Quoraのスペースで環境に関する議論を喚起してみた。予想通りの所もあったし予想外のこともあった。いつもは「日本人は議論ができない」ということは書いても「どうしたらできるか」は書いたことがない。多様な認識を持つ人たちが共通の議論の素地を持つというのはなかなか難しいと思う一方で、ちゃんと話し合いをしたいと考える人は増えているという実感もある。「実践編」なのですっきりとした感覚は得られないが、まあ実際にやってみるというのはそういうことなのかもしれない。
きっかけになったのは「一方通行系投稿」だった。プラスチックリサイクルに関して懐疑的な意見である。つまりプラスチックをガラス瓶にしても却って二酸化炭素排出が増えるのではないかというのである。この人は単に「知見が欲しい」というのだが、ああ使えるなと思った。
知見が欲しいという言い方はどこか腰が引けているように思える。知見が欲しいと言っても知見を寄せてくれる人などほとんどいないだろうからだ。日本人は指名されるまで他人の意見には反応しない。つまりもでレーションが必要だ。だから、これは実は意見表明なのだがそこに何か足りないものがあるのではと思ったのだ。
そこで投稿を勝手に書き直して出してみた。書き直して見て思ったのは足りないのは知見部分ではないんだなということである。今回使った構成は、高校生がエッセーの練習をするときに使うようなものだ。特別難しいものではない。
- イントロ
- 問題提起
- 論拠1
- 論拠2
- 論拠3
- 結論
実は書くのが難しいのは論拠ではなくイントロ部分なのだと感じた。地球温暖化の問題は喫緊の課題だが表面的な対策は却って弊害が大きいという書き方にした。ここが決まらないということは何を訴えたいのかが実はよくわかっていないということになる。だが論拠は出しているので実は意見はあるのだろう。問題はその意見も事実だと認識している点である。
これを書いて「彼らの本当の動機は何なんだろうか」と思った。最初に考えたのは「環境派がうるさいことを言っているから黙らせたい」というものだった。
- 協力のための議論 → 協力を喚起するイントロにする。
- 相手に勝って黙らせるための議論 → イントロが書けない。
日本人はとにかく勝つことが好きなので「うるさいだまれ!」というような勝つための議論になるなのかなと思ったのである。案の定「イントロは書きたくない。知見だけが欲しい」というコメントがついた。
事実集めだけなら、自分に都合が良いものをいくらでも集めてくることができる。朝鮮半島が植民地支配ではなかった知見とか、南京大虐殺がなかった知見とか、アイヌ人などいないという知見など、この種の<議論>は掃いて捨てるほどある。
これに対抗する側は当然朝鮮半島が植民地支配であった知見や南京大虐殺があったという知見だけを集めてくる。だからこうした議論が折り合うことはない。やがて「ああでもないこうでもない」ということになり普通の人は議論に寄り付かなくなる。面倒だからである。
ところが、ここから先はやや予想外だった。環境懐疑派は環境懐疑派同士で別のフレームを作り始めた。つまり自分たちも環境には関心があるが今の環境派が作った土壌では議論したくないという気持ちがあるんだろうなあと思った。議論には介入しなかったが、おそらく彼らは懐疑派と「カウンター」として括られることを嫌うだろうと思う。
日本社会は「自己流のフレーミング」をしたがる。だから、日本では会社が変わるとそれまでの経験が全く役に立たなくなることも多い。また企業は自前教育が前提なので学校で知識を仕入れてきた人たちをうまく使いこなせない。おそらく知識は同じでも組み立てが違っていると役に立たないのだろう。日本社会が新卒採用に依存するのは「自分たちでフレームを作りたい」し「その中でしか考えられない」からだ。
おそらくは「他人に仕切られたくない」という気持ちが強いのだろうと思った。知見を積み重ねて議論の主導権を握りたいというのは日本型のヘゲモニー争いだ。これは文化的な指向性であり、おそらく治癒不能な病である。だが、同時にQuoraでは相手を罵るような直接対立は禁止されているので相手を罵倒することはできない。すると今度は全体の空気に影響され小さな態度変容が起きてしまうのだ。単に相手を否定するところから自分たちで意見を組み立てる方向に変わるのだ。
この議論に環境推進派の人たちが参加することはなかった。ヨーロッパではこの手の議論は当たり前になっていて、環境派でいることが社会正義になっているようだ。日本でいうと「戦争はいけない」というのと同じくらいのことなのである。あえて議論するまでもないことを議論する意味を見出せないのだろう。こちらはこちらで「日本は大丈夫なのか」と質問してくるところで終わった。
結論から言うと議論を喚起しても島宇宙が一つ増えた感じになる。対決して勝ちたいいう熱を奪うとこうなるんだなあと思った。おそらくは議論を少しかき回してみて自分たちとは違った意見や世界観があるんだなと気がついてもらうくらいのことしか出来そうにない。この辺りが実践編の面白いところでありすっきりしないところでもある。
最終的にここから新しいフレームを作ってみた。ウルリッヒ・ベックを引き合いに「危険社会」と「自己責任社会」という対立軸を作っておいてみた。危険社会は環境問題のリスクを共同対処する世界であり自己責任社会はとにかく自分の責任で逃げるという社会である。対話は促進されないまでも今後自分で使えそうなフレームが作れたのは良かったかもしれない。
もっとも意外だったのはこの一連の投稿に結構な高評価がついたということである。退屈な話題なのでスルーされても仕方ないかなと思っていたのだが「話し合いのためになんとなしなければならない」と考えている人も実は多いのかなと感じた。