NHKはどれくらい国民を洗脳しているのか

左翼の人たちはよく、日本人はNHKに洗脳されているなどという。確かに政府には広報戦略みたいなものがあってNHKはその戦略を実行するための道具になっているのは間違いがなさそうだ。かつて民主党に政権を取られた時にマスコミが大きな影響を果たしたので、その反省があるのだろう。だから、NHKをジャーナリズムとは思わない方がよいというところまでは確かだ。ジャーナリズムは幅広い視点からものを見るために役立つのだから、NHKを見たら他の報道(できれば海外のものまで含めて)で検証する必要がある。

だが、本当に日本人はNHKに洗脳されるほど素直で従順なのかなというとそれにも疑問がある。最近、そのことがわかるのではないかという事例があった。

最近、ヨーロッパと経済交渉が続いているのはご存知だろうか。チーズなどの関税を撤廃するのと引き換えに、自動車関税の撤廃を勝ち取るというものだ。だが、どうも報道が不自然だ。ヨーロッパがチーズの関税撤廃を執拗に迫っていて、それをやり遂げないと自動車関税が撤廃できないというようなお話になっている。安倍首相の外遊に合わせてことさら報道されるようになった。政府にPR企画部のようなものがあって、その筋で情報をコントロールしているものと思われる。

最後に流したい絵は安倍首相の熱意の結果交渉がまとまり、日本の自動車輸出がさらに盛んになるだろうと語る場面だろう。これは安倍首相が「力強い首相」であるという<印象操作>だ。

確かに、チーズの関税が撤廃されると日本の酪農は打撃を受けそうな気がする。だが、実情は少し違っているようだ。生乳の自給率は高いのだが(新鮮なものをすぐに飲みたいという需要があるのだろう)チーズやバターといった加工品はどちらかというと需給の調整という役割が強いように思える。チーズの自給率は20%を割り込んでいるそうだ。つまり、チーズを明け渡したからといって、それほどの影響を受けるようには思えない。関税を撤廃すれば安いチーズが食べられるようになるわけで、多くの消費者から反対が出るわけでもなさそうだ。

だが、これを「やすやすと明け渡した」ように見せてしまうと「自動車関税を政府が勝ち取った」という演出ができない。最初から路線が決まっていたのだが、岸田外相が大枠で合意したことにして、安倍首相とEUの間で最終的な「成果」として発表できるようにしているように思えるのだ。

さて、左翼の人たちの理論によると、政治的に無関心でNHKに洗脳されているので、こうしたニュースを見て「安倍様の政治的交渉力はさすがだなあ」などと思うに違いない。確かにそうした懸念はあり、支持率が上昇してしまうかもしれない。

だが、日本人はそもそもこうしたニュースに深い関心を払っていないかもしれない。のちに値段が安くなるまでは「あ、関税が下がったんだ」と思わない可能性もある。よく考えてみるとオーストラリアビーフがなんで安いのかということもよく知らないわけだから、首相の名前をことさらに出さないと、国民はまったくありがたがってくれない可能性があるのだ。

それに加えて「自動車関税の撤廃を勝ち取った」というニュースがないと、北朝鮮が弾道ミサイルを開発したのに、日米韓は責任を押し付け合っているというようなネタしかない。すると国内政局に関心が向いてしまうので、政府としても何かネタを探すのに必死だった可能性はある。

日本人は昔から政局報道には興味があるが、政策にはそれほど関心を持っていないように思える。今でも、麻生派閥が安倍派閥を追い落とそうとしているとか自民党小池百合子派が安倍派閥を対峙してくれるのか、それとも寝返ってしまうのかなどという政局報道に夢中になっている。政治部の人たちも政策の意味を伝えるより、インサイダーとして政局の解説をするのが好きなようだ。

NHKは広報活動を通じて国民を<洗脳>しようとしているというのは多分間違いがないのだが、それが国民に届いているかと言われればそれも疑問なのだ。来週以降の政権支持率に注目したい。

