先日来安倍昭恵さんについて書いたところ、例によってアクセスが伸びた。彼女を国会に招致して吊るし上げるべきだと考えている人が多いのだろう。ページビューのためには同じような記事を書くべきだとは思うのだが、今回はちょっと違ったことを書く。そもそもなぜ、役に立ちそうもない村落共同体について書いているのかということである。
先日あるTweetが目に付いた。その人は、議論を行うのは「コントリビュート」するためだと主張する。その上で、コントリビュートがない議論はゴールポストの移動が起こり不毛なものになりやすいというのだ。バックグラウンドがわからないのに口をはさむのも申し訳なかったのだが、面白そうだったので引用しない形で、そもそもコントリビュートする対象がない議論が多いのではないかというようなことをつぶやいた。
特に会話が成り立ったわけではないのだが、一つわかったことがある。それは日本型の村落共同体について書こうと思ったきっかけである。
Twitterでフォローしているだけの人が「議論とコントリンビュート」について語るのを聞いただけである程度反応ができるのは、これが欧米では(少なくとも英語圏では)当たり前に行われる議論だからである。
例えば英語の学校では授業中に議論に参加しているかどうかというのは査定の対象になる。もし議論に参加していないと「授業を作る貢献をしていない」とみなされるのである。ではなぜ議論は貢献なのだろうか。
日本の授業の目的は先生が提示する正解を覚えることにある。それはもともと西洋的な近代化が教育の目的であり、正解が外にあったからだ。大学の先生は正解を研究したノートを毎年使っているし、高校以下だと教育指導要領という正解がある。
こうした正解思考は早いうちから植え付けられる。小学校では先生が正解だとしつけらえれる。例えば最初は観察の結果から「太陽が動くから影が動く」と教えられ、やがて「実は地球が動いている」と習う。だから、地球が動いていることを習わない間は「天動説」で答えないと罰せられてしまうそうである。それは先生が知っていて教えたことだけが正解だからである。それに逆らうことは決して許されないのだ。
ところが英語圏の学校では、先生が問題を出しそれを生徒が考えるというアプローチを取る。それは西洋へのキャッチアップを目的にしていないからだ。しかし、学生が授業に参加しないと授業そのものが成立しない可能性がある。だから授業への貢献が求められるのである。
ここで大切なのはある程度英語圏の文化に接した人なら誰でも「コミュニティを作ってゆく」ということについて意識を持っているということである。つまり、これは明示的な文化であり、なおかつ日本人でも覚えることができるということを意味している。
これが村落共同体について書こうと考えた理由だ。日本には明示的な習慣がない。にもかかわらずある程度前提としている文化が存在する。だから西洋的な民主主義が破壊されても国が壊れたりしないのである。
もともと日本の村落には「環境が所与である」という限定条件がありそれを動かすことができなかった。しかしコミュニティそのものは狭いのでその場その場で判断してもそれほど大きな間違いは起きなかった。また、文化的には似たような背景を持った人たちが集まっており他者もいないので、明示的に文化について説明をする必要はなかった。だから、意思決定のプロセスを明文化する必要などなかったのである。
冒頭の「ゴールを動かす」という指摘が重要なのは(ご本人がどう思ったかどうかは別にして)議論のパラメータが自由に動かせると思った時に、ゴールだけでなくさまざまなパラメータを操作することで利害調整や問題解決が面倒になってしまう可能性があるということを示しているからだ。
例をあげてみよう。例えば最近の国会では「仮定の質問には答えられない」という謎ルールが横行している。この仮定の質問というのが何を意味するのかがわからない人が多いようで、様々な反発を呼んでいる。例えば、北朝鮮が核ミサイルを日本に打つとか朝鮮半島で有事が起こりアメリカ軍の艦船が日本人家族を日本列島に移送するというのも仮定なのだが、それは政府のいう仮定ではない。
政府の考える仮定はある正解を導くために作られたストーリーである。ところが、野党にはそのストーリーが破綻する仮定がある。なぜならば与党に政権担当能力がないと証明することが彼らの最大の関心事であり利益だからである。だから政府は野党の仮定の質問には答えられないのである。
