中国艦船の日本への侵攻 – 2つの異なるストーリー

人々がいかに簡単にストーリーを作るかについて考えたい。

NHKは中国艦船が日本の領海に侵入したことを伝えた。なんだか分からないが「怖い」という印象が残った。だが、調べてみると全く違った情報がいくつも出てくる。マスコミは伝えていないわけではない。後に中谷防衛大臣が演習について発表した。だが、扱いが小さかったせいで漠然とした印象しか残らない。

もともと、沖縄近海ではインドとアメリカが軍事演習を行っていたようだ。両国とも中国と対峙しており、中国を牽制する意図があるものと思われる。日本はこの演習に最近迎えられたばかりだ。つまり、現在日米印の合同演習が展開中なのである。訓練は日米印共同訓練(マラバール2016)と呼ばれる。つまりこれは中国を刺激する作戦であり、中国軍が牽制(あるいは情報収集のために)艦船を送っても何も不思議ではないのだ。もっとも、わざわざ領海をかすめているのだから牽制しているのは明らかだ。日本は防衛しかしないので舐められているのは確かなのだろう。

このことは2つのメッセージを与えうる。一つは安倍政権が余計なことをしたおかげで中国を刺激したというもの。これだと「安倍政権のやり方は日本を危険に晒す可能性がある」という結論になる。安倍首相は憲法第九条を改正しようとしており、緊張は増大することになるだろう。もう一つはなぜだか分からないが中国が日本の領海を侵犯したという印象だ。中国の脅威が高まっており、周辺諸国が一体となって警戒すべきだというストーリーになる。

どちらが正しいとも言い切れない。つまり、これは車の両輪である。つまりこれが国際間で緊張が高まるというのはこういうことなのだ。だが、たいていの人は答えを求めたがるし、両輪を処理することはできない。

領海をかすめた中国軍も最初から答えを準備していたようだ。領海を通っても平和的な利用であれば特に許可を取ったりする必要はないということだ。詳しいことは分からないが(ニュースは本当に知りたいことは教えてくれない)西洋諸国が言い出したことらしい。だから「法を重んじる」建前の日本政府は抗議できない。つまり「中国さん、それはちょっとどうかと思うよ」と言うことしか言えないのだ。政府の発表はこの事情に即した物となっており、従ってマスコミもその線で報道している。

これに関するネットの対応は面白い。領海への艦船の侵入と領土に上陸したというのは全く別のことなのだが、同一視している人たちが多い。これに尖閣諸島の漠然とした印象(こちらは、中国が自分の領土だと主張しているので、扱いは別であるはずなのだが)がごっちゃになっているらしく「中国が勝手に領海に侵入して良いと主張している」などと考えている人もいる。

政府は最初から「領海に入っても違法じゃない」ことを伝えていて、全ての新聞社がそう書いている。だが、ネット世論はそれでは納得せずに「弱腰だ」などと騒いでいる。テレビでもたびたびニュースを流しているが扱いが短いので「こんな重大なニュースなのにマスコミが伝えないのは、隠蔽しているのでは」と騒いでいる人もいる。だが「法的に問題がない」ものについてどう騒げばいいのか。「政府は毅然とした対応をすべきだ」とコメンテータがしたり顔で言えば満足なのだろうか。

ネット世論は「中国は日本を侵略しようと考えており、安倍政権が毅然と対応してくれている」と信じ込んでしまっている。だから「ただ、中国艦船が入ってくるのを傍観していました」などといおうものなら大騒ぎになるわけだ。いったん火をつけたナショナリズムはこうやって手がつけられなくなってしまうのである。

日本人はシャイで内向きなので、愛国デモを起こして中国企業を打ち壊したりはしないだろう。代わりに自国の政府にプレッシャーをかけることになるはずだ。

確かに中国艦船が日本に侵入したのは由々しきことなのだが、もともと中国を刺激するようなことをしているわけだから、報復行動は予想の範囲内だろう。もしカウンターアクションを想定していなかったとしたらそれこそ国防上の大問題である。少なくとも、国内世論に根回しして、国民が動揺しないように情報を提供すべきだった。そもそも中谷防衛大臣はなぜ何も想定していなかったのか。この無能な責任者をそろそろ問いつめる必要があるのではないか。