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日本をぶっ壊さないために私たちができること

さて、先日来「日本人は元来闘争好きなので、政治が劇場化する」みたいなことを書いている。日本人をディスっている文章なので、閲覧者が減ってゆくのではないかと思っていたのだが、日に日にページビューが増えていて、書いている方が逆に心配になってきている。多分「世の中狂ってる」と考えている人が多いのだろう。

が、政治が劇場化すると問題解決をそっちのけにして、分断が深刻化する。すると社会が弱体してゆくので、どうしたら劇場化が食い止められるかということを考えてみたい。考えては見たいのだが、もしかしたらそれほど興味はひかないかもしれない。

通路は2つある。一つは集団を通じて争うのをやめて個人ベースの競争に移行する方法で、もう一つはかつてのように集団的な闘争心を別の生産的な方向に向けることだ。日本の政治が劇場化するのは、日本人が集団での競い合いに陶酔するからなのだから、それを阻害してさえやればよいのだ。

第一の方法は、集団ではなく個人に焦点を当てることである。個人としての日本人は比較的穏やかなので、個人のままで社会的な交渉をしたり、社会参加する方法を見つけてやればいいことになる。自分たちでモデルを作ってもよいが、すでにこうなっている社会もある。それがアメリカだ。

だが、この解決策には大きな壁がある。日本人は個人としてはとてつもなくシャイなのだ。WEARというファッション系のSNSでは顔を隠している人が多い。中には目だけを隠している人も見受けられる。正体がバレるのがいやというより、目から魂が抜かれるのがいやなのではないかと思うほどだ。それほど、社会に顔をさらすことには抵抗が強いのである。

次の方法は、闘争心を生産的な方向に向かわせることだろう。高度経済成長期の日本人は取り憑かれていたように働いていたのだが、これは経済戦争を通じて負けたはずの相手と対決できたからだろう。このように企業が絶対に負けない戦争をしているうちには問題がない。

自民党が比較的穏健な政党だったのは、利益共同体が母体になっているからだ。「生業」を保証することで生涯賃金を保証したのである。これが崩れて宗教的な団体が支持母体になったころからおかしくなってしまった。前回のエントリではAKB総選挙と企業活動のどっちを優先するかという話を紹介したのだが、実は政治にも同じようなゲーム化の傾向が見られると思う。何かにつけて外野の人たちが集まってきて騒ぎ出す。彼らは問題とは関係がないので、解決したり収束したりということがない。逆にいつまでも騒いでいたいのだ。

例えば、豊洲・築地の問題は「変化する日本の食糧流通に公共がどう関わるか」ということと「観光資源としての日本の伝統をどうやって世界に発信するか」という課題に限っていればこれほどの大騒ぎにはならなかっただろう。しかし、小池百合子東京都知事が東京都の利権を簒奪するために利用したために、全く関係のない人たちを大いに引きつけることになった。

よく、日本の政党はイデオロギー型から問題解決型に移行すべきだなどという人がいるが、それは間違った考え方だ。そもそも現実の政治課題もうまく扱えないのに、どう生きるかなどというイデオロギーを扱えるはずなどないのだ。社会主義イデオロギーに見えていたのは「今の政治はくだらない」というルサンチマンに過ぎない。

日本人が政治による問題解決ができないのは、話し合いではなく集団での闘争を通じてものごとに「白黒をつけようとする」という精神があるからなのだろう。どうしても集団間の闘争によって勝ち得たものが正義だということになってしまうので「どう正しくあるべきか」ということは問題にならない。「勝ったものが正しい」のである。そもそもイデオロギーなど成立しようがない。もし、第二次世界大戦でソ連に占領されていたら世界一うまくいった社会主義国になっていたかもしれないが、どちらにしても深層は民主主義でも社会主義でもないのではないのだろうか。