これは安全神話である。原発を推進したい人たちは「絶対に地震は起きない」し「核の再利用の技術はいずれ完成する」という前提で話を進めようとする。だが、絶対に地震が起きない保証などない。しかし、地震の可能性を入れてしまうと計算結果が狂う可能性が高いので「野党の仮定には答えられない」という。しかし、野党もまた「原発は大惨事を招く」という前提を持っている。逆安全神話と呼んでも良い。
そもそも議論をするのは貢献があるからで、貢献が必要なのは正解がないからだった。しかしながら、日本人は最初に村落の利害があり、そこから望ましい正解が作られ、その正解を導き出すために材料を集めるというルートをとる。だから、そもそも議論が成立しないのである。考えてみれば極めて単純な話なのだ。
民主主義というのは、一定の人たちが代表者を送り込み「正解を決めて行く」というプロセスのことである。だから多数派も少数派もそれぞれの意見を持ち寄って議論を行い、正解を組み上げて行かなければならない。この集まりを国民と呼ぶ。
しかしながら、日本にはこうした「国民」という前提はなさそうだ。その代わりにお互いに干渉しない村落がある。この村落の利益を持ち寄って、政党という閉ざされた空間で「根回し」をして、最終的に議会での儀式的な議論を経て国民に下賜するという方式をとっている。
このように日本人にはかなり明確な行動様式があるのだが、それが明示されないためにわかりにくい。このことはいくつかの弊害を生んでいる。
第一に、日本は民主国家であると錯誤する人が出てくる。日本の民主主義は後付けの権威付けに過ぎないのだが、それを本質だと習いそのまま信じ込む人が出てくるということになる。そしてそのことが我々を苦しめる。Twitterをみると日本は民主主義国家であり安倍首相から法治主義を取り戻さなければならないと主張している。
仮に日本に法治主義があったとしたら取り戻すことも可能なのだろうが、そうでないとしたら法治主義に基づいて国を運営し始めた途端に日本は崩壊するはずだ。この人たちは民主党政権で何が起こったのかを理解していないのであろう、彼らは型通りに政党主導型の民主主義を運営しようとして失敗した。
だから日本は法治国家でも西洋的な民主主義国家でもないと知るのはとても大切なのだ。
だがもっと深刻なのは安倍政権である。彼らは財務省幹部の人事という長期的利害に首を突っ込んだ。しかし、財務省のオペレーションそのものについては大した関心を寄せなかった。そして、結局はその力を自分たちの官邸村と安倍総理のお友達村への利益誘導に使おうとした。
つまり、政治の世界がかつて持っていた村の構造を壊してしまったことになる。このため財務省は何が自分たちの利益を守るのかという彼らにとって本質的なことがわからなくなってしまう。そこで担当役人は「自分を守るために経緯を事細かく書いた」文章を契約文書に残すのだが、それは幹部によってもみ消されてしまう。その結果起こったのが文書改竄事件である。
もし、安倍政権がルースベネディクトのような人を雇い、現代版菊と刀を書いていればこんなことにはならなかっただろう。彼らは断片的に「財務省の利権構造を直接操作すれば国を変えられる」ということにまでは気がついたのだが、自分たちもまた村落共同体であるということには気がつかなかった。さらに、意思決定プロセスに首をつっこむということはオペレーションを操作することだということもわからなかった。だから政治は混乱しているし、これから長い時間をかけてこの混乱を収拾する必要がある。
野党がやろうとしているのはこの点ではとても「間抜け」である。日本では指示は明確な形では行われず、間接的に利害関係についてほのめかす形で誘導される。なぜならば官邸はオペレーションを知らないし興味もないので直接指示が下せないからである。
安倍首相にとって「関与」とは形式的で儀式的な指示命令を指している。これに安倍昭恵さんが関われなかったのは当然であり、現場に興味がない安倍晋三さんが関われるわけでもない。だから、この線で押しても野党は自分たちの主張を証明できない。しかし、これに問題があったことを説明するためには、日本では形式的な民主主義の他に本質的な意思決定のプロセスがあ流ことを認めなければならない。すると野党が言っている「立憲主義」とか「法治主義」を取り戻せなどいうことはそもそも意味がなくなってしまう。そしてそれが立憲民主党などの野党への支持がない最大の理由なのだろう。
私たちを包んでいる行動様式と意思決定プロセスは目に見えない空気のように我々を包んでいる。前に進むにしても、後ろに下がるにしても空気ついて知らなければならないほどのところまできているようだ。現に知らないことでかなりの政治リソースが消尽されてるのは確かである。