主語のない言語 – 日本語は情報を通して把握していない

スーパーで、東京オリパラ2020、いよいよ1年前!というポスターを見つけた。このポスターを読んで違和感を持ったので「これおかしいですよね」と書いた。違和感があるとか、下手なコピーであるというようなコメントはあったが「文法的に間違っている」という人は、一人を除いていなかった。その一人は日本人だが英語が堪能で今はドイツに住んでいる人だった。




このポスターがおかしいと感じるのは、これを文章として捉えているからだろう。「東京オリパラは今から1年後です」が正しい文章だ。つまり文法的に間違っているのだ。

ではこれをおかしいと判断していない人は、なぜおかしいと感じないのか。それは東京オリパラ2020年。今はいよいよその一年前!と分けて読んでいるからなのだろう。つまり日本語には英語のような「センテンス」がそもそもなく、語句の集合体なのだ。文章はこの語句にジョイントをつけているだけなのである。

このポスターが通じるのは日本人なら誰でも東京オリパラが今から1年後にあると知っているからである。経験を同じくする人たちの間では「いよいよ一年前!」というと、隠れた主語が「今」であるとわかる。多分、経験を同じくする人たちの間で鹿話されてこなかった日本語には主語が要らないのはそのためだ。

この文章において東京2020オリパラは「主題」であって「いよいよ1年前!」というのは単体の語句だと考えればいい。そして文章としては「今はいよいよ1年前!」が正しい日本語の読み方なのである。だから「東京2020オリパラ」のフォントと色を変えればよかったのにというコメントがついた。別々の文章であると明示すれば矛盾はなくなる。また「前」は前向きだが「後」は後ろ向きというコメントもあった。正確さよりも感じの良さが優先されるというのは仮説としてはとても面白い。

英語やドイツ語といった印欧語には主語と述語があり位置関係で役割が決まる。当然東京2020が主語でいよいよ1年前が述部だということになる。するとこの文章は間違いということになる。つまり、英語話者は単語から文章を「作ってしまう」ことになる。

そもそもこの文章は英語に訳せない。英語にするには「今は東京オリパラまで一年」としなければならない。世紀の文法では形式主語を立ててnowを補足に使うことになるのだろう。関係でなく距離を使わないと文章にならない。関係で記述しようとすると、2020年と2019年という二つの軸ができてしまうので文章も二つになる。

だから日本語で発想する人の英語には限界が生じる。日本語はそれぞれバラバラの単語や単語の塊がありマーカーをつけて連想して記述できる。構造を意識しなくてもいいので、構造に落とせない文章が出てきてしまうのである。日本語の方が自由度は高いがその分正確さにかける文章も書けてしまうということになる。

よくQuoraで句点が多く読みにくい文章を見かける。高齢者が連想的に文章を作っているようだ。日本語ではこういう文章が書けてしまうのだなあと思う。連想的に作られる文章の主題は「いい悪い」という感情なのでそれがすなわち心象藪ということになるのかもしれない。

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