保守という欺瞞

櫻井よしこという「有識者」がとんでもないことを言っている。訳すると次のようになる。

天皇は個人としていろいろやっているみたいだが、そんなのは趣味みたいなもんだ。ただ、黙って存在していればいいわけで、体が悪くなったからといって途中で逃げ出すことなどあってはならない。そういうこともあるから、明治政府は天皇が退位できないようにしたのだ。

櫻井さんは家族に対して倒錯した考えを持っているのだろうと思い調べてみた。お父さんが早く家を出て母親に育てられたそうだ。父権というものに過度な幻想を持っているか、敵意を反転させているのではないかと思う。

だが、この意見自体は、いわゆる「保守」といわれる人たちの総意のようなので櫻井さんを攻撃したいとは思わない。前回のエントリーで「人権派」と呼ばれる人たちが実は人権を信じていないということを考察したので、日本人は右派も左派もイデオロギーというものを信じないという特性があるのだなあという乾いた感想を持った。内的な怒りをぶつける先になっているのかもしれない。

右派の特徴は、個人の徹底的な排除である。天皇すらその例外ではなく、家のために殉じるべきだという考えなのだろう。面白いのはその中で「自分だけは例外である」と考えている点なのだが、もしかしたら自分に価値を見出せないからこそ他人の価値を剥奪したがるのかもしれない。

このように都合よく考えられなければ、自分も「殉じる」側に回る可能性を考えるはずである。逆に天皇のことをなんとも思わないからこそ「利用できる」と考えることになる。そう考えると右派というのはイデオロギーではなく病気あるいは認知のゆがみなのだということが分かる。

もし日本をひとつの家と考えるなら、その家長である天皇がいなくなったらどうしようということを「わがことのように考える」はずだ。しかし、いわゆる皇室擁護派の人たちにはその意識が希薄だ。実は天皇家は題目のようなものであって、なくなったら次の題目を持ってくればよいと考えているのかもしれない。日本は天皇を中心とした家であるなどといいながら、実際には心理的に乖離しているのである。

どうして右派保守はこういう人ばかりを吸い寄せるのだろうと考えたのだが、やはり天皇制に問題があるのではないかと思った。天皇は政治的権能を有しないことになっているので政治的発言を避けてきた。しかし、何も言わないからこそ「それなら代わりに何か言ってやろう」という人をひきつけることになる。なぜ、天皇の権威に行き着くかというと、それ以外では言うことを聞いてもらえなかったからなのだろう。別の成功体験(例えば経済的に成功した)などがあればそれが拠り所になっていたのではないだろうか。

これを防ぐためには次の天皇は積極的に情報発信すべきかもしれない。政治的な権能がないからといって何も発言をしてはいけないという決まりはない。まずはTwitterあたりからはじめてみるのがよいのではないだろうか。イギリスの女王も政治的には中立でなければならないので投票などはできないようだが、確かTwitterアカウントは持っていたはずだ。

櫻井さんを見ていると、保守というのは、成功体験がなく認知機能に問題がある人なのだということになってしまう。だからこそサイレントマジョリティが安倍政権を支持するのかもしれないのだが……

リベラルを抜けだした人権派だけが生き残る

誤用されるリベラルという用語

前回はリベラルという言葉が誤用されているというようなことを調べて書いた。リベラルとは「〜からの解放」という意味であり、もともとは小さな政府派を指している。これを修正する動きが出てソーシャルリベラリズムという概念がうまれ、それが日本の左派に輸入された。彼らはすでに革新派を自認していたので、リベラル=左派=革新ということになった。

少し厳しい言い方をすれば共産主義が否定されてしまい支持が集まらなくなったので、人権、戦争反対、環境などに逃げ出したのが今の左派だと言える。

そのまま差別用語になった

戦前の日本人は、西洋から「支配するもの・支配されるもの」という概念を輸入した。白人は支配する人だ。日本人はいち早く西洋化してアジアを支配すべきだと考えるようになった。その眼差しを修正しないまま中国や朝鮮半島に向けた。これがシナとかチョンという言葉の元になっている。中国が経済的に成功しだした頃から、反動として「中国は支配されるべき劣等民族」なのだという価値観が復活した。日本人はアジアの台頭が素直に喜べなかったのだ。

ところが、これが左派と結びついて、劣等民族としての左派が日本の体制を転覆しようとしているというような歪んだ考え方が生まれる。中国は実質的には共産主義国ではなくなってしまったために代替するイメージが必要だったのだろう。

政治の世界ではこの考え方は意外とメインストリームとして生き残っている。世界を支配するのはアメリカであって、日本はその代理者としてアジアを教化するのだというシナリオがTPP推進の動機になっているようだ。キリスト教的価値観が理解できず、アメリカはお金持ちだから偉いという点が強調されているのが悲しいところだ。なんとなくカーゴカルトっぽい感じがある。

実は家も名前もない日本の人権派

さて、さまざまなブログを観察していて別の「誤用」を見つけた。リベラルを人権派と自己規定している。以下、引用する。

それは、リベラルがリベラルとして理想を容易に語れなくなったということであり、理想の理念の代表格である「人権」ですらその波には逆らえず、トランプ的「ホンネ」の前ではこれまでのように無防備に理想主義としての「人権」が語れなくなってしまった。

アメリカで起こっていることを思い切り誤解しているなあと思ったのだが、この「リベラル=人権」というのもよくある用法だよなと思った。誤用とも言い切れないのはリベラルには「偏見から解放された」という意味合いもあるからだ。確かに進歩的な人たちをリベラルということはある。