 

多様性の排除に加担するNHK

NHKがひどい洗脳報道を流していた。編集段階で多様な検証がなされなかったことを示唆しておりきわめて危険である。ニュースは次のように展開した。

  1. 上司の「とりあえずこれやっといて」が分からない人がいる。
  2. これはコミュニケーションの問題だ。
  3. そうした人にはASDと呼ばれる「障害」が多い
  4. 発見するためには機械にかけると良い。まだ開発途上だが……
  5. 障害だと認定されたら特殊支援学級に入る。他の才能があるかもしれないけど、効率的な教育には耐えられないので仕方がないのだ。

これを読んでも「なんだ当たり前じゃないか」と思う人がいるかもしれない。とても危険だ。既に洗脳が相当程度進んでいると言ってよい。

第一に「とりあえず、これやっといて」と漠然とした指示を出す上司はマネージャー不適格だ。指示は明確であるべきである。これは上司が無能であるという描写でしかない。NHKにはそういう上司が多いのかもしれないが。

次にこれを即座に障害に結びつけることには問題がある。事例の中には会話の意味が読み取れない重度のASDの人が出てくるのだが「漠然とした上司の指示が分からない」こととコミュニケーション上の障害(グラデーションがあり一続きなのかもしれないが)には大きな隔たりがある。イントロとしては不適切である。

さらに「障害があれば機械で発見して取り除け」というのは、工場で製品を製造する時に使う考え方であって、人の育て方に当てはめるのには問題がある。これに何の疑問も持たないということは、後発工業国型のマインドセットにどっぷりと浸っていることを意味する。

また、効率的な(大勢の生徒を一人の教師で見るというような意味だろう)教育になじまない人は「とりあえず」特殊学級にという姿勢にも問題がある。多分、普通教育の方を見直すべきだろうが、それには予算が必要になりそうだ。もしくは特殊学級で才能を発見したら、それを伸ばせるようにすべきだろうが「とりあえず社会の片隅で生きてゆけるようにする」という姿勢には問題がある。

ここまでで十分グロテスクだ。本当に誰もこの報道方針に疑問を抱かなかかったのだろうか。NHKは多分「右から左に業務を流すこと」をジャーナリズムだと考えているのだろうということは伝わってくる。

この話の一番の問題は多様性の排除だろう。漠然とした空気が読めない人は「障害がある」として排除される。話の中に該当者が数字に興味を持つ子供が出てくる。母親としては「この特性をうまくいかせないか」と考えるのだが、医者は「普通学級にはなじまない」としてしまう。この子に数学の才能があるかどうかは分からないのだが、試してみる価値はある。実際に、資産のある家であれば、充実した教育を受けさせることもできたかもしれない。つまり「何が優秀か」ということは一つの尺度では図れないはずで、多様な価値観があってはじめて才能が生きることになる。

しかし教育費がかけられなくなると、こうした多様性に配慮ができなくなるわけだ。つまり、NHKは多様性を排除し、この国をよりいっそう退屈でつまらない国にするのに加担していることになる。

記者としては「かわいそうな両親や空気を読めずに苦しんでいる人を助けたい」とよかれと思って報道しているのかもしれないのだが、視聴者はこの姿勢を大いに非難すべきだろう。

 

パーソナルギフト – 祝祭化する日常

「ギフト市場が変わりつつある」のだそうだ。お中元やお歳暮などの「建前」ギフトが廃れ、家族やお友達に贈り物をするのが流行しているのだという。ある調べによると、17兆円のギフト市場のうち8.6兆円がパーソナルギフトに使われている。2000年と2009年を比較すると154%という成長率なのだそうだ。一方で、法人の儀礼的な贈り物や、上司や部下へのお中元やお歳暮なども廃れつつある。

