんやりと過ごしている人が多い。多分、昼休みに食堂に入るお金もないのだろうし、そもそも立ち寄れる事務所すらないのだろう。1日誰とも話さないで黙々と荷下ろしをしている人もいるだろうし、誰も話を聞いてくれないのに知らない家のドアを叩いて売れるはずもない品物について話をしようとしている人もいるのではないか。同じようなことを毎日繰り返して対して希望も持てなくなっている人と話すために、トントンと車のドアを叩いて「愚民ども選挙に行け」などと言ったら何が起こるだろうか。多分殴られるかもしれないが、選挙に行ってくれる人はいないのではないだろうか。Twitterで「愚民」とか「家畜」などというのはつまりそういうことだろう。

かといって「立憲主義は素晴らしいもので、あなたには理解できないかもしれないが、日本の政治にとって必要である」と訴えたところでどうなるものでもない。「ご高説を垂れる賢いあなた」に対して敵意を向けることになるのではないかと思う。人は誰かが自分よりも賢いと認めるのが嫌いだからだ。

こういう人たちを選挙に行かせるためには多分なんらかの欲求を満たしてやる必要があるのだろう。これを外的インセンティブという。例えば、金券を配るとかみんなで(多分きれいな女の人なんかがいいだろう)褒めてやるとか、そういった類のことだ。しかし、それで「立憲主義がなされるような」政治が実現できるだろうか。とてもそうは思えない。権力を私物化したい側の人たちが同じことをすれば、外的インセンティブで動く人たちは容易にそちらになびくに違いない。

そもそも、どうして多様性が包摂されるような政治がなされるべきなのだろうか。この答えを導くのはそれほど難しくはない。アメリカやヨーロッパで繁栄している地域は包摂性が高い地域が多い。これにはいくつか理由があり、その理由を知ることで少なくとも「なんだかモヤモヤとした気持ち」を払拭することはできる。それを自発的に知って理解するのは大切である。

例えば多様性がある都市は付加価値を高めて高度な産業と才能のある人たちを惹きつける。こうしたことはリチャード・フロリダダニエル・ピンクなどの著作を読むと理解できる。また、ダンカン・ワッツなどもスモールワールド現象を引き合いにして「弱い絆」が成功のためには有益であるなどということを書いている。人々が出入りすることで新しいアイディアが生まれて成功しやすくなるからである。新しいアイディアを生み出すためには多様なインプットがあった方が良いわけである。

実際には多様性の推進というのは経済的実利に基づいた話であって、共産主義などとはあまり関係がない価値観なのだ。

同じように女性が働きやすい環境にあった方が経済が豊かになる。単純により多くの才能が経済に向かうからである。さらに消費者の半分は女性なので女性に受け入れられやすい商品やサービスが生まれる。これも特に左派思想とは関係がない。

問題なのは当のいわゆる左派リベラルの人たちがこのことを信じていない点にあるように思える。そういう社会を見たことがないからだろう。農業しか国の経済がない人に「映画や演劇を見せる仕事がありますよ」などと言っても信じてはくれないだろうし「何も用事がないのに車で遠くに出かける」ために車を買う人がいるのですよなどといっても笑われるに違いない。それはエンターティンメントやドライブなどという概念を見たことがないからである。同じように多様性を知らなければ多様性を信じることはできない。

加えて、リベラル=共産主義という思い込みがあり、さらに共産主義=社会から受け入れられないという決めつけがある。つまり自分たちで自分たちのことを縛り付けている。考えてみると奇妙な状態になっている。

何人かの人と話をしてみた。

ある人たちはデモをやっても何も変わらない現実に負けかけているようだ。原発反対のビラがなくなり、特定の政党を応援するポスターが消え、戦争法反対のポスターもなくなり、憲法第9条の勉強会も行われなくなった。彼らが抱えている問題は例えば姑の介護の問題とか、子育てをしている間は会社のキャリアからは脱落するとかそういうことである。しばらくお勉強会や抗議運動をしているうちに、社会に怒ってみてもその声はどこにも届かないし、自分が見放されている現実というものは変えられないという現実に直面してしまうのだろう。そこで「難しいことはわからない」と政治から引きこもってしまうのだ。

こうなると、気がつけば「安倍政治を許さない」というビラだけが扉に貼ってある。もう「許さない」ということしか訴えたいことは残っていないということになる。彼らがこの数年で学んだのは絶望することだけである。希望を抱くから絶望するのであり、だったら最初から期待しない方がいいということを学ぶのだ。

また別の人たちは自民党のおごった政治に辟易しているのだが、よく聞いてみると「自分と同じ考えの人がいないか」を街に出て確かめたことはないようである。だが言いたいことは色々とあるので、長い返信を書いてきたりする。こういう人たちはまだ絶望できていないということになる。

ここでできることは何だろうかと改めて考えてみた。第一には現実とありたい姿の間に乖離があるということを認めることなのではないかと思った。その上でどうしたいのかということを考えてみるべきだろう。

