噛み合わない議論に巻き込まれた
先日書いたアイヌ民族についての文章に反論が来た。読んでみたのだが何が言いたいのかさっぱりわからない。最終的にはTwitterで返信をもらったのだが要領を得ない。引用はやめてほしいと言われたので、まとめると次のようになる。
「アイヌ民族などいないという文章は気に入らない」「読んでみると合意できる点も多いのだが」「やはりアイヌ民族などいないという文章は世間に悪用される可能性がある」
実際にはもっと長い文章で、散発的に二時間くらいかけて送られてきたので「こんなに短くまとめる」ことに対して反発はあるかもしれないのだが、実際の論理構成はこんな感じなのである。
最初は理解しようと思ったのだが、散発的に送られてくることもあり、途中で読むのが面倒になってきた。文章を書いた以上は話を聞く義務があると思うと反面、もうちょっと効率的に反論してくれればいいのにとも思った。
だが同時に、日本人特有のある構造がわかって面白いなとも感じた。
この人が問題にしているのは文章ではなく「周囲の評判」のようだ。この人は普段から「アイヌ民族などいないから補助金は返すべきだ」という主張について反論している。だから、このブログのタイトルにも反応したのだろう。
だが、冷静に考えてみるとこの文章を否定しても周囲にいる「アイヌ民族などない」という人たちの意見を変えることはできない。このように、対話をしている当事者と実際に問題になっている人が違うというのは実は日本人の政治議論を考える上でかなり重要なポイントなのではないかと思った。
日本人の会話が噛み合わない独特の構造
これがこの人特有の問題なのであれば特に文章を起こそうとは思わなかったと思うのだが、同じような特性は左翼リベラル系の人たちに多く見られる。
憲法第9条の<改悪>に反対している人たちに、例えば「あなたが想定する戦争とは何か」とか「憲法第9条には項目がいくつあるか」などと聞いてもまともな答えが戻ってこない。同じように共産党の支持者に「現在の労働者は株を買って資本家になれるし、正規労働者の組合はむしろ非正規を搾取する立場なのでは」などと聞いても同じような曖昧な答えが返ってくる。
どうやら彼らは対象物についてはさして興味がなさそうだ。最初は自分が部外者でリベラル村の住人ではないから「相手にされていないのだな」と思っていた。
- まともに返事をくれないのだから、部外者扱いされてまともに取り合ってもらえない。
- 相手に質問を理解する能力がない。
- 実は相手は対象となっている項目に関心がない。
しかし、今回の場合、反論してきた人はトピックについて勉強はしているわけだし、まとまった文章を書いて反論してきたのだから意欲はあることになる。にもかかわらず同じような特性が見られるのはどうしてだろうか。
この人と話をしていて思ったのは、実は「あなた」ではなく「世間」が問題なのだということだ。つまり話を聞いてあげているつもりになっていても、実は最初から問題にされていないのである。
同じように憲法問題について話を聞いても、護憲派は実は話を聞いてくれない人に向けて語りかけているので、僕の顔など見えていなかったことになる。と同時に、話を聞きに来た人を説得しないのだから、いつまでたっても状況は変わらない。だから、日本のリベラル左翼の運動はあらかじめ失敗することが約束されているのではないだろうか。
何重にも世間に絡め取られている日本人
ここまでがワンフォールド(一折)である。これだけでも十分ややこしいのだがここにもう一折入る。それが日本人は個人の意見はなかったものとして考えるという特性である。例えば、人権や平和主義について考える時「私はお互いに思いやりのある国に住みたいから、人権を蹂躙するような発言には憤りを感じるのです」と言えばよいのだが、日本人は個人が意見を持つことを徹底的に嫌うので「世間はこうあるべきである」という風に課題をおいてしまう。
論の根拠というか出発点が「世間」に置かれており、さらに説得するのも「世間」なので、当事者同士で話をしても全く折り合いようがない。「世間」の意見が変容するとしても意見を変えるのは個人なので、意見変容が起こらないからだ。「Twitterの議論は無駄」という話はよく聞くが、その理由は当事者がそこにいないからなのではないだろうか。