これをマーケティング的な立場から肯定的に捉えることはできる。パーソナルギフトは、現代的な顕示的消費の一種だ。家族への贈り物は「すてきな私とすてきな私を取り囲むすてきな人たち」というCMから抜け出たような幸せな関係を確かめ合う絶好のイベントだといえる。これは「本音で私らしさを表現できる絶好の機会」なのだ。

こうした「あるべき幸せ像」というのは昔から見られる。日曜日には私鉄に乗って渋谷にお出かけして、祝祭的な空間を楽しむというパルコ風の絵柄だ。仲良し母娘の進化した形が、パーソナルギフトなのではないだろうか。

このパーソナルギフトは、母と娘の親密な関係が基礎になっているものと思われる。だが、それだけでは父親に対して「不公平」なので、父の日もイベント化する。妻の実家に対してだけ贈り物をするのは「不平等」なので、夫の実家にも贈り物をするようになる。それをソーシャルメディアで見せびらかすのが、現代の幸せの形なのだろう。

いっけんよさそうなパーソナルギフトだが、本当にそれでよいのかという気持ちにもなる。CMに出てくる家庭はサザエさん一家のようなものだ。絶対に年を取らないし、病気になることもない。現実の家庭から「幸せな部分」だけを切り取ったのが「ありのままの私たち」なのである。

ところが現実はサザエさん一家のようではない。女性には濃密すぎる母親との関係に疲れている人が少なくない。例えば『家族という病』などという本もあるし「重すぎる母親」というワードで検索すれば、複数の本が出てくる。自己の考える幸せ像というのは意外と偏狭なものであって、それに沿わない家族は「重すぎるお荷物」扱いになってしまうのだ。仲良くなりたいのにネガティブな感情をぶつけられて疲れてしまう人が多いということだろう。

妻は「義理」で夫の家に付け届けしているに過ぎないのだが、マーケターはこれを「本音だ」と見なす。だが、妻たちは「夫の家で見ず知らずの親戚と一緒の墓に入りたくない」と考えているし、病気などの「辛い現実」は見たくない。それは「私らしさ」とは関係がないからだ。

例えば法事のような行事では「私らしさ」は発揮できない。それらは堅苦しく儀礼的なものと考えられ忌避される。私たちがどこから来てどこに行くのかという問題が見過ごされてしまうことになる。

実際には家族には不都合な現実がいくつもあって、それを受け入れてゆかなければならない。家族関係が祝祭化するということは、それだけ現実を見ていないということの裏返しでもある。

この状況の一番困難な点は何だろうかと考えた。人生には陰影がありそれが「私らしさ」を作り出している。そこから良いところだけを切り取りインスタグラムにアップし、悪いところをクローゼットに隠しても「本当の私」にはならないのだ。それを見て他人の家庭をうらやましく思い、自分の影の部分をさらに隠すという悪循環にはまる人もいるだろう。

マーケティングで作られた「私らしいステキな生活」は、人々に重荷を背負わせかねないのである。

その人に構ってはいけない

さて、職場や近所に口うるさい人がいる。いろいろと不満があるらしくいろいろ言ってくる。「うるさい」とは思ったが、邪険にするわけにも行かないから、手みやげを持って挨拶に行く。いろいろ話をすると笑顔が戻った。

あなたはそこで「良かった、丸く収まった」と思うだろう。だが、それは間違いだったということに気がつくはずだ。その人は、また何か別のことを見つけてやってきて、あなたの仕事を邪魔するのである。何が悪かったのか。分かり合えたのではなかったのか。また、おみやげを持ってゆくべきなのだろうか。

こうした誤解が生じるのは人間の行動原理についての理解が不足しているからだろう。その人は問題の解決を求めているわけではない。代わりに求めているのは「社会的待遇」なのだ。平たく言えば、相手にしてもらうことを望んでいるのである。文句を言うことで、社会的待遇が得られることを学習してしまったことになる。またおみやげを上げれば次を要求してくるだろう。頻繁に報告や連絡するのもやめたほうがいい。「うるさく言うと待遇が得られる」ということを学習してしまうからだ。火に油を注ぐ結果になってしまうのだ。

