西田昌司参議院議員と有志が「税金を安くして子供の数を増やそう」と検討しているという。この人たちは、いつも日本の伝統を取り戻そうなどと騒いでいるが日本人のことを何も知らないんだろうなあと呆れ果てた。
かつてあった「家族的な価値観」がよみがえれば、社会が俺たちの言うことを聞くだろうと思っている自民党議員がいる。憲法まで使って家族的価値観をよみがえらせようとしているのはそのためだろう。だがこれは皮肉なことに、彼らの政治的スキルの欠如の告白にしか過ぎない。つまり日本人をどうドライブするかということを知らないまま政治家になったのだ。政治家は決まりを作る人なので日本で一番えらいはずだという中学生のような見込みがあるのだろう。
このことを考えるためには「そもそも家族とは」ということを考えてみなければならない。家族とは社会保障と事業の単位が血縁で構成された集団を指す。血縁だけで自動的に家族が構成されるわけではない。日本の場合、血縁だけで家族が構成されることはなく、養子縁組して優秀な人をよそから迎え入れることも少なくなかった。結婚しても家に入れない韓国とは家族のあり方が違っている。このため血族集団は古くから記号化した。
こうして記号的になった家族は多くの集団のモデルになった。ところが国家が第二次世界大戦で家族を裏切り、企業がバブル崩壊で家族を見限ったために、残る集団は宗教だけになってしまった。
自民党の支持者が減少して公明党に依存しているのは偶然ではない。宗教団体だけが「家族的な」結びつきを持っているからだ。
第二次世界大戦でかつてあった事業体としての家族が崩壊した時の記憶はないが、企業の家族性が崩れてどうなったかということを体験している人は多いのではないか。この家族制度は終身雇用制度と呼ばれていた。
有名な松下幸之助の逸話がある。松下は宗教から経営を学んだとされている。リンク先のエピソードでは宗教と使命感の話が中心になっているのだが、ポイントは使命感を教団メンバーが共有しているということである。教団メンバーは奉仕を通じて宗教団体の運営にかかわるのだが、多分リーダーのいうことをただ聞いているだけではなく、下からの改善要求などもあったはずである。
つまり教団は「集団のことをわがことのように考える」団体のモデルになっている。この「わがことのように考えることができる」集団が家族なのだ。宗教団体にヒントを得た松下は家族的な経営を推進した。従業員だけでなく代理店も「家族的に扱う」ことで持続性のある企業を作ったのだ。
従業員は生涯松下に食べさせてもらうので、会社を「わが社」と呼び、社長を「親」だと感じる。そして会社のために尽くすようになる。こうして徐々に生まれたのが終身雇用制度だったと考えられる。日本の労使関係は対立が少なく「家族的」といわれることが多かった。
われわれが今体験しているのは、社会から「わがことのように考えられる」一体感が失われるとどうなるのかという壮大な実験だ。会社は労働者を搾取するようになり、労働者は自分が得た知識を出し惜しみするようになった。地域も崩壊しつつある。学校はPTAの労働力を使い倒すか、あるいは先生を土日に稼動させて「無料のクラブ活動」に動員させようとするという奪い合い社会になりつつある。日本人の「われわれ」の親密さの裏側にあるのは「私とあなた」の極端な冷淡さである。日本人は「あなた」を決して信用しないし、そもそも感心すらない。
「われわれ」が失われるとリソースの奪い合いになり、協力から得られるはずだった余剰利得も失われる。余剰理屈を蓄積したのが経済成長だと考えられる。
そもそも、自民党の暴走議員たちが「憲法で国民を縛って国家(それはつまり俺たちエラい議員のことなのだが)に協力させよう」と考えるのは、国民を「わがこと」のように考えていないからで、すなわち社会の荒廃の一現象に過ぎないのだ。
こうした社会では相手を動かすためには短期的な利益誘導をするしかない。そこで出てくるのが「税金を優遇して世論を操作しよう」とか「価格を下げて買ってもらおう」いうような作戦である。だが、短期利益で世論が誘導できるのは、財源がある場合だけなので、当然持ち出しになる。つまり、利益だけで誘導しようとすると、消耗戦になってしまうのだ。
最近ではふるさと納税制度が消耗戦を起こしている。二十三区の区長が「やめてくれ」というほど利いているようだが、流出を食い止めるためには「お礼」を増やすしかない。このようにお礼合戦がエスカレートするので「お礼」を転売する商売まで生まれている。税金で「われわれの社会を支えている」というようなマインドは日本人は持たない。それは、地域社会は「所詮他人事」だからである。
自民党議員たちは日本人がどのような動機付けで動くかと言うことを良く知らないので、家族的な価値観を強制するか、インセンティブで誘導するかという二者択一しか思いつかないのだろう。だから自民党は(多分民進党も)日本経済を成長させることができない。
では日本は宗教国家化すべきなのだろうか。日本人を大きな家族にするためには、一生を国家が丸抱えするような目的が必要だが、そんな目的は提供できない。あるとしたら戦争くらいだろう。
では終身雇用のような制度を導入するか、奪い合いによるダウンスパイラルが続くという二者択一しかないのかと思う人もいるかもしれない。もう一つのとりえる道は「目的」とか「理念」のもとに協力すると言う個人主義的な結びつきである。
だが第一に「私はこれがしたいから」協力してくれということがいえない。自分のやりたいことを宣言するのはわがままだと考えられてしまう上に、危険が多いからやめておけと言われかねない。
第二に、日本人は理念を持ちえるかという根源的な疑問がある。厚切りジェイソンが「日本人は政治的信条をテレビで言わないのに外人には政治的理念を聞くからずるい」というようなことを言っていた。個人主義社会に育った人としては当然の感情だろうが、日本人は「そもそもなぜ厚切りジェイソンが個人的信条を持っているのだろう」という点を不思議がるのではないか。
日本人は周りに合わせてそのときに得になりそうなことを言うのが正しい態度だと考えている。理念は文脈が持っているもので個人はどの文脈に従うかという自由があることになっている。ここであるポジションにコミットしてしまうことは「危険」でしかないのだ。
「日本人は他人に関心がない」などというと、自虐史観だなどと言う人が出てくると思うのだが、これを受け入れないと社会を成長させることができない。泣いても叫んでも人は「わがこと」のためにしか全力を尽くさないのだ。