神様は何にもしてくれない、かもしれない

話を聞いた人から「意図が正しく伝わっていない」という旨のコメントを頂いた。現在反論を載せていただけるように調整しているところだが反論を公開する形にするのは心理的にしんどいということなので、ここに注記だけを入れさせていただいた。 

反論がある場合はコメント欄に記入していただくことをお勧めする。コメントにはTwitterやDisqusなどのアカウントが必要だ。スパムや誹謗中傷の場合はこちらで差し止めることもあるが「事実誤認なのではないか」という指摘はそのまま掲載したいと思っている。過去にいじめについて書いた記事で事実と異なる受け取り方をしているのではないかという指摘を第三者から頂いたことがある。

ただし「身元が露見する」ことを恐れる人が多いのも事実なのでその場合は何らかの形でお知らせいただければできる限りの範囲で調整したいと思う。「反論」に心理的な壁があることも理解しているつもりである。

いずれにせよ印刷物ではなくブログなので書き換えや加筆を前提にしている。つまり最終成果物ではないということだ。ただし、反論して頂いたからといって100%満足できる結果にはならないかもしれない。お互いに聞いた話には誤解が生じるので「完全に分かり合う」ということはかなり難しいと考えているからだ。そこで受け取り方に相違があったという記録をできるだけ残したいと考えているが、もちろんそれだけでは満足感は得られないかもしれない。

最近は気楽な政治ネタが多いのだが、そもそもは分かり合えないことを前提にしたコミュニケーションの研究ブログなので、そのあたりのスタンスはご理解くださいとお願いするしかない。

2017/3/13


またショックなことがあった。スコッセッシの沈黙をベースにした映画を見て「それでも信仰を捨てなかったのは素晴らしい」という話を聞いたのだ。以前「肝っ玉おっかあと……」について書いたときに演劇空間が作り出す感情の強力さを書いたことがある(ブレヒトは感情に溺れずに第三者の視点から状況を見て欲しいと言っているのだが大竹しのぶの演技に感動したという人が出てくるのだ)のだが、やっぱり映画は怖いなあと思った。

もちろん、言ってくれた人は「キリスト教にゆかりがある」相手と考えて、良かれと思って言ってくれているのだと思うのだが、やっぱり違うんだよなあと思った。それを書くのは大人気ないなあと思ったのだが、この感覚は現在の日本人にとって重要だと思うのであえて書くことにする。

映画は見ていないので、慌ててスコセッシの映画評を探してみたのだが、やはり信仰と疑念というのがテーマだと捉えられているようだ。原作者の遠藤周作も「沈黙」を書いたときに自身の信仰に悩んでいたという話を読んだことがある。

子供の頃は結構神様を信じていて、神様にすがっていい子にしていれば苦しみから逃れられるのではないかと思ったことがあった。しかし、神様はいるんだかいないんだかよくわからないし、苦境から救ってくれることもない。シスターもいい子にしていれば神様が救ってくれるみたいなことは言わない。その後の人生でも神様は助けてくれなかった。見ることもできないし、いるかどうかもわからないものを「ただ信じる」というのは、実はかなりしんどいことではないかと思う。

一方で、恩寵を感じることがある。もうどうしようもない経験をした後でも、回復は訪れるし、最悪の時期は決して永遠には続かない。人には忘れたり回復したりという力があり、これは、努力をして得られるものではない。さらに、最悪の時期の体験が実は得難い実感を持っているということもある。毎日甘いものを食べても美味しくもなんともないのだが、灰色の時間に一雫たらされたような甘みは一生忘れられない。沈んだ気持ちで本を読んだ経験が後になって蓄積されるということもあるのだ。つまり冬を冬でいさせてくれるというのも恩寵なのかもしれない。

つまり、神様はいるともいえないし、かといっていないとも言い切れない。少なくともカトリック教会に通っていないので、キリスト教世界では信仰ではないということになる。

さて「沈黙」に出てくる隠れキリシタンはその後どうなっただろうか。実は彼らはそのままの形でカトリック教会に認められることはなかった。多分、日本流にアレンジされたキリスト教を信じていたことが理由で、背景にはうっすらとしたアジア人差別もあるのではないかと思う。このあたりの事情を書いた熊日ドットコムの記事があるが、正直事情がわからない人にはさっぱりだと思う。隠れキリシタンはその後明治維新期にカトリック教会と再接触して一部はカトリック教会に復帰したが、一部は独自の信仰を続けたということだ。