ただ、こういう鬱屈とした思いを抱えている人たちは大勢いるはずだ。だから、仲間を探すこと自体はそれほど難しいことではないのではないかと思う。仲間を探すのが嫌だと思う人は多様性や創造性について勉強してみるのもいいかもしれない。いずれにせよ、まずは怒りや苛立ちについて見つめてみなければ、何をすべきかは見えてこないのではないかと思う。

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モンゴル人はどこからインドまできたのか

ムガル帝国関連の遺産の写真を見ているうちに、ムガル帝国がモンゴルという意味だと知った。もともとフェルガナ盆地で生まれたバーブルが紆余曲折を経てインド北部まで降りてきたのである。そこで、どのような経路を伝って降りてきたのかを調べてみた。

バーブルはまずサマルカンドに行く。そして、そこからカブールを侵攻し、そのあとでデリー近郊まで降りてきてインドの豊かさに驚いたとされる。その途中経過はよくわからないが、現在の道を伝って行くとだいたいえんじ色で書いたような経路が浮かんでくる。

ポイントになっているのはアムダリア川である。この川が北方にある世界とその南側を分けているそうだ。近代になっても、北部はソ連が支配し、南部はイギリスが支配した。この川を超えてソ連が侵攻してきたことでアフガニスタン情勢は泥沼化し現在に至る。

バーブルはカブールからまっすぐ故地には帰らず、ヘラートに寄り道をした。厳しい山道だったという記録が残っているようだ。ヘラートをまっすぐに進むとペルシャに出る。現在、アフガニスタンの治安は極端に悪化しているがそれでもカブールからマザリシャリフを経てヘラートにゆきそこからイランに行った人の記録があった。アフガニスタンは内戦で荒れており厳しい山岳地帯が続くので飛行機で移動するのが一般的なのだそうである。

なんとなくものすごく寒そうな地域なのだが、実際には東北地方くらいの緯度に当たる。ここより南に行くと乾燥が進み、北に行くとステップになってしまうという絶妙な地理条件の地域である。各地の勢力が支配者になりたがる気持ちもわからなくはない。現在でもウズベキスタンでは、米・小麦・大麦・とうもろこしなどが取れるようだ。ただし、綿花栽培のために大量取水を行ったために水がアムダリア川を流れなくなり、アラル海が縮小した上に塩害がひどいことになっているそうだ。

この地域に雨は降らない。インド洋からの雨は山岳地帯にぶつかってしまうのだろう。だが、山に積もった雪が川になって流れることで、この地域が潤い農業に適した土地が広がっているのである。

この地域より北にはカザフスタンが広がっているのだが農地の70%は牧草地として利用されているそうである。

この地域にはキリギスとタジキスタンがあるのだが、山岳地帯のようでこうした民族の経路とは外れている。なおタジキスタンに住んでいるタジク人はペルシャ系だ。モンゴル人が侵入してきた時に山岳地域にいた人たちが残ったのかもしれないと思った。

さて、なぜそもそもこの地域にモンゴル系の人たちが住んでいたのだろうか。チンギスハンについての項目を読むと、和平を求めて現在のシムケントまでやってきた使者が現地の支配者に殺されたのが直接のきっかけのようだ。シムケントが入り口になっているということになる。この地域を席巻し、さらにアムダリア川を遡りウルゲンチあたりまで遠征しているようだ。

では、チンギスハンがどこから来たかというと、もともとはバイカル湖の付近にいた人たちだということである。ここよりも寒い場所にいて寒地適応のために平たい顔になったのだが、それが南下してモンゴル高原にゆき、そこから南下して中国を支配したり、西進してロシア、ヨーロッパ、ペルシャ世界を席巻したことになる。

このようにしてみると農業を生業としている人たちはそれほど遠くに行かなくても食べて行けるわけで、世界帝国を作ろうなどという野望を持たないのかもしれない。モンゴルの人たちは厳しい条件を移動するために馬を乗りこなしたりしていたために、軍事的に差がついたのだろう。

しかし、遊牧の人たちはわざわざその地域で腰を据えて農業をやろうなどとは思わず現地とそれほど同化せず、現地の文化になんとなく影響を与えつつ同化して行ったのではないだろうか。

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デリー・アグラ近辺のイスラム建築の写真を整理する

いつもの政治経済ネタとは全く関係がないのだが、昔行ったインドツアーの写真を整理することにした。このブログに掲載したのは単に他にハコがないからである。だから政治ネタに興味のある人は読み飛ばしていただきたい。

航空券とホテルの一部だけを予約して行ったのだが、ツアーは現地のものを利用した。英語のツアーがたくさん出ているので、ツアーを見つけるのにはそれほど困らない。ついでにインドは安宿も多いので宿泊先に困ることもそれほどない。ただし、長距離鉄道は安いので予約が埋まりやすい傾向にある。事前の予約をお勧めする。

現地のツアーを利用したのは良かったのだが、ムガル朝の歴史に詳しくないためどれも同じに見えてしまい、帰ってからどこに行ったのかがわからなくなってしまった。そこで時系列に整理することにした。もしかしたら日本に外国人にとってはお城もお寺も同じように見えるかもしれない。お墓も御所も同じように見えるのではないか。整理できるようになったのはグーグルのイメージ検索のおかげだ。写真をアップすると場所を特定してくれるのである。