この手のクレームを防ぐのはなかなか難しい。そもそも目をつけられた時点で「この人にはフリーライドできる」と思われていることになる。期待に応えないとますます逆上する。唯一考えられるのは「その人が何を要求しているか」ということを明確にすることだ。実際に被害を被っている場合はそれを改善してやる必要がある。しかし、それ以上のことを聞いてやってはいけない。

また、その人の言う通りにしてやってはいけない。代わりにその人に自分で問題を解決するように促すべきである。できないことはできないことが分かるので、意外と文句を言わなくなる。手助けをするのは良くないし、関心を持つのも好ましくない。親切のつもり(あるいは問題を早く片付けたいと考えて)手助けすると「あなたのやり方が悪い」などと言い出す。そうすることで相手の傾聴を引き出すことを覚えてしまっているのだ。

こういう面倒な人はどこにでもいる。決して罰しようと思ってはいけない。その人が受ける罰は「誰からも手助けしてもらえなくなる」ことである。結局「自分だけが課題をうまくやり抜くことができる」と確信している。たいていの場合、周りに同じように思っているはずで、距離を置かれているはずである。

こういう人が上司になると厄介だ。できるだけ傍観者に徹して、自分の達成すべき問題に集中すべきだろう。

違法ではないが一部不適切なチャールズ皇太子

アメリカのタブロイド紙グローブが5月にチャールズ皇太子のキス写真を掲載した。チャールズ皇太子はダイアナ妃と結婚していた間、カミラ夫人と不倫関係にあったことで知られている。また、浮気をしたのかとうんざりさせられる写真だ。

エリザベス女王はたいへん立腹しており、ウィリアム王子に王位を継がせたいと考えており、カミラ夫人は離婚して多額の慰謝料を請求したいと考えている、とグローブは伝えている。

ただ、この写真には別の問題もある。チャールズ皇太子がキスをしている相手は、女性ではなく男性なのだ。この写真が本当だとすると、チャールズ皇太子は「同性愛者」もしくは「バイセクシャル」ということになる。

こうなると話は一気に複雑になる。ヨーロッパでは同性愛者が結婚する権利というものが認められつつある。パワーゲイと呼ばれる経済的に成功している人たちがいる。「王様にはゲイはふさわしくない」というのは、主張としては受け入れがたい。しかし、自分たちの王様としてゲイを尊敬できるのかという問題もある。他人の家庭がどうであろうと知ったことではないが、自分たちの問題となると心情的に受け入れられないと考える人もいるということになる。

タブロイド紙が伝えているだけであり、日本では大きな問題とは見なされていないようだ。

SNSとは何か

SNSはソーシャルネットワーキングの略。SNSをうまく使うとその場にいなくても友達関係を維持できる。この友達関係を維持することを「ソーシャルネットワーキング」と呼んでいる。ITツールを使うことで、年賀状のやり取りをしなくても、昔の郷里の友達が今どこで何をしているのかが分かるようになった。中には何年も音沙汰がなかった人が見つかり交際が復活することもある。また、学校の友達と学校の外でもお話ができる。SNSを使うと場所を選ばずにいろいろな人とおつきあいができる。

SNSとはパソコンやスマートフォンを使っていつでもどこでもおつきあいが継続できるようにする道具のことである、ということになる。

黙っているとおつきあいにならないので何かを話す必要がある。SNSを使うようになったら、時々近況(今何をしているか)を報告するべきだ。年賀状のようにかしこまったことではなく、毎日のちょっとしたことを記録するとSNSを続けられるだろう。難しいことのように思えるが、友達とおしゃべりするのと同じことだ。

また、友達の近況を見るためには、接続するための住所を知らなければならない。この住所のことを「アカウント」と言っている。SNSを始めるためには、どんな道具を使っているかを知り、相手のアカウントを教えてもらう必要がある。

