今日の話はいささか屈折している。少しショッキングな構図を作ったほうが異常性が伝わりそうに思える。しかし、読み終えても異常さに気がつかない人も多いかもしれない。
電通の新卒社員高橋まつりさんが自殺し「一生懸命勉強したのにかわいそうだ」とか「東大まで出たのにブラック企業で働かざるを得ないとはかわいそうだ」という論評が出ている。
このためネットでは「日本でも労働規制を」という署名活動まで起きた。直感的に何か違うのではと思ったのだが、それが何なのかよくわからない。
そもそもなぜ労働時間は週に40時間程度ということになったのか調べてみた。それは1日の労働時間を8時間程度にしようというムーブメントが起きたからだ。ではなぜそうなったのか。いくつかの理由があるようだ。
労働時間が40時間程度になったのは第二次世界大戦後のことなのだそうだ。それまではヨーロッパでも労働時間はもっと長かった。だがなぜそんな動きが出たのかを書いた記事は見つけられなかった。第二次世界大戦後「人権」という概念が一般化し徐々に広まったなどと書いてあるばかりである。つまり、それは当たり前のことだとされているのだ。
まったく別のアプローチから週の労働時間を削った会社がある。それがフォードだ。フォードは自分たちの製品が「余暇」によって支えれていることを知っていた。つまり消費者がいて余暇や生活を楽しむために自動車が必要だというビジョンを持っていたのだ。そのために労働者を厚遇して余剰所得を作りなおかつ余暇の時間を作ったのである。つまり、生産者が消費者でもあるということを認識していたからこそ労働時間を削ったのである。
労働時間を規制すると人生の質が上がる。すると余暇が増えて企業も潤う。労働時間は短縮されるので時間当たりの生産性を上げてアウトプットの質を落とさないようにした。これがヨーロッパを中心に起こったことである。
また、格差縮小という動機もあったようだ。オランダは失業率を改善するためにワークシェアリングを導入して平均の労働時間を下げた。労働市場からのアウトサイダーを減らすためだと説明されている。オランダではガス田が開発され製造業が傾いた。企業の投資が資源・エネルギーセクターに流れたからなのだろう。ではなぜアウトサイダーを減らす必要があったのか。それはアウトサイダーが社会の負担になるからだ。
いずれにせよ、欧米で労働時間が削減されるのは、より快適で人間らしい生活が送りたいという欲求があったからだということがわかる。逆を言うと国民の間から「人間らしい生活を送りたい」という要望が出なければ、労働改革は進まないのである。
非民主主義国ではこれが成り立たない。例えば北朝鮮には強制労働の習慣があり、多くの国民が長時間労働で搾取されている。中には食事を与えられない人もいるそうで、仲間の死体でねずみを集めるなどというようなショッキングな話すら出回っている。このほかに海外に出稼ぎにゆかされて7割を国に搾取される人たちもいるということである。
さて、日本の事例を見てみよう。実は平均の労働時間は減少しつつある。高齢者が引退の時期を迎えて非正規に置き換わっているからである。企業は正社員を育成したがらないので、正規雇用は減りつつある。日本とアメリカを比べるとアメリカの方が平均労働時間は長い。日本人が働きすぎというのは、平均値で見ると嘘なのである。
だが、これは平均の話である。非正規が増えると管理コストは増す。それを補うために正規雇用の最下層の人たちに圧力がかかる。
ブラック企業で働かされている人は2種類いる。学生なのに飲食店などで非正規雇用に従事していて学校に行けないような人たちと、名ばかり店長のように名目上は管理職なのだが実際には末端の正社員に過ぎないような人たちだ。後者は正社員ピラミッドの最下層に位置づけられている。悪条件でパートが集まらないとこの人たちが搾取されるようになる。また「非正規への転落」を恐れて長時間労働から抜け出せない人たちもいる。
北朝鮮では長時間労働は「無理やり働かされる」ことであり強制労働とほぼ同じことなのだが、日本ではやっと正社員になれた人たちが自分から進んで入る場所だという違いがある。日本では(もし生き残れれば)賃金をもらえるという違いもある。だが、24時間働くような環境ではお金を使うことはできないわけで、ほぼ同じことなのだ。
つまり「東大を出たのに強制労働まがいの職場しかない」わけではなく、東大を出たからこそそのような職場に入ったということがいえるのだ。故に日本では強制労働所入りが特権だとみなされていることになる。
日本人はかなり倒錯した感覚を持っているのだが、日本にいるとそのことには気がつきにくい。それどころか長時間労働を自慢する人さえいる始末である。
労働時間の議論は環境問題に似ている。よい空気の下で過ごしたいのは健康で人間的な暮らしがしたいからである。ではなぜ健康で人間的な生活がしたいのか。そこには理由はない。日本では当たり前の議論なのだが、中国ような国ではこれは当たり前ではない。
しかし、日本人は中国人を笑えない。かつて日本では喘息が起きるような地域に住むことが特権だった時代がある。製鉄所の煙は「七色の煙」と言われて繁栄のシンボルだとされていたのだ。
日本人が労働時間短縮に踏み切れないのは結局のところ、人間は労働だけでなく豊かな生活を楽しむべきだという認識が持てないからなのだ。国の政策もそれを後押ししている。
自民党が推進している労働改革には二種類ある。一つはパート労働者から社会保険料の免責特権を剥奪してパート労働者を調達しやすくしつつ社会保険料の担い手を増やそううとする<改革>で、もう一つは正社員の残業支払いを免除しようという<改革>だ。双方とも労働賃金の抑制を狙っている。
これは安部政権が企業を自分たちのスポンサーだと考えているからなのだが、実際には国と企業の利益は背反する。企業が賃金や社会保険料を支払いを抑制すると、社会が生活保障を賄わなければならないからである。これはオランダの議論を見ればわかることだ。しかし、日本ではこのような議論にはならずに場当たり的な対策が議論されるばかりだ。
しかし、日本の有権者は企業の側に立った政策を支持してしまう。労働者も個人の選択として強制労働のような状態を選好している。つまり、日本人は進んで死にたがっているという結論になってしまうのである。
たとえて言えば、日本には食べ物はないが空気がきれいな田舎でおなかをすかせて死んでゆくか、公害の中で息ができなくなって死んでゆく2つの選択肢しかないことになる。