ネット上の人種差別発言と本物の差別

アメリカ人が作った日本人を題材にした映画を見た。ここにでてくる日系の人たちのお辞儀が変だと思った。彼らはいつも相手の目を見ている。目を見ていないと不安なのだろう。そこで改めて思ったのだが、日本人はお辞儀をするときに相手の顔を見ない。

アメリカ人(それが例え日系人であっても)は、相手を対象物として捉えている。考えてみると当たり前のことだ。そこには「私」と「あなた」の関係がある。裏返せば、日本人は会話をしているとき相手を意識していないということになる。そこには「我々」という拡張された私がいるのみだ。主語を特定しなくても話が進むのは「我々」が主題を共有しているからだろう。

日本人は拡張された私(我々)としか会話をしていないということは、つねに価値観が共有されているということを意味する。故に日本人の会話には「いいえ」とか「私はそうは思わない」はあり得ない。「我々」が複数になり、ちょっと人と違ったことを言うと吊るし上げられることがある。こうした「私」を共有することを「空気」と呼ぶのだと思う。日本人は「私達」に埋没することに居心地の良さを感じるのだ。

故に、人を「あなた化」することは懲罰になり得る。最近こんなことが起きた。難民を差別するひどいイラストを描いた、はすみとしこ氏という無名のイラストレーターを応援する人たちの個人情報が晒されたのだ。晒した人がセキュリティ会社の社員だったことで騒ぎが広がった。

これはとても不思議だ。晒された「個人情報」はFacebookあたりから流れた公開情報らしいのだ。どうして公開情報をリスト化すると「個人を暴いた」ことになるのだろうか。

一つ考えられるのは「職場の情報」と「個人の意見」が結びつくことによって「その人個人の意見」が「職場の意見」だと混同されることがあり得る。つまり、そこには「私」というものはあり得ず「xx会社の社員」とか「教員」という「我々」として扱われるという事情があるのだろう。しかし、そのことを差し置いても「個人情報が晒された」ということが懲罰になり得るのは、その人が「個人として認知される」のが罰としての意意味合いを持っているからだろう。これを「アイデンティティの確立は懲罰だ」と英語で説明しても、きっと分かってもらえないのではないかと思う。

皮肉なことに「個人を暴いた」ことの懲罰も、暴いた個人の情報を暴き返すというものだった。反安倍 闇のあざらし隊氏の職場が特定され、それがセキュリティ会社だったことで、騒ぎが大きくなった。

さてこの「私のない日本人」という分析を見て「自分には当てはまらない」と思った方も多いのではないかと思う。職業経験が長いと「私」と「お客様」とか「私」と「利害が重ならない相手」などと接する機会が増える。つまり徐々に「私」と「あなた」として話す経験を積むわけである。こうした「私」の意識は地位が高くなるほど高くなるだろう。地位の高い日本人の仕事は主に利害調整だからだ。これが家庭に持ち込まれ、その子女も「私」意識を学習してゆくということになる。社会的地位は世代間で引き継がれるのだ。

逆に職場で個々の仕事に携わっている人は、調整作業をすることは少ないだろう。故に「私」意識を持たないままで職業人生を過ごすことになる。つまり「私意識のなさ」は職場での地位が低いことを意味する。これが家庭に引き継がれると「私意識のなさ」が社会的に地位が低いことのスティグマになってしまうのだ。当人たちは平気かもしれないが、地位の高い(あるいはそうした家庭に生まれた人)たちからは蔑視の対象になってしまうかもしれない。しかし、それを指摘されることはないだろう。本物の差別というのは過酷で、決して表沙汰になることはないのだ。

ネットで差別発言を繰り返している人というのは「回りの人が言っているから自分も安心だ」と考えているのではないかと考えられる。そこでアイデンティティを晒されることで「罰せられた」と感じる。もし、普段から「私」として過ごしていれば、そもそも過激な差別発言は行わなかっただろうと思われる。その人のブランド価値を下げてしまうからだ。(もっとも、職業的に浮かび上がることを目的に「炎上マーケティング」を試みる人もいるだろうが……)

公共空間で人種差別をするということ自体がその人の社会的地位の低さを暴き出してしまうのである。本物の差別というのはもっと過酷だ。表沙汰になることは決してないにも関わらず、人々の間に共有されており、無意識に立ち現れるのだ。

