浮気は芸の肥やし論・CM違約金問題・草彅剛が演じるブレヒトの異化効果

先日来、東出昌大のCM違約金問題について考えている。背景にあるのは真面目そうな俳優は私生活も真面目でありそのイメージを使って商品を売るという構造である。これに対比して「浮気は芸の肥やしだから大目に見るべき」という考え方がある。このどちらが正しいのだろうか。

実はこの問題を考えて行くと「芸術は俳優の人格と関連しているのだろうか」という疑問が出てくる。テレビに出ているキャラクターを見てその俳優の性格や私生活を想像するというのはよくあることだ。そのイメージが裏切られると嫌な気分になるのだが、実際には俳優は演技をしているだけであって、その人の私生活とは関係がない。




これとは反対の現象もある。落語家は芸術家であるから普通の生活をしていてはつまらない落語しかできないという考え方だ。芸術というのは虚業であって実業の影を引きずっていては非日常的なことははできないというわけだ。

例えば桂春団治(初代)は本名を「皮田」というそうだ。明らかに被差別集団の出身であることが分かる名前である。さらに破天荒な金遣いや浮気など私生活もめちゃくちゃなものだった。つまり明確にアウトサイダーだったのである。しかし、思いもしないような面白い行動などから「こうした破天荒さが芸にも生きているのだ」と考える人も多かったのだろう。演歌「浪花恋しぐれ」の題材にもなっている。普通の人々は普通の秩序の外側に生きる人にある種の開放感を感じている。

日本だけではないのかもしれないが、エンターティンメントにおいて虚実の境目は曖昧になっていて、それが商品価値も生んでいるということがわかる。つまり基本的な構造は同じで極端から極端(破天荒から極度の慎ましさ)までを揺れ動いているだけということになる。実は浮気は芸の肥やし論も浮気などとんでもないという論もその根っこは同じである。

普通の人たちは「河原乞食」と俳優や芸能人を蔑んでいた。だがそこに日常に縛られない自由さも感じていた。一方今では「セレブ」と呼ばれるのだが、セレブは準公人と見なされて極端な道徳性を求められる。同じような過度な期待は韓国でも見られる。セレブの逸脱行動ばかりか結婚までもバッシングの対象になり、私生活を覗こうとするサセンというファンが問題視される社会だ。どの国にもおそらくこうした混同があるのだろう。

浮気は芸の肥やしというような余裕がなくなったことが芸術をつまらなくしているわけではない。おそらくはキャラクターと俳優の私生活を同一視する姿勢そのものが芸術をつまらなくしている。

テレビドラマにせよ映画にせよ、物語よりもタレントのネームバリューばかりが求められる。すると同じような物語ばかりが作られてやがて飽きられてしまう。すると今度は医療ものと事件もの(警察か弁護士)ばかりという状態になりそれもまた飽きられるという砂漠化が起きているのだ。

エンターティンメントが生きのこるためには劇作そのものが面白くなければならないのだが、なかなかそのようにはならない。こうして面白い脚本が減ってゆく。

最近のテレビは面白くなくなったとか演劇は面白くなくなったなどとは言えるわけだがなかなか頑張っている活動もある。草彅剛が「アルトゥロ・ウイの興隆」を演っているそうだ。

この舞台は白井晃が手がけているそうだ。ブレヒトといえば感情移入をせずに物語を客観的に見るという異化効果という手法を採用していることで知られている。異化効果というのは演劇に共感しがちな日本人に対するアンチテーゼとして日本の演劇人が特に強調しただけで本国ではあまりそのようなことは言われないという話もある。また言葉が一人歩きしているだけという批評もある。いずれにせよこうした「客観視を要求する芸術」はテレビでは扱いが難しい。この芝居にテレビから解放された草彅剛が参加するというのは面白い試みだと思った。

同じSMAPの中でも木村拓哉がキャラクターと実生活を同一視されている。本人も認めるように木村拓哉はなにをやってもキムタクであり、企画も「あの木村拓哉が」と宣伝される。ところが演劇では「何にでも憑依する依り代」としての草彅剛が求められる。普段YouTubeで飄々としている姿も実は実像ではないのではないかと思わせるくらい振り幅が広い。同じSMAPで長年共にしていてもその姿はまったく異なるものになってしまっているのだ。

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