非常に問題が多い地裁判決「グローバルダイニング対東京都」裁判

グローバルダイニングが104円の賠償を争った裁判の地裁判決が出た。法の下の平等が担保されているとは言えず非常に問題が多い判決だなと思ったのだが大した騒ぎにはならなかったようだ。グローバルダイニングは即日控訴し裁判は続くことになる。小池都知事は「私は間違っていない」といい東京都側は「こんな法律は実行できない」と言っている。




報道によると判決は以下のようなものだったようだ。

  • 東京都の時短要請は「特に必要があるわけではない」ので違法。
  • 不合理な手段とは言えないから営業の自由を侵害するわけではない。だから合憲。
  • 知事の過失責任は否定。
  • 賠償請求は棄却。

つまり違法性は認めたものの、騒ぎが大きくなりそうな賠償・知事の責任問題・憲法の問題については慎重に判断を避けている。つまり無難な判決だったことになる。

結果的に違法性は認められたし誰も傷つかないで済むのだからそれでいいではないかと思える。日本が戦後獲得した「相対化」によって善悪の判断を無効化するという智恵の結果とも言えるだろう。責任を取らせない理由として裁判所は「当時これが違法か合法か判断できなかっただろう」と言っている。

つまりある意味では日本型の「丸く収める」「賢い」判決だと考えることができる。だがなぜ違法でなかったのかという理由を聞いて「いやまてよ……」と思った。

判決で、松田裁判長は、都内で2000店余りが協力要請に応じておらず、同店の夜間営業について「感染リスクを認める根拠は見いだし難い」と指摘。さらに、感染者数が急減し、医療提供体制の逼迫(ひっぱく)も緩和されていた中、宣言解除3日前の命令発出に対し「公平性の観点からも合理的な説明はされていない」と述べた。

コロナ時短命令「必要性なく違法」 都の過失は否定、請求棄却―東京地裁、初の司法判断

みんなが従っていなかったのだから実効性はなかったはずというのが判断の理由になっている。では「みんなが従っていれば合法だったのか」ということになる。確かに法解釈としての辻褄は合っているのだろう。つまり司法的には問題はないのかもしれない。だが実行する段階で合法か違法かを誰も判断できない法律というものは果たして法律として機能していると言えるのだろうかという問いには裁判所は答えてくれない。

つまり「みんなが従っているのか?」とか「ではみんなが従っているならわざわざ命令なんか出す必要があるのか?」という疑問が解決されない。

「私たちには関係ありませんよ」という違憲裁判でよくみられる「裁判所特有の例のあの仕草」がどうしても見え隠れしてしまうのだ。

「みんなが従ってくれないから命令までは出せないよね」ということになってしまえば誰も従ってくれなかったということになる。つまり法的に辻褄は合っているかもしれないが、行政にとってみれば使い物にならない法律でしかない。つまりこの法律は条文としては成立するし法的にも整合性は取れるのだが何の役にも立たない。

  • 人に言うことを聞かせようとして使えるように作られたはずの法律なのだが
  • 人がいうことを聞くまで実際には使えない

からである。驚くべきことに法律は何のためにあるのか?ということを考えてくれる機関がこの国にはないのだ。

ただし方が無難な判断を出したおかげで国会に問題意識が波及することはなく、都知事も責任を問われなかったことで「私は正しい判断だったと思っている」と言える。

小池百合子知事の話 命令は医療や経済、法律などの専門家から妥当であるとの意見を得るとともに、国とも情報を共有し発出した。感染防止対策上、必要かつ適正なものであったと認識している。

コロナ時短命令「必要性なく違法」 都の過失は否定、請求棄却―東京地裁、初の司法判断

おかしな判決だなあと思ったのだが案の定読売新聞にはこのような東京都のコメントが載っていた。「今後命令が出しにくくなる」と言っているが「とても怖くて判断できなくなる」が正しいコメントだろう。

都知事は私は正しかったと言い張り国も曖昧な法律しか作ってくれないわけだから間に挟まれた東京都は黙って下を向いて何もしないのが正解ということになるだろう。「知事、訴えられたら責任は取れますか?」ということだ。

ただ、東京都には命令の約1か月後に3回目の緊急事態宣言が出されており、都の幹部は「当時はいつ感染が再拡大してもおかしくない時期だった」と命令の正当性を強調。別の幹部は「全ての店舗の感染対策を確認して命令を出すのは物理的に不可能だ」と述べ、「今後、命令を出しにくくなる恐れがある」と懸念した。都はこれまでに時短命令を計192件出している。

「時短命令は違憲」と都に104円賠償請求、東京地裁は「違法だが過失なかった」と棄却

特養との担当者が指摘するように「果たして当時の状況でそれが許されていたのか」ということを考えてみたいと思うのだが「新型コロナはもう終わった」ことになっている。だから、誰も当時の総括をしようとは言い出さない。総括すれば失敗を認めたことになり野党に激しく批判されることは目に見えているからである。

これをQuoraに書いたところ「見せしめ的にグローバルダイニングを標的にしたので司法がそれはやりすぎではと判断したのではないか」というコメントがついた。司法が法的整合性のみを一貫させようとするため結果的に誰も責任を取らず誰も総括しない。すると判断を巡りいくらでも好きなように主観的な感想を持つことができてしまうのである。確かに東京都側に見せしめの意図はあったのかもしれない。だが実際には抵抗したのがグローバルダイニングだけだった可能性もある。ある程度の余裕と資力がなければ104円裁判など起こせないだろうからだ。

おそらくこの曖昧さの犠牲になるのは行動制限を強いられた一般の人たち(特に働く子持ちの女性など「比較的弱い立場にいる」とされる人たち)と中小の飲食業だろう。グローバルダイニングは経済的な余裕もあり弁護士の知り合いもいるのだろうが、中小の飲食店は必ずしもそうではない。結局小さな飲食店は泣き寝入りすることになり、大きな飲食店は「裁判しますよ」と宣言することによって処分を免れることになるだろう。

これではとても法の下に平等とは言えないのではないかと思う。

この曖昧さは実は憲法改正にも大きく関わってくる。こうして曖昧な法律が増えれば増えるほど「法律に基づかない判断」をしたいと考えるようになる権力者が増えるのだ。そうして考えられたのが超法規的な「緊急事態宣言」である。議会を止め内閣の判断で好きなように命令が出せるという制度である。

つまり相対的価値観を許容して「まあこんなもんだよな」などと言い続けていると、いつの間にかもっと怖いものが上から降ってくる可能性があるということになる。やや複雑な判決だが憲法改正に反対している人はよくこの問題を整理して問題意識を共有した方がいい。

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