最近いろいろなことを考えている。ニュースを元にしているのでかなりランダムなのだがいくつか共通するモチーフが出てきた。
まずは憲法問題だ。何のために憲法を作るのかということがわからなくなっているようである。その背景を探って行くともともと島に囲まれた領域という意味の自然国家として成立し、他者と向かい合うことがなかった日本人が体裁を取り繕うために作ったという経緯がある。ゆえに改めて憲法を作ろうと考えるとどこから手をつけていいのかわからない。従って意見はまとまらずまともな議論さえできない。今の国会議論をまとめると「とにかく自前の憲法を持つのが立派な国家なのでそれが作れるということを証明したい」ということになるのだが、これは作家になりたい人が書きたいこともないのに小説を書き始めるのに似ている。
次に内田樹について取り上げた。内田はかつてのように日本人がまとまれば必ずしも経済成長がなくてもよいという主張の人なのだとおもうのだが、とにかく安倍政権が気に入らないようで、カウンターとなる立憲民主党を応援しているようだ。そこで護憲・解散権の制限というポジションが生まれる。ただし、科学や経済に対してはかなり貧困な情報しか持っていないようである。これは「日本の知性の最高峰」なのだから、日本人が外来概念をかなりいい加減にしか受容していないということがわかる。
さらに相撲について考えた。どうやらモンゴル人を文化的に受容できないままで、旧態依然としたイエの集合体に無理やり近代的な相撲協会というガバナンス制度を入れたことで、まとまりがなくなっているという事情がありそうだ。かといってイエがどのようなガバナンスを行っていたのかということが意識されていないためにそれをどのように守って行けばいいのかということがわからないようである。この問題は「品格の問題」としてまとめられると思うのだが、では品格とは何なのだろうか。
この三者には共通点がある。なんらかの共同体が雛形としてあり、それが日本人の頭の中でかなり明確な雛形を作っているようである。だが、日本人はそれを意識はしても、明確に形にして他者に説明することはできない。明確に説明できない上に、なんらかの外来概念が外からかぶさってくる。これが痛みを引き起こしている。
例えば憲法問題では民族国家とか近代主権国家のような概念があり、それが国家というものは自主憲法を作るものだというイデオロギーのもとになっている。また、内田の場合には民主主義が正しく施行されることでなんらかの日本的な共同体が再興できると考える。そして、相撲協会では近代的な仕組みを作れば近代的なガバナンスが行われるだろうという期待があったのではないだろうか。
このように見てみると、日本人は自分たちが持っていた元型を意識しないままで現代に突入してしまったという問題点があるようだ。その元型が理想社会のことなのか、それとも実際にあったのかが曖昧になっている。
では元型を意識すればおのずと問題が解決思想に思えるのだが、惨憺たる結果に終わることが多い。
憲法には中曽根憲法前文というポエムがある。この中曽根世界では豊かな自然に育まれている日本には何の問題も起こらないということになっている。しかしながら、実際には日本には貧しい人もいれば、利権をめぐる諍いもある。しかし中曽根日本にはそのような人は存在しないのではないだろうか。
同じような失敗はすでに経験済みだ。日本が満州国を作る時に五族が協力してアジアの共同体を作るという理想を掲げたが、田舎から出てきた日本人が満州人や中国人に対して威張り散らすというのが実態だっだ。また植民地経営はそもそも経済搾取のために行われるのだから、五族が満足することなどありえないのだ。
内田の場合はあの文章しか見ていないので、内田が考える理想世界がどのようなものかはわからない。わずかにわかるのは、内田が理想とする社会が、話し合いで様々な意見の違いが解決される世界なのではないかと思う。確かにそれはあるべき姿なのかもしれないが「お花畑」に過ぎない。
ただしこの「お花畑」は問題を解く鍵を含んでいるように思える。つまり民主主義というのは信仰であるということだ。信仰なんので純粋で完成された「正しい民主主義」はありえない。ゆえに民主主義社会では全員が「祈り続ける」しかない。憲法第9条も宗教だということを認めなればならない。だからこそ、実際の平和運動が重要なのである。
相撲の場合にはガバナンスに深刻な問題が起きている。相撲が理想としているのはサッカーのようにガバナンスが効いた協会運営なのかもしれない。例えばサッカーの場合には地域参加というオープンな事情があり、限られたイエが興行利権を独り占めするというクローズな組織にはなっていない。野球も近代的な株式会社方式のガバナンスが引かれておりある程度の法治が行われる。しかし、相撲の部屋は民主的な制度ではない。ここに利権をめぐる争いが起こるのは当たり前で、それが力士という格闘家によって行われれば実際のガバナンスが「拳による制裁」になるのもこれも当たり前である。
日本人は我々は本音と建前を使い分けることで、実際に自分たちが何ものなのかということがわからなくなっているのではないかと思う。そうなるとあとは腐敗してゆくだけなのである。