学生の野球を禁止すべきなのではないか

読売巨人軍の野球選手が賭博容疑で記者会見を開いていた。これを見て、学生の野球を禁止すべきなのではないかと思った。

会見を見て、この野球選手の語彙や世界認識は中学生レベルに見えた。自分で善悪の判断ができないのだろう。多分、子供の時から野球漬けで他のことを覚える必要もなかったのだろうし、周囲も覚えさせてくれなかったのではないだろうか。野球にだけ集中していればよい待遇を得られるからだ。

さらに、先輩への服従心も感じられた。もともと賭博に関与していたのは先輩選手らしいのだが、上下関係の厳しい世界では先輩に逆らうことなど考えられなかったのだろう。悪いことであっても先輩が「やれ」といえばやらなければならなかったのである。

清原元選手の件を見てもわかるように、選手たちは常に不安に苛まれている。その結果が痛み止めであり、その延長にあった薬物だった。「悪い」という意識もさほどなく、周りから勧められたら安易に手を出してしまうのではないか。法律で悪いと決まっているから悪いわけではない。その人の人生がぼろぼろになり、健康も損なうから悪いことなのだ。

会見で泣きじゃくっていた選手は野球界を追われるだろう。だが「君には迷惑をかけないから」といっていた人たちは選手の人生には責任を取ってくれない。もともと規範意識の低い人であり、他人を操った結果人生をめちゃくちゃにしても罪悪感など感じない人なのだ。

周囲からそそのかされ、カモにされた代償として選手生命を失った選手たちはこの先大変な苦労を強いられるだろう。学歴も世間知もないのだ。これが野球の明確な教育効果だ。だから、こんな教育はもうやめるべきなのである。人生そのものが賭けの対象になるという意味では競馬やパチンコなどと同じ類のものなのだ。競馬に教育効果があるなど主張する人はいない。

こうした「何の疑問もなく集団のルールに従う」人たちは危険因子ですらある。社会システムが機能不全を起こしても、こうした人たちは、リーダーや社会規範に従う。たいていの場合、弱者を攻撃したり、リーダーが「悪」と断じる人たちを攻撃することになる。「戦争に負けたけど日本は悪くない」とか「社会矛盾はすべてやる気のない弱者のせいだ」と断じるのはこうした「体育会脳」の人たちだ。これは社会にとって大変有害なことである。

日本にネトウヨ的な言論がはびこるのもこうした体育会脳のせいだろう。個別に話をしているといい人たちで人権を抑圧している意識などもなさそうだ。しかし集団になるととんでもないことを言い始める。多分、彼らにとって「中国や韓国が悪い」というのは「ボールを打ったら一塁の方向に走る」のと同じことなのだ。

特に中学生レベルで倫理判断が止まっている人たちが「自分の頭で考え出した」りするのも危険である。教習所に通わないでいきなり路上に出るようなものだ。他人を操ろうとしている悪い人は大勢いる。そうした人たちの格好の獲物になってしまう。学校で自分なりの判断能力を身につけるべきだったなどといっても、もう学生時代は戻ってこないのだ。

さて、こうした体育会系脳がうまく機能していたのは、マネジメントがそこそこしっかりしていたからなのだろう。司令塔さえしっかりしていれば、構成員が善悪を判断する必要はない。だが、読売巨人軍が賭博選手を輩出したところを見るとマネジメントは硬直化して内部から腐り始めているのだろう。嘆かわしいことではあるが、日本のオリンピック関係者がマネジメント能力を失っているところを見ると、共通した劣化要因があるのではないかと思われる。両者に共通するのはとてつもなく無能だが、周りから奉られているトップが君臨しているという点だろう。日本相撲協会の数々の不祥事も合わせると、日本の体育会系組織には重大な欠陥があるのだ。