SNSには様々な種類がある。Facebook、Twitter、Lineなどが有名だ。パソコンでもできるがスマホを利用する人の方が多いようだ。それぞれの道具の使い方は異なっている。例えば、Twitterは自社のサービスをSNSとは定義していない。かしこまって発表するまでもない小さな考えをこまめに発表する道具だった。だが、使う人たちがおつきあいの道具として使うようになり、SNSの一つとして認識されることになった。Facebookはもともと大学生が近況を報告するために作られた。LINEは文字でのやり取りができる無料通話がもとになっている。他にもInstagramという写真を投稿できるSNSもある。多くの人が食べたものや行ったところを記録して友達に見せるのに使っている。

「友達関係を結ぶこと」にはいくつかの呼び名がある。FacebookやLINEでは友達申請と呼ぶ。一方、TwitterやInstagramは一方的にフォローすることになる。お互いがフォローしあったら友達申請と同じことになる。Facebookは実名が前提だが、LINE、Twitter、Instagramは実名である必要はないなど違いがある。

知っている友達だけでやり取りをしていると問題は起りそうにないのだが、いくつかの原因で問題が起ることがある。まず、宣伝の為に不特定多数の人を「友達」として接続することがある。また、顔が見えないことで感情のすれ違いが起ることも多い。さらに、大人の監視がないためにいじめが横行する可能性があることである。大人でもいじめに発展することがあるので、子供の場合には家族の人が使い方を教える必要がある。子供の方がスマホを使いこなしているからといって放置するのは危険だ。自宅で楽しむことが多いために「誰にも見られていない」気分になることが多いのだが、おつきあいにも礼儀があることを覚えておくべきだろう。

普通のソーシャルネットワーキング(つまりおつきあいのことだ)では、気まずくなったらそこに行かなければよい。関係は徐々になくなってゆくだろう。ところが、SNSは場所を選ばないので気まずくなっても関係を断ち切ることができない。それを防ぐために「ブロック」という拒絶する機能がついているものがある。しかし、ブロックされてしまうと人によっては突然拒絶されたように受け取ってしまうだろう。すると実生活で嫌がらせをする人が出てくる訳だ。

SNSは楽しく使えば便利におつきあいを楽しむことができる。中には知らない人と仲良くなれるチャンスもある。しかし、法律が追いついていないことも確かだ。ストーカー規制はメールだけを対象にしており、SNSによるつきまといには対応してくれないとのことである。早急な対応が求められる。それまでは、気をつけて使った方が良いかもしれない。

Googleのツールでサイトのモバイル対応度を計測する

Googleがモバイルサイトの使いやすさを計測するツールを公開した。早速、自作のテンプレートなどを試してみた。

現在では多くのユーザーがモバイルに依存している。モバイルユーザーの注意力は散漫で、ロード時間が3秒以上だと約半数のユーザーがドロップしてしまうのだという。スコアは3つある。モバイルの使いやすさ・モバイルのスピード・デスクトップのスピードである。

サーバーのスペックが低ければスピードは遅いだろうという仮説を立てた。現在低価格のサーバーで運用しているのでスピードには自信がなかったのだ。だが、これは間違っていた。

自分のサーバーのWordpress 95 59 71
WordPress.com上のWordpress 99 64 79
X Domain上のWordpress 95  60 70
自作固定長 72 74 90
自作可変長 96 97 98
自作可変長・jQueryあり 100 64 81

意外なことにWordpressでもサーバーによる違いはあまり見られなかった。広告の有無も関係なさそうだ。つまり、wordpress自体が速度低下の原因になっているようなのだ。一方でスクリプトがないサイトは成績が良い。CSSだけで組んだ可変長対応のサイトは良いスコアだった。いろいろな要因はありそうだが、特にjQueryはGoogleからは嫌われているらしい。モバイル対応としてよかれと思いやっていること(折りたたみ式メニューなど)がスピード上で悪影響を及ぼしていることもありそうだ。これを防ぐためにはナビゲーション構造をできるだけシンプルにするなど、設計上の工夫も必要なのではないかと思う。