電卓の陳腐化と日本のオフィス

明治時代の商人たちはソロバンくらい使えないとよい仕事につけなかったに違いない。戦中や戦後すぐのドラマをみていてもソロバンをはじいて、手書きで書類を書いているというシーンを見かける。事務作業には「ソロバン」の知識は欠かせなかったに違いない。

状況が一変するのは戦後に入ってしばらく経ってからだ。電子計算機が登場したのだ。最初の計算機は機械式だったが、徐々に電子式になり「電卓」と呼ばれるようになった。なぜ「卓」なのかというと、机のような形をしていたからだろう。それだけ重く、とても持ち運びができるようなものではなかった。

1964年にシャープが開発した電子計算機の初期型は重さが25キログラムあり、価格は50万円程度だった。月産目標台数は300台程度だった。オフィスユースの商品であり、個人に手が届くような代物ではなかっただろう。

1971年にオムロンが49,800円の電卓を開発に成功すると価格競争が激化した。1972年にはカシオが12,800円の電卓(カシオミニ)を発売する。「答え一発カシオミニ」というテレビコマーシャルを覚えている人もいるのではないだろうか。この頃から個人でも電卓を持てるようになった。発売後10ヶ月で販売台数が100万台を突破した。その後電卓の小型化競争が始まると、メーカーが次々と脱落した。残ったのはシャープとカシオだった。もはや、電卓を操れたからといって尊敬されることはなくなっていた。

電卓時代が終る兆候が見られたのは1980年代にマイクロソフトがMS-DOSを開発した頃からだった。「パーソナルコンピュータ」がオフィスに導入されるようになったからだ。当初は表計算ソフトが好んで使われた。マイクロソフトマルチプランやロータス1-2-3などが有名だ。

文章制作はさらに未開で、和文タイプのオペレータが作業を請け負っていた。日本では、パソコンとワードプロセッシングが結びつくことはなく、専用のワードプロセッサ(ワープロ)が先行した。日本の最初のワープロは1978年に東芝が発売し、価格は630万円だったそうだ。パソコンで一太郎などのワープロソフトが導入されはじめたのは1980年代の中盤頃だ。ワードとエクセルが一般化するのは、グラフィカルインターフェイスが改善されたWindows95頃からだという。もうバブルは崩壊していた。

バブル期のオフィスではパソコンを使えれば確かに就職に有利だったかもしれない。しかし、パソコンやワープロを使うのは「下働き」の仕事だった。OLや新人の役割で、正社員(いわゆる総合職)は「もっと生産性の高い仕事をするべきだ」という風潮があったのだ。生産性の高い作業とは社内の利害調整のことである。事務作業員を「事務屋」と呼んで蔑む傾向すら見られた。同じような傾向は英語にも見られる。グローバルな社会では英語くらいできなければという割には英語話者の地位は高くない。「英語屋」と呼ばれて通訳代わりに使われることもある。このため、総合職の中には英語ができてもひけらかさない人が多かった。「英語屋」として認知されると、通訳としてこき使われるからである。

新人類と呼ばれた人たちは「パソコンみたいな訳の分からないものは操れるかもしれないが、本当の仕事(つまり内部調整のこと)はできない」などと揶揄された。今では、専門家たちはスマホばかりしている若者を見て「日本の若者はパソコン離れしている」などと心配しているようだ。時代は繰り返すのである。

バブルが崩壊してしばらく経った今、電卓は100円ショップでも売られている。Amazonでは600円程度から手に入る。同じように、パソコンの地位も大いに凋落しつつある。今では20,000円も出せば立派なパソコンが手に入る。

ハローワークに行くと「入門パソコン講座」のような事業に多くの税金が投入されているが、こうした講座を卒業しても、最低賃金のパート労働くらいしか見つけられないかもしれない。欧米ではパソコンを使った労働は、もはや「知的労働」とは見なされない。最近パラリーガルの仕事を代替する人工知能が話題になった。初級の弁護士やパラリーガルという仕事すらなくなってしまうかもしれないのだそうだ。一昔前の印象で「知的労働」を捉えると、却って時代に取り残されるかもしれないのだ。

日本人は古くて面倒なものをありがたがる人が多いが、面倒なQWERTY式のキーボードは廃れて、スマホに似た操作感覚を持ったタブレット型のOSが主流になるかもしれない。「面倒なことを簡単にしよう」という思考こそがイノベーションを生むのだということを考えると複雑な気分になる。