整理してみると、意外にムガル朝の歴史を網羅していることがわかる。知らないって怖いことなんだなと思った。市内ツアーは200円で1日がかりのアグラツアーは2,000円弱(朝飯と昼飯付き)である。それほど高くはない。現在の価格を調べてみたがそれほど値上がりはしていないようである。

ムガル帝室はこの地域に進出してから、アグラとデリーの間を行ったり来たりしている。アグラとデリーの間は230kmほど離れているのだが、どちらもヤムナ河沿いにある。この両都市にジャイプールを加えるとちょうど一辺が200km強の三角形になり一週間程度で回れるコースができる。地図で調べるとヤムナ河とガンジス河に囲まれた地域が平原になっており、農業に適した土地だったのではないかと思われる。ムガル帝国はこの地域に目をつけたのだろう。

ムガル帝国

中央アジア出身のバブールによって成立した。父親はモンゴル系のチムール朝の王族で母親はテュルク・モンゴル系の遊牧民族だった。バブールは中央アジアからインドに移ってインドで帝国を作った。ムガル朝はイギリスに滅亡させられるまでの間、モンゴル系統のチムールの末裔を主張していたとのことである。ムガルはモンゴルの意味を持つペルシャ語系の他称だそうだ。

バブールが生まれた地域は現在のウズベキスタンに当たり、ムガル朝はよそから来た他民族王朝だったことがわかる。ただしその系統は複雑である。前身であるチムール朝はモンゴルの後継だったが、言語はすでにトルコ語化していた。これをチャガタイ・トルコ語と呼ぶそうである。しかしながらムガル朝はフマユンが一時ペルシャに逃れたこともあり建築などにペルシャ様式を残した。だからムガル帝国の公用語はペルシャ語だった。さらにチムール朝の前身はチャガタイ・ハン国だったが、これはトルコ・イスラム化したモンゴル系国家だった。チャガタイ・ハン国のイスラム化は徐々に進展した。

つまりムガル朝時代のインドはモンゴルの伝統、トルコ系の伝統、ペルシャ系の伝統が複雑に入り混じってできたものだと考えられる。今でも中央アジアにはイラン系の白人とトルコ系、モンゴル系のアジア人が入り混じった他民族国家が多くある。

インドとイスラム

インドというとヒンディ語という印象があるのだが、ムガル帝国の歴史を見るとわかるように史跡はほとんどペルシャの影響を受けたイスラム様式である。ただし、イスラム教そのものはペルシャ経由ではないという複雑さがある。一方、デリー近辺にいるヒンディ語を話す人たちにも「ヒンディ人」という民族意識があるわけではなく、単に言語によって民族を規定しているような状態になっているそうだ。彼らはムガル朝より前にペルシャあたりから東進・南下してきたアーリア系の子孫が現地の人たちと混血してでき他民族だと考えられる。この混血具合が違っており、現在の複雑なカスト制度ができている。

デリーで最初に宿泊した土地にはモスクがあり早朝からコーランがスピーカーで鳴り響いていた。朝の暗いうちからお祈りで出てくる人がおり、彼らを目当てにチャイとトーストを振る舞う店がある。インドはイスラム系のパキスタンとヒンズー系のインドにわかれたのだと教科書で習っただけだったので、これは少し意外だった。

重層的なデリーの街

デリーは古くからイスラム系勢力の支配地域だった。その最初は「奴隷王朝」という聞いたことがあるような名前の王朝だ。しかし勢力は安定せず帝国と呼べるような国は出なかった。

デリーとその近郊には緑豊かな平原が広がっている。これはガンジスとその支流のヤムナによって作られたものである。山がなく緑が多いので農業に適した土地が広がった豊かな場所だったことがわかる。ここから200km西に行くとラジプタン州になるのだが、ここは砂漠地帯である。しかし、さらに南進するととても暑い地域が広がっており、さらにガンジスの下流域では洪水なども起こったのではないだろうか。

さらに、ペルシャや中央アジアからインドに来ると必ずこの地域を通るので交通の要衝でもあったのだろう。そのため度々他民族から侵攻された。

幾つかの小さな王朝が攻防を繰り広げた後、最終的にムガル朝の本拠地となる。イギリスが支配を始めた時の中心都市はコルカタだったがやがてデリーに移ってインド支配を本格化させた。イギリス時代の建物はムガル朝の首都よりやや南にありニューデリーと呼ばれている。ただしニューデリーができたのは比較的新しく20世紀に入った1911年のことだったようである。

旧デリー市街はゴミゴミと活気のある町並みなのだが、ニューデリー地域は広々とした空間に建物が広がっている。この写真では向こうの方にかすかにインド門が見える。

かつては地下鉄網が発展していなかったために空港から市街地に出るのは一苦労だった。ガイドブックには「市街地に行くのに騙されないようにするにはどうしたらいいか」というページがあったほどである。のだが、最近では地下鉄が整備され旅行が安全になった。ニューデリー駅の近くには安宿が点在しており予約なしでもそこそこのホテルに泊まることができる。ただし、女性には性被害が頻発しており昔よりは一人旅が難しくなっているかもしれない。