ゴッタルド基底トンネル

青函連絡トンネルが世界一でなくなったということに焦点が当たったゴッタルド基底トンネルのニュース。だが、知りたいことが欠けていたので調べてみた。それは「どうやったら通れるのか」というものだ。

チューリッヒからミラノに抜けるのがスイスからイタリアへのメインルートだ。この途中にアルプスがある。どうやら全ての列車がゴッタルド基底トンネルを通るようだ。乗客を乗せた本格的な営業運転が始まるのは2016年12月ということだ。営業運転が始まると3時間40分程度で抜けることができるようになるらしい。ヨーロッパの鉄道は日本から日本語で予約することができる。ただし、予約ができるのは秋頃になるらしい。

日本から行く場合には、飛行機でチューリッヒまで行き、ミラノから日本に戻る必要がある。そのような航空券をオープンジョー(開いたアゴ)といい、日本で予約できる。格安なものだと60,000万円くらいからあるのだが、アラブ首長国連邦のどこかの都市で乗り換える必要があるらしい。ヨーロッパに行くのに丸一日かかる。

とはいえ、よく考えてみるとトンネルを通っても景観がよいわけではないので、別にうれしくもなんともない。スイスの鉄道旅行といえば、ユングフラウ鉄道とかベルニナエクスプレスなどの観光列車だ。ところがこの2つはスイスの東西に離れていて、全部をうまく回るのはなかなか大変そうである。チューリッヒからサンモリッツに行きベルニナエクスプレスに乗りイタリアのティラノに行き、そこからスイスのルガーノに戻り、ルツェルンまで戻りインターラーケンを目指すという行程が考えられる。

ただ、観光列車が発達していて、ツェルマットからサンモリッツへ抜ける急行列車などを利用することができる。

swiss

スイスは東西南北ヨーロッパの要衝になっているので、鉄道を使うと、フランス、ドイツ、ベルギー、イタリア、オーストリアに抜けることができる。リヒテンシュタインのファドーツに行くにはバスに乗り換える。

ニュースの中にはゴッタルドトンネルと言っているところもあったのだが、ゴッタルドトンネルは既に開通している。今回はさらにその深いところを通るトンネルを作ったのだそうだ。それで「基底トンネル」という名前が付いている。総延長距離57キロメートルで20年の歳月と1兆3000億円をかけたビッグプロジェクトである。そこまでしてトンネルを通したかったのは、この地域が交通の障害になっていたからだということだ。イタリアからスイスに抜けるルートはドイツやフランスまで続いている。物流上のボトルネックになっていて、トラック渋滞が慢性化しているのだそうだ。地域の環境保全にも良くくないためにトンネルの掘削を選択したのだという。

ドイツからスイスを通りイタリアに抜ける鉄道が構想されているが開通は早くとも2020年の見通しということだ。

安倍首相が嘘をついても誰も気にしないのはなぜなのだろうか

松田公太さんという参議院議員が怒っている。文章を読んでもよく事情が分からないのだが、原発政策に反対していた同僚議員が、そのサブセットである核燃料サイクルスキームを維持する法律に賛成していて「支離滅裂だ」というのだ。

この主張は普通の日本人にはなぜか奇異に見えるはずだ。では何が奇異なのかと考えてみてもよく分からない。いろいろ考えを巡らせると、日本人の「はい」の使い方と英語の「Yes」の使い方の違いという点に行き着いた。

「あなたは学生ではありませんか」と聞かれると、日本人は「はい、私は学生ではありません」と答える。当たり前だ。あなたの言うことが「正しいか」ということが問題なのであって、私が学生かという事実はその次になる。ところが英語では「私が学生かどうか」という点に焦点があるので「いいえ、私は学生ではありません」となる。単に事実が問題になっているからであり、それ以上の意味はない。

