小池都知事が豊洲移転の「犯人捜し」の結果を公表するそうだが、「誰が盛り土を最終決定したのか」見つからなかったのだという。マスコミは主犯の不在に驚いて(あるいは驚いたふりをして)いた。
日本人のコミュニティには幾つかの特徴がある。これはアメリカとは異なっており、中国などとも違っている。東洋的でも西洋的でもない日本人に独特のものだ。
- 日本人は個人の意思決定を尊重せず、強いリーダーシップを敬遠する傾向がある。強いリーダーは自滅するか排除される。このため中心が空洞な組織が作られる。
- 日本人はチームワークを嫌がり他者からの干渉を嫌う。逆に他のチームが困っていても助けない。
リーダーシップを忌避する傾向は幼い頃には完成する。国際的に見ると、先生には従うがそれは綺麗的な傾向があるのだという。おとなしくしているのは周りから問題児だと見なされたくないからであって先生を尊敬しているからでもそれが良いことだと考えているからでもない。こうした態度は社会に出てからも継続してみられる。いっけんおとなしいが、乳幼児を連れた親に道を譲らずにスマホを見ながら我先に行こうとするというような社会ができる。他人に興味がなく干渉もされたくないというのが日本人だ。
これだとプロジェクトは破綻しそうだが、その代りに周囲の状況を読む能力を発達させた。一般に「コンテクスト」とか「文脈」とか言われる。それを「読み合う」のだ。代わりに日本人はあまり言葉を信頼しない。契約や約束はその場の雰囲気を悪くしないために使われるのであって実質的な意味は持たない。題目は作られるが誰も反対ができないものが選ばれる。
コンテクストを読むために必要なのは共通の経験だ。同じような人たちが同じようなことをするからコンテクストを読み合うことができる。日本人が急速な変化を嫌うのは、コンテクストが読めなくなってしまうからだ。だから外から新しいアイディアが入ってきてもそれが取り入れられることはない。序列すら曖昧なので「いつ入社(入省)したか」ということがとても重要だ。
このようにして日本人は縄張りを中心に居心地の良い空間を作り出してきた。しかし、これが破綻することがある。全体的な責任者がはっきりしないので、問題が起きても止まって考えたり、作戦を変えたりできないからだ。
第二次世界戦では「防衛ラインを踏み込まれたらどうするか」という統合的な戦略を持たなかった。兵站なしで兵士を派遣して多くの餓死者を出し、沖縄を犠牲にして本土を守ろうとした。いわば時間稼ぎをしようとしたわけだが、時間稼ぎをしている間にプランBを考えるというようなことは一切しなかった。ドイツにはヒトラーという責任者がいたが、日本の裁判でわかったことは「この戦争が特定の責任者がいないにもかかわらず粛々と進行した」ということだった。第二次世界大戦は全体的な作戦(どうするかはよくわからないが、根性だけで本土だけは必死で守る)が破綻してもとまらず、広島と長崎の犠牲者が出てはじめて止まった。
東京オリンピック招致でも同じ問題が起きた。甘い見積もりで招致したあとで各部署が予算を膨らませて一括で東京都に請求することにした。その額は3兆円だそうだ。驚いたことに予算を監督する人は誰もいないそうだ。案の定「責任者を置くべきだ」という話になっているが、森喜朗会長はそれを拒否する構えだ。都から干渉されたくないのだろう。IOCは都と国が財政バックアップをするからという理由で開催都市を決定しているのだから、誰も責任者がいないことを知れば大いに驚くだろう。そもそも、誰も責任者がいないのに意思決定できていたのはどうしてなのだろうかという疑問が湧が、それでもなんとなく物事が決まってしまうのが日本人のすごいところなのだ。
豊洲の問題にも似たところはある。有害な土地を食品を扱う場所にふさわしい安全基準にすることはできなかった。安全基準は「絶対に誰も責任を問われることはない程度」に高く設定されるが、土地の造成は「予算が許す限り」に低く設定される。誰かがリーダーシップを取ってリスクコントロールするという発想はない。「何かあった時に責任が取れない」と考えるわけだ。結果的に合わて具体的な建物ができたところで、今までの説明が違っていたということがわかり計画が破綻した。ここでも活躍したのは現場の人たちだ。彼らは必要な予算を請求し、無理難題とされる「安全設計」はしなかった。彼ら建築家たちは現在「関東軍」と言われている。
注目する人は少ないが、医療費の高騰問題も起きている。患者に必要な治療費は言い値でいくらでもでてくる。これも患者が悪いというわけではない。専門性を持っていて外から規制を受けない医師が「関東軍」になっていて、無制限のお財布にお金を請求するからだ。厚生官僚の中には5年で破綻するという人がいるが「実際に破綻するまでは国は何もしないだろう」と言っている。形式上の責任者は総理大臣なのだが、問題の把握すらしていないようだ。この構造のため「甘えている患者が悪い」など言い出す人も出てくる始末だ。
このリーダーシップの不在と専門家の<暴走>という図式は至る所で見られる。このため日本の産業は触れるものだけが得意で、触れないもの(例えばITのような)ものは苦手だった。流通やサービスなどの無駄を全体的に最適化させるようなこともできなかった。一方で触れるものだけはなんとか間にあわせることができていたわけで、豊洲やオリンピックの問題は、私たちの社会が形のあるものすら作れなくなりつつあることを示している。
この構図は文化に根ざしたもので簡単に変えることはできない。この経験は数年後には地域社会と医療の崩壊という形で顕在化するだろう。