参考文献

パソコンは高くない

軍事アナリストの小川和久さんは日本の競争力について心配しているようだ。若者のパソコン離れが進行しつつあり、これが貧困スパイラルに拍車をかけているという。これについて氏のアンチの方が「そもそも貧乏だからパソコンが買えない。因果関係が反対だ」とかみついた。日本の貧困については、議論すべきことがたくさんあるというのは確かだろう。しかし、このやり取りが不毛だということだけは言える。パソコンは別に高くないからである。

パソコンの価格は10,000円台から

試しにAmazonでスティックPCという商品を検索すると、5,000円台からパソコンが買えることが分かる。ただしこれはアンドロイドPCだ。小川氏の支持者たちのコメントを読むと、パソコンとはWindowsパソコンのことらしい。Windowsのパソコンで最安値は「ドスパラ」という会社が出している製品で、現在10,000円を切った価格で売られているらしい。キーボードがついているセットで13,000円程度だ。しかし、Amazonには取り扱いがない。もっと有名なメーカーの商品が欲しいということであれば、Intel(このパソコンのCPUを作っている、いわばお家元のような会社だ)製品をはじめ、いくつかの商品を選択することができる。価格はおおよそ15,000円程度。地方だから都会のように家電専門店がないという苦情も当たらない。Amazonでスマホから注文すればいいからだ。

なんで、パソコンがそんな値段で買えるのか、と疑問に思う方がいるかもしれない。どうせ、おもちゃのようなパソコンなんだろうというわけである。半分当たっている。パソコンはおもちゃみたいな価格で売られているコモディティなのだが、それでもテレビにフルサイズの動画を映しても楽しめる程度の能力を備えている。確かに記憶容量は低い。それでも32Gバイトあり、miniSDカードを足せば倍くらいまでにはなる。キーボードとモニター(モニターはテレビを使う)が付属していないのも安い理由だろう。

「テレビを占有されるからパソコンが使えない」と嘆く人は確かにでてくるのかもしれない。人並みにノートパソコンがいいという人もいるだろう。Amazon調べでは25,000円程度から手に入る。

WordやExcelは無料で使える

別の支持者のコメントの中に「パートでもWordやExcelなどの操作方法は求められる」というコメントがあった。確かにスティックPCや格安ノートPCにはOfficeは搭載されていないが、ネットにつなぐと「無料版」のOfficeが使える。機能限定版らしいのだが、関数などは普通に使えるという。家庭での利用には十分な内容だし「覚えたい」という人にはぴったりだろう。もちろん、お金を出せばOfficeを買い足すこともできる。

通信料金は月々4,000円弱から

一番のネックは通信環境かもしれない。これは月々支払わなければならないからだ。固定の光回線を使うと月々6,000円程度(別途工事費)がかかる。いくつか割引を使えばもう少し安くすむかもしれない。一方、無線通信分野の値引き競争は過熱気味だ。WiMax2という規格の商品がいくつかでている。本来、月々4500円程度の料金が必要らしいのだが、2年間は割引を適用して月々3,500円程度で利用できるのだという。別途通信用のルーターが必要なのだが、太っ腹なことに無料で使わせてくれるらしい。一度顧客を獲得するとよっぽど儲かるのかもしれない。

もちろん、食べるのにかつかつで、金銭的な余裕が1円もないという人もいるかもしれない。こういった人たちには適切な援助が必要だろう。しかし、日本のスマホ普及率を見る限り、多数の人たちは「全く余裕がない」というわけでもないのだろう。

知識の分断が招く不毛な議論

少し深刻かもしれないと思うのは知識の分断である。パソコンが安く買えて高速通信環境も手頃な値段で手に入るという知識はコモン・ナレッジだが、こうした知識にアクセスできない層というのが一定数いるのだろう。今回の場合「スティックPC」とか「wimax」などという言葉を知らないと検索できない。

そういえば、最近パソコンのコマーシャルをテレビで見なくなった。テレビで受動的に情報を取っている層はこうした情報を知ることはないだろう。「パソコン習熟が日本の競争力を左右する」と信じるなら学校教育などで教えるのも良いだろう。一方、「知識人」と呼ばれる人たちも「パソコンは最先端技術で高いはずだ」と思い込んでいるのかもしれない。つまり、知っているからこそ知らないのだ。