敢えて誤用だといったのは、彼らが何から解放されるべきなのかということを考えずに、リベラルというラベルを使っているという点にある。伝統的な左派政党は国家の社会保障などは肯定しつつ、国家が人権を侵害することを嫌う。多分企業の自由な活動にも否定的なのではないかと思う。だから国家が経済活動を規制すべきだと言えば、賛成するだろう。

だが、なぜ解放されるべきなのかを考えない限り人を説得することはできない。日本の人権派がそのことを考えてこなかったのは、実は彼らが人権を単なるお題目だと考えているからなのだろう。

人権はなぜ擁護されるべきなのか

そもそも人権はなぜ擁護されるべきなのだろうか。2つの柱がある。

1つ目の柱はキリスト教の考え方による。人は神の前では平等なので、すべての人は同じように愛されなければならないというのが、キリスト教的な人権擁護の意識だろう。だが、多くの日本人は聖書を読んだこともないし、キリスト教の価値観を共有していない。だからこの線で人権を擁護することはできそうにない。

だが、人権擁護には別の柱がある。

アメリカで人権派といえば民主党だ。民主党は都市型政党であり、政府が人権擁護のために介入することには反対しておらず、アンチリベラルと言える。共和党はリベラルな政党で、強者(彼らの認識によれば能力があり頑張った人たち)が報われるべきだと考えている。

だが、実際には経済的強者は民主党を支持し、負け組になっていて政府のサポートが必要な人たちが共和党を支持するという逆転した図式がある。経済的に余裕ができるほど他者に優しくなる。すると優秀な人たちが集まりさらに発展するという好循環が生まれる。多様性は富をもたらすから、善なのだということだ。もともと自由都市に集まった人たちが経済的に成功したというヨーロッパの歴史が元になっている。

こうした違いはすでに表面化しつつある。ニューヨーク。シカゴ、ロスアンジェルスなどの諸都市は不法移民を保護するという宣言を出した。これらはすべて民主党が強い地域だ。

人権擁護は単なる建前ではない

先ほどのブログの分析によると都市の市長たちは「建前」を口にしているだけだということになってしまうのだが、実は建前ではなく、競争力の源泉になっている価値観を擁護しているのだ。

人権を守るということは多様性を確保するということで、それは経済的な強みを維持するということだ。だから、人権は重要なのだという結論が得られる。

いわゆる日本の人権派と言われる人たちが「人権など建前なのだ」と考えてしまうのは、皮肉なことだが人権擁護という価値観を信じていないからなのである。それは日本が総じて共和党が勝った側のアメリカと同じような状況にあるからだと分析することもできる。そこから脱却しない限り、日本の人権派が成功することはないだろう。

 

トランプ大統領は世界の終わりなのか

トランプ大統領が誕生したのを受けて、ロイターがベルリンの壁が崩壊してから27年後に資本主義社会が崩壊したと書いていた。選挙日とベルリンの壁が崩れた日が同じだったそうである。「それほどのことか」とは思わないのだが、否定することもできないので、今回も星占いに頼ってみた。

チャートを再掲載していいのかはわからないが、一応ロゴは貼っておく。日付を入れると自動でホロスコープを作ってくれるサービスがあるのだ。

なお、星占いは科学的には否定はされていないが、統計学的な優位性は全くと言っていいほど証明されていないそうである。つまり、あてにならないということになっている。あらかじめお断りしておく。くれぐれも大地震などを勝手に予知しないように。

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ドイツでナチス政権ができた頃のホロスコープ。それほど顕著なことが起こりそうな気はしない。だが、足の早い星が水瓶座にあることがわかるかもしれない。緑色のゾーンに星が多い気がするがこれは月があるせい。月は30日弱で一周する。
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ということで、こちらが国会が放火された時のもの。今回ポイントになるのが木星(乙女座にある)である。太陽と180度の角度を形成している。徹底的な破壊や死を示す冥王星(だが人間は感じ取ることができない)と太陽は120度を形成している。このハードアスペクトとソフトアスペクトの組み合わせがあることと、ある程度星が固まっていることがポイントになるようだ。
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日本がハワイで特攻攻撃を仕掛けた頃の図。時差があるはずなので月の位置は微妙だが、間もなく火の星座入りする。木星と太陽はまたもや180度を形成してはいる。冥王星と太陽は同じ火の星座にいる。攻撃を示す火星も火の星座にあり(これをグランドトラインなどという)一般的には吉兆とされる。だが、これで日本が破滅することになった。
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さて、誰でもパターン認識できますよね。木星と対峙するのは太陽ではないというところが、これまでのパターンと違っているところ。月が参加して水の星座でグランドトラインができている。これも吉兆のはずなのだが、組み合わせとしてはかなり破壊的な出来事だった。これがベルリンの壁の崩壊だ。これがきっかけになり、最終的にすべての東側陣営が崩壊した。
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こちらはソ連の崩壊。事実上崩壊してしまっており、顕著な破壊のパターンは見えない。実実情崩壊過程が進んでいて、最後の宣言だけだったということが言えるのかもしれない。
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意外とばらけているこの配置。だが、この日「世界の終わり」を感じた人が多かったかっもしれない。木星はまだ火星と対峙していない。水の星座にグランドトラインができている。一方で冥王星は土星と対峙。つまり、木星と火星は外れていることになり、それ以外の星座がソフト・ハードの組み合わせを作っていることになる。ニューヨークのビルに飛行機が突入し、のちの湾岸戦争に続く緊張が生まれた。