さて、ここまで「問題は解決できるけれど」「それは日本人の性質上難しいのでは」と書いてきたのだが、政治から生活に戻ろうとする動きはすでに自民党の内部で始まっているようだ。自民党には「正解を目指す闘争」と「経済的利益の追求」という二つの流れがある。前者を象徴しているのは、岸信介・安倍晋三・日本会議・天賦人権の廃止。憲法第9条の廃止などの強さを希求する動きである。が、この動きはすべて分断を前提にしているし、実際に国家を分断させてきた。一方で、経済的利益はある程度自治の効いた利益集団の水面下の話し合いによって決まる。このためある程度は抑制が効いており、多くの人々に受け入れ可能なものになっている。池田勇人が入ったように「みんなの給料が二倍になりますよ」の方が受け入れてもらいやすいのだ。

だから自民党が政権にあるときに憲法改正を言い出すと支持率が急落するのである。どちらが原因でどちらが結果なのかはわからないものの、憲法改正は現実の問題を解決するための道具ではなく、とにかく何だかわからないが「闘争に勝つ」ための手段なのだろう。これは学校の規則を変えて毎日運動会をやるというのに似ている。

現在の懸念は、自民党の一部を代替しつつある小池百合子東京都知事がこの二つの流れをどのような割合で含んでいるかである。自民党内で勝ち上がるために日本会議を<利用していた>のなら、今までの間に、プラクティカルではないと有権者の支持が得られないということを学んでいるはずだがそうでない可能性もある。多くの人たちが自民党の補完勢力になってしまうのではと懸念しているようだが、果たしてそれはどちらの自民党だろうか。

いずれにせよ、西洋的な民主主義をモデルにしている人は、個人が契約を通じて社会と結びつきそれが最終的に政治になるというようなルートを目指すべきだろう。そののちに、北欧のような社会包括性のある国家づくりを目指すべきだが、そのためにはこれには揃えなければならない牌が多く、なかなか実現しないのではないかと思う。それよりも、目的意識が明確な集団を通じて、利得の獲得を目指す高度経済成長型の社会に戻す方が簡単なのかもしれない。

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日本人はすでに新しい戦争状態にある

最近。車椅子の人は飛行機に乗る時に遠慮すべきだという人や、お母さんは国会議員であっても子育てに便宜供与を受けるべきではなく、黙って歩くべきだなどという声がある。これを聞くと「日本は愛のない冷たい社会になった」などと思いそうだが、必ずしもそうとは言えない。そもそも日本は個人にはとても優しくない社会だからだ。

各国の企業文化を研究して指標化したホスフテードは、日本社会が極めて競争的な社会であることを「男性性」という軸で説明している。なかなか面白い指摘を含んでいる。


日本は競争や達成によって、その分野で一番の人が評価されるという社会である。この競争は教育現場から始まり社会人になっても続く。

女性的な社会では相手を思いやったり、生活の質をよくすることが大切になり、生活の質がよいことが成功として評価される。男性社会のように、秀でていることが評価されるわけではない。男性的な社会ではベストであることが評価されるが、女性的な社会は自分たちのやっていることが好きかを評価する。

95というスコアは極めて高く、日本が男性的な社会であることを示している。一般的に男性的な競争というと個人が競い合うことだと見なされそうだだが、個人主義がそれほど強くない日本の競争は集団間のものになりがちだ。例えば、幼稚園児が運動会で白組と紅組にわかれて競争したりするほどだ。

社員がもっとも一番やる気を感じるのは、勝ち組に入ってチームで競争している時である。例えば、ものづくりのように完璧な製品を作る競争に価値を見出す。また、ホテルやレストランのサービスでも、ギフトの包み方や食べ物のプレゼンテーションのやり方で競い合ったりする。悪名高い日本のワーカホリックは、男性性のもう一つの表れだ。労働時間が長いので、女性が出世の階段を登るのはとても難しい。