こうした知識的な分断があるせいで、議論が不毛なものになりやすいのだとしたら、それは単に不幸なことだ。

パソコンとモバイル機器は融合しつつある

さて、パソコン操作ができないと貧困になるという議論にはいくつか考えるべき点がある。

確かにスマホには欠点がある。画面が小さく、文字入力がしにくい。出先で読む人が多い事も考え合わせると、多分長い文章を読むのは苦手だろう。さらに、文章入力の手間を省く為に予測変換機能がついているので、あまり考えなくても自動的に作文できるようになっている。コミュニケーションが単純化しやすく、思考が高まらない。LINEやメールが随時入ってくるので、気が散りやすくなる。このため集中力が削がれやすいという研究の結果もでている。こうした特性から議論が感情的になりやすいのだ。人間の思考力はマルチタスクには向いていないようである。

では、やはりパソコンの方が優れているのだろうか。そもそもこの問いは意味をなくしつつある。パソコンのオペレーティングシステムとスマートフォンのオペレーティングシステムは融合しつつある。どちらかというとパソコン側がスマホに合わせているというのが実情かもしれない。ノートパソコンとキーボード付きのタブレットにはほとんど違いがない。パソコンを知っている人かお店の人に聞いてみると良い。違いが分からないという人も多いだろう。画面を分割してタブレットとして使えるノートパソコンもある。マイクロソフトのタブレットSurfaceにはOfficeが付いていて、キーボードを取り付けることができる。40,000円程度から手に入るようである。

日本の競争力とパソコン

最後の問題は少し難解だ。アメリカのIT産業の競争力が高いのは、IT分野でデファクトスタンダードを握っているからだ。その担い手は中国やインドから来た移民なのである。一方、日本人は中国から来た移民を「一時的な格安労働力」として扱ってきた。このために、優秀な人は集らず、少し働いただけで雇い主の基から逃亡するというケースが相次いでいる。日本の競争力を気にする「愛国的」な人たちは、移民の導入には否定的だろうし、それが中国人だということになれば猛烈に反対するだろう。国の競争力を高めるためには優秀な移民を招き入れた方がよいことは自明だが、この議論が日本で受け入れられないのも、また確かなことなのだ。

一方、パソコンが操作できるとしても、期待されている仕事は事務労働のパート程度のものなのかもしれない。特に、サービス分野の労働生産性は低く、パート労働者の労働時間も限られている。パソコンを知らなくてもできる最低賃金の仕事と、パソコンができてできる最低賃金の仕事にどういう違いがあるのだろうか。コンビニ業界のように非正労働者に依存する業界はパソコンに期待してない。スマホと同じように操作できるタブレットで仕事ができるようになっている。賃金が低く抑えられ、出世の見込みのない非正規の労働者がパソコンのオペレーションをしているというケースも珍しくない。コンピュータを使える人の能力が労働生産性に結びついていないのである。

つまり「パソコンができるかどうか」ということと、国に競争力があるかということの間には実はあまり関係がないのだと言える。貧困に結びつく要素があるとしたら、それはその家庭が持っている人的なネットワークの違いだろう。コンピュータやネットワークに関する智識を得られないというのは、そうした機器を使っている知り合いがいないということを意味しているに過ぎない。それを「若者のXXばなれ」という要素で括ってしまうと、議論が錯綜するばかりで本当に解決すべき問題が却って見えにくくなるのではないかと思う。

ハロウィーンと本当の私

これが「本当の私」なのではないか。テレビで渋谷のハロウィーンの様子を見てそう思った。あのハロウィーンがインターネットの影響なのはまず間違いなさそうだ。2chの時代から日本のネットは「匿名文化」だと揶揄されつづけてきた。LINEでもハンドルネームでないと「本音が言えない」人は多いはずだ。つまり、日本人は匿名にならないと本当のことが言えず、考えられない国民なのだ。だから扮装しないと自分を解放できないという人が増殖しても不思議ではない。

「扮装すれば自分が解放できる」のだとすれば、それこそが「本当の私」なのではないか。つまり、普段の「実名」が扮装なのではないかとも考える事もできる。「実名」は、親が与えた名前に過ぎない。自分が選び取ったものではないのだ。

もちろん、祭りの自分だけが本当の自分だということは言えそうもない。昔から日本には「ハレ」と「ケ」という区分があるとされている。ハロウィーンは「ハレ」にあたり、はめを外してもよい日なのだと考えられる。どちらか一つを選んで「本来の日本人の姿である」とは言えない。この2つを合わせた姿こそが「本来の日本人の姿である」と考える方がよいのかもしれない。