読売巨人軍は責任を取って、失格になった元選手を職員として雇うべきだ。野球しか知らないのだから、最低限社会人としてのマナーと基本的社会スキル(実際には学校で学ぶべきだった)を教える義務がある。読売巨人軍のプロパガンダがこうした若者を大量に生産していたのだから当然だ。『巨人の星』には最終回があるが読者は星飛雄馬の人生の最終回はずっと先なのだ。

この選手は一人で記者会見させられたようだ。マネジメントの「私たちは知らなかった」という姿勢は容認されるべきではないだろう。また弁護する側の「捜査権がないので調査には限界がある」などという言質を許してはいけない。華やかな部分にだけフリーライドしておいて、問題を発見したから放逐して「自浄作用を発揮しました」などと言い放つ姿勢は容認されるべきではない。

保育所の問題とコモンズの悲劇

保育所問題の議論がなんだかあらぬ方向に向かっているようだ。「保育士の待遇を改善すれば問題が解決する」というのである。議論の前に、まずコモンズの悲劇(共有地の悲劇とも)のコンセプトを理解する必要がある。

ここに4軒の畜産家がいる。牧草地の間には誰のものでもない土地(条件1)があって、柵がない(条件2)。どのようにすると一番よいのだろうか。

持続可能性を考慮に入れると、誰のものでもない牧草地(共有地・コモンズ)を4軒の畜産家で協同管理するのがよい。コモンズに入れる牛の数を適性に割り当てて、牧草が生えてくる余地を残すのだ。ときどきでかけていって肥料を撒いたり、手入れをするのもよいかもしれない。コストはかかるが、これが一番よいやり方である。

しかし、短期的な利益を考慮すると事情が変わってくる。コスト負担はできるだけ避けた方がよいが牛の数は増やせばいい。最終的には他の3軒の畜産家を駆逐することができるだろう。ただし、それでも手入れをしなければ牧草地は枯れてしまう。つまり、4軒とも倒産してしまう。牧畜家がいなくなれば牛乳が飲めなくなる。

ここで「牛乳が欲しいから」という理由で誰か他の人が牧草地の管理を買って出たらどうなるだろうか。畜産家は安く牧畜できるが、その費用には関心を払わなくなるので、限界まで事業を拡大させる。すると社会はインフラを維持できなくなる地点に到達する。維持ができなくなったところで市場は崩壊するだろう。

これを実際の経済に置き換えてみると、いろいろなことが分かる。牧畜家に当たるのが企業で、共有の牧草地に当たるのが社会的インフラだ。牧草地の維持は社会の持続可能性を示している。難しいことは何もない。たとえとして引っかかる点があるとしたら人間を牧草扱いするとは何事だという点だろうが、そこは我慢して欲しい。

安倍政権は企業減税して、その分の負担を消費税に求めている。社会的インフラの維持を企業ではなく働き手から得ようという算段だ。

しかし、これには問題が多い。年金生活者が増えて所得に占める賃金の地位は下がりつつある。さらに、企業にとってはコスト削減のインセンティブが働く。端的に言えば子供を持っている従業員の雇用は割高になるために切り捨ててしまうのが一番経済合理性が高いということになってしまうのである。一度職を離れた人を同じスキルで非正規雇用すれば賃金はさらに下げられる。

今のままで保育士の賃金を上げると、社会的インフラへのフリーライド(ただ乗り)のインセンティブが強まる。ただ乗りした方が短期的に勝利できる可能性が強まるからだ。他の条件が同じなら、手厚い従業員保護をする会社よりも人件費の面で有利になる。却ってフリーライダーが勝ちやすくなってしまうのだ。

また、この政策は政府の債務を大きくする。保育所だけが社会的インフラではない。福祉を手厚くしたり、公的補助をして企業を誘致したりすると、フリーライドのインセンティブを強めることになるのだ。つまり、現在の政策を続けてゆくと、その延長線上には財政破綻があるということになる。財政破綻した瞬間に市場は崩壊する。