日本はヨーロッパの影響力が強いユネスコで、隠れキリシタンの世界文化遺産登録を目指しているそうなのだが、隠れキリシタンはカトリック世界では「亜流」とみなされることが多い。記事を読むと隠れキリシタンを「潜伏キリシタン」と区別して概念整理が行われているようだ。一方、宣教師と接触があった時代に入信した高山右近などは最近福者認定されたようだ。中には殉教者扱いされて列福したりした方もいると思う。

多分、あの映画を見た人は「あれほどの過酷な体験をしたのにカトリックに認められなかった」ことを知るとショックを受けるかもしれない。日本流の見方をすると「彼らは報われなかった」ことになってしまう。

カトリック教会にも権威主義的なところがあり、準備に20年かけたというスコセッシはそのことを知っていたはずである。もし、隠れキリシタンが西洋世界で英雄視されていれば、資金集めに苦労することなどなかったはずである。やはり白人の宗教であって有色人種が独自に発展させた宗派というのは認められない。だが、西洋世界の人たちは自分たちが蔑視感情を持っていることは認めたがらないのではないだろうか。

さて、なぜ今ことのことが重要だと思うのかについて書きたい。日本の宗教はご利益化することが多い。信じるからには効能がないといけないと思うのだ。例えば花粉症が治るお札を売っている宗教もあるし、立派に先祖供養すれば霊障が取り除かれるという宗教もある。

真面目な宗教もあるのだろうがお金儲けも多く、被害者も出ている。特にオウム真理教のように、あれほど頭の良かった人たちがインチキな教祖に騙されてテロ事件を起こすなどということは再びあってはいけないことだと思う。

ただ、そうなる気持ちもわかる。何かにすがりたいという気持ちは誰にでもあるが、いったん通り過ぎてしまえば耐性がつく。しかし幼少期に経験がないと「ころっと騙される」ことがあると思うのだ。神秘体験などさせられて「神を感じたり」などするとひとたまりもないだろう。

さらに現在では国家神道が一部の人々を熱狂させている。彼らの目的は2600年という歴史と天皇の存在を傘にきて人々を平服させるということだが、政治家を巻き込んで「人々から人権を取り上げてしまおう」と言うところまで来ている。実はこれも耐性がない人が大人になってから「すばらしい大義」に触れてしまったところに問題があるように思える。三原じゅん子参議院議員のように日本書記を歴史的事実だと信じ込んでしまっている人もいる。

国家神道は、自然崇拝だった神道にキリスト教的なエッセンスをまぶした新興宗教だが、日頃、宗教に触れる機会がない人には「とてつもなく素晴らしいもの」に見えるのかもしれない。もし神道がすばらしいとしたらその基礎にあるのは教義を持たず他者を排除せずに取り込む包摂だと思う。仏教のように苦境を前提にしないし、キリスト教やイスラム教のように他者を排除することはない。だが、これが中国人や韓国人の排除につながっていることに矛盾を感じる人はすくないようだ。

「愛国教育の問題」は人間の中に存在する善の存在を信じておらず、子供は調教されなければならないという理念を持っているところだ。つまり恩寵を感じていないのだ。だが、なぜか優れた理念を教え込めるのは自分自身しかいないという信じ込みがあるのだが、結果的にはこれは虐待的な調教につながっている。さらにその理念はかなりゆがんでいて大義のためには法を曲げてもかまわず、いんちきをして国からお金を巻き上げてもかまわないと思い込んでいる。つまり「社会の中で善くあろう」という気持ちが全く存在せず、他社の権利への尊敬もない。

籠池元理事長が強烈なキャラだったのでそれだけが大きく取り上げられ勝ちなのだと思うが、同じような考え方を持っている人は多いのではないだろうか。つまり他人の善性は信じられないが、自分の善性は絶対だと考えていることになる。

これはまず自分の中にある善性や恩寵を感じたことがなく、その後得た信仰や大義について疑問を持ったことがないからこそ起こるのではないかと考えられる。こうしたことは世界中で起きている。白人だからキリストに絶対的に愛されているが、イスラム教徒は神の愛の対象外だと感じる人もいるし、イスラムこそが絶対でキリストこそ堕落した悪の根源だと思っている人もいる。そして自分の中にある善い性質に頼れば調和が得られるだろうとは考えず、他者を悪として排除すべきだという考えにつながってしまう。

信仰への疑いは現在社会ではきわめて重要な感覚であり、多くの人がそれを体感できなかったとしても理解すべきなのではないかと思う。

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