自己肯定感と人権意識

不思議なTweetを見かけた。そのまま引用するのは憚られるので要約すると次のようになる。

自己肯定感は「自分をすごい人間だ」と思うことではない。自己肯定感とは「自分はすごい人間ではないが、それでも自分を肯定できる感覚」のことだ。だから自己肯定感が高い人は他人に寛容だ。

このTweetを見て「あれ?」と思った。前段で「他人と比較しない」と言っているのだが、中段で「他人と比較して」いる。そして最後の「だから」の理由にはなっていない。

そもそも「自己肯定感の高い人」はいないのではないか。自己肯定感の高い状態とそうでない状態がある。自己肯定感の高い状態では他人に寛容になれるだろうが、そうでないときには他人に寛容にはなれないかもしれない。いわゆる「自己肯定感の高い人」というのは、この状態になりやすいということだから「自己肯定感が他人より高い個人」はいないはずで自己肯定感がある状態を保ちやすい人がいるだけなのではないかと思う。

このつぶやきの肝は「比較から逃れようとしているのに逃れきれていない」という点だ。論理的な構造が破綻しており、そこにこの文章の面白みがある。そこで「競争から逃れようとしても逃れられないんだなあ」と書いた。

ところがこのつぶやきは面白い展開を見せる。別の人が「他人と比較しないと伝わらない」というのである。そもそもこの二番目のつぶやきがどういう意図のもとで発せられたのかはわからないので、反論したり同意したりはしなかったのだが「競争や比較なしで自己肯定感を感じるのが難しい」ということであれば、自己肯定感以外の何かを自己肯定感の代替物として使っている可能性がある。それは優越感や劣等感という他人との比較によって生まれる感情である。これは自己肯定感と関係があるかもしれないが、自己肯定感そのものではない。

と同時に、日本人には自己肯定感がなく比較優位しかないと考えるといろいろなことがよくわかるなあとも思った。自己肯定感野本になっているのは、キリスト教的な概念ではないかと思う。これが発展して人権意識の元になっている。

キリスト教では「私がここにあるのは神様に祝福されているからだ」と考える。自分が祝福されているのだから当然相手も祝福されている。だからこそお互いに尊敬しなければならない考えるのと同時に、この祝福は天賦のものであり人間が裁いたり侵害することはできない。これが多分、天賦人権のもっとも基本的な説明ではないだろうか。

ところが、日本人が自己肯定感を持たず、代わりに比較優位によって肯定感を得ているとすると、日本人には天賦人権が理解できないということになる。比較優位は条件付きのものなので、人権も条件つきのものになる。

その証拠に「日本人には天賦人権は合わない」などと言い出す人がいる。これが神道系の日本会議で展開されると、日本人が傲慢になるのは天賦人権のせいだから取り上げてしまえということになり、自民党憲法案に反映されるという具合になっている。しかし、これが「狂っている」という人はごくわずかであり、たいていの人は「そうかもな」とか「よくわからない」などと言っている。

どうやら、神道には「自分を大切にしなければならない」とか「人生は肯定されるべきである」という教義理念がないようだ。最近富岡八幡宮の宮司が殺害された。兄弟間の争いだったらしい。宮司のブログには愚痴めいた言葉が並んでおり、神道がそもそも人の幸せや人生の肯定感についてなんら教義を持っていないことがわかる。さらに容疑者の男性も「宮司になれなければ人生には意味がない」と感じたようである。さらに、神社本庁は兄弟間の争いに付け入ることで天下り先を探していたと言われており、こちらも「信徒たちのの苦悩を取り除こう」という意欲は全く感じられない。

伝統を守るべきだとか男性でなければ指導者になれないといったような村の掟に関する概念は豊富に持っているが、日本の神道には普通の宗教に見られるような「人生の苦痛を取り除くために助けになる」という意識はあまりないようだ。容疑者は「地獄に堕ちろ」とか「怨霊になって祟ってやる」などと言って相手を呪っているのだが、これは日本人の根幹にあるメンタリティだと言える。この呪詛の裏にあるのは、自分が「宮司家の祖先にならなければ人生に意味がない」という思い込みと、宮司になった姉が羨ましいという他人に対する羨望である。村落は他人との関係で成り立っている狭い共同体のことである。

西洋の教育は「人生は最初から祝福されている」と教える。特にキリスト教系の学校では「神様」が持ち出されて、神様が全ての人を祝福していると教える。しかし、日本では宗教の代わりに道徳が用いられるようである。道徳というのは、立派な人間になれとか周囲に迷惑をかけるなというように、集団の中でどう見られるかということが問題になっているのではないかと思う。日本人は狭い村落で生きて行かなければならないので、掟を刻み込むのだ。問題はすでに日本人が寄って立つ何世紀も変わらない村落などないということだけである。

さてここで「祝福されている」という言葉すら問題になるということに思い至った。キリスト教の伝統のない人はこの「祝福」を「特に恵まれた」という意味で受け取るのかもしれないと思い問題の深刻さに気がついた。恵まれている人がいるということは恵まれていない人もいるということになるからだ。ここにも比較の概念が出てくる。例えばお金持ちとか美人とかいうのは「祝福された人」ということになるのではないだろうか。

試しに英語版のwikipediaを見てみると「祝福」はラテン語の「benedīcere」という概念がもとになっているそうだ。多分「よく言う」ということで「肯定されている」ということになる。つまり、その人やものの存在が肯定されているというくらいの意味であり、特に他人との比較によってどうなるというものではない。

では存在が肯定されているというのはどういう意味なのだろうか。キリスト教もイスラム教ももともと砂漠の宗教なので人間が生きて行ける土地は限られている。明日雨が降らなければ作物が取れず死んでしまう。つまり、生きているだけの環境がないということがありうる。だから生存ができているだけで「祝福されている」という感覚が得られるということになる。

日本で「祝福」のような概念が作られなかったのは当然かもしれない。なぜならば、春になったら暖かくなることは決まっているし水も潤沢にある。だから真面目にやってさえいれば「生きて行けない」ということはない。その意味では日本人は極めて恵まれていると言えるのではないだろうか。「生きてゆくだけの環境があって当たり前」なのだから、それに取り立てて感謝する気分になれなくても当然である。

一方で、日本では人が生活できる空間は限られていている。嫌になったとしても同じメンバーでやって行かなければならないのだから、他人に迷惑をかけず脅かさないことが美徳とされるようになっても不思議ではない。常に他人との関係が問題になるのはこうした自然環境が影響しているのかもしれない。

無条件の肯定感がない育たない土地に「天賦人権」という種を植えるのは無理なのかもしれない。これは「日本人には天賦人権はいらない」と言っている人の場合にはわかりやすいが「人権を守れ」と言っている人にも等しく言えることだ。そうなると「西洋では当たり前なのだから」と他者を持ち出さざるをえない。

なんとなく「人権を守れ」と言っている人たちがどのようなメカニズムで天賦人権を肯定しているのか聞いてみたい気がするのだが、これを理路整然とした形で聞くのは難しいのではないかと思う。そもそも教わったり考えたりしたことがない問題について語ることはできないからだ。

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