無理矢理に解釈すると、民主的に起こった動きはある程度の星のまとまりを必要とするが、少数人数で起こせることは、それほどのエネルギーを使わないのだと解釈することができる。もちろん、星占いにそれほどの力がないとすれば、それはすべて偶然の産物だ。
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さて、これだけが未来のチャート。トランプ大統領が当選した時のチャートも見てみたがそれほど顕著な形は見られなかったのである。現在の緊張は木星が天王星と対峙していることによる。天王星は改革とか最先端技術などを示すのだがこれが逆行していた。しかし年明けごろから順行に入る。木星は順行している。今回は取り上げなかったが「世界の終わり」では木星は逆行していることが多い。木星と冥王星が90度なので何か起こるとすれば今でなくこの頃である。だが、グランドトラインなどはないので、人々が大きく動くということはなさそうである。

ハードなアスペクトはどちらかといえば降着を意味するはずなので「これからどうなるのだろうか」みたいなことは起こりそうだが、それほど破壊的なことは起こらないのではないかと考えられる。

正直星占いが当たるとは思わないのだが、長期的な視野を得るのにはよいのではないかと思う。

勘のいい人は、オレンジのところに星が集まったらどうなるのだろうと考えるのではないか。ハードなアスペクトとソフトなアスペクトの組み合わせができる。この場合月が重要な働きをするので、日付単位で要注意日がわかることになる。

パククネ・トランプ・安倍晋三

パククネ大統領に抗議する人々の群れを見ながら、これアメリカや日本と何が共通して何が違っていたのだろうかと考えた。割と共通するところがあると思える一方で、アウトプットはかなり異なっている。

トランプの図式が一番わかりやすい。人々はある理想を追いかけたがそれは叶わなかった。そこで変革したいが、人々は解答を持っていない。そこで全てを総とっかえしてやろうという機運が生まれて大衆が殺到した。

ということで、これをパククネに当てはめてみる。日本で伝わっているのはパク大統領が有権者から攻撃されているという点だけなのだが、実際にはそれを扇動している人がいるのではないかと考えられる。自然発生的に集まったものではないのだろう。そして、そこには「裏切られた理想」があったはずである。それが何だったのかはあまり伝わってこない。

日本の場合はもっとわかりにくい。「裏切られた理想」は民進党が担っている。つまり先導者(煽動者)が安倍晋三である。つまり、民進党が何かをやればやるほど安倍首相に支持があつまるという仕組みになっている。ところが韓国のようなリアルな世界での反発は起こらない。代わりに人々が集まっているのがTwitterだ。炎上が繰り返されている。実は日本はトランプ後の世界であると言える。煽動者が機能している限り、怒りは何か別のアウトプットを求めるのだろう。

アメリカではすでに非白人にたいして「国に帰れ」などという動きが出ているそうだ。日本の場合には社会秩序や一般常識といったものが攻撃材料になっているのだが、アメリカの場合には「白いアメリカ性」が問題になるのだろう。

変革は「リベラル」で括る事ができる。つまりまだ見た事がない理想の世界の追求だ。そしてその理想の世界を形にしたのが「イズム」だ。その反動には名前がない。保守というのとも違っている。保守はある意味世界(イズム)でそれを表明して恥ずかしいという事はない。今起こっている運動はイズムではないので人々はそれを表明したがらないのである。

トランプ大統領は自分の政策を表にしたが矛盾だらけで全てを実現できるとは思えない。それを気にしないのは、それぞれの発言はその時々の思いつきの集積だからだろう。だからこそ、受け手は好きな発言だけを受け入れる事ができる。トランプは「マイピープル」全てが喜ぶ政策を実現したいと真摯に考えている。ただ、そんなマイピープルはどこにも存在しない。

例えばヒトラーはドイツ人は東方に進展する権利があると主張して多くのドイツ人の支持を受けた。しかし、その主張にヒトラーイズムという名前が与えられる事はなかった。この「形にならない感じ」が大衆を動かす。もしヒトラーがこれをイデオロギー化していればそれほどの支持を集めなかったかもしれない。それは変革の一部になってしまうからである。人々が「失った」と考えているものが人々を熱狂させるのだが、実際にそれを持っていたかはわからない。

そのように考えると韓国が一番悲惨だなと思った。彼らが怒っているのは民主主義と法治主義が機能していない事だ。だが、実際に韓国に民主主義が機能した時代は一度もない。さらに悲惨な事に彼らは自分たちの力で民主主義を手に入れた歴史もない。でも、だからこそ純粋に怒る事ができるのだろう。

そう考えると、なぜ名前のないイズムがTwitterで蔓延するのかがわかる。一人ひとりがつながっていないので、それをまとまった形にする必要がないし、無理にまとめればどこかにほころびができて崩れてしまうだろう。この繋がっているようで実は分断されているものが煽動を容易にしているように思える。

 

マーケティングとは何かという夢の話

マーケティングとは何かを考える夢をみた。物語としてはわりと記憶しやすい夢だったがそれでも十分に混乱している。

マーケティングとは何かというシンボルマークを決めなければならないことになった。いろいろ考えた結論はピラミッドに入った一つの目だった。だが、意味がわからない。実態を見に行こうという事で隣のビルに行くと大勢の人たちが夜学に集まっていた。コピーライターを目指しているそうだが、大抵はエリートと呼ばれる人たちが発表の場を独占しており、後ろの方で立っている人たちには出番がないそうだ。うまく行けば電通に非正規で雇ってもらえるそうである。