これを読むと、日本はそもそも優しくない社会であるということがわかる。社会を居心地よくすることにはあまり関心がなく、競争そのものに価値を見出している。ホフステッドは他にも様々な指標を持っているが、男性性だけをとっても日本文化の特殊性が説明できる。

第一に日本人は集団の競争が好きなので、勝ち組に乗って負けた人たちを叩くのが好きである。最近では自民党が勝ち組と認識されているので、負け組である民進党・自由党・社民党・共産党を叩くのが大流行した。人生の中で「勝っている」という実感が得られない人ほど、こうしたグループで「勝ち組に乗っている」というような仮想的な優越感を得ることができるのだろう。

こうした人たちにとっては、競争こそが善なので、居心地の良さや優しさというのはそれほど価値がない。そればかりか、女性や障害者というのは競争の足を引っ張る足手まといで弱い存在なので、それを叩いたとしてもそれほどの罪悪感を感じないだろう。

彼らは勝てる競争を選んでいるわけで、障害者や女性のような弱いものに勝つこと自体が目的になっている。そもそも競い合いが目的なので、彼らを説得しても無意味である。これは運動会で「紅組と白組は仲良くすべきである」というのと同じことだ。そんなことをしたら運動会が盛り上がらない。

韓国の同じ項目を読むと、対立は妥協と話し合いで解決されると書いてある。同じ東洋圏にあっても、韓国は女性型社会なのだ。日本は競争での解決を目指すので、妥協が起こりにくい社会と言える。よく、多数決が民主主義だという人を目にするが、これも競争型社会の特徴である。日本のような競争社会では、勝てば何をしてもよいのである。韓国は女性型社会なのだが、関与によって意思決定が行われるとされる。だから、日本と韓国ではデモのあり方が違っている。競争型の日本ではデモは「負け犬の遠吠え」とみなされるのに比較して、韓国では民意だと考えられている。韓国のほうがより包摂性が強い。

スウェーデンは極めて女性性が高く、すべての人に役割が与えられている状態がよい状態だと考えられているという。ラゴムという「過不足ない状態」をよしとする文化があるそうだ。みんなが納得するまで話し合いを続け、どんな人で社会参加ができる状態をよしとする文化は、日本のリベラルの人たちの憧れとなっている。が、スウェーデンは極めて包摂性が高い社会なので、彼らの制度をそのまま日本に持ってこようとしても支持されない。

が、現代の問題は競争が自己目的化しているばかりか、情報が古いままで止まっているという点だろう。韓国や中国に関する情報も昔のままで止まっているので、中国や韓国は「自分たちが勝てる」存在と認識されていると言える。多分、憲法を改正して軍隊が持てれば勝てると考えているのだろうが、それには根拠はないかもしれない。実際には、韓国の所得水準は日本と並びつつあるし、中国の技術水準は日本を上回りつつある。

この分析を読むと「何のために戦っているのだろうか」という疑問に意味がないということがわかったからだ。例えば組体操の目的は近隣の学校で一番高い人間タワーを作ることであって、それに何の意味があるのかとか、安全にできるかとか、それを作るのが好きかという質問には全く意味がない。とにかく、集団で競い合うことに夢中になっているのだから、事故で脊髄を痛める子供が出てきたら隠蔽されなければならない。競争の邪魔だからだ。

いわゆるネトウヨという人たちは戦争が好きなように見えるのだが、彼らは何のために戦うのかという点にはあまり関心がないのかもしれない。その頂点に立っているのが安倍首相であり、首相は彼らにとってみればヒーローだ。ここで、ポイントになるのは、この戦争はネトウヨの人たちの犠牲を伴わないという点だろう。何の代償も支払わず、勝っている実感が得られるという点が重要なのかもしれない。

そのように考えると、こうした永遠の闘争を繰り広げる人たちを右翼という言葉でくくるのはあまりよくない気がする。さらに面倒なのはこれに対峙する左翼の側の人たちも「紅組と白組」に分かれて戦っており、彼らにとってみても「その戦いにどんな意味があるのか」という問いにはそれほど意味がないのかもしれない。少なくとも闘争好きな左翼の人たちは「負けつつある戦い」を戦っているという意識があり日本人としてはあまり愉快な状態ではない可能性はある。