フマユン廟

ムガル帝国2代皇帝フマユンの墓として作られた。フマユンはいったんペルシャに逃れた後、北インドに戻りデリーとアグラを征服したのち1556年に亡くなった。

ペルシャの王朝はサファヴィ朝でありもともとはトルコ系だったということである。サファヴィ朝は、その成立過程で宗教的に先鋭化し、スンニ派からシーア派になった。その後イランは今でもシーア派が主流の地域になっている。そしてその影響を受けたムガル帝国もシーア派化した。ただし、現在のパキスタン・インドのイスラムはスンニ派だということなので、帝室の伝統は必ずしも現地のイスラム教の伝統とはならなかったようだ。

このお墓はアクバル大帝の時代になってペルシャ出身の皇帝母によって建築されたのでペルシャ式になっている。この頃からムガル帝国はペルシャ語化してゆく。

1857年にムガル帝国が崩壊した時、最後の皇帝パハドゥル・シャー二世がフマユン廟に逃げ込んだところをイギリス軍に捉えられ帝位を剥奪された歴史もあるそうだ。

フマユン廟は地下鉄駅から離れているのでツアーを使ったほうがよさそうだ。近くにハズラト・ニザーム・ウッディーン(ハズラト・ニザムディン)駅という国鉄の駅がありアグラに行く新しい急行列車ガティマン・エクスプレスが出ている。

通常、アグラやジャイプールに行くにはニューデリー駅からのシャタブディ・エクスプレスを使うのだが、朝が早いのでこちらのほうが時間的には便利なのかもしれない。(写真はニューデリーを出発してジャイププールジャンクション駅に着いたシャタブディエクスプレス。この後、アジメールまで向かうのでアジメール・エクスプレスと呼ばれる。)

急行列車はかなり人気なので、チケットは前もってとったほうが良い。数日の余裕をもって行動したほうが良さそうだ。なおインドには特急というクラスはないようで、すべてエクスプレスと呼ばれているようだ。

アグラ城塞(アグラ城)

デリーからアグラへ遷都するのに皇帝アクバルが築城し1573年に完成した。その後3代、シャー・ジャハンまで皇帝の居城だった。シャージャ・ハーンの息子アウラングゼーブが重病(催淫材の多量服用が原因とされるそうである)の父親を幽閉したのちデリーに移った。

今でもアグラ城からタージマハルを眺めることができる。

門には文字が書かれているのだが多分コーランなのではないかと思う。お墓に経文を彫るようなものなのだろう。

アグラ城塞とタージマハルは駅(アグラ・カントンメント)から離れているので、ツアーを使ったほうが良いように思える。アグラ城とタジマハールも若干離れている。デリーから出発する日帰りのツアーも探せるし、特急を使えば1日で帰ってこれる距離である。

シカンドラのアクバル廟

アクバル1世はフマユーンの子供として生まれたのち、宰相から権限を奪い皇帝権を確立した。日本でいう徳川三代将軍みたな感じの人らしい。

帝国領域が拡大し非イスラム教徒が増えたため人頭税を廃止して税制を改革した。この後ムガル朝の最盛期になるのだが、アウラングゼブが再び人頭税を復活させた後、治世が安定しなくなり崩壊に向かった。

アクバルは1605年にアグラで亡くなった。ちょうど関ヶ原の合戦のころの人ということになる。

なおこの建物はアグラ中心部から10kmほど離れたシカンドラという街にある。アグラは公共交通が発達していないので現地でツアーを利用したほうが良いと思う。

ホールのボタニカルな文様は鮮やかで見ごたえがあるが、墓室そのものは質素なものだ。

タジ・マハル

シャー・ジャハンが妻のムムタズ・マハルのために建てたお墓。タジ・マハルは建物の名前ではなく皇妃の名前が省略されたものだそうである。

1632年に着工して1653年に完成した。ムムタズ・マハルは14人の子供を産んで36歳で亡くなったということである。夫が元気だったので大変だったのだろう。

シャー・ジャハンは放蕩の末、息子に幽閉されて居城からこの墓を見ながら亡くなったという。丸屋根の高さは53mだそうだ。周囲の尖塔は42mということで遠くからでもはっきり見ることができる。

この建物の向こうにヤムナ河が広がっており、河を挟んでシャー・ジャハンの墓を作る計画があったそうだ。

レッドフォート(ラール・キラ)

別名はラール・キラー。ムガル帝国五代皇帝シャー・ジャハンがアグラから遷都してデリーに居城として築いた。1639年に着工し、1648年に完成した。シャー・ジャハーンは重病となりアグラに帰り、その後息子(アウラングゼーブ)に幽閉された。

