稲田防衛大臣と文脈の奴隷

いじめ問題についてみている。多分議論のゴールはいじめで死ぬ子供をなくすことなのだが、千葉市教育委員会の人と話をして考えこんでしまった。生徒や保護者の中には「学校にいじめを認めさせたいだけ」と考える人がいるのだそうだ。もちろん、この話は納得できる。報道でも「学校にいじめを認めさせたい」というだけで両親が奔走するケースがあるからだ。

なぜ学校がかたくなにいじめを認めないのかというと、それを認めてしまうと学校と教育委員会の管理責任という問題が出るからである。つまり解釈によって事実の意味づけがまったく変わってしまう。そこで千葉市の担当者は「いつも想定外のことが起こる」と言っていた。人間関係の問題なのですべてイレギュラーケースなのだろうが、役人は事前に規定してすべて管理できると思ってしまうのだ。

この裏には担当者の責任の希薄さがある。もともと先生に権限と責任感があればこうした問題が起こるはずはない。しかし現場の先生の意識は希薄化している。しかし、現場の意識付けをせずに(多分こういうと研修をやっていますなどと言うのだろうが)規則や制度でカバーしようとするのだ。そのために千葉市の「いじめ防止マニュアル」はとても複雑なものになっている。

文脈と意味づけが重要なので、家族はマスコミに訴えて文脈の構成を変えようとする。メンバーが変わると意味づけが変わる。横浜のケースはこの意味付けを当事者がコントロールできなくなった事例である。Twitterが意味づけ決め、教育委員会の独立性を無視して盛り上がってしまった。

ここらでふと考え込んでしまったのは「子供の苦痛」とか「その延長線上にある死」というものが、解釈によって変化しうるだろうかいう問題だ。

個人的には変化はしないだろうと思う。死という現象は変わらず、その意味付けが変わるに過ぎないと思うからである。いわゆる「文脈費依存」なのだが、これは少数派の考え刀のではないかと思う。

だが、死がいじめによる自殺だと認められないと「その子供の死が犬死になる」と考える人は多いのではないだろうか。つまり、現象より意味づけのほうが重要だという文脈依存の考え方だ。

日本人には合理的思考はできないというと悲観する人が多いと思うのだが、これは文脈が構成要因やその場の雰囲気やメンバーの範囲、数によって変わりうるからである。事象だけに注目すると合理的に考えやすい。ただそれだけのことである。だが、それができない。そこで範囲を限って文脈を固定しようとする。これが「隠蔽」だ。

さて、の文章を書こうと思ったのは、まったく別のニュースを見たからである。稲田防衛大臣が「戦闘行為だと認めてしまうと憲法第九条に抵触しかねないので、衝突と言った」と答弁したとして大騒ぎになっている。これも意味づけ(解釈)の問題だ。

安保法制を作るにあたって、まず政府は官邸で文脈を作ったのだろう。しかしそれは国民には理解されないことはわかっていた。想定外の衝突が起こる可能性を排除してストーリーを守った。しかし、その事態(武力衝突でも戦闘でもどうでもいいのだが、要するに武器で人が殺される可能性である)が起きてしまった。そこで「隠す」事に決めたのだろう。

解釈の問題は、現場の兵士自衛隊員の安全にはまったく関係がないのだが、国会ではこれだけが大問題になっている。もし、戦闘があったとすると、自動的に危険な区域に自衛隊員を送ったことになってしまう。すると政府の責任問題になる。だから「衝突です」と言った。

このまったく関係がない二つの案件に共通するのは「解釈」だけが問題になり、現場(自衛隊とか子供とか)のことは省みられないと言う点だ。国会は自衛隊員の安全については議論しておらず、教育委員会はいじめについては議論していないということになる。だから、問題は何も解決しない。

そもそも法律には目的というものがあるはずなのだが、その目的については誰も関心を寄せない。そして、いったん意味づけが決まってしまうとそれを覆すのはとても困難だ。いじめられて子供を亡くした親は「世間はそれを認めてくれない」といいつつ孤独な戦いを強いられることとなる。それを認めさせる戦いをしているうちに、疲弊して当初の目的がわからなくなる。次の自殺者が出て、教育委員会が頭を下げるか下げないかということを議論することになる。この繰り返しだ。自衛隊でも同じ問題が起こるだろうが、もっと念入りに隠蔽されるのではないか。

しかし、教育委員会が頭を下げたところで子供が生き返るわけではないし、誰に責任があるかによって恐喝をやめる子供などいないのだ。

稲田さんがなぜあのような答弁をしたのかはわからない。個人的には河野太郎さんがなぜこのタイミングで資料を「発見」したのかが気になる。散々「危険性はない」と言わせておいて、資料が出て「ほら危険を認識していたではないか」ということになれば政権が危機に陥るのは明白だからだ。つまり内側で文脈を破壊する行為が行われていることになる。あるいは役人が破壊工作をしているのかもしれないが、派閥の再編などが加速しているようだし、背景に何らかの動きがあるのかもしれない。

安倍首相は稲田防衛大臣に答弁を続けさせるべきだろう。最近彼女は場面場面で相手が聞きたいことをいっていたという主張を始めている。政治生命は終わったと言ってよい。これがボスである安倍首相に類焼しない(彼が言わせたのではなく、稲田さんが勝手に言ったことにする)ように、食い止めつつそこで炎に焼かれるべきなのであろう。彼女の解釈能力が失われると、政権の文脈生成能力自体が空白化し、誰も政権の言うことを信じなくなる。日本のような文脈依存世界ではこれは社会的な死を意味する。

と、同時に見ていた私たちも、去年の夏にいったい何をしていたのかを思い返してみるとよい。際限なく無意味な言葉遊びに興じているうちに、憲法第九条の意味とか、平和国家として再出発してから成功を収めたことの意味をまったく忘れていることに気がつくのだ。

われわれは等しく文脈の奴隷なのである。

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