こうした、極めて競争的な国民性は発展途上国から先進国になるためにはとても有利だったと言えるだろう。が、先進国としては不安の方が大きいかもしれない。車が行きわたったら、今度は行った先でどう快適い過ごすかなどということが大切になってくるわけだが、日本人はそうしたことを考えるのが極めて不得意だ。さらに、競争に意味を見出せない人が増えてくるので、韓国や中国を叩いたり、弱者をいじめたりする競争へと移行してゆくのだが、これはあまり国力の増強には役に立たない。

つまり、日本は新しい戦前なのではなく、極めて無意味ながらすでに戦争状態に突入していることになる。だが、その戦争にお付き合いする必要はないように思う。闘争のための闘争などどう考えても無意味だからだ。

が、それがあまりにも日本の社会に深く根付いているために「居心地のよい社会を作るために、敵を倒す闘争に参加する」という、冷静に考えるとわけがわからない状況が作り出されている。

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「プロ障害者」を非難する人がいなくならないのはなぜなのか

先日来、Twitterに「車椅子は社会の迷惑だからすっこんでろ」という人がいなくならないのはどうしてなのかということを考えていた。最終的には、彼らは社会に愛されている実感がないんだろうという結論に達した。

社会には、なんのために生きているのかわからない人たちが大勢いる。会社に行けば部品のように扱われ流上に、やっていることの意味も社会のルールの意味もわからない。かといって、自分で社会を変えた経験もなければ、その意思決定にどう参加していいかもわからない。かといって理不尽なルールに反抗する勇気もない。いろいろな人に気をつかうが、自分に気をつかってくれる人はいない。かといってその苛立ちを誰かにぶつけることもできないし、その機会もない。

そんなときに別の誰かが社会から同情されていたらいったいどんな気持ちになるだろうか。それは車椅子の男性かもしれないし、子供を抱えたおかあさんかもしれない。彼らや彼女たちは社会に同情してもらっている上に、ルールまで変更される。

すると「自分は誰にも顧みられないのに、この人たちが愛されるのはどうしてか」と思うのではないだろうか。おまけにルールまで変わっているわけで、それはとてつもない特権に見えるだろう。

実際には不都合なルールがあればみんなで協力して変えて行けばいい。ルールは人を縛るためにあるわけではなく、できるだけ多くの人が幸せになるために存在するからだ。しかし、よく考えてみたら誰かもそんなことは教わらなかった。我々が学校で習うのは「規則だから守れ、それ以上は考えるな」ということだけだ。

自分はルールの奴隷なのだから、相手もそうなるべきだと匿名で主張してみる。なんとなく社会的に意義があることを言ったような気分になるし、ジンケンヤにひと泡吹かせることで自分にも影響力があるということが確認できる。

多分キーになっているのは社会的認知だろう。社会的に顧みられることには多分快感が伴っている。こうした仕組みは、人という動物が群れで暮らすに当たって協力関係を維持するために発達させたのではないかと考えられる。だが、社会に建設的な影響を与えられなければ、それが破壊につながることもあるということだ。

本来ならば、議論をすることで他人の人権を抑圧する人たちの態度を変容させることができるはずなのだが、これはあまり意味がないのではないかと考えられる。それはそもそも論題が「俺はなぜ愛されないか」だからだ。車椅子などどうでもよいわけだから、車椅子について議論しても仕方がないわけである。

そればかりか、彼らに対して反論すればするほど、彼らに餌を与えていることになる。だから、本来ならば、彼らに愛を向けてやるべきだし、そのような義理はないと考えるなら無視するのが一番よいのではないかと思われる。無視すれば社会認知による快感は得られないからだ。彼らは思ったような回考えられないから「都合が悪くなればだんまりですか」などというだろうが、それはアルコール依存症の患者がお酒をもらえないで暴れているのと同じような反応なのではないだろうか。

