集団が崩壊しつつある学校

「Twitterで渦巻いている不満が解消すれば1/10でも解消すれば日本は良くなるのでは」ということを書き始めたのだが、生産性の問題よりも組織の問題に目が行ってしまった。そんな目でTwitterを眺めていると学校と個人の関係が崩壊しているというケースが目に入った。

東洋経済の記事によるとPTAに参加したくないと言う親が増えているらしい。PTAにはいると労働を搾取されるからなのだろう。足抜けしたいのだが子供が人質になっているのでそれも難しい。そこで「じゃあみんなで抜けよう」ということになる。そのために使われるのが「権利としてのプライバシー」という大義である。

一方で親も搾取する側に回ることがある。土日のクラブ活動で先生が休めずに疲弊していると言う話がある。親は土日のクラブの継続をしてほしいと考えているらしい。なぜなら学校の活動は(親から見れば)た無料からである。つまり「利用はされたくないが利用はしたい」というのが日本人なのだ。

学校は「利用したり利用される」という取引に基づいた集団になっていることが分かる。できるだけ自分の持ち出しは減らしてあいてにかぶせたいというのが取引の基本である。

ここは家族的な集団が持っているはずの自浄作用がない。その自浄作用の正体は構造の上と下にある情報の流通なので「意見が言えるか」どうかで解析可能だ。例えば、家族的企業の場合「カイゼン活動」が下から上への情報伝達手段だったのだが、終身雇用制がなくなることで、こうした通路がなくなりつつある。同じことが企業や政府だけではなく、学校でも起こっているのだろう。

PTAには無駄な活動がたくさんある。新しい手段を使ってこうした無駄を省いてゆく(企業だと生産性向上運動)ことが可能なはずで、そうした知恵を持っているのは新しい世代の保護者であるべきだ。つまり、下から上への情報伝達手段が失われていることが問題なのだが、家族的な環境がないと「下からものを言いづらい」のだろう。

さらに厄介なことにこの「家族的」というラベルも「自民党改憲草案によると国家支配に使われる」という悪い印象が付いている。本来は自分らしくいられるところが家族なのだから、PTAを突き詰めてゆくと、保護者が自分たちも楽しめる取り組みを見つけてそれに子供も参加すると言うようなものが理想の形態と言うことになるのだろう。だが「他人の私らしくありたいという欲求を認める」というのは日本人が一番嫌いなことなので、こうしたことは起こりそうもない。

こうなってしまうと「あとは個人で何とかする」しかないといういうことになる。それは使いつぶされるか逃げるかと言う二択になる。すると最終的な答えは「殺される前に逃げろ」ということになってしまう。どうしてこんなことになっているのか、さっぱり分からないが、考えるとどうしても「とにかく逃げろ」という結論になる。

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