しかしこれを日本人が聞くと「私が否定された」と感じる。「お前は間違っている」と言われたように思うのだ。実際にこれで立腹する人が出てくる。

英語話者は「事実」を中心にコミュニケーションを組み立てているのに対して、日本語話者は「あなたが正しいかどうか」という関係性を中心にコミュニケーションを組み立てていることになる。松田氏が怒っているのはそこだ。多分、対象物を見ているのっだろう。ところが同僚議員は「どのように対応すれば、ノーと言わずにすむか」ということを基準に意思決定している。これがお互いに「デタラメ」に見えるのだろう。

安倍首相は有権者や支持者たちに「ノー」を言わない。有権者や企業が税金が払いたくないと言えば「そうですよね」と言い、財務官僚が財政規律が大変だと言うと「そうですよね」と言う。そこで全体の論理が破綻し、立腹する人が出てくる。だがそれは「敵」なので言うことを聞く必要はない。頂点がそうなのだからフォロワーである議員たちの言っていることもめまぐるしく変わる。その場に応じて都合のよい「事実」をパッチワーク的に当てはめてゆく。

英語でいうアカウンタビリティ(日本語では説明責任と呼ばれる)という言葉が日本で成り立たないのは、そもそも説明する事実が存在しないからである。あるのは関係性だけなのだ。

厄介なのはそれに反対している人も状況に応じて「ノー」を言っているだけということだ。消費税増税に賛成だった民進党が「増税延期せよ」と言い出すのは、それは敵対者が「増税を実行する」と言っていたからであり、それ以上の意味はない。つまり両者は全く違うようで、実は車の両輪なのだ。関係が変われば「何がイエスか」も違ってきてしまうのである。

両陣営はお互いに「整合性がない」と罵り合っているが、それはお互いの文脈から外れているからだ。

では、日本にいる人たちは全て「関係性重視」のコミュニケーションを目指すべきなのだろうか。それはそうとは言い切れない。二つの明らかなデメリットがある。

一つ目のデメリットは状況をフォローしていないと、何が賛成すべきで何に反対すべきかが分からなくなってしまう。松田さんの文章では、なぜ野党側が今回の法案に「反対しなかったのか」がよく分からない。透明性がなくなり多様な意見が受け入れられなくなる。それはつまり解決策が限られるということになる。

明らかに間違った進路を進んでいる場合にお互いを忖度して進路を変えなければどうなるだろうか。最終的には崖にぶつかるか、海に落ちてしまうだろう。このような態度は「グループシンキング」の状況を生み出しやすい。いわゆる「集団無責任体制」という奴である。日本の歴史で一番顕著なグループシンキングは大量の餓死者と都市空爆を許した第二次世界大戦である。

ここから我々は何かを学ぶことができるだろうか。それはもし問題解決したければ「コンテクストベース」の議論をやめて「事実ベースの議論」に集中すべきだということになる。つまり、人格と事象を切り離して考えるべきなのだ。コンテクストベースの現場で状況を変えるのは不可能に近いし、残念ながら日本人は訓練や強い危機感なしに事実ベースの議論ができない。

次善の策は何もしないで、帰結を受け入れることだ。日本人の最大の防御策は意見の対立があり、状況が膠着することだ。意思決定や変更ができないのだから、動かないことが最大の防衛策なのだ。状況が破綻するのは「強いリーダーシップ」とやらを発揮して無理に動いてしまった時だろう。

経済学者も政治家も問題を解決するつもりはないらしい

先日来「言葉の使い方」が妙に気になっている。いつもの通り安倍首相のおかげだ。安倍首相は常々「リーマンショック級」という言葉を使っていた。リーマンショックとは金融機関の信用機能が毀損され、経済が疑心暗鬼に落ちいた上で、大規模なリセッションが起きたという事例だ。にも関わらず安倍首相はこれを「景気悪化」と単純化した上で、G7の首脳にプレゼンしてしまった。これに加担したのは外務省なのではないかと言われ始めているらしい。経済の専門家ではなさそうだ。炎上しはじめると一転して「自分はそんなことは言っていない(官僚が勝手にやった)」と申し開きをした。