多分、他人の人権を制限したい人たちに躍起になって反論する人が多いのは、そうした人たちが社会の空気を支配することで、世の中が悪い方向に進むということを懸念するからだろう。

ここで、彼らが障害者の人と同じ飛行機に乗っっていたと仮定してみよう。障害者の搭乗に手間取って出発が遅れたとしても、彼らは文句を言わないはずである。彼らは名前と顔を晒して公共の場で「障害者よりも俺を優先しろ」などという度胸はないだろう。

だからといって、この状況に全く問題がないというわけではない。多分、一番深刻な問題は、社会から顧みられているという実感がない人が世の中に溢れていて、社会的認知を熱望しつつ、どうしていいかわからないという気分になっているということだろう。

第一の懸念は、社会に納得感がない人たちの生産性は多分それほど高くないだろうということだ。もしかするとかなり優秀な人の中にも、何のために働いているのかわからないと考えている人がいるかもしれない。それは現在の官僚機構をみればよくわかる。彼らがやっているのは、安倍政権の辻褄合わせだが、社会的には全く無意味である。石を積むようにして安倍政権を弁護するわけだが、その石を政治家が崩すという徒労を延々と繰り返している。ルールを作レル立場にいる人でさえそのような状況なのだから、普通の市民が徒労を感じるのも無理はない。

もう一つの問題は、こういう人たちを扇動するのはそれほど難しいことではないだろうということだ。冷静な判断力がなくなっているので、相手が困った顔をするような政策に簡単に賛成するだろう。実際にそうやって権力を得たいと考える政治家は出てくるはずだし、すでに現れているのかもしれない。こうした人たちがある程度のボリュームをもって可視化された時、それが社会に悪影響を与えないとは言い切れない。

こうした人たちが変わるためには「もっと社会から省みてもらいたい」というネガティブな感情も含めたアサーティブさを身につけることだろう。つまり「自分も社会に顧みてもらいたい」ということを社会にむかって押し出すことができて初めて、他人を大切にするということができるようになるのではないかと思う。が、これは日本人にとってはかなり難しいことなのかもしれない。

つまり、この社会に対して「もう疲れた」とか「やっていられない」と思っている人よりも、頑張って「やりがいがある自分」を演じている人の方が、実は「障害者はルールを守っておとなしくしていろ」とか「社会に迷惑をかけるな」などと言っているかもしれないのだ。

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金子恵美議員は謝罪すべきだったのか

金子恵美議員が子供を公用車に乗せて保育園に送っていたとして批判を受けた。現在総務大臣政務官だそうだが、総務省によると運用上問題はないということだ。他のお母さんが送り迎えに苦労しているのにずるいのではないかという指摘が多く、多分今後は自主規制するようになるのではないかと思われる。本人は一度釈明して「違法性はなかった」といった上で、今後はタクシーなどを利用するといっている。

金子議員本人はブログで問題はなかったがいろいろ考えるところはあったというような説明をしている。

個人的には1kmくらいしか離れていないので、一緒に歩けばいいのになどと思ってしまう。朝の良い散歩コースになるだろうし、子供もお母さんと一緒に歩ければいろいろな発見があって楽しいのではないだろうか。

が、ここでは、フォーマットに則って、金子恵美議員は何か悪いことをしたのかを考えてみたい。説明責任はエージェントである政治家が税金を適切に支出しているかを説明すればいいのだった。

例えば、私用で別の場所にある保育所に寄っていたとすれば、ガソリン代が無駄になることが考えられる。これは税金であり、厳密に言えば無駄遣いをしたと考えられても仕方はない。しかし、同一ルートにあるとすればこうした無駄は起こらないので、税金の無駄遣いという指摘は当たらないだろう。ここが舛添前都知事と違っているところだ。湯河原は東京から遠く、自宅と都庁との経路には含まれていないので「無駄遣い」ということはできる。