この問題の解決策はいくつかある。

第一の解決策は、牧草を輸入することだ。牛乳がなくなると困るから、消費者のコストで牧草を輸入して共有地においておくのである。この方法の欠点は牧草を輸入すればするほどそれに乗って牛が増えてゆくということだ。市場が牧草を賄いきれなくなったときに市場は崩壊するだろう。結局、コモンズを買っている(外国の土地を共有地として使っている)ことになる。牧畜家が牧草輸送のコストを負担するという方法もあるのだが、いずれにせよこれは奴隷制の例えなのである。牛は丸々と太っているが、足元は砂漠化しているということだ。帝国主義的な資本主義では正当化されるのかもしれないが、現在ではこの方法を取るのは無理だろう。

第二の解決策は共有地を牧畜家に割り当ててコストを負担させることだ。保育所の場合には、子供のいる従業員に対して保育所の設置を義務化するという政策になる。所有権を明確にする方法は「内部化」と呼ばれる。この方法の難点は共有地が私有化されることで、本当に共有地が利用したい人が締め出されてしまうというものである。例えば、零細企業などは従業員のための施設が作れず倒産してしまうかもしれない。もともと保育園はこうした企業のために作られた(つまり福祉の一環なのである)ということを考えると本末転倒かもしれない。すべてを自由競争にゆだねるというのは資本主義的には王道だが、これですべてがうまく行くというわけでもなさそうだ。私有地化による悲劇をアンチコモンズなどと呼ぶそうである。

第三の解決策は、牧畜家から税金を取って誰か他の人が共有地を管理するという方法である。この方法だと零細企業が締め出されることはなくなるかもしれない。この解決策の問題点はいくつかある。代理人が割高な料金を取って過大請求するかもしれない。代理人をどれだけ信頼できるかという問題になる。本来は規模の経済が働くので効率的なはずだが、必ずしも成功するとは限らない。つまりこの解決策は「社会主義的」アプローチだ。つまり、不効率になる可能性が高いのである。代理人が牧草地を独占するのだから、牧草地の管理人には「できるだけ高い金を牧畜家からふんだくってやろう」というインセンティブが働く。あるいは管理人が誰が草を食べられるかを決めるので不公平感が生まれるのだ。

現在の方法は第三の解決策に近い。一番の違いは牧畜家から税金を取っていないのに牧草地を協同管理しようとしているという点だ。そこで、問題を無視するか(自民党流アプローチ)つじつまを合わせようとしている(野党的アプローチ)ために、保育所の問題は「解けない問題」になっているのである。

最悪なのは牧草地の管理者(保育所の場合は国)が独占企業と同じになっているという点だろう。牧草地も増やさないし、
水もやらない(つまり保育士の待遇もよくしない)。そして費用は牧畜家ではなく消費者に負担させようとしている。牛は丸々と太っているが、砂漠が広がるという光景が生まれつつあるのだ。

地方分権して牧草地の管理人の数を増やせば少なくとも共有地独占の問題は解決するだろうが、企業のフリーライドの問題は解決しない。

難しい言い方をすれば、こうしたありようを変えてゆくことを「統治機構の改革」と呼ぶべきなのだ。つまり、日本を変えるということである。戦前の支配体制に復帰を目指したり、単に地方に財源を移すことを統治機構改革と呼ぶのは間違っているのではないかと思える。

コメはいつめしに変わるのか

外国人から日本語について聞かれてもにわかに答えられないことがある。コメはいつめし(あるいはごはん)に変わるのだろうか。普通に考えると電子炊飯器に入れた状態はコメだが、出したときにはめしになっているということになる。では、透明な炊飯器があり中身が見えたとして、いつからめしになるのだろうか。

この質問は問いの立て方が間違っている。めしをみて「これはコメか」と問われれば「はいそうです」と答えるからだ。つまり、コメはめしに変化したのではないのだ。だが、生米をみて「これはめしだ」という日本人はいない。つまり、コメに「食べられる」という属性を与えたものがめしなのだ。

