新聞の軽減税率適用はジャーナリズムの死を意味する

軽減税率の問題でちょっとした騒ぎが起きている。そもそも8%の税金が10%に増えるのだが「軽減税率」と言う言葉が踊っているせいで、あたかも税金が減るような印象を与えている。加えて、これで税収が減るので社会保障費を削るか赤字国債を発行すべきだという話になりつつある。

食品の線引きをどこにするかというのが「議論」の中心なのだが、その影で新聞も軽減税率の対象にすることが決まったらしい。テレビでは「一部の新聞が」と言っている。宅配新聞だけが対象になるということのようだ。面白い事に新聞はほとんどこのことを伝えていない。一部のテレビ局だけが見出しに掲げる程度である。

新聞の軽減税率には政治的な意味合いが強そうだ。控除額はわずか2%なので消費者にはあまり影響がない。しかし、新聞社にとっては政治的なトロフィーという意味合いが強いのだろう。政党のメインターゲットである高齢者への影響力、公明党と聖教新聞との関係などが考慮された結果なのではないかと思われる。

新聞は、表面的には純粋な観察者を装っている。中立で公平だというのが価値の源になっているからだ。人々が新聞を信用するのは、それが「混じりけのない真実」を伝えてくれるだろうという期待があるからだろう。プレイヤーになってしまうと中立公平という神聖な地位から転がり落ちてしまう可能性がある。「私利私欲から事実を歪めている」というのは嫌われる。

ところが、誰が考えても軽減税率の対象に新聞を加えるという選択に公平性はない。新聞は知識の源泉になっていて、それが民主主義を支えているという理屈は成り立つだろうが、スマホやインターネット回線の消費税も軽減税率を適用すべきだ。若年層はスマホでニュースを読んでいるからだ。

また、ジャーナリズムには貴賎がある。駅売りの新聞は軽減税率の適用対象外のようだ。駅売りタブロイド紙は民主主義には貢献しないということなのだろう。週刊誌の権力批判もジャーナリズムとは言えないということになる。記者クラブを持っている新聞社だけが社会的に善とされているのだ。これは新聞はジャーナリズムという役割を手放しましたよという宣言に他ならならない。中国の人民日報や北朝鮮の労働新聞を笑えない。

今回の決定はジャーナリズムの死を意味している。新聞は政府に助けを求めており、伝えないことを通じて世論の印象を操作しようとしている。そのうえ、意見に線引きをして政府と取引をしうる立場にある人たちだけがわずか2%の恩恵を受けることにした。これは談合そのものだ。彼らはわずか2%の税金で魂を売ったのだ。そこに怒りは湧かない。むしろ哀れみのような感情さえ生まれる。かつてのような発行部数を誇っていれば保身に走る必要はなかったかもしれない。

ジャーナリズムとは日々の記録を取ることなのだと強弁するのであれば、またそれもよいかもしれないが、それは政府の広報係のようなものだから、税金で賄うべきだろう。

もっとも、こうした状況を作り出したのは新聞ではなく国民だともいえる。もともと、政党パンフレットが祖先の新聞は党派性が強いものだった。特定の団体の主張を述べたものだったからだ。時には新聞を発行した罪で殺される人もいた。その後、特定の党派に偏らない情報が知りたいというニーズが生まれ、党派のスポンサーシップに頼らない新聞が生まれた。購読料や広告収入が「中立公平」を支えたのである。

新聞が没落しつつあるということは、人々が中立公正な情報を望まなくなっているということを意味する。自分たちで情報が比較検討できるようになったからかもしれない。

また「ジャーナリズムとは権力批判だ」というのも単なる印象に過ぎないかもしれない。政府批判者という役割はかつてはインテリ層のものであり、商品価値があった。しかし、その役割はネットに移りつつあり、かつてより大衆化されてしまった。意外と公正中立性よりもルサンチマン解消の方が「ジャーナリズム」のメインの商品価値だったのかもしれないが、新聞はそうした役割の主役ではなくなりつつある。

ジャーナリズムの死を嘆いてみたかったのだが、そんなものは最初からなかったのかもしれない。

Amazon PrimeのCMとコンテクスト文化

クリスマスシーズンを前にAmazon PrimeがCMを流している。配送業者らしい見知らぬ男性が何かを唱っている。多分、本国のCMを流用したものではないかと思うが、全く訴求効果がなさそうだ。それはなぜなのかを考えてみた。