一人のエリートでない女性がサババッテンについてアイディアを出しているのだが、長くて回りくどかった。サババッテンの歴史や栄養学的考察を一つの文章にまとめようとしている。同行していた人が「これだからアマチュアは困る」と困惑した表情を浮かべた。

彼のアイディアは簡単で、可愛いアイドルにサババッテンダンスを躍らせるというものだった。大衆は難しい事はわからないのだからサババッテンという言葉を連呼した方がよいのだという。みんなでつぶやいてみたらなんだか興奮した。

そもそもサババッテンという言葉が何を意味するのか同行していた人たちは知らないらしい。多分、長崎あたりのサバを使った料理なのだが、きっと醤油と生姜が入っているのだろうという。それではインパクトがないから、刺激を与えるためにカレー粉をたくさん入れないと売れないなという話になった。それをサババッテンというのかはわからないのだが、そんなことはマーケティングにとってはどうでもよいことなのだそうである。

注1:Wikipediaによると、三角の中に入った一つの目は「プロビデンスの目」と呼ばれるそうだ。全知全能を示し、日本ではフリーメイソンの陰謀論と合わせて語られる事も多い。太陽、月、金星の三位一体の姿とされるが、安定した状態では存在しえないという説があるそうだ。

注2:ばってんはよく考えると長崎の方言ではないように思える。熊本が本場である。ちなみにそんな料理はない。

テレビや新聞に接すると不安になるだけじゃないだろうか

田崎史郎という人がTBSやフジテレビにでて「安倍首相は意外とトランプとうまく行っている」とか「パイプがあったからこそ電話会談ができたのだろう」などと言いまくっている。安倍首相が外務省のいうことを鵜呑みにしてクリントンに賭けていたというのは有名な話だし、安倍支持者が「アメリカ様が承認してくれなかったらどうしよう」とおびえているのは想像に難くないわけで、この人ジャーナリストというよりは電波芸人だなあと思った。

でも、まあ電波芸人を信じているうちは「ああ、これまでどおりで安心できるのだ」と思えるわけで、電波芸人さんにはそれなりの需要があるのだと言える。その需要とは「何も考えないこと」だ。

同じく日米同盟維持派の人たちも必死だ。軍事アナリストの小川和久さんは盛んに23兆円という数字を出して日米同盟のほうが安くつくと繰り返し、賛同する人のコメントをRTしていた。

しかし、彼が後に明らかにしたところによるとこの見積もりは防衛大学校の教授の試算なのだそうだ。防衛省には競争がなく現在でも高い資材を調達しているのではないだろうか。オリンピック関係者が夢のオリンピックをやるとすればこれくらいかかりますよと計算しているみたいなもので、まったく当てにならないだろう。その上、防衛省は日米同盟維持派のはずで、独自調達コストを高めに設定していることが疑われる。

しかし、多くの日本人は日本語しかできない上に、できるだけ何も考えたくないわけだから、こうした「識者」の言うことを聞いておけばよいと思う。日本のジャーナリズムの存在意義は精神安定剤なのだろう。トランプ大統領が決まってから「意外とできる人だ」などという論評が飛び交うのを見ているとそう感じる。一方で、日米同盟がそれほど磐石でないという潜在的な不安があるのかもしれない。

今朝方見たイアンブレマー氏のビデオでは(早口なので間違っているところがあるかもしれないのだが)おおむね次のようなことを言っている。

NATOは国防費を増やすだろうがリスク分散のために使うのでアメリカへの支払いは増えそうにない。日本は支払う。韓国は大統領の支持率がああいう感じなので……

合理的に考えればリスクヘッジは当たり前である。だが、日本は近隣に同盟国がないのでヘッジのしようがない。防衛省は役に立たない。国を守ろうという気概はなくせいぜい予算が出たら省益を拡大しようくらいの気持ちしかないのではないか。おまけに安倍首相は中国や韓国を挑発しまくっているので彼らと組んで地域の安全保障を担保することもできない。台湾は国ではないし、フィリピンには船をせびられた。アメリカしか頼る国はないから、言い値を支払うしかないわけだ。

アメリカは世界に軍隊を派遣し、それなりに犠牲者も出している。ヨーロッパはロシアと対峙していて移民も問題になっている。それに比べると日本には大きな問題はなく「金くらいもっと出せるんじゃないの」というのは素直な感情なのではないだろうか。

そもそも右派メディアはトランプ大統領の過去の発言に動揺しているようだし、左派メディアは人権の危機だとかガラスの天井が破れなかったみたいな分析しかしないわけで、まったく役に立たない。

小川さんの発言を見ていると日米同盟に依存せざるをえず、まともな分析もしてこなかったので、不確定な要素登場に耐えられない人たちの末路というものを感じる。パラダイムが変わると知見がすべて覆ってしまうのだ。

あとは自分で考えるしかないわけだ。幸い英語で取れる情報は多くあるので、情報ソースには困らない。多分日本語オンリーでテレビを見たり新聞を読んだりするよりはマシな気分になれるのではないだろうか。