これは今の自分があるべき姿なのかと悩むすべての人の福音になるだろう。つまり「本当の私」という単独の人格は存在しない。自分というのは複数の人格が鍵束になったものに過ぎないのだ。むしろ「本当の私」というものを仮定した瞬間に、可能性として存在するかもしれなかった別の自分が消えてしまう。つまり「本当の自分」とは現在の自分、扮装して解き放たれた自分の他に「あるかもしれない自分」というものが含まれた不確定な存在なのだということが言える。人格は雲のようなもので、観察しようとするとたちまち消え失せてしまうのである。

現代の都市に住んでいる日本人は祝祭空間を持たないのではないかということは言えるのかもしれない。祭りの場には「役」のある年長者がいるが、渋谷のハロウィーンにはいなかった。この為に警察官が交通規制をし、街にはゴミがあふれた。その意味では渋谷のハロウィーンは不完全な祭りだと言える。反戦デモが高齢化したのと同じように、渋谷のハロウィーンデモも30年後には高齢化しているのかもしれない。白髪の中高年が扮装して街を練り歩くようになるのだ。

「ありたい姿」が「今の私」と重ならないことの問題点は何なのだろうか。理想を現実にする社会的変革ができないということである。渋谷の扮装者の多くが「地元から扮装で出かけるのは恥ずかしい」と考えていたようだ。つまり、彼らは人格を解放し可能性を広げる事は「恥ずかしい」と感じているのである。多くの仲間に埋没しないと「解放」が叶わないのである。

例えば、ファッションは「本当の自分」を解放するものだった。だから、先鋭的なデザイナーは誰も着ないような奇抜な格好をしていた。しかし、ファストファッションが台頭するとデザイナーは市場を模倣する存在になった。こうして市場はファッションによって「本当の自分を解放する」機会を失った。代わりに台頭したのが、匿名やハンドルネームで仲間とつるむインターネット空間だ。日本人はもはや、人格を解放するのにアパレル産業に頼らなくなったのである。

一方、社会変革者は、頭の中にある「あるべき姿」を実践している、渋谷流に言えば「恥ずかしい」人たちである。つまり、真の社会変革者の才能とは「群衆の助けを借りず、孤独に耐えて、扮装しつづける」勇気なのかもしれない。

もっとも、すべての人がファッションデザイナーや社会変革者である必要はない。年に一度ドンキホーテで衣装を買えば自分を解放できるのである。

「花燃ゆ」とNHKの教育観がよく分からない

「花燃ゆ」はいよいよ明治時代の群馬県に舞台を移した。群馬県県令の楫取素彦とその義妹美和が群馬の子女教育に奔走するというようなストーリーだった。見ているぶんには良かったのだが、ちょっと考えてみると「なんだか分からない話だなあ」と思った。さらによく考えてみると「ひどい話だなあ」と感じられた。

物語の前半は、国を変える為に長州(山口県)の有志が勉学に励むというストーリーだった。「変革の為に勉強する」というのは日本人が好みそうな話だ。「自分も何か変革できる」というような気分に浸れるからかもしれない。中盤では変革の意思に燃えた仲間が革命の犠牲になって死んで行く。

現在のストーリーはその流れを引き継いでいる。変革意識に富み時代の趨勢を見据えていた山口県民が無知蒙昧で目先の利益しか考えない群馬県民(江守徹が代表者として描かれる)を教化するという話になっている。群馬県で炎上騒ぎが起きないのはなぜなのだろうかと思うのだが、NHKは安倍晋三におもねろうと必死で、そこまで気が回らないらしい。

訳が分からなくなるのは、美和と女工たちの件だ。「女性に教養が必要なのはなぜ」なのだろうか。

女工の一人が文字が読めないせいで借金取りに騙されそうになる。そこに美和が登場して教育の大切さを説く。ここまではなんとなく分かる。しかし、その動機付けが奇妙だ。「自分の好きなように生きて行ける」世の中が作りたいのだという。今風に言い換えれば「私らしく生きる」ということだろう。

第一にこれは差別的だ。男性は「国家を変革するため」に教養を磨く。一方女性は「私らしく生きる」という名目で私的なセクターに縛られるのである。この違いはほとんど無意識に描かれるため、実はとても害のあるメッセージを広めている。

さらにこの「私らしく生きる」という考え方は、最近多くの女性を苦しめている。実際には多くの女性が「産むか働くか」という二者択一を迫られている。女性の「私らしく生きる」というのは、選択肢が複数あるということを意味するのではない。「どちらかを諦めて、それを自己責任として認める」ということを意味するのだ。しかも、その選択にはリファレンスやガイドになるものはない。加えて言うならば、男性もこうした「選択に対する自己責任」を押しつけられている。これが平成時代の特徴だ。にも関わらず、NHKにはこうした配慮は見られない。

