よく、人間は社会的動物だと言われることがある。そして日本人は集団主義でアメリカ人は個人主義者だというような言い方もする。しかし、実際のところそれがどういうことなのかよく分からない。実際のところ、日本人もアメリカ人も集団から影響を受けている。そして脳にはこの「社会性」を処理する回路があるのだそうだ。これを社会脳というらしい。
別に小脳や前頭前野というような特定の器官が存在する訳ではない。群れを維持するのに必要な回路をありものの脳神経から改良してきたのだそうだ。大抵の脳の回路は自分自身の体から出るさまざまな変化をフィードバックしている。しかし、ミラーニューロンのような回路は相手の変化を受けて反応する。SQ生きかたの知能指数は、この社会脳にについて書かれている。
ソーシャル・ネットワークを研究する上で「ソーシャル」とは何なのかということを理解することは重要だと思う。それは意識的な活動というよりは、無意識の活動のようだ。なぜかこの人が好きだとか、なんとなく好きになれないと感じることがある。このように感じるのは社会性に関する認知の一部が、意識よりも早い速度で処理されてしまうかららしい。この本はこれを「表」と「裏」と呼んでいる。
信頼と不信の回路も異なったところにある。好きかどうかということを決めるのは表の通路のシゴトなのだが、嫌いかどうかを決めるのは扁桃体のシゴトだ。だから「なんだかわからないが、生理的にダメ」ということが起こりうる。この男性は「車を持っていて、日曜日に楽しいデートをさせてくれるから好き」と考えるのは、表の通路のシゴトだ。しかし、車の中のふとした仕草で「もうこの男性はありえない」と考えることもある。それは昔父親から受けた虐待を扁桃体が恐怖として覚えているからかもしれない。しかし車の中で突然パニックを起こして逃げ出さないのは、扁桃体の信号が前頭前野で抑制されているからである。
ミラーニューロンが作り出す働きを「共感」という。社会化の能力は2つの異なる能力からできている。一つは相手の表情を読み取る能力。もう一つはそれに対応して適切な行動をする力だ。アスペルガーの人たちは、相手の表情やちょっとした皮肉などを読み取る事が苦手だ。一方、昔サイコパスと呼ばれた反社会的行動を起こす人たちは、こんなことをしたら相手が傷つくだろうと想像したり、自分が嫌われてしまうのではないかということを理解したりすることができない。
スポーツ選手を見ると、自分まで活躍している気分になったりする。これは共感が働いているからだ。映画スターを見て、主人公と同じ気分になることもある。このように「正常」な状態では、自分の感情と相手の感情を区別することはできないし、映画スターが演じる人物のように「現実」と「仮想」の意識もできない。しかし、一方で自分はスポーツ選手ではないのだとか、これは映画であって現実の出来事ではないのだと理解することはできる。このように意識と無意識がアクセルとブレーキのような働きをしている。
ヒトから拒絶されるとたいへん傷つく。社会的な拒絶は肉体を傷づけられたのと同じ場所で処理されるのだそうだ。傷つけられるのは嫌なので、こうしたつながりを回避するようになる場合がある。「無視する」ことも「殴る」ことも同じようないじめになるということが分かるだろう。
オンラインメディアに関する捕捉
バーチャルな体験に関する記述にはいくつかのものがある。「現実」と「仮想」の区別ができないという点が一つ。そして、お互いに離れた場所にいる人たちの間では、どうしても「抑制」機能が働かなくなることがあるそうだ。メールのやり取りがエスカレートしたり、掲示板が炎上したりするのは、怒りに任せて書き込みをしても、読み手は書き手が怒っていることに気がつかないからだろう。一方書き手の側も怒ってキーボードを叩いているうちにどんどん怒りがこみ上げて来て(これは社会脳の働きではなく、自分の頭の中のフィードバックだ)さらに怒りのコメントを書き込むことになる。
文字だけでリアルタイムのコミュニケーションができるインターネットは人類にとっては新しい経験だ。手紙の場合にはやり取りに一定の時間がかかるので、その間に冷静になることができる。これで表と裏の時間差が調整できるわけだ。しかし、インターネット上のコミュニケーションではこの時間差を埋める前にやり取りが完了してしまう。ヒトがこのようなメディアにどう対応してゆくのかは分からないが、これに適応するような社会性が必要になるのではないかと思われる。もちろん、インターネットに接するのは、実生活の社会生活を経験した後になるはずなので、実生活での社会性の不安定さはそのままインターネットの世界にも持ち込まれるだろう。
何回か主張しているように、ネットによってコミュニケーション能力に不具合が生じるわけではない。しかし、社会やヒトが持っていた社会性の不安定な要素は、ネットにも持ち込まれて拡大することもあり得るのではないかと思われる。
例えば、対人関係に不安を抱えている子どもが携帯メールを手にする。即座に返事が来ないことを「拒絶」だと感じることはあり得るだろう。「相手が拒絶されている」ことを想像して、メールが来たらすぐに返事を出さないと不安になるということも十分に起こりえる。その子がやがてTwitterに手を出して、いつ自分に通信が入ってくるか分からないから、パソコンの前から離れられないとなると、これは問題だ。社会生活が健全に送ることができなくなってしまうからだ。しかしこの子からTwitterを取り上げることは根本的な対応策にならない。ここで必要なのは、相手から即座に返答がこなくても自分は受け入れらるだろうという自信や、相手になんらかの事情があってすぐには返事を返せないのだろうと理解できる想像力などが必要になる。
また、オンライン上では、全く関係のない他者とその場限りの関係を結ぶ場合が出てくる。お互いに「拒絶」を痛みとして怖れている人たちがここに入り込んで来てしまうと、ノーと言えないまま曖昧な関係が続いてしまうことがあるだろう。これが時として大変危険な状態を生み出す。これを回避するためには、それとなく拒絶する(拒絶しても、言葉を選びつつ円滑な人間関係を維持できるのは、社会脳の働きの一つだ)スキルを身につけることが大変重要だ。