「馬鹿」が変えたアメリカ政治

トランプ大統領が誕生したことでTwitterの役割が見直されているらしい。

トランプの手法は暴言で注目を集めるというものだ。これをテレビや新聞が否定的に伝える。しかしTwitterには半匿名の人がたくさんいて、多くは発言せずに閲覧だけをしている。そしてトランプの暴言はこの半匿名の人の気持ちを代表しているのだ。

この結果、トランプがかけたキャンペーン費用はヒラリークリントンを大きく下回るといわれている。逆にクリントンは多額のキャンペーン費用をポケットにしまったのではという疑念を持つ人が出る始末だ。

キャンペーン費用の安さはトランプ大統領の今後の政策に影響する可能性があるという。これまでの大統領はすべて「紐付き」政権だった。ところがトランプ大統領は安くて効率的なキャンペーンができたのでこうした「紐」がない。そのため大衆が喜びそうな政策を自由に展開することができることができると考えられている。

Twitterのようなソーシャルメディアにはいくつかの特徴がある。

  • 興味が短期的にしか持続しない。
  • 因果関係が単純化される。
  • 「隠された」情報に人が集まる。

Twitterのトピックは深く考えられることはなく、何か隠された情報があると瞬間的に人が群がる。「隠れた」といってもそれを作るのは簡単だ。たいていは二次情報なのでテレビなどのマスメディアを使って不完全な情報を流すと大衆が勝手に穴を埋めてくれるわけだ。これが特定の人に向いたのが炎上である。

Twitter向けの才能があるとすれば、それは決して自分が攻撃対象にならないことと、絶えずどのように注目を集めることができるかを考え続けることだ。あるいはベッドの中で何か考え付いたら、後先考えずに発信できるほどにしておかねばならない。これを365日繰り返せば、Twitterでスターになることができるかもしれない。

Twitterは「馬鹿発見器」と呼ばれることがある。見落としがちなのはこの「馬鹿」が集まってしまえば正義になるのが民主主義だということである。

ではどんな馬鹿が政治を動かしたのだろうか。今回の投票率は実は50%ちょっとしかなかったそうだ。前回よりも400万票ほど低いそうだが、それでも大きくは変わっていない。しかし電話調査で調査しても浮かび上がらなかった。支持を表明することが恥ずかしいと思っているのである。だが結局のところ「行動する馬鹿」が政治を変えてしまったのだ。

自分で考えることができる人は「経済界と癒着する政治家」と「ワイドショーで有名になった素人」という二者択一に嫌気がさして投票に行かなかったのだろう。この人たちは政治から排除されてしまうことになる。

今回トランプに先導された人たちに利益が還元されれば「馬鹿こそ正義」ということになるのだが、実際には搾取されて終わりになるのではないかと思う。トランプの政策は減税で政府を小さくすることなのだが、これで排除されるのは実は貧困層だ。

しかし、代わりに外国などが攻撃されている限り、この人たちは搾取されていることにすら気がつかないかもしれない。これが「トランプ大統領になると戦争になる」といわれるわけである。争いを仕掛けて自分だけは安全なところにいられると考える人だけが、大統領になれる国になってしまったのだ。

トランプ大統領の誕生と安倍政権の崩壊の始まり

落日ってこんなもんかと思う。安部政権のことだ。

マスコミの事前予測と異なり、トランプがアメリカの大統領になりそうだ。このシナリオは安倍政権にとっては悪夢ではないだろうか。政策がどうという問題ではなく、事前に予測ができないからだ。これまでのアメリカの政策というのは大体決まっていて、日本はそれを忖度しながら政権運営をしていればよかった。これができなくなる。

直近の影響は2つある。ひとつは防衛予算の増額だ。トランプ大統領は東アジア撤退を仄めかしつつ、防衛費の負担を求めるだろう。日本はこれに応じざるを得ないがどの程度の負担増になるかは誰にも分からない。これが日本の財政を圧迫するだろう。

このことは間接的に日本には防衛戦略がなかったという事実を露呈するはずだ。力強い日本という虚像がガラガラと崩れてしまうのである。

次の懸念は株価だ。今日株価は800円ほど下がったがこれはプレビューに過ぎないのではないだろうか。アメリカは保護主義的な政策を取るはずなので、日本の企業にとっては大きな痛手となるだろう。輸出企業中心で成立している日本の株式市場にとってよい影響はないだろう。

安倍政権は株価連動政権だ。というより、安倍を支持している人たちは経済について難しいことは分からず、株価=経済だと考えているようだ。だから、株価が下がれば心理的な動揺が広がるだろう。これは年金のパフォーマンスに影響を与えるだろうが、それよりも、メンタルな部分が大きいはずだ。そのほかの「経済政策」はすべて撤退戦に入っているので、安倍政権には打ち手がない。

一方で「ロシアとの間でバランスを取っている」というポジティブな意見もある。トランプ大統領を見越してロシアとのパイプを作ろうとしているという人がいるのだ。だが、これは単なる希望的観測に過ぎないのではないか。

安倍政権は総合的な政策を持たず、分野分野で都合のよいディールを模索しているに過ぎないと思えることが多い。ロシア利権のようなものがあり、それを推進するのに4島返還論が邪魔になっている。これを棚上げして、エネルギーや鉄道に関する利権を得たいという人がいるだけなのではないかと思う。つまりロシア外交と防衛政策とはリンクしていない。防衛政策ではアメリカにフリーライドするつもりだったのではないかと思える。