同じことは水にも言える。水を温めたのがお湯だ。お湯は水であるが、水はお湯ではない。水に「温かい」という属性を与えたのがお湯である。お湯に場合は事情が異なっている。40度程度はぬるま湯と呼ばれるが、これが30度の場合には水という人が多いに違いない。つまり何度からがお湯とはいえないのだ。ちなみに温泉法によると25度以上のものは温泉と呼ぶらしい。法律的には25度以上はお湯なのだ。

ではこれが日本語特有の現象かと言われればそうではない。小麦(wheat)を粉にしたものが小麦粉(flour)で、これを加工したものがパン(bread)だが、焼かれていない状態ではパンとは呼ばず生地(dough)と呼ばれる。食べられない状態のパンを生地と呼んでいるのだ。だからコメがいつめしになるのだと聞かれたら、小麦はいつ生地になり生地はいつパンになるのかと聞けばよいのだ。コメはあまり形が変えずに食べられるのでこのような混乱が起こるのだろう。

放送と言論の自由

奥野さんという民主党の代議士が高市総務大臣に変なことを質問したためになんだかめちゃくちゃな議論が行われている。「政治的に偏った放送を行った放送局の電波を政府が停止できるんですか」と質問し「できます」との回答を得たのだ。民主党は「自民党は言論弾圧に乗り出した」と騒ぎ、憲法学者の先生たちも「高市発言は憲法違反だ」と騒いでいる。

もともと、放送法は電波を政府や権力者たちが独占しないために「不偏不党」が唄っており、権力批判を制限するための法律ではない。ところが最近では政権に近い人たちが公然と「政権批判ばかりして、偏っているから電波を止めてしまえ」などと言い出すようになった。中には真剣に「ジャーナリズムは共産主義に洗脳されている」などと考える人たちも出てきているようだ。そこで「自民党政権は言論弾圧のために電波を止めかねない」という懸念が生まれたのだろう。

ところが、そもそも「不偏不党」性は言論の自由に抵触する。だから、あの法律はもとから憲法違反なのだ。そのため法曹界では、普遍不党を唄った条項は努力目標だというような曖昧な解釈をしているようだ。法曹界の面白いところは法律の無謬性を信じているという点だろう。法律だって間違えることがあるわけだから、状況が変われば法文を変えればいいと思うのだが、それでは法律の持っている「神聖性」が失われていると考えているのかもしれない。同じことは自衛隊と憲法の関係にも言える。現実的に世界有数の武力集団なのだから「あれは軍隊ではない」といっても笑われるだけである。

かつてはテレビのチャンネルは数局分しか取れなかったので「限られた資源」だったわけだが、最近のデジタルテクノロジーを使えば、より多くの放送局を作ることができる。インターネットを使えばもっとたくさんのチャンネルを見ることができる。だから、憲法を純粋に適用すれば「不偏不党」を唄った条項を廃止すべきなのだ。

ところが、そうするとNHKが自民党寄りの報道を繰り返すようになるのは火を見るよりも明らかである。スポンサーが政権なのだからこれは致し方ないところだ。下手したらチャンネル桜みたいになってしまうかもしれない。憲法学者の先生はそれも嫌なのだろう。このため『立憲デモクラシーの会』が出した声明はなんだかまわりくどいものになってる。単純に「電波はもはや稀少なものではないのだから、あの条文はなくすべき」と書けば良かったのだ。

高市大臣がお友達と裏でどんな勇ましいことを言っているのかは知らないが、具体的に電波を止めようとしているわけではないので、この話はこれ以上広がりようがない。総務省出身でこの件が得意だった奥野代議士はこれがバズったのがうれしかったのか、再度質問に立ち、テレビカメラの前で見事に自爆した。もっと勉強しろよとは思うが、もともとこの程度の人なのだと思う。民主党は次回の衆議院選挙ではもっと質の高い候補者を送っていただきたいものである。でないと、本当に共産党くらいしか入れる政党がなくなってしまう。