ところが、考えるべきなのは、それだけではなさそうだ。つまり、働くお母さんに保育所を提供するのはいいことなのかという問題が残る。国会議員や霞ヶ関の役人たちにだけ優遇された保育園を作るのはずるいのではないかという視点である。

一般に、働くお母さんでも仕事に集中できるように職場に保育園を作るというのは、企業利益にかなっていると言える。より多くの優秀なお母さんを雇用できるからである。これを国会議員や霞ヶ関に当てはめることは可能で、通勤時に子供を預けるということには、優秀な働き手が仕事をしながら子育てができるという意味では便益があると言える。

政治家の場合には、お母さん世代が政治に参加することでより現場の視点がわかるようになるというメリットもある。子育てを終わったおばあさん世代やそもそも子育てをしたことがない男性議員が作る政策はどこかちぐはぐなものになるだろう。

例えば。ヤクルトは職場に保育施設を作っていると宣伝しているが、ここに自動車通勤してくるお母さんが子供を同乗させたとしても社会的な問題にはならない。同じように、国会議員の場合には自分で運転をして事故を起こしてしまうと大きな問題になりかねないので、運転手付きの車を使うということは考えられる。

つまり、職場環境を整えるという意味で仕事の一環であるか、それとも福利厚生事業としてプライベートに留め置くかという議論はできる。例えば、東国原英夫氏は「子育ては私的領域であり」と一刀両断している。

少子化が進み、労働人口が減ってゆく中においてはこれまでの常識を乗り越えてでも働くお母さんに便益を図るべきだという考え方はなりたつだろうし、これによる経済効果も推計できるはずであり。つまり、視点を転換する必要があるように思えるので、これは十分に議論になり得ることなのである。

ここに出てくる問題は「バランス」と「信頼性」である。ベビーカーが電車に乗せにくいお母さんのために駅前に保育園を作ることも、同様に特別扱いではあるが十分に経済合理性がある。だが、一般の人たちが自民党は十分にやってくれていると思えれば、そもそもこれが問題視されることはないわけだ。

つまり、金子議員が考えるべきだったのは「個人の遠慮」によって丸く収めるということではなく、自民党が子育て世代からあまり支援されていないという可能性だったのではないだろうか。世論調査などから多くの有権者は、安倍政権の政策は特に支持していないが、他に変わる政党はないので黙認しているという状態になっている。このため、議員が特別扱いされているという負の感情が生まれるのだろう。

これを払拭するために金子さんがやるべきだったのは、働いているお母さんと一緒に現状を考えたり、どのような進捗があるかを説明することだった。ここまでやってくれれば、政治屋さんから政治家さんに昇格できるかもしれない。つまり、問題があるから説明責任を果たすということではなく、積極的に自身の説明責任を果たすために情報発信するということである。自民党には障害を持った子供を抱えている野田聖子議員のような専門家もいるのだし、民進党と協力しても(少なくとも有権者は)誰も文句は言わないだろう。

東国原さんの議論の浅はかなところは、政治コメンテーターの職業的な常識に溺れて、本来政治家が果たすべき役割について少しわからなくなってしまったことからきているのだろう。優秀な宮崎県のPRマンであり、発信力に定評があっただけに、そこが少し残念ではある。

この問題をややこしくしているのは、他者との比較なのだが、なんとなく「国会議員だけ優遇されていいのか」という嫉妬心を持った人が多かったのではないだろうか。だが、議論を見ていると、お母さんたちが「私が苦しんでいるのに、国会議員だけずるい」と言っているわけではない。あくまでも外野の人たちが騒いでいる。実は、自分たちの満たされていない気持ちを、配慮が必要な人にぶつけて楽しんでいる可能性が高い。説明責任と騒ぎながら、実は説明責任に関する議論が行われないのは、このような理由によるものなのだろう。

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