最初の写真が城門にあたり、次の写真が皇帝が謁見した建物だそうである。

アウラングゼーブ帝は父親のように幽閉されることはなかったが、晩年自分も同じように息子から廃位されるのではないかとか、息子たちが争うようになるのではないかと思い悩むことになる。

その予想は半ばあたり、息子たちが争うようになる。この後ムガル帝国は緩やかに衰退してゆくことになった。

レッドフォートは珍しく地下鉄駅が近くにある。バイオレットラインのラール・キラ駅が最寄りだが、チャンドニ・チョウク駅からも歩いて行けるくらいの距離だ。チャンドニ・チョウク駅からはジャマ・マスジッドにも行くことができるくらいの距離感である。この地域はオールド・デリーなどと呼ばれている。

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なぜテレビでキチガイと言ってはいけないのか

田原総一郎が朝生で「キチガイ」という言葉を使ったとかで、アクセスが伸びた。田原さんはテレビのルールを熟知しており、このエントリーを書いたときの小林さんとは状況が違っている。





小林旭がテレビでキチガイという言葉を使い、フジテレビのアナウンサーが謝罪した。この件についてネットでは「キチガイにキチガイといって何が悪い」という声があるそうだ。小林さんの言葉は「無抵抗の人間だけを狙ってああいうことする人間っていうのは、バカかキチガイしかいないよ」というものであり、なんとなくなるほどなと思うところもある。

テレビでキチガイと言ってはいけない直接の理由はそれが放送禁止用語だからである。民放は広告収入に依存している。広告を載せる以上は前提となるコードがあり、それに触れたのがいけないということになってりう。「テレビ局が勝手に決めた」という反論があるようなのだが、出演者たちは広告収入からギャラをもらっているのだからルールは守られなければならない。

だが、なぜそもそもキチガイは放送禁止用語なのだろうか。それは、日本の精神病患者が長い差別の歴史を戦ってきているからだ。もともと精神疾患は不治の病のように考えられており、いったん発症すると病院に閉じ込めて死ぬまで出てこれないように処置するのが当たり前だった。薬物治療ができるようになってもこの状態は変わらず、今でも社会的入院患者(受け入れ先があれば退院できるが、実際には入院している人たち)が18万人もいるとされている、これはOECD諸国では一番多い数なのだそうである。(#wikipedia「社会的気入院」)

つまり、よくわからないからとにかく閉じ込めておけという風潮があり、人権侵害の恐れが強い。このような差別を助長するので、精神病者や疾患保有者を示す「キチガイ」という言葉を一概に禁止していると考えられる。

例えば風邪のような病気を全て「病気」とひとくくりにして一度風邪に罹患したら一生社会に出てこれないという状況を考えてみると、これがどれほど異常なことだったのかということがよくわかる。だが、精神的な不調は外から見ても原因が観察できず、よくわからない。そこで「キチガイ」とひとくくりにされかねないのである。

このように正気とキチガイの境目はわかりにくくなっており、単に封じ込めておけば良いというものではなくなっている。

日本の例でいうと薬を処方されながら社会生活を送っているうつ病の患者が多くいる。つまり、薬があれば社会生活が送れる人たちがいるのである。うつ病だけに限っても100万人程度の患者がいるそうだ。こうした人たちをすべてキチガイの箱に入れてしまうと多くの人がキチガイになってしまう。

しかしながらうつ病の人たちはまだ診断名がついているという意味でわかりやすい存在である。BLOGOSによると最近問題になったラスベガスの銃撃犯はギャンブル依存に陥っており向精神薬の処方も受けていたようである。さらに薬そのものへの依存傾向があり精神科で薬をもらっていた可能性がある。さらに、正気の日常生活を送っており、フィリピン人の女性と交際もしていた。怪しまれずにホテルに宿泊することもできた。医者を含む人たちが彼を見ていたのだから、外見上はとても精神に異常があるようには見えなかった。このように、正気とそうでない人たちの間の線はかつてないほど曖昧になっている。銃撃した人を後からみると「なんらか精神に問題があった」ということは間違いがなさそうだが、だからといってそれを事前に察知することはできないのである。

アメリカではさらに状況が一歩進んでいる。パフォーマンスを上げるためにスマートドラッグという種類の薬を飲む人たちがいるのだ。。副作用はないということになっているようだが、現在は覚せい剤として指定されている薬も昔はパフォーマンス向上のために使われていたという歴史がある。さらに抗鬱剤のなかにもスマートドラッグ分類されているものがある。つまり、正常と異常の境界線はどんどん曖昧になっている。

小林さんが「あんなことをする人はキチガイに決まっている」という時、キチガイというのは外見からみて明らかに精神に異常をきたしている人だという前提があると思う。しかし、それはこのケースに関しては当てはまらない。実はこれがアメリカでこの事件が人々にショックを与えている一つの理由だろう、さらに、明らかに精神に問題がありそうな人がみんな人を殺すかどうかわからない。これは「精神に不調があればとりあえず閉じ込めておこう」という偏見のある日本では精神疾患を持った人たちへの差別につながりかねないという問題もある。

