今回はよくあるバブル親父の若者バッシングなので気分を害する人は読まないほうがいいと思う。
マクドナルドのアルバイトは平気で嘘をつく
今月からdポイントが使えるようになったのでマクドナルドでポイントカードを使おうとした。ただしポイントが少し足りない。レジの子は「現金かポイントしか使えません」と言う。
もちろん100円のことなので出してもよいのだが「前回はポイントが足りない時だけ現金で補填できるとそこのおばさんに言われたよ」と言ってみた。実際にはポイントが足りない分の補填ができるのだが、バイトの子はそれを知らなかったのだ。
最近の子は「知らない」と言わずに「できない」という。だからこちら側に知識があるときには「それは違うのではないか」と指摘したほうが良い。バブル世代から見るとこれは「嘘」なのだが、この年代の人には悪びれた様子がない。
おじさんはなぜそれを嘘だと思うのか
おじさんがこれを嘘だと思って腹をたてる裏には「企業は全体として顧客に奉仕しているのであって、今対応している人はその代表者だ」という思い込みがある。一方、現在の労働者は「自分は時給で言われたことをやっているだけ」という気分があるのだろう。この差が非常に大きい。しかし、腹を立てたところでこれが現在の労働者(いわゆる若者)に通じるはずはない。
嘘の裏には何があるのか
どうしてこのようなことが起こるのだろうか。これを説明するのは少々難しい。短く言うと「成果だけを求められるのだが組織のサポートがない」状況にあり「自分のやったことが組織の評判に影響する」ことが実感できないからではないかと思う。つまり、かつてはそうではなかったのである。ただこれを言い立てても「俺の若い頃はなあ」的な話になってしまう。
バブルが崩壊して以降、人々は(労働者だけでなく学生も)有能であることを求められるようになった。基本的には選別型の「成果主義」で失敗が許されないからだ。さらに努力しないと脱落するという恐怖心も大きい。これがバブル期以前に育った人との決定的な違いだ。
つまりサポートもないのに有能さを求められるという状況に置かれている。そこで「学習」ができなくなってしまうのだ。つまりスキルがないというのは地頭が悪くて無能ということではなく必要な知識を身につけられないということなのである。知らないことはバカであると思い込んでしまうのだが、実際には学んでゆけば良い。これがわからないということになる。
人を育てている余裕がない
この背景には組織に人を育てる時間はなくなったという事情がありそうだ。バブル期以前に育った人を馬鹿にする風潮もあるのでわからないことを聞こうという気持ちになれない。バブル入社組が馬鹿にされるのは、彼らが大学でほんわかとした生活を送っていてもそこそこの企業に入れたからだ。その直後の就職氷河期には、留学して英語を身につけたのにそれでも採用されなかったというような人がゴロゴロいる。そこでバブル組は努力しないバカと思われるのだろう。
バブル入社組と呼ばれる人は上がつまっていたために人を育てる管理職経験ができなかった。余裕もないし、気持ちもないし、スキルもないという状況は、労働者ばかりが悪いというわけではないのだろう。
スキル信仰とドラマ
こうした状況をよく表しているのがドラマ『ドクターX』だ。組織に縛られずに生きてゆくためには超絶スキルを持っていなければならず、絶対に失敗もしない。そうでない人は組織に使い倒されて、バブル入社組のように上司にペコペコするだけの情けない組織人にならざるをえないという世界観である。だが、大門未知子がどうやって技能を習得したかということは語られない。どうやら組織からスキル教育されたという形跡がないということがわかるのみである。さらに大門未知子の口ぶりはかなり失礼なものだが、これは組織というものが基本的に自己保身だけを目的にした労働者には全く意味がない集団だという含みがある。
この前進になっているドラマは資格をたくさん持った篠原涼子(派遣社員でお時給の範囲でしか仕事をしないが、仕事内容だけは誰にも文句のつけようがないというキャラクターである)だ。彼女も組織を信じず、ある意味破綻した性格に描かれている。
