「笑いごとではなくなってしまった都市伝説みっつを論破する」というオンライン上の論文の中に、派遣労働に関する記述がある。派遣会社が行なっているのは「付加価値の創造であるから、存在意義を認めよ」という主張だ。これだけを取り出して経済学的に論じると、このステートメントは「是」である。GDPを算出するにあたって、派遣会社のサービスは日本経済に付加価値を与える。
よかったね…これからも派遣労働を続けてよいよ。
とはならないと思う。ただ、こうした問題を真剣に考えなければならないのは「金融」のヒトではないとも思う。
派遣労働が好まれるのにはいくつかの理由がある。
一つ目は経済的な負担が減るからだ。整理解雇の時の退職上乗せ金、保険、年金などがそれにあたる。
二つ目は固定費の削減だ。特に製造業は設備が老朽化し、内需も外需も縮小してしまったために、余剰な設備を抱えている。これを整理しないままで「人間」を整理してしまった。儲かるときだけ調達してきたい。変動費化とでもいうのですかね。別の産業も興ってこないようだし、今まで工場で働いていたヒトがプログラマになれるわけでもない。プログラマすら余剰なのだ。
三つ目は終身雇用の維持だ。給料体系を別立てにすることで、結果的に終身雇用された人たちの給与を維持している。おまけに身分制度的な受け取られ方をする。中世的な「下見て暮らせ」政策だ。完全に経済合理性だけで派遣が使われていたとしたら、正社員の派遣イジメのようなことは起きなかっただろう。が、実際にはこうした問題が発生している。
対価
だが、それぞれに社会は対価を支払っている。
一つ目は会社が負担しなくなった社会保険は、誰か別のヒトが支払うことになる。最終的には国が支払う。国というと分かりにくいが、税金だ。つまりこれを読んでいるあなた(ただし、働いているヒトのみ)が支払うのだ。さらに、年金システムや国民健康保険にも悪い影響を与えるので、システムの維持が難しくなる。こうなると、年金受給者も他人事ではいられない。これを国債で調達することも考えられるが、これは長期的にみて(下手したら短期的に見ても)維持可能ではない。明日の票を心配する政治家はどうだかわからないが、社会の継続性を考える政治家はこの問題に取り組んだ方がいい。
二つ目は経済合理性だ。前回「レイオフは株価を押し上げなかった」という記事を読んで勉強したように、安易な解雇には経済的な合理性がなさそうだ。加えて派遣労働者を大量に採用するにはそれなりのコスト(新聞で労働者を募集したり、教育したり、営業マンがかけずり回ったり、履歴書を整理したり…)がかかる。「派遣を使えば固定費が削減できる」ということだけを見ると確かに合理性がありそうだが、経済全体での合理性は低いように思える。確かに付加価値なのだが、一つの労働にたいして関わるヒトの数が増えているだけなのだ。おかげで何か新しい仕事があるたびに企業はリソースの確保を行なう必要がでてくる。これは生産的な付加価値なのか。しかしこれを考えるのは金融屋のシゴトではない。経営者のおシゴトだ。
三番目はちょっと深刻だ。終身雇用制を維持するために「コアでない人たち」を派遣化した。例えば工場労働者は高度な技能を必要としない限りに置いてはコアでない人たちだといえそうだが、工場のちょっとした工夫が生産性を上げる可能性は排除されてしまうだろう。また、店頭のスタッフをアルバイトにすることはできるだろうが、彼らは顧客接点なので、これを単純労働力で置き換えるのは実は危険なことなのだ。「新しい発見」ができなくなりつつある。これが「モラル」とか「モラール」とかいう領域にまで踏み込むと生産性は確実に下がり始める。
