今回考えるテーマは「良い愛国と悪い愛国」なのだが、それだと誰も読んでくれそうにないので、日本維新の会に関係したテーマを付けた。さらにアベノミクスはなぜ詐欺なのかを考えた。これを考える直接のきっかけになったのは、森友学園問題で自称愛国者の人たちが我先に逃げ出したのはどうしてだろうというものだった。なぜ利己的な人ほど愛国思想を語りたがるのだろうか。
印象的には「あの人たちのいう愛国は本物じゃないんだろうな」と思うのだが、面倒なことに文章にするには本物の愛国主義を定義しなければならない。だが、愛国主義はさまざま悪用されてきたのでなかなかニュートラルに考えられそうにない。そこで、愛国主義は集団主義の一種であり、集団が家族や企業などではなく、国に拡張されたものだと定義することにする。すると「良い集団主義」について考えればいいことになり少々気が楽になる。
「よい集団主義」を定義するうえで重要なのは持続可能性だろう。つまり、各個人のがんばりが、集団を通じての方がより効果的に蓄積されるとき、その集団主義は「機能している」と考えることができるはずだ。
すると、個人主義は個人間の契約に基づいた価値の交換が行われている形態だと定義できる。個人が価値の交換に納得でき、なおかつそれが全体を活性化させられればそれは機能している個人主義だ。個人主義はイメージ的にはブラウン運動みたいなものなので、運動を阻害する規制は排除されなければならないということになる。
すると集団主義は「個々の契約でみると一方的な価値のやりとりがあるかもしれないが、それが集団を通じて何らかの形で再分配される」から機能するのだということがわかるだろう。それは時間的な蓄積かもしれないし、あるいは空間的な蓄積かもしれない。もし一方的に簒奪されるのなら、それは奴隷制であって集団主義とは言えない。
例えば、終身雇用はよい集団主義だった。若い頃の労働は持ち出しになるが、それが数十年後に戻ってくるからである。再配分が機能している限りにおいてその集団主義は正当化される得ると考えると終身雇用は機能していた。またかつての農村もよい集団主義だったのだろう。若い頃働けば最後まで養ってもらえるからである。
ということは、集団主義が成り立つためにはいくつかの要素があることがわかる。まず集団主義には「生業」が重要で、時間的な蓄積が伴う場合には、その生業が長期間変わらないという条件がつく。再配分が成り立つためには創造された価値を蓄積しておく必要がある、ゆえにそもそも生産設備を持っていなければならない。つまり、集団主義は価値の創出がある場合においてのみ正当化されるということになる。武士のような寄宿層がいたとしてもそれは生産集団としての藩の一機能に過ぎず、単体では存在できない
アベノミクスが失敗したのは、政府と有権者の間に「生産者」がいないために価値の創造が起こらないからだということが言える。価値の創造を行っているのは企業なので、小規模生産者と自民党の間には関係が成り立ちうるのだが、企業が抜けてしまうとプロレタリアートと政党の間には再配分が起こらないのだ。公明党は企業とは関係がないではないかと思われがちだが、島田裕巳の研究によれば農村コミュニティが都市に同化した形態であり中小企業経営者らとのつながりが強く、やはり生産との関係があることがわかる。
ここから得られる景色はちょっと変わっている。つまり「良い愛国」と「悪い愛国」には主張そのものの違いがないということである。違っているのは背景であり、主張だけを見てもそれが良いものか悪いものかは判断できない。しかし、再配分の裏打ちがあることだけは重要である。
この点、アベノミクスは私物化と言われるが、それは必ずしも正しくないことわかる。彼らは生産を持たないかあるいは持続可能性を欠いているので、何らかの形で有権者一般から収奪して、自分たちのシステムに利益を誘導する必要がある。集団の中では利益を分配するのだから、支持者たちの中では私物化ではない。が、その他大勢の有権者にとっては単なる「支持者への利益誘導」であり私物化のように見える。つまり、安倍首相はよいリーダーということになり支持者たちの期待に応えているだけだということになる。唯一の問題は彼が日本全体の首相であるべきで、日本国憲法と法律の許容する範囲で行動することを期待されているということだ。だが、法律を遵守していては集団が維持できないほど、日本は持続可能性が低くなっているのだろう。
このように、集団が持っている再配分機能が失われると、政治家は集団的な人たちのコントリビューションが期待できなくなるということが予想される。それは集団的な考えを持った人たちのコミットメントが将来のリターンによって動機付けられるからだ。だから、政治家は何らかの形で利益が配分されない有権者を繋ぎとめておく必要が生じる。しかもリターンはできないのだから時間軸はより壮大である方がよい。すると「来世で報われる」というさらに長期の時間軸でもよいわけだが、さすがにそれは信じ難いので「国」という壮大な物語で時間稼ぎをするのだろう。社会の再配分機能があるときには「ことさら愛国を叫ばなくても集団主義が機能する」ということになり、ことさら愛国を叫ぶ人はすべからく詐欺師である可能性が高いという結論が得られる。ここでいう詐欺師は約束を守るつもりがあっても、それが実行できない人を含む。
さて、それでも物語を約束出来る人たちはまだ恵まれている。それすら約束できない場合にはどうすらばよいのだろうか。ここで、維新の会が出てくる。彼らは自分たちの支持基盤も生産手段も持たず、自民党から利権を収奪する形で大阪で成立した。しかし、そのままでは衝突が予想されるので協力者の形を取りながら自民党に擦り寄る戦略にシフトした。しかし彼らは自分たちでは価値が創造できないので「彼らの敵である民進党を攻撃する」という形をとるしかなかった。しかし、民進党は野党としての存在感を失ってしまったので、敵としての価値がなくなった。だから維新の会は今行き詰っているはずだ。
日本維新の会のタチが悪いのは、彼らが浮動層を支持基盤にしており、自分たちで価値が作り出せないからということになる。価値が創造ができないから、それを蓄積することもできない。ゆえに常にどこかから簒奪してくる必要があり、なおかつ利用価値がなくなれば捨て去るしかないのだ。ゆえに党首(松井一郎さん)の人格はあまり関係がないということになる。しかし、もし彼が自民党にいたら一生雑巾掛けで終わっていたかもしれない。浮かび上がるには奪い盗るしかないのだ。
さて、集団主義が機能するためには再配分が重要だと考えた。もしこれが正しければ、集団主義が成立するためには「生産が固定的であり」かつ「長時間持続する」必要があるということがわかる。しかし社会が変化してくると、集団主義に依存することはできなくなるはずだ。ここから集団主義は個人主義に移行する可能性が高いということが言える。一方、アメリカでは真逆の動きが出ている。個人主義が行き過ぎると、勝者と敗者の二極化が起こる。すると敗者の側は我慢ができなくなり、集団主義を頼み勝ちすぎた個人を淘汰するような動きが起こるはずだ。このように集団主義と個人主義はどちらかが究極ということはなく、つねに振り子のように揺れているのかもしれない。