英語外部試験について大騒ぎでいろいろ聞いて回った。長年安倍政権にうんざりしていて「政権の終わり」がどうなるのかなと思っていたせいだと思う。調べているうちにとんでもないことに気がついた。日本には「あるべき英語試験」の姿がそもそもない。にもかかわらず制度改革が進んでいる。ここで話し合いを進めても英語試験の議論はますます錯綜するだろう。議論そのものをストップする必要がある。
最初は安倍政権が教育改革と称して英語試験に手を出し、失敗を文部科学省のせいにしたというような構図を考えていた。それだけでも良かったのだが、いろいろ話を聞いているうちに「あ、そんな単純な話でもないんだな」と思った。このまま英語試験の議論を展開したらさらにめちゃくちゃなことになるのではないかと思う。
英語のテストは本来単純なものだ。使える人と使えない人を分ければいいのだ。点数にはあまり意味がない。アメリカの学校に入るためには英語が理解できなければならない。専門学校だと授業が理解できないといけないし、大学院レベルだと論文まで書けないと卒業ができない。TOEFLはその実力を計測するために設計されている。
就職にTOEFLは使わない。志望動機を聞かれる面接がありの実力がわかるからである。就職でも「これくらいの仕事にはこの程度の英語力」というのは明確に決まっている。そもそも試験官は英語が理解できるのだから試験のスコアに頼る必要がない。
これが当たり前だと思っていたので英語の試験でここまで迷走することの意味を全く考えていなかった。
ところが面白いもので、他人に質問をしてみてこれに気がついた。どうやら最近の入試は「共通テスト組」の他に「AO入試組」などがいるようである。つまり複数の経路からバラバラの実力を持った人が入ってくる。そして大学では英語が必須科目になっていて授業を受けないと卒業できない。回答者はここで「低い方に合わせている」と不満を持っていた。
つまり、最初から英語の能力にばらつきがあり、さらに授業では英語は使わないので授業に必要な水準もなく、将来進路もバラバラなのでどの程度の英語力を持っている人を卒業させるべきかという基準もない。にもかかわらず「それらをすべて測る尺度を作れ」と言っているわけだ。水準がわからないふわふわした状態で入試をどう設定するのかという議論ができるはずはない。
お菓子を作る学校であればメレンゲを立ててケーキを焼けなければ卒業できない。だが英語にはそれがないのである。
何回かやりとりするうちに、この人が英語ができる人なんだということがわかってきた。帰国子女らしい。こうした人が実用的でない学校英語に不満を持ったり、英語学習にモチベーションを持たない人を苦々しく思う気持ちはよくわかる。と同時に英語ができる人は攻撃されやすい。発音はきれいなのに日本の重箱の隅をつつくような文法問題ができなかったりするからだ。つまり英語が実用的に使える人が日本社会に復帰すると英語ができるということを隠すようになる場合があるのである。この人も表面的には自分はできるとは言わなかった。
本来単純だったはずの英語能力の計測なのだが、実は「日本で独自に発展した使えないけど学問として成立している英語」というものがある。これが英語試験の問題をさらに複雑にする。
これは憲法議論でもあることだ。日本の憲法には明らかな問題がある。だが日本の憲法専門家はなんとなく独自の理論化をしていて「憲法第9条で自衛隊は合憲(だから今のままでも大丈夫)」というような話をしたがる。そのために憲法第13条を持ち出したりするという解釈には無理がある。憲法ができたときに自衛隊はなかったからである。これが、ガラパコス専門家の議論だ。
同じように英語は話せなくても大丈夫というような漢籍学者(中国語は話せない)風の人が英語教育を牛耳っている可能性があるのかもしれない。つまり日本の議論は英文解析系の人たちが実用英語を駆逐してしまう可能性があるのだ。
- 中国語:英会話
- 漢籍:英文解析
ここまでを整理すると実用英語がどんなものかわからない人たちが英語テストについてあれこれ議論しお互いを計測しあっており、英語が話せる人たちが口をつぐんでいるという悪夢のような世界があることがわかる。
例えば漢籍学者は中国語が話せない。だが「実用中国語の使い手」に対して「そんなものはちゃんとした中国語ではない」などと言い出す可能性もある。普通の人が欲しているのは実用中国語の方だろうがそれがバレてしまうと漢籍学者は地位と面目を失う。憲法議論にも英語議論にも同じような可能性があるのだろう。そしてそこに利権をめがけてやってくる政治家が加わり議論を混乱させるのだ。
かつては文献を読んでいれば良かったのだが、最近では外国に出かけて行って勉強できる機会が増えた。日本の英語学習はそのあたりについて行けていないのだろう。海外からの帰国組が増えるとさらに議論が錯綜する。「こんな試験はおかしいのでは?」と気がつく人が増えるからである。
漢籍学者は中国語を話せないと定義すると、結局できない人たち同士で議論が延々と続いていることになる。高校生は将来使うための英語と受験勉強のための使えない英語を勉強する負担を強いられるばかりか、余計な経済的負担、制度がころころ変わる不安などを抱えることになるだろう。
同じようなことは多分社会保障や雇用などについても行われているのだろうなと思う。何が実用に耐えるのかということを無視した議論が専門家とフリーライダーによってめちゃくちゃにされるという光景はいたるところに広がっているのだろう。