さんざん「アメリカ追随」と批判を受けてきた安保法制も実はアメリカと関係なさそうだ。南スーダンでは、中国に近隣国を加えた国連部隊が展開しているだけでアメリカのプレゼンスはないようだ。中国軍は統制が取れていないらしく、南スーダン政府軍と衝突したりもしている。安倍政権は、国策として総合的な判断をしたというよりは、単に「国際的な役割を拡大させたかった」だけか「中国に乗り遅れたくなかっただけ」のように見える。石油関係の利権があるからだ。中国との対抗心は安倍政権のキーになっている。だが、南スーダンは泥沼化しつつあり、死者が出れば「違憲判断」のリスクにさらされる。

多分、日本人は安倍政権をよく理解していないし、積極的に支持もしていない。オバマ大統領が「よいアメリカ」という顔を持っていたので「大勢についてゆけばまあ大丈夫だ」と考えていたのだろう。

ところがトランプ大統領は嫌われ者であり日本に対する過激な発言でも知られている。「これまでのようにアメリカについて行っても大丈夫か」と考える人は増えるだろう。

唯一の請っていた「成長戦略」であるTPPでは完全にはしごをはずされた形になった。自民党は不人気を覚悟でTPPを推進してきたが、国民がこれを容認したのは「それでもアメリカについてゆけばまあ大丈夫だろう」と思っていたためだろう。

しかし、今後は「トランプランドに追随して大丈夫か」という疑念が出てくるに違いない。安倍政権はTPP=農家にダメージがあるだけという図式を作ってきたようだが、これで製造業国としてのアメリカと対峙するという形に変わってしまった。かといって、ここで批准手続きを止めてしまえば「アメリカに忖度しようとしただけ」ということになってしまうので、このままコミットせざるを得ない。

さらに悪いのは民進党が崩壊寸前ということだ。このため自民党の議員には危機感がない。日米同盟の動揺という党の基幹にかかわる危機が訪れているわけだが、そのような危機感は持っていないのではないかと考えられる。民進党は単に現在の政策に自民党をコミットさせるというダチョウクラブのような役割を果たしている。

彼らがプラカードを出して大騒ぎすることで、自民党は安保法制やTPPを積極的に推進したという印象になり、失敗したらすべて自民党のせいということになってしまうのだ。この対立構造を作ったのも安倍晋三なのだ。

加えて安倍政権は当初の目的である長期政権の維持を達成してしまったために、リスクを犯して思い切った政策を取ろうという意欲はないのではないだろうか。このまま危機を迎える。フリーライドしたいという周辺議員を抱え、誰もリスクをとって変化しようというリーダーシップも新しいアイディアもないまま、なし崩し的に自壊の道を走るという時代になったのだ。

「フィーチャーフォンがなくなる」問題

先日、ガラケーがなくなるというようなニュースを耳にした。スマホに変えるつもりはないのでちょっと慌てたのが情報がなく自分の使っているサービスがどうなるのかよくわからない。

結論からいうとすぐに何かをする必要はないのだが、日本人が他人に情報を伝えるのがいかに下手なのかがよくわかるので、詳しく書くことにした。コミュニケーションが混乱する原因は用語の混乱にある。短く言うと「ドコモはバカ」なのだ。ではどのようにバカなのだろうか。

きっかけはこのリリースだ。

ドコモ ケータイ(iモード)出荷終了について

2016年11月2日

平素は、弊社商品・サービスをご利用いただき、誠にありがとうございます。

  • ドコモ ケータイ(iモード)は2016年11月~12月を目途に出荷終了し、在庫限りで販売終了いたします。ドコモ ケータイをお求めのお客様にはドコモ ケータイ(spモード)をご用意しております。
  • ドコモ らくらくホン(iモード)については当面出荷継続いたします。
  • iモードサービスは今までと変わらず引き続きご利用いただけます。

弊社は今後もお客様への一層のサービス向上に取り組んでまいりますので、何卒ご理解を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

これ、意味がわからなかった。わかったのはiモードはすぐにはなくならないので、情報はスルーしてもよいということだけだった。

情報が混乱する直接の原因はこのほかにいくつかの定義が曖昧な言葉があるからだ。それは「ガラケー」「二つ折り電話」「フィーチャーフォン」という言葉だ。

  • FOMA – 電波の名前(古い)。
  • Xi – 電波の名前(新しい)。
  • iモード – FOMAに乗るネットサービスの名前。
  • spモード – Xiに乗るネットサービスの名前。
  • ドコモスマホ – パソコンのように使える新しいタイプの電話機でXIとspモードで使う。iPhoneを含む。実際には明確な定義はなく、アンドロイドとiOSを基幹ソフトとして使っている電話機の総称である。
  • ドコモケータイ – スマホではない電話機をケータイと言っている。一般にはスマホもケータイなので混乱する。フィーチャーフォンとかガラケーなどと呼ばれることが多いのだが、実はspモードが使える二つ折りの電話を含んでいる。また、旧来型のドコモケータイもXIが使えるものがある。スマホに定義がないので、ドコモケータイにも定義がない。
  • ガラケー – 国産電話のうちOSも自前のものを使った機種を示す俗称。ゆえにドコモケータイとらくらくフォンを含むものと思われる。ガラケーのなかにもspモード対応(もしくは専用)のものがある。
  • ドコモらくらくフォン – 高齢者や障害者向けに作られたスマホに似た電話機なのだが、spモードとiモードを含む。