アメリカ人は「説明」が大切だと考える。新しいサービスの内容を説明し、その「ベネフィット」を感じてもらおうと思うのだ。そのため、アメリカのCMはベネフィット訴求型が多い。そこで、いきなり女性が出てきてシャンプーの効果について説明を始めるというようなコマーシャルが好まれる。

ところが日本人はベネフィットにあまり関心を寄せない。見知らぬ小太りの男性が何かを唱っていても、それが自分に関係があることだとは認識しないのだ。

日本人はむしろ、周囲にいる自分と同じような人たちがサービスを受け入れているかどうかを気にする。見知らぬサービスを使っていると自分まで「不正解だ」ということになりかねないからだ。こうした周辺情報のことを「コンテクスト(文脈)」と呼ぶ。コンテクストの方がベネフィットより大切なのだ。

このため、日本人では「自分と同じ属性を持っている」人か「自分の恋愛対象になる」人と商品やサービスを関連づけるようなコマーシャルが好まれる。もしくは誰もが憧れる芸能人が使っているところを見せて「あの人のようになれるかもしれない」というような憧れを抱かせる手法もよく取られる。

このため、日本のコマーシャルではよく顔の知られた芸能人が重用される。そのような芸能人は「数字を持っている」とされるので、広告代理店が芸能人にランクをつける。バラエティ番組でもお笑いタレントが実際に大型量販店やファストフード店に行き実際に商品を試してみるような内容が好まれる。お笑いタレントは自分たちと同じだと考えられているので、彼らが使うサービスは「正解」になる可能性が高い。

一方で、アメリカのコマーシャルで芸能人が出てくるのはむしろ例外的かもしれない。「コンテクスト」は商品の本質(ベネフィット)とはあまり関係がないからだ。コンテクストが重要視されるのは高級アパレルや香水などの商品に限られるのではないだろうか。訴求すべきベネフィットが抽象的だからだ。

ハリウッド俳優は「映画の中身」を語りたがる。限られた時間の中で「本質」を語らなければならないと感じるからだろう。一方で、日本人のレポータは、その俳優がどんな人であり、受け取ったプレゼントにどんな反応をするかを知りたがる。周辺情報の方に需要があるのだ。日本人は映画でどのような内容が語られているかということにはあまり関心がなく、どのような人が作っているのかを気にするのだということになる。

こうした違いが思わぬ誤解を生むことがある。よく安倍首相は海外のプレスにちぐはぐな回答をしている。プレスの人たちは物事の本質(政治家の場合は問題の解決策を示すのが本質だと考えられる)を聞きたがっているのだが、安倍首相はコンテクスト(周囲の状況や自分がいかに信頼に足る人物かということ)を語ろうとする。これがちぐはぐさを生み出している。答えを聞いた海外プレスは不満を募らせているかもしれない。少なくとも首相の発言がニュース記事になる事はないだろう。

こうしたちぐはぐさが生まれる原因が政治家にあるというわけではない。日本の有権者がコンテクストを知りたがるからだ。選挙の時期に「支持者」と呼ばれる人たちに話を聞きに行くとよく分かる。彼らは問題の本質(なぜ、それが起きて、どう解決すべきか)についてはよく知らないし興味もない。にも関わらず「今回のマニフェストがなぜ正解なのか」というコンテクストを語りたがる。

よく、安倍首相は「矢(手段)」と「目標(的)」の違いを理解していないと言われている。しかし、日本型のリーダーの役割はコンテクストと正解を提示することにあると考えられるので、物事の論理的な整合性が取れなくても構わないのだろう。正解さえ決まってしまえば、回りにいる人たちはその正解を自分が好きなように解釈し好きなように取りはからうことができる。

2009年の選挙では逆の現象が見られた。問題の本質は分析されず「政権交代が正義なのだ」というような主張がまかり通っていた。政権交代がなぜ必要で、それがどのような解決策を提示するかということはあまり重要ではなかったのだ。

こうしたコンテクストは「空気」と呼ばれることがある。

このように考えると「日本人は物事を解決できないではないか」と思えてくる。それほど問題解決に重きを置かないのかもしれない。それよりもむしろ問題を文脈に当てはめて「解決した」と見なすのではないかと考えられる。そう考えると東アジア各国の「歴史認識問題」が起きている理由がほの見えてくる。扮装をどう防ぐかということよりも、その事件がどのような意味を持っているのかというコンテクストが重要視されるのだろう。