田原総一郎さんもかつてのように気楽な気持ちで「キチガイ」と言ったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。小林さんは歌手でありそれほど社会問題についての知見は求められないが、田原さんには言論人としての経歴と責任がある。だから「アナウンサーが謝罪して終わり」にするのではなく、自らの口で説明すべきではないかと思われる。アナウンサーが「臭いものに蓋」と言わんばかりに謝罪して終わりにしてしまっては、言論人としての責任は果たせない。

いずれにせよ、民放はサザエさんのような「普通の社会」を前提としたスポンサーシップに支えられているのだが、実際にはその社会はもはやないと言って良い。これを民放の枠内で解消するのか、ネットメディアのように違った場所で解消するのかという議論派あっても良いのかもしれない。

誰が正常かというのは昔は自明のように思われた。ゆえに精神病を発症した人への差別があった。だから、いわゆる「正常な人たち」は、精神に問題がある人たちは閉じ込めておけば良いと無邪気に信じていたことになる。だから今でもテレビではこうした人たちを指す「キチガイ」は封印されてなかったことになっている。

小林旭がキチガイ発言をした番組は「ニュースを斬った」ように見せるエンターティンメントでしかない。政治ニュースですら消耗品として扱われており、そこに問題を解決しようという意欲はない。だから小林さんに期待されているのは、ぎりぎりの線を狙いつつ、本当に議論を呼び起こすような課題に触れないようにするというアクロバティックな技術なのである。一方で、田原総一郎氏の番組も言論プロレス的な要素がありこれをジャーナリズムとして位置付けて良いのかはわからない。

こうした問題が未だに議論を呼ぶのは、受け手も送り手も難しくて面倒なことはできるだけ考えたくないからだ。このため日本人はこうした厄介な問題を閉じ込めてしまいできるだけ見ないようにしてきた。隠蔽することで「自分がそういう状態になったらどうしよう」という不安を隠蔽してきたのだ。だが、こうした不調を隠蔽すると、実際に自分が同じような境遇に陥ったら社会から見放されるのだろうなという見込みが生まれる。

「テレビではこうした言葉を一切使わない」のも隠蔽の一種だ。一切見ないのだから知識も増えず対処もできない。実は、これが多くの人々を不安にさせているのではないだろうか。その意味では発言した人はそれなりの説明責任があると思う。単に謝罪して終わりにすべきではない。

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排除の論理の論理

小池百合子東京都知事が排除の論理を言い出した。これにたいして「政党は同じ考えを持った人の集まりであるから政策による排除があっても当然」という擁護論を見かけた。ただ希望の党が躍進すると日本はかなり悲惨な状況に陥ることが予想される。

  • 国民は希望の党が後日決定する法律に無条件に従え。
  • 国民は希望の党が後日決定する税を無条件に支払え。
  • すべての結社は禁止され、ガバナンス庁がこれを監視する。

だから、小池擁護に回る人は間違っているのだが、それが「間違っている」という反発意見にもどこか説得力を感じない。それはこの議論には一つ大きなものが欠落しているからだ。あまりにも大きすぎるので却って見えにくいのかもしれない。

もともと政党は同じ考えの個人が仲間を募るというものだ。例えば、平等な世の中を作りたいと考えている人は共産党を組織するし、宗教団体が政治に影響力を与えたいと考えると公明党ができる。

こうした政党の理念にはそれなりの説得力があるので、有権者に影響を与えて自発的に賛同者が集まる。現在この過程が進んでいるのが立憲民主党である。本当は演技なのかもしれないが「草の根的に盛り上がった」という演出をしており、それなりの共感が広がっている。

人々は自分で考えて納得した主義にはより従いやすいので共感は重要である。ある考え方や組織に共感して自ら従うことをコミットメントという。人々がコミットするように働きかける人をインフルエンサーと呼ぶ。枝野さんはリベラルな人に「影響力がある」インフルエンサーであると言える。

ところがよく考えてみると、インフルエンスにもコミットメントにも適当な日本語の訳がない。先日見たリベラルが混乱して受け止められているのを見ると、インフルエンスもコミットメントも理解されていない概念なのかもしれない。

そもそも、日本には人々は自分の信念に基づいて自発的に協力するという概念がないので、それに関連する日本語がない。だから小池百合子さんが自分の主義を押し付けて議員をコマのように使ってもそれほど違和感を感じないのかもしれない。

しかし、このトンネルには裏側がある。それは「日本型の合意形成はどのように行われていたか」という視点である。

日本人は個人には意見がないと考えている。まず小さな組があり、その組がより大きな組を作る。最終的には集団が代表を出し合って、中央にいる空白を祭り上げながら意思決定を行う。つまり、誰も何も決めず、従って誰も排除されないという構造を作るのである。集団主義などと呼んだりもするのだが、どこまでも集団がつきまとうのが特徴である。