つまり、ドコモケータイ=ガラケーではないわけで、ガラケーには明確な定義がない。二つ折りの中にもガラケーでないものがあるのだが、ドコモのURLはfeaturephoneという名前になっている。この中には、iモードでないものも含まれている。リリースの第一項でわざわざドコモケータイ(spモード)と書かれているのはそのためなのだが、知らないと読み飛ばしてしまうだろう。

わかっている人(ドコモの広報、オペレータ、マスメディア)はこの言葉の定義がなんとなく分かっている(だが説明はできない)ので、違いをなんとなく感じながら使い分けている。しかし、それを知らない一般の人と話をするとなんだかわけがわからなくなってしまう。オペレータになんども「それはどこに書いてあるのか」と聞いたが、誰も答えられなかった。

わからないのだが「バカにもわかりやすく話してやろう」という気持ちがあるようだ。そこで「二つ折り電話がなくなる」という新たな定義をぶち込んできて話を複雑にしていた。スマホは二つに折れないのでわかりやすいと思ったのだろう。実際には二つ折り電話の中にもなくならないものがあるし、そもそも二つ折りという概念は形態による区分けだ。概念がわからない人に別の区分けをぶつけるから喧嘩になるのだ。

日本人はすべての人が同じコンテクストを共有しているという前提で話をする。多様性を前提としていないので、コミュニティの外の人とは基本的に会話ができないし、相手がどのような概念マップを持っているのかということが想像できない。そしてコンテクストを共有しない人を「バカ」だと思う。だが、顧客のほとんどは彼らからすると「バカ」ということになるので、顧客をバカにする奴は「バカ」ということになる。

さて、混乱の原因は実はNTTの広報の情報操作の結果のようだ。日経新聞の記事を読んでみよう。

「iモード」ガラケー出荷終了へ NTTドコモ

 NTTドコモは2日、ネット接続サービス「iモード」の機能を搭載した従来型携帯電話(ガラケー)の出荷を年内で終えると発表した。対応機の部材の調達が難しくなってきたため、在庫がなくなり次第、販売を終える。iモードは一世を風靡したが、スマートフォン(スマホ)の普及に押されて利用者が最盛期の3分の1に減っていた。今後のガラケーはスマホ向けのネット接続サービス「spモード」に対応した機種に統一する。

 iモードのサービス提供は続ける。高齢者向けの「らくらくホン」や法人向けの一部機種はiモード搭載機の出荷を当面は維持する。

 iモードはドコモが1999年に始めた。携帯電話で銀行の振り込みや飛行機の座席予約など様々なサービスを手軽に使える利便性が受け、2010年3月には契約者が4899万に達した。

 しかしスマホの普及でここ数年は利用者が減少。9月末時点で1742万契約に減っていた。

この記事を「正しく読んだ」人は、ガラケーのうちiモードを使ったものがなくなるということが理解できるのだろうが、「iモード」がガラケーのあだ名であるという理解もあり得るということを想定していない。またガラケーはスマホの対立概念だと考える人も多いのはずなのだが「ガラケーはスマホ向けの」という記述が出てきた時点でわけが分からなくなる。らくらくフォンが継続するというのは結局iモード対応機種はなくなりませんよという意味なのだが補足情報になっているので関係性がよくわからない。

わけのわからない情報はスルーされる。

多分、NTTの広報は「スマホだけになる」という印象をつけたかったがクレームも怖いのでいろいろ補足情報を入れたのだろう。それを忖度した日経の記者もその筋で記事を書いたものと思われる。そのためiモードは時代遅れというニュアンスを含んだものになっている。だが、実際にはiモード対応機種はなくならないので、単なる印象操作にすぎないのだ。

混乱の原因はドコモの広報が、業務上のお知らせをプロパガンダに利用しようとしたことに起因しているらしい。かといってスマホしにろとも言い切れないので、結果的にわけのわからないことになったのだろう。

オペレータと話をして思ったのは、ドコモはしばらくiモードを止められないだろうなあということだった。らくらくフォンは障害者対策という意味合いがあるようで、これをなくすと困る人が出てきそうだからだ。そもそも、ガラケーユーザーは情報にさほど関心がないわけで、このような広報の職人芸的なニュアンスが理解できるとも思えない。多分、iモードがなくなるとか安い通話サービスい対応する電話がないと聞いたときにはじめて騒ぎだすのではないだろうか。

サザエさんと憲法

日本会議がサザエさんを理想の家族だと持ち上げたことで、ネットでは批判が噴出した。そこで、もともと母系の家族を父系派の日本会議が押すのはおかしいという話を書いたのだが、世間のリアクションは「世田谷の一軒屋」は勝ち組だというものだった。中流階級の没落を感じさせる話だ。

そこで考えたのはサブちゃんをめぐる話だ。

サブちゃんを殺したのは誰か

サザエさんの中にはいろいろと説明が難しいものがでてくる。御用聞きはその最たるものだろう。磯野家では三河屋さんにお酒を持ってこさせている。三河屋は割引でビールを売っておらず、そもそも安い第三のビールも扱っていないようだ。

そもそも御用聞きが成立したのはなぜなのだろうか。それはサブちゃん(ちなみに10代なのだそうだ)を安いお金で雇う代わりに、ご飯を食べさせたり、家に住まわせたりしているのだろう。サブちゃんも自分のペースで(時々サボりながら)仕事ができているようだ。

サブちゃんは店を継げないかもしれないが、新しい店をだすことができるだろう。地域でのれんわけしてもらいお客さんを分けてもらえたかもしれない。酒屋に必要なスキルくらいは身につけることができただろうし、地方に帰ってお嫁さんをもらって新しい酒屋を作ることもできるかもしれない。