性的マイノリティとかわいそうな政治家たち

ある地方都市の市議会議員が「同性愛者は異常な動物だ」と言いバッシングを受けた。市議は発言を「酒の勢いだった」と釈明した。今回は練馬区の議員が「やはり同性愛は日本の伝統として受け入れがたい」と議会で質問したことが問題視されている。

これについて、異端視されている「同性愛者がかわいそうだ」という指摘がある。だが、本当にかわいそうなのは、多分指摘をした政治家たちの方だ。

リチャード・フロリダの有名な著作に「クリエイティブ都市論」というものがある。2008年の発表なので、随分と古い本だ。フロリダは社会に豊かさをもたらす「クリエイティブクラス」という人たちを定義した上で、都市が競争力を持つためにはクリエイティブクラスを集めなければならないと言っている。

フロリダが注目したのが、同性愛の人たちの集積度合いである。同性愛の人たちが暮らしやすいということは、その都市がオープンであるということを意味する。クリエイティブな人たちはそうしたオープンな(フロリダは寛容なというような言い方をしている)環境を好むのだ。

東京は世界でも有数の都市なので、クリエティブクラスにとっては居心地のよい都市だといえる。だから、渋谷や世田谷といった地域で同性愛者に優しい環境づくりが行われるのは偶然ではない。有権者がそれを支持し、多様な価値観を許容する人たちが集ってくるからだ。これがスパイラルを形成する。

とはいえ、日本の性的マイノリティがおおっぴらに「私達はゲイなので、先進地域に引っ越しました」などと表明することはないだろう。表に出ている人たちは新宿あたりで商売をしている人たちか、芸能界やファッション業界などで活躍している一部の人たちだけのはずである。故に多様性と先進性の関係は表立っては語られないのではないかと思われる。

一方で、そうした人たちから見放された地域は「古くからの価値観」にことさらこだわるようになる。有権者が古い価値観を持ったヒトたちだから、新しいアイディアが地元から出てくることは期待しない方がいい。彼らは過疎化や競争力の低下などを心配するが、具体的にはどうしていいか分からない。古い人たちが考える「繁栄」とは、せいぜい地方の名産品が売れて、工業団地ができることぐらいだろう。後は自分たちがクールだと思う価値観を外国人観光客に押しつけるのも好きだ。スーツを着たおじさんたちがアニメを売り込んでも全然クールではないが、本人たちは気がつかない。

こうした地域はインドや中国などの中進国と競争せざるを得なくなる。企業を誘致するためには法人税を下げて、自国通貨をバーゲニングし、安い労働力を買い叩くくらいしか選択肢がない。まあ、それも仕方がないことだ。

地方都市の凋落は目に余るものがある。例えば、大阪市長選の状況を見ると哀れさを感じてしまう。彼らの望みはせいぜい「東京並の大都会になり、新幹線を誘致する」くらいのことだ。それすら叶わずに、大企業は市場を求めて東京や海外に流出してしまう。保守的で新しいサービスを受け付けない都市で再先端のサービスや製品を売っても仕方がない。そうした市場では、国で蛍光灯を禁止してLEDを売りつけるくらいがせいぜいだろう。

同じ事は移民にも言える。アメリカの先端都市が優秀な中国人やインド人を使って、ITのデファクトスタンダード作りに邁進していた時期、日本は外国人労働者を「社会保障制度から排除された安価な労働力」くらいにしか扱ってこなかった。そんな国に優秀な労働力が集るはずはない。事実、外国人実習生は次々と「研修先」から逃げ出している。

移民の方にも選ぶ権利がある。シリア難民ですらスマホを使って条件の良さそうな国を選択しているのである。スマホやPCすら使いこなせずNHKしか情報源のない年老いた政治家たちが「あの人たちはかわいそうだ」と思っているとしたら、かわいそうなのは難民ではなく、その政治家の方だと言えるだろう。

政治家が自分の信条を述べる事は別に構わないと思う。しかし、それが後進性のスティグマになってしまうということは考えた方がいい。多分、受け取った人は「渋谷や世田谷区と比べて練馬区って案外遅れているのだなあ」とか「まあ、東京のはずれだから仕方ないか」くらいにしか思わないだろう。