預金を守るにはどうしたらよいのか

「安倍政権はけしからん」とか「安倍総理はけしからんというやつはけしからん」という人は多い。Twitter民主主義界隈ではさまざまな話が飛び交っている。そこでいつも「この人たちは何かあったときのための防衛策は考えているのかなあ」と思う。

日本の財政はトレンドとしては破綻に向かっている。国民貯蓄を政府がばら撒くことで政治が成り立っているからだ。国民の間には追加経済対策を望む声が多いが、これは国民貯蓄をばら撒いてくださいというのと同じことなのだ。

政権を維持するために「消費税増税を延期すべきだ」という意見もなくならない。にもかかわらず法人税は減税され続けている。生活保護受給者をいじめて経費削減をという人はいるが、票田になっている年金受給者への支給を減らせという人はいない。国中が分配を求めているわけで、これでは財政が良くなるはずはない。

だが、状況は変わり始めている。マイナス金利は銀行に対する課税措置だ。手数料は日銀でなく国庫に入るのだそうだ。つまり日本は資産課税を開始したのである。資産に課税することについては賛否あるだろう。余剰の資本が金融市場を荒らしているのは確かだ。また、格差が広がっているので、全部がいっぺんに破産すれば、すべてがチャラになる。究極の平等政策でもある。

財政が破綻すると預金は封鎖される。通帳の数字は残っていても原資になるお金がないからだ。ギリシャのように引き出し制限がかかるだろう。たんすに円を預金しておけばよいのではと思う人がいるかもしれないが、これも効果がない。日銀は円を切り替えるという名目で市中にある通貨を単なる紙切れにすることができる。新円切り替えと呼ばれる措置だが、これも実績がある。

第二次世界大戦後の財政破綻では国民のほとんどすべてがいっぺんに困窮した。困窮は首相や皇室にまで及んだということである。ところが、今回は平等な破綻は起こらないかもしれない。情報を握っている政治家たちやそのお友達は事前に資金を海外にフライトさせるだろう。

防衛策は簡単だ。海外の銀行に資産を移せばよいのである。急には作れないのだから、事前に準備しておいた方がよい。海外で口座を作ったら、定期的に資金を移動する必要がある。使っていない口座は凍結される恐れがある。郵便局に行けば一回2,500円で送金してくれる。受け取り側の銀行にも手数料が発生する。利用している銀行の手数料は15ドルだった。

資金フライトを恐れているのか、オンラインバンキングで海外銀行への振り替えを実施している邦銀はない。用紙に書き込む必要があるのだが、一度送金した情報を元に振込用紙を印刷してくれるサービスがあるそうだ。送金時には、マイナンバーを登録してある口座から振り込むか窓口でマイナンバーカードを見せる必要がある。なので海外に移した資金は政府に把握される。

海外の銀行にある預金でも日本のATMでも引き出せる。銀行によって違うと思うのだが、契約している銀行では郵貯、セブンイレブンで引き出せるようだった。ただし、照会と引き出しにはそれぞれ5ドルの手数料が必要だ。ただし、VISAデビットがついており、これで買い物をすると手数料はかからない。為替レートも中値でそれほど悪くなかった。VISAデビットはクレジットカード代わりに使える。

口座のチェックはインターネットでできるので、支店を訪れる必要はない。最近はチェックを頼まなくてもメールで個人に支払いができるらしい。一番困るのはコミュニケーションかもしれない。問い合わせ自体はSKYPEを使えば無料なのだが、スタッフと話すのに現地言語が必要だ。英語(シンガポールや香港を含む)ができない人はきついかもしれない。

確証はないが、日本政府は富裕層が海外金融機関を使うのを嫌がっているようだ。邦銀からの海外送金は不便なままだし、海外からの受け取りにもマイナンバーが必要。富裕層相手のシティバンクのリテールを潰したといううわさもあるし、アメリカのE-Tradeも日本居住者向けのサービスを停止してしまった。海外の銀行は日本の財務当局の「監視」が難しいからだろう。超富裕層向けにはサービスを実行しているのかもしれないが、一般庶民は海外口座が持ちにくくなっている。