これは問題だ。問題を解決したり意思決定しようと思えば現状を分析する必要がある。しかし、安倍首相の頭の中には選挙のことしかなく、外務省は滞りなくG7を進行したかった。どちらも経済の問題を解決するつもりがなかったわけである。

だが、政治家たちは「リーマンショック級か」ということをしきりに議論している。物事の定義などどうでもよいらしい。すなわち、政治家たちにはそもそも問題を解決しようというつもりはないということになる。彼らは状況を利用することで頭がいっぱいなのだろう。

気になり始めると他の事例も気になる。別の議員は「日本の問題は供給サイドの問題に集約できる」と言っている。ただ、その中身を見ると「労働慣行」や「企業の構造的な問題」を意味しているらしい。もともとケインズの「需要サイド」という問題の建て方があり、それに対抗する形で供給サイドという言葉がうまれたということである。それぞれの考え方から処方箋のようなものが作られ、それを需要サイドの経済学とか供給サイドの経済学と呼んでいたのだろう。

どうやら政治家たちはそれぞれの処方箋を丸暗記しており、理屈をつけるためにこれは「供給サイドの問題だ」などと言っているらしい。Wikipediaを丸ごとコピペしたのだが、ソリューションは次の通り。減税して小さな政府を目指すということらしい。市場経済の調整メカニズム(つまり供給メカニズム)を政府が阻害していると考えるようだ。つまり供給サイドの制約要件は政府と社会主義的な政策なのだ。

  • 民間投資を活性化させるような企業減税
  • 貯蓄を増加させ民間投資を活性化させるような家計減税
  • 民間投資を阻害したり非効率な経済活動を強いたりする規制の、緩和・撤廃(規制緩和
  • 財政投資から民間投資へのシフトを目的にした「小さな政府」化

しかし、消費者=生産者でもあるので、需要サイドとか供給サイドという言い方はなじまない。にも関わらずこういう言い方が通用するというのは、すなわち誰も問題を解決するつもりがなく、従って現状を分析する意欲がないということである。社会主義的な政策に反対しているのである。面白いのはその政治家が所属する政党は民共共闘を唄い、一般的には左派政党だと認識されているということだ。

別の経済評論家はもっと悲惨だ。アベノミクスは成功しつつあると主張している。労働人口が伸びているというグラフを出してどや顔である。実際には非正規雇用が増えており、給与総額は減っている。それを指摘されると今度は「経済が分からないやつは、そのうち正規雇用転換が始まるという経済の基本が分かっていないのだ」と言う。もちろん、過去にそのような事例もあったのだろうが、理論には前提条件があるはずだ。だが、それは無視する。

日本の場合は終身雇用を支えきれなくなっており、これが非正規雇用への転換を促進しているものと(少なくとも直感的には)予想される。社会保障の費用分担が正規と非正規で違っている点がこれを後押ししているのではないかと考えられる。この構造転換は社会保障システムの破綻を予想させるのだが、政権をたたえてその日の生活を支える必要がある人には、10年後のことなどどうでもよいのだろう。

感じるのはドメスティックな教育とグローバルな教育の違いだ。少なくともアメリカ式の教育に触れている人は、予断なく状況を分析して、プロセスを明確にした上で、結論を出して、人に説明すべきと考えているように思える。ところが、ドメスティックな教育しか経験していない人たちは、こうした手続きをすべて「効率が悪く無駄だ」と考えるようだ。それは東大を出ていても、成蹊大学レベルでも同じらしい。

いずれにせよ、誰も「用語の定義をちゃんとしよう」とか「前提条件を明確にしよう」などと言い出す人はいない。自分の思い込みで情報発信し、好き勝手に論評している。首相のようなエライ人、新聞社、経済学者、一般庶民に至るまで、それでもなんとなく議論めいたものが進行してゆくのである。