この件に関してもう一つの問題は、人事部の生産性の問題だ。人事部は採用権限を持つが、かならずしも経営的な判断を行なうわけではない。彼らは派遣業者と接するときにはお客さんになる。お客さんは神様だから、かなり鷹揚に振る舞っているはずだ。何かあったら営業を呼ぶ。これが実はコストになっている。その他に現場とのやり取りも発生する。これがすべて料金に乗ってしまうのだ。さらに現場ではここから教育を加え必要な調整を行なう。明確なコスト意識がないと(多分コスト意識を持つためには当事者意識が必要なのだろう)ここを合理化するのは難しい。ここで値引きの交渉が始まると、営業マンや派遣労働者への支払いが影響を受ける。するとやる気がなくなったり、職場で不満を訴えるかもしれない。しかしそれを受けるのは人事部ではなく現場のマネージャたちだ。すると、さらに時間が取られ…。
結果的には、終身雇用すら怪しい状況が生まれているようだ。社員をリストラしたり、海外移転を避けられない会社が出て来た。新卒すら採用することができないし、いったん採用した人たちを恫喝して辞めさせるという(大学生からすると悲劇だし、企業側から見ると究極のムダといえる)この流れはさらに加速するだろう。変化を臨時雇用の人たちに押し付けたせいで、結果的に自分たちが変化するきっかけを失ったと言ってもよい。
処方箋
労働者側から見ると「ピンハネされていると思うなら辞めりゃいい」と思う。多分日本人はマジメ過ぎるのだ。ただ、最初にこうしたシステムにたいしてサボタージュを行なう人たちは大きな社会的圧力に曝されるだろう。周りに理解者がいないわけだから、個人を責めさいなむことになるかもしれない。自由は時に過酷だ。ただ、めちゃくちゃな主張に聞こえるかもしれないが、マルクスだって「搾取反対」という主張を理論で固めた訳だから、頭のいい日本人にそれができないはずがない。要はヒトが納得できて、シンパシーを覚えることができる理論を構築できるかどうかにかかっている。ただ、本来社会に経済的な付加価値を与えるはずの労働者が反乱を起こした状態は、平たくは「資本主義の死」と呼ばれることになるだろう。
ただ、戦う相手は多分派遣会社ではないように思える。どうも日本の会社全体に蔓延している「コスト意識のなさ」が敵なのではないかと思う。「デフレなんだから生産性なんか上げたってさ」という気分である。これを解決するのは、強力なリーダーシップを持った企業家や起業家であるべきだろう。もし日本にこうした類いの人たちがいないのであれば「日本はオワタ」状態なので、そのまま停滞してゆけばいい。
次の問題はこうしたいびつな労働条件を導入しなければ延命できない企業の問題だ。努力すればなんとでもなると思うのだが、どうもそうではないのだという。こうした企業の中には「派遣労働がなくなったら海外に出てゆくしかありませんな」という人たちがいる。こうした企業に対峙して政治家達が「それは大変だ」と思ってしまうのは、日本は結局製造業しかできない国で別の産業など起こり得るはずがないという変な確信があるからだろう(まあ、平たく言ってしまえば自信を失っているわけだ)。もしそうであれば「日本はオワタ」状態であるので、そのまま停滞に向かうべきだ。イノベーターがあらわれないのも資本主義の死だ。
でも、それでいいのかねと思う。こうした状況を改善するのは、全体的な派遣の禁止ではないだろう。しかし、もし企業経営者たちが一人ひとりの努力でこうした状況を改善してゆこうという意欲を失っているのであれば「禁止」してやってもいいかもしれない。みんながやめないとやめられないというのは非常に情けない事態だ。
これはタバコやアルコールに似ている。飲むも飲まないも個人の自由だ。しかし、これなしで生活できなくなったとしたら、これは別の話だ。こうした状況を「中毒」という。肺がんになってもまだ喫煙をやめられないのであれば取り上げてやった方がいい。ただ、その前にもう一回考えてみるべきだろう。経営者には本当に自由意志が残っていないかどうかということを。
藤沢さんがこの説で言っていることは一つだけ正しい。自由市場では過度な政治的参入はない方がいい。しかし「みんなが派遣を使い倒すから俺も」と言っている社会が本当に自由市場なのかはもう一度考えた方がいいだろう。なぜならば、個人が考えられなくなった社会では、いろいろな局面で「親切な政府」が介入することになるだろうからだ。これは資本主義の死よりも恐ろしい。これは自由の死で、もしかしたらいつか来た道の再現なのかもしれないからだ。