もし、どうしても銀行口座が持てないというなら、あとはドルをたんす預金するしかない。これは北朝鮮などでよく行われている方法だ。ハイパーインフレに苦しんだジンバブエは自国通貨を廃止して外貨しか使えないようにしてしまった。

食品廃棄率の嘘と本当

Twitterで日本は輸入食品の約半分を捨てているというツイートが流れてきた。これを見て「ひどい」と思った。日本は流通が現代化されていないので無駄が多いだろうと思った。業界が自浄能力を発揮できないのなら、廃棄物に税金をかけて廃棄物を減らすべきだ。ところが、朝の頭でもう一度調べなおしてみると、この情報は嘘らしい。

消費者庁が調べたところ、日本の食品生産量は8424トンで、生産・流通段階では641万トンが廃棄されている。意外なことに家庭ではもっと多い1072万トンが廃棄されている。家庭の方がより多くの食品を捨てているのだ。そのうち可食部分は500~800万トンだという。つまり廃棄物には生ゴミも含まれているのだ。

どうも環境派の人たちは数字に弱いらしい。もともとの数値自体は正しいのだが、間違って引用することが多いのだ。これでは「大騒ぎしたいから数字を膨らませているだけ」と言われても仕方がない。多く流布している数字は輸入量が5500万トンで廃棄が1800万トンだというものだ。冷静になって考えるとなぜ輸入と廃棄を比べるのかがよくわからない。

とはいえ、これは放置していい問題とも思えない。消費者は割高な料金を支払っているからだ。特に問題なのはチャンスを逃さないために過剰に発注される可食廃棄物だろう。品切れになると買ってもらえないので多めに発注しておくのである。だが、冷静に考えるとブドウグミがないからといって何も買わないで帰る人がどれくらいいるのだろう。多くの人は(それが廃棄ロスの削減だと知っていれば)文句を言いながらもコーラグミを買って帰るのではないだろうか。また小売にとっては適正な在庫管理をするインセンティブになる。これは政策として取り組んでもよい問題だろう。

一方で、消費者は別のお金を払っている。それがゴミの焼却だ。生ゴミには多くの水分が含まれていて量もかさばる。税収が減少している地方自治体はゴミ焼却炉の維持に苦しんでいるのだが、生ゴミを減らせばその分だけ焼却炉の数を減らせる(あるいは新しいものを建てなくてもすむ)のである。消費者庁のレポートは東京都の数字を引用しているのだが、東京都は家庭ごみを開けて中身を調べたようだ。そこまでやってゴミを減らそうとしているのだろう。

生ゴミを減らすのはなかなか難しい。自治体の中には水分を抜くためのコンポストを推奨しているところもある。コンポストで自然乾燥してから家庭菜園の堆肥などに使うのだが、コンポストの購入に費用がかかる上、土地のない人たちにはあまりメリットがない。

もっと問題なのは、食べられるのに捨てられる食品だ。冷蔵庫の在庫管理システムなどを作ることは技術的には可能(冷蔵庫の食品の賞味期限を一覧表化してスマホなどで閲覧できるようにする)なのだろうが、一般の家庭の主婦が使いこなすのはなかなか難しそう。仮にすべての食費にバーコードをつけたとしても、買い物帰りにすべてチェックインするとしたら膨大な手間がかかるだろう。

「生ゴミに罰金を」などといえば批判を浴びそうだが、実際には多くの自治体がゴミ袋を有料化している。これはゴミを出さない家庭へのインセンティブになっている。

この問題について気になったのは、食品廃棄に反対する人たちのほとんどが「世界的にみて突出している」とか「飢えている人がたくさんいるのに」と言っていることだ。羞恥心や罪悪感で他人を操作しようとしていることになる。なぜ「お金がかかるから無駄をなくそう」といえないのだろうかと思うのだが、本質的に自分の欲求を通すことを禁止しているのだろうと思われる。だが、なぜそうなったのかということに合理的な説明はできそうにない。