百田尚樹という作家が「朝日新聞の社長を半殺しにする」とツイートして世間の反発を買っている。これを読んで「どうしようか」と考えたのだが、とりあえず世論に同調することにした。
考え込んでしまった理由は、もし「百田尚樹は目の前から消えろ」という声に同調すると、自分にも戻ってくる可能性があるち考えたからだ。世論が「何が正しくて何が正しくないか」を決めて反論も許されないというのはあまり愉快な体験ではないだろう。
では、百田尚樹的なものがこのままTwitterに残ってもよいのだろうか。それを考えるためには、そもそもTwitterが何のために存在するのかを考えてみる必要があるだろう。
つい忘れがちになりそうになるのだが、Twitterは営利企業で、その収入は広告のはずである。つまり、ヘイトスピーチや事実に基づかない言論が跋扈することになると、よい広告主が集まらなくなる可能性が高いのだ。Twitter側も荒れ果てた2ch状態になったサービスを温情で運営し続ける必要は全くない。電話や郵便のような「ユニバーサルサービス」に慣れているので、受益者は努力しなくてもプラットフォームが維持されるものだと思いがちだが、実はそうではないのである。
どうということのないおしゃべりに使うことが多いTwitterだが、時々災害インフラとしても役に立つことがある。またマスコミの情報もTwitterでの補足があって初めて理解できるような状態になっている。つまり、このサービスは公益性が高いが、実は民間がプラットフォームを提供している、という珍しいサービスなのである。
公益性が高いが私的に運用されているということは、それを整備するのも参加者の仕事ということになる。参加者が2chのような荒れた雰囲気を望めばそれなりのコミュニティができることになるし、道徳水準をを高めに設定することもできる。道徳水準が高い方が、よりよい広告が集まりそうだが、これはショッピングモールと同じ理屈である。寂れた地方のシャッター通りにやコンビニの前ではヤンキーたちが集まり、きれいなショッピングモールにはそういう人たちはやってこない。
問題なのはネトウヨさんたちというヤンキーの集まりが「変なゲーム」を仕掛けてくることだ。大通りで「あいつマジ気に入らないから、なんかあったら半殺しにしてやる」と叫んでいるのだが、そういう人たちが多く集まると「もしかして居心地のよい空間を探すというのは個人のわがままなのかもしれない」などと思ってしまう。それどころか「自分の主張がなぜわがままではないのか」ということを議論しなければならないような気持ちに落ちってしまうのである。
だがよく考えてみるとショッピングモールに百田尚樹的な人がいたら、多分かなり白眼視されるはずで、別になぜその発言が不適当なのかを証明しなければならないようなことではないのではないだろうか。
ニューヨークの市長が割れた窓を修繕することで街の治安を回復したという話がある。つまり、居心地のいいコミュニティを維持するためには、一人ひとりのちょっとした心がけが必要だ。百田尚樹さんがというより、百田尚樹的なものはいわば我窓であり、見つけ次第塞がなければならないのではないだろうか。
テレビのように、無責任な発言でもとりあえず数字が取れればいいというメディアのことはよくわからないが、ネットは記録が残るメディアであり双方向性もある。テレビの常識はネットでは非常識だし、多分近所のカフェからも追い出されるレベルなのではないかと考えられる。そこで変なゲームを仕掛けられてもそれに乗る必要など全くないのだ。