アメリカ人が作った日本人を題材にした映画を見た。ここにでてくる日系の人たちのお辞儀が変だと思った。彼らはいつも相手の目を見ている。目を見ていないと不安なのだろう。そこで改めて思ったのだが、日本人はお辞儀をするときに相手の顔を見ない。
アメリカ人(それが例え日系人であっても)は、相手を対象物として捉えている。考えてみると当たり前のことだ。そこには「私」と「あなた」の関係がある。裏返せば、日本人は会話をしているとき相手を意識していないということになる。そこには「我々」という拡張された私がいるのみだ。主語を特定しなくても話が進むのは「我々」が主題を共有しているからだろう。
日本人は拡張された私(我々)としか会話をしていないということは、つねに価値観が共有されているということを意味する。故に日本人の会話には「いいえ」とか「私はそうは思わない」はあり得ない。「我々」が複数になり、ちょっと人と違ったことを言うと吊るし上げられることがある。こうした「私」を共有することを「空気」と呼ぶのだと思う。日本人は「私達」に埋没することに居心地の良さを感じるのだ。
故に、人を「あなた化」することは懲罰になり得る。最近こんなことが起きた。難民を差別するひどいイラストを描いた、はすみとしこ氏という無名のイラストレーターを応援する人たちの個人情報が晒されたのだ。晒した人がセキュリティ会社の社員だったことで騒ぎが広がった。
これはとても不思議だ。晒された「個人情報」はFacebookあたりから流れた公開情報らしいのだ。どうして公開情報をリスト化すると「個人を暴いた」ことになるのだろうか。
一つ考えられるのは「職場の情報」と「個人の意見」が結びつくことによって「その人個人の意見」が「職場の意見」だと混同されることがあり得る。つまり、そこには「私」というものはあり得ず「xx会社の社員」とか「教員」という「我々」として扱われるという事情があるのだろう。しかし、そのことを差し置いても「個人情報が晒された」ということが懲罰になり得るのは、その人が「個人として認知される」のが罰としての意意味合いを持っているからだろう。これを「アイデンティティの確立は懲罰だ」と英語で説明しても、きっと分かってもらえないのではないかと思う。
皮肉なことに「個人を暴いた」ことの懲罰も、暴いた個人の情報を暴き返すというものだった。反安倍 闇のあざらし隊氏の職場が特定され、それがセキュリティ会社だったことで、騒ぎが大きくなった。
さてこの「私のない日本人」という分析を見て「自分には当てはまらない」と思った方も多いのではないかと思う。職業経験が長いと「私」と「お客様」とか「私」と「利害が重ならない相手」などと接する機会が増える。つまり徐々に「私」と「あなた」として話す経験を積むわけである。こうした「私」の意識は地位が高くなるほど高くなるだろう。地位の高い日本人の仕事は主に利害調整だからだ。これが家庭に持ち込まれ、その子女も「私」意識を学習してゆくということになる。社会的地位は世代間で引き継がれるのだ。
逆に職場で個々の仕事に携わっている人は、調整作業をすることは少ないだろう。故に「私」意識を持たないままで職業人生を過ごすことになる。つまり「私意識のなさ」は職場での地位が低いことを意味する。これが家庭に引き継がれると「私意識のなさ」が社会的に地位が低いことのスティグマになってしまうのだ。当人たちは平気かもしれないが、地位の高い(あるいはそうした家庭に生まれた人)たちからは蔑視の対象になってしまうかもしれない。しかし、それを指摘されることはないだろう。本物の差別というのは過酷で、決して表沙汰になることはないのだ。
ネットで差別発言を繰り返している人というのは「回りの人が言っているから自分も安心だ」と考えているのではないかと考えられる。そこでアイデンティティを晒されることで「罰せられた」と感じる。もし、普段から「私」として過ごしていれば、そもそも過激な差別発言は行わなかっただろうと思われる。その人のブランド価値を下げてしまうからだ。(もっとも、職業的に浮かび上がることを目的に「炎上マーケティング」を試みる人もいるだろうが……)
公共空間で人種差別をするということ自体がその人の社会的地位の低さを暴き出してしまうのである。本物の差別というのはもっと過酷だ。表沙汰になることは決してないにも関わらず、人々の間に共有されており、無意識に立ち現れるのだ。