福島からの避難者が「福島菌」と呼ばれていたというニュースをテレビで見た。これをいじめと捉えて登校しなくなった子もいるという。関連するニュースを検索して読んだところ、ちょっとした違和感を感じた。全ての関係者が「いじめはいけないこと」と言っているのだが、当事者の発言は一切ない。あたかも「いけないこと」と騒ぎ立てることで問題を隠蔽しようとしているかのように見える。つまり、日本人は何かを考えないために騒いでいるのだ。
生徒たちが福島から転校してきた子を「菌」扱いする理由は明白だ。親がそう言っているのだろう。福島県への偏見の根強さがわかる。同時に、いじめがいけないと考えているわけではなく、それを表面化させることがいけないと考えていることになる。
そもそも「菌」とは何だろうか。菌にはいくつかの属性がある。
- 菌は目に見えない。
- 菌に触れたり近づいたりすると伝染する。
- つまり、保菌者に近づかなければ安全である。
菌は「穢れ」を科学的に言い換えたものであると考えられる。つまり、かなり古くからある伝統とだ。最近では、つるの剛士さんのようになんでも長ければ美しいと考える保守の人たちがいるので、彼らのいい方に習えば「美しい日本」の伝統ということになるだろう。
さて、なぜ穢れという概念が生まれたのか。それは病気などの災厄があった時、それがなぜ起きているかがわからないからだ。わからないがよくないものを「穢れ」と括って現実世界から切り離してしまう。すると残りの人たちは安心だということになるわけである。
そもそも非科学的なものを科学用語に置き換えているだけなので「放射能は移らない」などと反論してみても(実際にそのように書かれたエッセイをいくつか見つけた)何の意味もない。
放射能(そもそもこの言葉も科学的に間違っているのだが)を穢れ扱いしないためには正確な情報が必要だったのだが、最近考察しているように日本人は言語を客観的には扱えないので、これはほとんど不可能に近い。そこで一般のレベルでは「何だかわからないが厄介なもの」と括って不安を処理し、それを具体的に体現する避難者たちにぶつけていたのだろう。つまり、避難生徒はスケープゴートで、原因になったのは様々な思惑から情報を「料理」した(東京電力を擁護した人たちと逆に必要以上に煽った)人たちである。
この報道でわからないのは、なぜ先生がこれに加担したかという点だ。生徒と背後にいる親の知的レベルは奈良時代の疫病に対する理解とあまり変わりはない。疫病が起こると大仏を作って穢れを沈めたのと同じということだ。それもできなくなると汚れた都を捨てて新しい都に移って行くのが日本人の伝統だった。
だが、先生は科学的知識を持っているはずで、生徒や親を啓蒙する立場にある。考えられることはいくつもある。
「名付ける」ことによって、生徒を支配するという万能感を満たしていたという可能性がある。次の可能性はクラスを維持できておらず、生徒におもねるために生徒の間にある風俗を真似たという可能性だ。さらに先生のパフォーマンスは学級の成績で決まるから人間関係を些末な問題だと考えていたこともあり得る。最後に先生は科学的な態度を持っておらず、単に教科書をコピーするだけのマシーンになっていたという可能性もある。このような先生は聖書を与えられれば、人間が猿から生まれたなどということはありえないと教えるだろう。
「いじめはいけない」のは当たり前のことだし、子供が勉強する機会を奪われたことは人権上の問題であることはいうまでもない。ただ、それだけではこの問題は防ぐことはできない。問題はさらに悪化し「地下化」するだろう。
だらか、先生がなぜ子供を「菌呼ばわりしたのか」ということと生徒の間に蔓延していた福島からの移住者は穢れであるという間違った認識を修正しようとしなかったのか、改めて検証するべきだ。
この問題の奥に見えてくるのは「かわいそうな福島からの転校生」ではない。たかだか電源の問題で不安を感じている社会の方である。そうした不安が解消できなかったので、子供達にぶつけざるをえなかったということになる。