西部邁さんの自殺を幇助したとして二人の知り合いが逮捕された。最初の感想は不謹慎だが「これが本当の確信犯だな」というものだった。これについて島田裕巳さんがこのようにツイートしている。人によってフレームワークはそれぞれだなと思ったが安楽死の問題だとは思えなかったし、そもそも議論の対象にしてはいけないのではないかと思った。
西部邁氏の自死を助けたとして、逮捕者が出た。これは、いわゆる「安楽死」の問題として考えなければならないことになってきた。本人の意思を尊重すれば、自殺ほう助の罪を犯すしかない。それが現状。果たしてそれでいいのか。
— 島田裕巳 (@hiromishimada) 2018年4月6日
いろいろ考えていて、この問題は戦後の保守思想の限界をよく示していると思った。がさらによく考え他結果、保守思想ではなく日本の戦後思想の限界があるのではないかと感じるようになった。事前に安倍首相が国際情勢に乗り遅れてゆく姿を観察したからだと思う。
安倍首相が国際情勢に乗り遅れた理由は、彼と彼の取り巻きが「国際情勢をよく理解している」と思い込んでいるからだった。価値観を含んだ言い方をすると「知っていると思い上がっている」ということになる。ところが「自分たちだけが真実を知っている」と思っているのは保守だけではない。護憲派が盛り上がらない理由として共産党の人が「自分が戦争の悲惨さを一番よく知っていて、それ以外のすべての取り組みはすべて不完全である」と考えていることを観察した。
どうやらこの全能感は広く共有されているようである。ではそれはどこから来るのだろうか。
一足飛びに話を始めてしまったために西部さんの問題に戻る。西部さんは自分の人生の価値は自分がよく知っており役に立たなくなったら自分で終わらせて良いと考えていたようだ。つまり、自分の人生を「アンダーコントロール」な状態にしたかったということになる。そして、彼の信奉者たちはその思想に乗ったのだ。
このニュースについて聞いた時に最初に思ったのは、誰かの自殺を認めてしまうと別の人たちの自殺を考え直してもらうことができなくなると考えたからだ。学生たちは極めて閉鎖的な空間で「学校だけが人生だ」と思い込むようになる。周りの人たちも学校生活から脱落したらこの先社会から受け入れられず、人生は終わりだと考えることで、さらに追い詰められて行く。だが、この考え方は必ずしも正しいとは言えない。
島田さんがいう安楽死の問題は苦しい病気を逃れられない上に治癒の見込もない場合には死期を早める選択肢がありうるという話であって、西部さんには当てはまらない。加えて西部さんが学生と同じような心理状態に陥っていた可能性すらある。多分西部さんは「自分はよく考えた」というだろうし「衰えてゆく恐怖はお前にはわからないだろう」というののだろうが、それは多分学生たちも同じようなことをいうだろう。
そもそも、人間は自分の人生の意味を自分で理解できるのだろうかという疑問がある。キリスト教ではこの考え方を明確に否定している。人生の価値を知るのは神だけであり人間はそれを知ることができない。だから自殺はキリスト教圏では犯罪なのである。だが、わからないから考えないということにはならない。わからないからこそ追求しようという姿勢が生まれるのだし、人知を超えたものだから他人の命も大切にしようということになる。
日本はキリスト教圏ではないのだから、こうした考え方を当てはめることはできないように思える。日本の場合には村の外に人知を超えたものをおくことで「畏れ」を通して人間に謙虚さを教えていた。
最近、欠損村落について考えている。日本人は書かれた契約を大切にしないので社会が作れないのだが、それでも村落コミュニティを持続させるための知恵を置いていてそれを「伝統」という名前で括ってきた。
だが、日本人が村落を捨てた時にこの人知を超えたものを捨ててしまったのかもしれないと思った。人間はすべてをコントロールできるのだから、自分の命を自分で処分してもよいと考えるようになったのである。これは何も保守だけの心情ではない。
ではこのアンダーコントロールは何を生み出すのだろうか。
例えば、安倍首相は世界に向けて福島原発の問題はすべてアンダーコントロールだと宣言した。多分、その当時安倍首相は本気だったのではないかと思う。しかし、実際には原発の問題をコントロールすることはできない。廃炉の見込みが立たないばかりではなく、放射性物質が海に撒き散らされる事態も収束できないようだ。しかし、安倍首相はアンダーコントロールだと宣言してしまったので、戻れない人たちを「自己責任だ」といって切り捨てたり、放出される放射性物質をなかったことにしようとしている。
自分はすべてがコントロールできるはずだという傲慢さは現実の否認につながり、さらに他人の人生を否定することになる。保守の場合「日本の伝統についての解釈はすべて自分が知っているのだから、それに当てはまらない人は生きている価値がない」という展開になる。
「自分の人生は自分で処分できる」と考えているうちは自己責任だから良いではないかと思えるのだが、実際には他人の人生を巻き込んで暴走してしまう可能性があり、実際にそういうことが起きているのである。安倍首相は「国際情勢は自分がよく知っており、実際に自分が言った通りになった」と思い込むことで国力を衰退させてしまう可能性が高い。しかし彼らはそれを反省せずに「脱落した人は自己責任だから自分で自分の命を処分すべきだ」と言い出すことになるだろう。
もし、西部さんが保守であったとしたら日本人が持っていた畏れのようなものを織り込んでいたはずなのだが、その根をみると多分出発点は日本の伝統ではなかったのではないだろうか。
こうした倒錯がどうして起こるのかを考えてみた。科学というのは神の領域に近づこうとする人間の試みである。しかし、その成果だけを見るとすべてのことが「ぱっきりと」説明できているように思えてしまう。追求や探索の過程がすべて終わっているからである。
日本人は戦後西洋から「科学的思考」を取り入れた際に、科学を正解の束だと誤解した可能性がある。一方で村落が持っていた鎮守の森の得体の知れなさなども捨ててしまい「自分たちが知っている理論だけがすべてをコントロールできるのだ」と思い込んでしまったのかもしれない。
平たく言ってしまうと「日本人はもっと謙虚になるべきだ」ということになるのだが、かつてはそうした謙虚さをきちんと持っていたのではないかと思う。本来ならばそれこそが保守が追求すべきことなのではないかと思う。