ここで重要なのはこうした意思決定の構造を温存するのが「日本型の保守である」ということだ。意思決定は利益の追求と分配のための装置だから、日本の保守は思想ではなく、いわば生業のようなものである。いずれにせよ、保守が成り立つためには日本人がどのように意思決定しているのかということを理解するか、意思決定を支えている構造を丸ごと温存する必要がある。前者は暗黙知の形式知化であり、後者は暗黙知をホールドする装置の温存である。

小池百合子の排除の理論が間違っている理由はこの2つの通路から説明ができる。第一に西洋型の民主主義を理解していないという批判ができる。次に、古くからある日本型の意思決定プロセスを理解していないと言える。

日本の政治団体を見ていると末端の人たちはそもそも信念に基づいて行動しているわけではなく、たまたま近しいからという理由で政治家を信じているに過ぎないように見える。今回民進党はいったん前原さんのいうことを信じたが「組織がそう動く以上従わなければならないと思った」と考える人が多いようである。加えて地方組織には情報が全く降りてこなかったようだ。これは民進党が西洋型の意思決定を行っていなかったことを示している。

いずれにせよ、第一の通路から小池さんを批判することは難しいように思える。もちろん立憲民主党が西洋型の民主主義正統になる可能性はあるのだが、草の根は選挙向けの演出にすぎないという可能性は捨てきれない。

ゆえに、希望の党は日本型の意思決定を逸脱していると考えた方が、批判としては説得力がありそうである。だが、残念ながら民進党右派の崩落はとてもわかりにくいものになっている。小池さんの政治手法は希望の党だけを見ていてもわからないが、都民ファーストの会と合わせると次のような特徴があることがわかる。

  • 都民ファーストの会では派閥の設立につながるような食事会が禁止されている。
  • 都民ファーストの会では議員が個人で有権者とつながるようなSNSの利用が制限されている。
  • 希望の党では明示されない「党の(とはいえその党が何を示すのかがわからない)方針」に無条件で従うことが求められている。
  • 希望の党ではガバナンス長が設置され、議員の思想と行動がチェックされる。
  • 希望の党では明示されない「党の求める金額」を収めることが要求される。党が誰なのかは明示されないし、金額も提示されていない。

この一連の方針を見て思う疑問は次のようなものだ。

  • 小池新党はどのようにして利益を分配するのだろう。
  • 小池新党はどのようにして意思決定し、どのようにして利害調整をするのだろう。
  • なぜ人々は小池新党に従うべきなのであろう。

一つだけ確かなのは、小池さんは日本型の持続可能なガバナンスについて何も理解していない。日本型の意思決定はとても複雑で冗長なので、前近代的で無駄なものに思えてしまうのだろう。と、同時にそもそも意思決定をしてこなかった民進党右派の人たちも日本型のガバナンスについての理解がない。

自民党は派閥主導の集団指導体制であり、集団は各種の利益団体によって支えられていた。つまり小池さんがしがらみと呼んでいるものが実は意思決定においては本質だったのである。

集団が代表を定期的に交代させることによって、ある集団が暴走せずすべての党員が意思決定に参加できるようになっていた。ところが、ある時点からなぜか党派同志の対立が吸収されなくなってゆく。すると場外乱闘が起き、小政党ブームの一つの要因になった。

保守はもともと思想ではないので、利害関係の調整と大きく結びついている。だから、政党が党員に利益を分配できなくなると保守思想そのものが消滅してしまう。そこで着想されたのが特区構想なのだろう。もともと小池さんは女性であるという被害者意識のために利益分配してもらえないという疎外感を持った人なので、保守的な意思決定をネガティブに捉えているのかもしれない。

こうした保守機構のアウトサイダーだった人たちが作ったのが希望の党であり、どういうわけか独裁・全体主義化してしまった。それは「無条件に私に従え」とか「私が指定する金額を貢げ」というようなものだ。前者は意思決定に関わっており、後者は利益分配に関わっている。

これが国政レベルで展開すると、個人は集団に無条件で従えという社会が構築されることになる。そしてそれは保守の完成形ではなく保守の残骸だ。議員に要求される項目を社会に展開すると次のようになる。

  • 国民は黙って私が指定する税を支払え
  • 国民はガバナンス庁が監視せよ。
  • 国民は私が指定する法律に賛同し無条件に従え。

よく、小池新党系のこうした約束を反社会組織になぞらえる動きがあるのだが、これは実は当然である。彼らも社会のアウトサイダーではあるが形式への信仰は保持している。同じような形式は新興宗教にも見られる。小池さんを「組長」とか「教祖」に置き換えてもそのままの形で通用する。実は日本型組織の残骸としては極めて一般的でありふれたものなのだ。

このような問題が起こる理由を考えてみたい。第一には保守を支える利益分配の仕組みが国レベルで壊れつつあることを意味している。次に日本の保守には「正統な」という思い込みがあるので、何が日本の保守であるべきかということを考える人がいなかった。だから、形式に内臓されている暗黙知が崩れてしまうと、保守思想そのものが再現不能になってしまうのだ。

左派リベラルには抑圧され差別されているという被害者意識があるので「では日本流の左派リベラルはどのようにして存在し得るのか」という認識を持てる。つまり、リベラルと保守を比べた場合、保守の方がより危険な状態にあるということがわかる。

