筒井康隆という名前をTwitterで見かけた。慰安婦像に猥褻なことをしにゆこうかと言って問題になったらしい。どの立場の人が怒っているのかよくわからなかった。ハフィントンポストによると「既存の規範に対抗する人として理想化しすぎてきたのではないか」という声もあるのだという。だからいわゆるリベラルという人が反発しているのかもしれない。リベラルは表現の自由と韓国(を含めたアジアの隣人)を愛しているはずなので、これが屈辱されるのは許せなかったのだろう。つまり、韓国を嘲笑している=政権擁護という自動化が起こっているのだ。
保守も劣化しているが、リベラルも劣化してるんだろうなあと思う。
まあ、筒井康隆が「時をかける少女」の作家だと思っている人もいるだろうから、投稿が下品だと非難する人がいる気持ちはわかる。が、ちょっと驚いたのは筒井康隆を偶像化する人が案外多かったのだということだった。筒井康隆を読んで心理的にアタッチしてしまうというのを非難するつもりはないけれど、かといってそれが永続するというのは感覚的によくわからないし、筒井を読んでいるはずの人が自分の中にある自動化された思考を疑わないというのもよくわからない。
「偽文士日碌」を何ページか読んでみたのだがそれほど面白いとも思えなかった。そもそも、とりとめもない文章が並べられており、その間に「ドキッとする」発想があるというのが、文章の目的のように思えた。これ、文章にしているから「ドキッとする」が、誰でもこれくらいのことは考えているはずだ。しかし、一部の人を除いて、思ったことを口に出したりはしないし、抑圧してしまう(つまり忘れる)ので大した問題にはならない。これをわざと表出させるのが筒井の作風なのだと思う。これをメタフィクションなどと言ったりするのだが、これは1980年代には割と一般化していた概念だ。日本は自分の心情に絡め取られたような「私小説」の伝統があり、そこから反発する形で、現実からの分離を目指すメタフィクションが出てきたのではないかと考えられる。
メタフィクションの目的は書かれていることを主張することではなく、考えること自体の補足なので「伝えること」と「伝えないこと」の境目についてはよく考えてみた方が良いと思う。なのだが、これも普通の人たちの興味を惹くのかはよくわからない。
Twitterは普段発言力を持たない人たちが、世間の抑圧にしばられることなしに発言できるという点にベネフィットがある。これは日本の社会が「過度に空気を読み合う」社会だからであると考えることができる。つまり、日本人は普通の生活では伝えることができないが、言いたいことはたくさんあるので、半匿名の場所で言いたいことをいうということになっている。だから未だに「伝える」ことに意味がある。「伝えない」ことが問題になるのは、伝えることが一般化したあとである。その意味では日本人は「どう伝えるか」を練習した方がよく「伝えることにはそれほど意味がないのではないか」という点について考える必要はないのではないかと思うのだ。
筒井作品を読んでいる人の中にも、筒井康隆の発言には失望したと言っている人がいるようなのだが、その意味でこれが「発言だったのか」ということはよく考えた方がよい。すなわち、普段の言動も「権力と戦う意図があって一貫してなされていた」かどうかよくわからないわけで、従って「それを偶像化したり、嫌ったりすること」に意味があるかどうかもよくわからないということになる。全て演技かもしれないし、演技かどうかを本人が補足しているのかということもよくわからない。
この考えを発展させてゆくと、とんでもない発想自体が無効化されてしまうことがある。高校生のころに筒井康隆の全集を読んだのだが、その頃には筒井康隆が<闘っていた>規範はすでに相対化されてしまっており、闘争自体にはそれほど面白さを感じなかった。断筆宣言も当時はそれなりに刺激的だったが、今読んでも「犯人が誰かわかっているサスペンスを読む」くらいの感動にしかならない。だから、今「とんでもない」と思っている発言も、実は将来的には相対化されてしまうことが予想されるわけで、挑戦自体がそれほど面白いことに思えなくなってしまうのだ。
妄想と発言の境目が曖昧になったり、作者と読み手の間にインターラクションが起こるのを「作品として眺める」のが面白いといえば面白いのだろうけど、そもそもインターネットがそういうものであると言える。つまり、かつての非現実を生きているわけで、それが「なんかあんまり新鮮味がないなあ」という感覚の正体なのかもしれないのだが、それすら考えるのが面倒というか、どうでもよいように思える。
今回の件で一番気の毒だなと思ったのが「老害だ」という意見だった。妄想と現実の間にあるから面白みがあるわけで、単なる老人の妄想だと捉えられてしまうと単にゴミ箱行きということになる。みんないろいろなニュースに反応するのに忙しいので、石原慎太郎も筒井康隆も「老人の妄想」として一緒くたに捨てられてしまうのだ。