これがすべてできなくなったのはコンビニが生まれたからだ。サブちゃんは時給で使われ、マニュアルですべてが規定された「非正規労働力」になり、将来の独立もかなわなくなった。自分で稼ぐ手段がもてないので、将来の保障が得られない。かといってコンビニもいつまでも雇ってはくれない。

しかし、問題はこれだけではない。サザエさんとフネさんが家にいるので、サブちゃんは自分のペースで家を回ることができた。現在の佐川急便はそういうわけには行かない。届け先が在宅かは分からないし、人によってタイムスケジュールが違っているので、常に街にはりついておかねばならない。だから現代のサブちゃんたちは24時間対応を迫られる。現在のサブちゃんには将来もなければ、余暇もない。サブちゃんは日本のサービス産業がおかれた「ブラックさ」の象徴になってしまうのだ。

波平の父母問題

波平の介護という点も問題になったようだ。現在のスタンダードでは高齢者のように考えられている波平だが実際には定年前なので60歳前だと考えられる。今の常識でいうと、地元に高齢の父親と母親を抱えているような世代である。波平は福岡出身で、海平という双子の兄弟がいる。しかし、父母はストーリーに登場しない。漫画だからだろう。

同じことはフネにも言える。フネの実家は静岡でみかん農家を営んでいる。フネは女学校を出ているので、家はそこそこ裕福だったはずだ。みかん農家はそれなりにうまく行っているようだ。

マスオの母親は存命で大阪で暮らしているが、マスオには兄がおり、兄が面倒を見ていることになっている。もっともマスオはまだ20代なので母親の老後を心配する必要はないかもしれない。父親はマスオが小さいときに亡くなっているそうだ。

このように磯野家、が東京で幸せに暮らせるのは、実は地方の経済が磐石だからなのだ。

タラちゃんの教育問題

タラちゃんはぐうたらな叔父であるカツオを見て育っている。カツオがぐうたらしていられるのは公立小学校でそこそこ勉強しても大学くらいには行くことができ、会社には入れば正社員になれたからである。ところが現在では、カツオのような子供は正社員にはなれないかもしれない。

それを危惧したマスオは、タラちゃんを塾に入れたいと考えるはずである。マスオは早稲田大学を出ている。公的教育だけでは足りず、余計な出費が生まれるはずだ。当然、サザエはパートに出る必要が出てくるのではないかと考えられる。

サザエの自己実現

だが、サザエさんが働きに出る理由はそれだけではないだろう。サザエさんはフネさんと一緒に家でのほほんと過ごしており、たまの日曜日に都心のデパートに出かけてゆく。それはサザエさん一家が、消費や職業生活を通じて「私らしさ」を追及すべきだという考えを持っていないからだと考えられる。

もしサザエさんが消費生活を通じて「私らしさ」を追及したいと考えれば、サザエさんは一家でデパートにはでかけて行かないだろう。同じようにワカメもそろそろ家族での行動を嫌がるはずだ。サザエの時代とワカメの時代では消費動向が異なっており、姉妹といえども共通の基盤を持たないからだ。当然、フネとは話が通じるはずもない。

仮にサザエが男女機会均等法時代の女性だったとすれば、職業を通じて私らしさというものを追及したがったはずである。単なるお茶汲みでは自己実現できないので、職業婦人を志向していたかもしれない。当然、家で家事などもせずに、タラちゃんは保育園に預けていたはずだ。もしくは学歴があれば「私らしく」生きられたかも知れないと考えて、ワカメをけしかけていた可能性もある。

そもそも「個人が幸福を追求すべきだ」という考え方はどこから生まれたのだろうか。それは憲法第十三条に書いてある幸福追求権だろう。条文を挙げる。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

憲法条文には「国は国民を尊重すべき」とは書いてあるが「国民は幸せにならないと負けである」とは書いていない。戦後すぐの日本人は素直にこの条文を喜んでいたが、高度経済成長が終わることに「幸せってなんだっけ」という疑問を抱くようになる。

日本人は基本的に「個人が幸福を追求する」という考え方を持たなかったのではなかったのではないだろうか。そこでそれを「経済的な豊かさ」に置き換えて理解した。それでも幸福というものがよく分からずに、他人との比較が出てきた。そこから生まれたのが「脱落」とか「自己責任」である。

話がややこしくなっているのは、もともとなかった権利が生まれてしまったせいで、それを追求できないと負けだとか、逆にそれを抑制するべきだという話が出てきたところだ。それが「公益」とか「家」などの集団規定だ。

故に問題があるとしたら、それは「幸福が何なのか考えてこなかった」ことであり、憲法の問題ではないのだ。それが日本人を苦しめているのだろう。

日本会議がサザエさんを理想の家族だと考えるのはなぜなのだろう。それはテレビアニメ版のサザエさんに社会問題が出てこないからだろう。地方経済はうまく行っており、親は兄弟が面倒を見ている。仕事にもそこそこ余裕があり、終身雇用制度が充実している。カツオには将来の不安もなく、家族間で価値観や情報の相違もない。さらに誰も年を取らず、自己実現などという面倒なことを考える登場人物もいない。

これを「リアルだ」と考える人がいるとすれば、その人は家庭というものにさほど関心を払っていないのだろう。家族は政治の基本だと考えると、その人たちが考える政治というものもずいぶん空疎なものなのではないかと推論することができる。