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意気消沈する左派リベラル

たまたま行きがかりで政治ネタを書いている。だが、マスコミやネットの情報だけだと現実的なパースペクティブを失ってしまうので、時々現場の人に会うようにしている。だが、今回はかなりショッキングだった。左派リベラルは壊滅しかかっているとすら思えた。

だがもともとさほど実体のない運動であり、下手に政治に関わってしまったゆえに無力感を感じているのかもしれない。つまり、反政府的な盛り上がりがあったからこそ、現在の意気消沈ぶりがあるということになる。

民進党の市議の事務所は「来週はどの政党の応援をしているのかわからないが、ボス(奥野総一郎)が比例票頼みなので政策に構っていられないだろう」といっていた。この人は特に政党に思い入れがあるわけではないパートのお留守番の人である。だが、お手伝いなどで他事務所との交流があるらしく、先生方に対して独自の見解を持っていた。

例えば「小西ひろゆきさんが一夜にして豹変したのは面白かったですね」というと「東大出身の人は変な人が多いんですかね」と言っていた。小西さんは変わり者として知られているようだ。中央からは指示はないが民進党ののぼりは表に出さないようにしているということである。賢明な判断かもしれない。だが、意思決定はできないしそのつもりもない。単に「上から降りてきたことを守るだけ」だという。

しかし、本人が信じていないことに対して相手を説得できるはずはない。この辺りが野党の限界だったかなとも思う。

もう一方の市民ネットワークの事務所はさらに悲惨だった。もともとは主婦の助け合いグループをやっている団体で、その傍らでお勉強会をやっている。ここでは「私は単なる留守番なので政治のことはわからない」と必死の形相で断られたのだが、これも以前にはなかったことだ。本部に連絡したところ「情報がなくよくわからない」という。本部には戸惑いの表情があった。このままでは改憲勢力が多数になるのではというと「それは避けたい」と言いつつ「もう国政には関わりたくない」というスタンスのようだ。左派リベラル政党がいろいろと好き勝手なことを言ってくるので、かなりまいっているのではないかと思われる。

このスタンスは徐々に広がっているようで参議院選挙の時も自主投票だったようである。つまり左派リベラルの亀裂は徐々に進んでおり、市民団体が手を弾きつつあることがわかる。つまり無党派層が政治から離れているだけではなく地方の支えても距離を取り始めているようなのだ。

もともと彼女たちが政治に関わるのは「なんとなく社会にも意識があってえらい」と思ってもらいたいからである。にもかかわらず、政治に参加すると難しい議論を吹きかけられたり揶揄されたりする。これでは「立派だ」と思ってもらえないのだから、彼女たちが距離をおくのもわからないことはない。

いずれにせよ、どちらにも「私は政治のことはよくわからない」という諦めに近い気分が蔓延している。これが現在の左派リベラルの実体2近いのではないかと思う。盛り上がっているのは永田町だけである。

地震の後の反原発運動や、安保法制の制定時にはそれなりに盛り上がりがあった。

それは一連の運動が「戦争はダメ」とか「きれいな環境を子供達に残そう」という単純で立派なメッセージに依存していたからであろう。

だが、現在では同じ人たちが意気消沈している。目の前で議員たちが右往左往しているのを見ているのだから恥ずかしいという気持ちになっても当然といえば当然なのだが、一方で革新というのは今はない社会の実現を目指すのだから本来的に孤独であるとも言える。だが、均質な村落社会しか知らない人たちにそんなことを言ってみても無駄であろう。

デモに参加していた人たちは勉強会などで同じような考えの人たちに囲まれているうちに「これが99%の声である」と思い込んだのかもしれない。デモに参加しても同じような人たちがいて一体感を味わっていた。しかし、デモは現実の政策に何の影響も与えなかったし選挙結果も変えなかった。それどころか戦況はどんどん悪くなる。

つまり盛り上がりがあったからこそ、現在の意気消沈ぶりがあるということになる。

だがこれを左派リベラルの壊滅と考えるのもまた一方的すぎる見方かもしれない。

2009年の政権交代のときには自民党の人たちが同じように感じていた。「公共事業は全て悪である」というような極端な空気があり「話を聞きたい」などというと「お前は民主党の差し金で俺たちを笑いに来たのだろう」という極端な被害者意識があった。

どちらも実体のない被害者意識だが、現実に存在し、我々の周りに蔓延している。自民党はこの被害者意識から抜けらえず「民主党が勝ったのは国民がバカだからだ」という世界観を持つに至り、憲法改正案に天賦人権の否定という極端な主張を取り入れることになった。

デモが盛んだったときにはわからなかったことだが、デモはかりそめの一体感と引き換えに、その後の極端な鬱状態という副作用を引き起こすようだ。

その裏には政治リテラシーがない人たちがかろうじて政治を支えているという事情がある。自分で考えることがなく、答えをコピペしていることから起こるのだろう。

この状況をどう見ていいのかはわからないのだが、とりあえずありのままに報告しておきたい。

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