両者に共通するのは、スキルは求められるがどうやって身につけて良いか組織が全く教えてくれないという世界だ。
根深い有能神話
こうしたキャラクターが受けるのは「有能神話」があるからなのだと思うのだが、実際の人はそれほど有能にはなれない。そこであたかも「自分が知っていることがすべてである」と言い張ることで有能さをアピールしてしまうのではないだろうか。
若者は嘘をつくが、こうした「嘘つき」はかなり蔓延している。最近のコールセンターは「私どもでサポートできるのはここまででございます」といって会話を打ち切ろうとする。あくまでも丁寧な口ぶりであり、さらにスキルを攻撃されることをとても嫌がる。自分たちに電話をしてくる客ではなかったと考えることで体面を守ろうとしているのではないかと考えられる。
ただ、この人たちが「親身になって客の話を聞き」「わからないことを聞く」社員(あるいは非正規労働者)になろうとしたら何が起こるだろうか。多分上席から「もっと効率よく接客しろ」と言われるかもしれないし「一度教えたはずなのに聞いていなかったのか」と責められるのではないだろうか。ひどい場合には契約打ち切りも覚悟しなければならないかもしれない。そもそも組織が成長しても労働者には何の得もないわけで、だったら自分のできる範囲で仕事をしたほうがよいというのは自然な成り行きだ。
組織は個人にスキルを与えてくれないし、育てる時間もないのだ。
有能神話が切り捨ててゆくもの
このように「労働者が間違えるのは自己責任だ」という論がまかり通っている。これはバブル世代が人の育て方を知らないし育てるつもりがないということであり、一概に「若者が悪い」とばかりは言い切れない。
一度言われたことができなかったということはよくあることで、何回か間違えながら育ってゆくというのが本来の姿だ。そもそもそうやって人を育てるのが組織だったはずである。一連の流れを通じて組織として知識が循環して育ってゆく。これが組織が学習するということである。人員に余裕があった時にはこうした輪が回っていたのだが、余裕がなくなるとこうした余裕は「無駄」として切り捨てられた。さらに正規社員と非正規社員の分断もあり、知識が流通しない学習ができない組織ができたものと考えられる。
労働者は今持っているスキルが100%だと思い込むことで何が起こるだろうか。これ以上成長することはできないということだ。今回体験した例では「若いアルバイトがおばちゃんに聞かない」という世界である。個人としての損失というのもあるだろうが、ロスはそれだけではない。
通常は黙っていても年に数パーセントは生産性が上がりGDPが成長してゆくそうなのだが、日本はそれが見られない。学者の中にも定説はないそうなのだが、組織が「必要な無駄」をなくしてしまったために、組織が全体で学習することができなくなってしまったことに原因があるのではないかと思う。
社会を全く信用しない社会
この有能神話はかなり浸透しているのではないだろうか。最近気になった(が、全く見なかった)ドラマに『嫌われる勇気」というものがある。アドラーは全くそんなことを言っていないはずなのだが「感情を遮断して社会と分離しないと目的を達成できない」という思い込みが、アドラー心理学をかなりゆがめている。しかし、このドラマのようにアドラー心理学をとった人は多いはずだし、だからこそドラマになったのだろう。
もはや組織のことを慮ってしまうと組織に取り殺されてしまうという思い込みがかなり定着しているのではないかと思う。
こうした気持ちは社会全体に蔓延している。<議論>と称して攻撃してくる人に「お前の知識は足りない」と罵倒する人を時々見かける。これは若者だけではなく、かなり年配の人にまで見られる傾向だ。社会全体が「知識不足を善導し」てゆけばまともな議論空間ができると思うのだが、基本的にすべての人は不愉快な競争相手にすぎないなので、協力して公共空間を作ろうという気分になれないのだろう。
さらには国のトップリーダーまでが破綻した論理を振りかざすような状況になっている。これで「社会を信頼しろ」などというのが無理な注文なのかもしれない。