西日本新聞の倒錯した感覚

悲しい記事を読んだ。子園の応援を優先させて、吹奏楽コンテストの上位大会への出場ができなくなってしまったという話だ。美談と捉える人たちもいるのだが、それはおかしいのではないかと考える人もいて、ちょっとした議論になった。バズフィードの追加取材では校長の恫喝もあったらしい。

だが、西日本新聞は明らかに美談として捉えている。同調圧力をかけるのにマスコミが加担したのだ。

 「県予選で全力を出し切り吹っ切れた」。部員の田畑史也さん(16)は16日、スタンドでドラムを打ち鳴らした。樋口さんは「最高に気持ちが良い。僕たちも全力で戦います」。頂点を目指すナインとともに「熱い夏」を過ごすつもりだ。

三年生は涙ながらにコンクールを諦めたようだし、先生たちも参加させたかったようだ。「諦めさせられた」という側面があるのではないかと考えられる。そう言わざるを得なかったのだろうし、諦めてしまったという気持ちを正当化するためにはそう言わざるを得ない。日本人の同調圧力の恐ろしさをまざまざと見せつけられるし、「言わせている新聞」の無言の圧力には暴力性さえも感じられる。三年生にとっては一生に一度の夏だったのだ。

高校野球は、暑い中に生徒を走らせるいわば虐待のようなものである。日本人は他人が苦しむのを見るのが大好きだ。甲子園では丸坊主の学生が苦しむのを見て倒錯的な喜びを得るし、正月に学生を峠道で走らせるのを見るのも好きである。

オリンピックにもいえるのだが、日本人は「4年間みんなに感動を与えるために歯を食いしばり、人生を犠牲にしてがんばった」という図式が好きなのかもしれない。他人が犠牲になっているのを見るとどこかほっとするのだろう。ローマ人が奴隷を戦わせて熱狂するというのと似た心情がある。

それでも野球選手はマゾヒスティックな倒錯に浸って好きにやれば良いと思うのだが、それに他人を巻き込むのは受け入れがたい。「吹奏楽は高校野球の花」などと言っている記事もあるが、高校野球に来る人たちが、音楽を尊重しているとはとても思えない。球場の音響環境は劣悪で、木管楽器は響かない。聞こえるのはせいぜいトランペット・チューバ・大太鼓くらいだ。それも絶叫調の音楽でなければならない。甲子園でおなじみの曲はコンクールの曲だったりするのだが、一本調子に改変されている。太陽に晒される劣悪な環境は楽器にもダメージを与える。ひどい場合には水が飛んできたり雨が降ったりする。楽器は湿気には弱いのだが、お構いなしである。

夏になると悲しい気分になる。例えて言えば、コンサートに出場する歌手を真夏の平原に立たせてマイクなしで一日中叫ばせているのと同じことが行われている。それをお客が「音楽」として聞いているとは言えない。あれは本来なら音楽になり得たものを騒音としてまき散らしているのである。

例として有名なアフリカンシンフォニーを置いておく。最初が音楽としてのアフリカンシンフォニーだ。

次がブツ切れになったアフリカンシンフォニーである。有名な曲なので一度は聞いたことがあるのではないだろうか。

ノイズでいいのだから、巨大なスピーカーで音楽を流しておけばいいのだ。一本調子の曲が数曲あればいいのだから、楽隊などを置く必要は全くない。

にも関わらず、吹奏楽部員は「コンクールを優先させたい」とは言えない。日本人は野球に異常な関心がある。サッカーですら応援がつかないことがあるが、野球だけは全校挙げてやらなければならないと思い込んでいる。そこで同調圧力が働くのだろうと思われる。本当は自分たちの活動を優先させたいと思っているのに、涙ながらに違うことを言わされることになる。自発的に参加するという形を取らされ、魂を殺されるのだ。

差別される側とする側の落差を考える場合「普門館(今あるのかはわからないが)」のために甲子園をあきらめるかというのに置き換えるとわかりやすい。そんなことはありえないだろう。

同調圧力のおぞましさみたいなものはあるのだが、賞を取らなければならないのかというのもある。今回問題になったのは南九州大会に出場が決まっていたからだ。もし、優秀な成績を取らなければ「当然野球だろう」ということになったのだろう。「金メダルを取らなければ意味がない」というのと同じような、へんな成果主義を感じる。

この件がネットで反発されたのは「同調圧力で嫌々ながらやりたいことを諦めさせられた」という人が多いからではないかと考えられる。予め不合理な形で序列が作られており、それに従わないと責めを負うという窮屈な社会である。

西日本新聞はそれを読み解けず「汗と涙と感動のためにやりたいことを諦めたからあれは美談だ」と持ち上げた。安っぽい感動を得るために生徒の気持ちを踏みにじり商品として利用した。同調圧力どころか先生が圧力をかけていたことも取材しなかった。マスコミとして恥ずべき行為だ。

このような人たちがいるから、日本がどんどんダメになって行くのである。自由意志を同調圧力で曲げるというのは、極論すれば「特攻隊はお国のために進んで死んでいったのだのは、あれは美談だ」というのを同じ構造の話なのだ。第二の戦前はもう始まっているのかもしれない。

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