皮肉なことに、搾取から逃れるために文字を覚え始めた女工たちは後に「搾取される存在」になる。「女工哀史」や「あゝ野麦峠」で知られる有名なストーリーにつながる。もっとも「あゝ野麦峠」は長野県の話なので「群馬県にはそんな悲惨なことはなかった」という主張なのかもしれない。日本の近代化は女性たちの犠牲の上に成り立っているのだが、そうした不都合な点は全くスルーされている。「花燃ゆ」だけを見ると、日本の女性労働者たちは明治政府(と開明的な山口県民)のおかげで教育が受けられるようになり「私らしく」生きる事ができるようになったのだなあという印象が残ってしまう。

物語が作られた時代の背景を映し出すというのは、ある程度仕方のないことだ。「あゝ野麦峠」は当時(1968年)の労働者たちの状況と心情を代弁していたのかもしれない。しかし、NHKの映し出す「女性が自立して私らしく生きる」というのは「機会均等法」時代の思想だ。バブル前の話である。もしかしたら、NHKの人たちは昭和を生きているのかもしれない。

楫取素彦は寡黙で周囲を説得する事なく学校教育普及のために奔走する。何も言わないので、これがどういった動機に基づくものなのかも、実はよく分からない。吉田松陰や高杉晋作を遺志を受け継いでいるのかもなあと想像できる程度だ。松下村塾の遺志とは何だったのだろう。

楫取素彦や当時の日本政府が日本の教育をどのように考えていたのかというのは、現在重要なテーマのはずである。当時の武士階層が持っていた教養主義を国民に広めようとしたのか、それとも単に国家競争力を増す為に実学教育を被支配層に押しつけたのかという点だ。

なぜ、これが重要なのだろうか。今の日本の教育界は大変なことになっている。

文科省は「国立大学から文系学部をなくせ」という通達を出して、一部で炎上騒ぎを起した。裏には「日本の競争力強化のためには文系学部や教養は必要ない」という思想が透けて見える。さらに、財務省は子供が減るのだから先生の数を減らすと言っている。「国立大学の学費を2倍にする」という話も出ている。既に大学生の半数は奨学金という名前の学生ローンを借りなければ大学に行けなくなっているにも関わらず、政府は学生に対する支援を減らそうとしているのだ。背景にはこの国の運営をしている人たちの「貧乏人は難しい事を考えず、黙って下働きをしろ」というようなメッセージと「国家競争力の強化につながることだけだけやってればいいのだ」という主張があるように思える。

物語の前半の吉田松陰と松下村塾の件で、吉田松陰は「西洋列強に肩を並べるためには、実学だけを勉強すべきだ」というようなことは言わなかったはずである。教育の層が厚くなればそれだけ社会の豊かさが増すという思想があったのではないかと思われる。多分、日本にも(少なくとも当時の武士階層には)教養主義のようなものがあったのではないか。

もっとも、現在の日本に「高等教育や教養が必要なのか」というのは議論の別れるところだろう。大学全入時代と言われる時代だが、30%程度は非正規労働者だ。日本社会は成長と前進を前提としていないので、読み書きパソコンくらいができれば十分に仕事ができるし「下手に教養を身につけたせいで、諦める辛さを実感するだけでなく借金すら背負うことになる」かもしれない社会なのだ。

そこに「一億総活躍」という終戦間際の「国家総動員」のような思想がでてきたせいで、ますます話がややこしくなった。余り何も考えずに作ったのだろうなと思えるスローガンだ。大学や大学院を出た人たちを持て余し「イノベーションがでてこない」と嘆きつつ、パートやアルバイトに貼り付けるという社会が、国民を総動員して一体どこに向かおうとしているのだろうか。

NHKの人たちがこのドラマを作った動機はよく分かる。「開明的な山口県」を持ち上げることで時の権力者におもねりつつ、「女でも分かる分かりやすい物語を伝えよう」としているのだろう。この作戦は失敗しているようにしか思えない。現在の状況をあまり真剣には考えてなさそうだということはよく伝わってくる。

こうした自動化された思想がいくつも積み重なり「女も教養さえ身につければ自分らしく生きられるはず」というメッセージだけが亡霊のように立ち上がり、視聴者を苦しませているように思える。