今回も「アイヌ問題があなたにとってどう大切なのか」ということを聞いてみたのだが、やはり世間を主語にした言葉が返ってきた。さらに「何かの団体に属しているわけではなく」「世間にどんな波紋があるかわからない」ので自分の意見を発信する意味はないという言葉までが戻ってきた。
普段から「日本人は個人を徹底的に否定する」などと書いているのだから、こうしたことはわかっているつもりなのだが、実際に自発的に徹底して個人を排除しようとする姿をみるとやはり異様に思えてしまう。政治的にあるポジションにかなり強力にコミットしているのに、なぜここまで個人を消したがるのかということがさっぱりわからない。
この徹底的に個人を排除するという姿勢は「意見表明」や「情報発信」では顕著である。これは表面的に見えるのでわかりやすい。しかしその裏には意見訴求の相手としての個人も受け入れられないという側面が隠されているようだ。これが今回の一番の発見だった。
ところがここでさらにもう一折入る。個人の意見が何もないのにポジションにこだわるのは「自分の主張がどの程度受け入れられるか」ということが社会でのポジションの誇示につながるからだろう。だから、根拠が個人にない意見を表明してポジションにコミットするとそれを変えられなくなってしまう。社会ポジションを認知するのも当事者ではなく「世間」である。
さらにこの世間は個人の価値観の中にも入り込んでいる。主婦には社会的な価値はないという世間の評価を一番内在的に持っているのは主婦当事者だ。そこで「子育てをしている女は無価値である」という評判を聞くと「全てが否定された」気持ちになる。
ここまで考えてきただけでも、日本人は四重に「世間」に絡め取られていることになる。実際には個人の価値観と世間の評価の間には反響があるのではないかと思う。このようにして、世間はある蜘蛛の巣のように個人をからめとっているのではないだろうか。
憲法議論の錯綜
さて、この個人の徹底的な排除は政治議論にどのような影響を与えるのだろうか。ここではいくつか例をあげて見て行きたい。
まず手始めに憲法議論について考えてみよう。実利的な問題には落とし所があるが憲法問題は自由に決められるので却って落とし所が見つからなくなるという特性がある。
安倍首相はどうやら憲法を変えたいと思っているようだ。だが彼の成育歴を紐解くと「おじいさんのため」あるいは「お母さんから言われたから」憲法が問題になっているということがわかってくる。つまり人から言われたからそうしたいと考えていることになる。
やっとのところでそれを自分の問題だと消化したところで、今度は周囲から「勝手に憲法を変えようとしている」と言われる。そしてそれを言っているのは主に身内である。
だが、自民党の人たちが憲法を大切に考えているようには思えない。支持者を得るために急進的な人たちに近づいた形跡のある人もいるようであり、安倍首相の人気が高いから従っておこうと考えている人たちもいる。
そこで、集団でなんとなく何か変えればいいのではないかということになる。あるいは野党時代に作ったように誰が主導したのかはわからないが徹底的なルサンチマンによって成り立ったドラフトもある。この結果、自民党の憲法議論は、誰も最終的な責任を取らず撤回もされなければそれを元に議論するでもないというとても中途半端なアイディアが次から次へと浮上してくる。
さらにこれに反対する方も「議論の中身はよくわからないが」とにかく「自民党が言い出したことが気に入らない」という人たちがいて「自分の意見ではないが」「別に実質何も変わらないのなら憲法を変えなくてもよいという空気がある」などと言っている。
ここまででも十分複雑なのだが、この二つのパーティーの間の議論は実は当事者間のものではない。憲法に興味がなくなんとなくその場の雰囲気に飲み込まれて判断しそうな「一般有権者」が問題になっている。賛成派はタレントを巻き込んで宣伝すれば世間が流されるだろうと考えており、反対派は有権者は馬鹿だから軽々な判断をしないように釘をさしておこうとする。
つまり、皆が重要だと言っている憲法を本気で変えたいと思っている人は誰もいない。興味がない人がいかに自分に都合が良い判断をしてくれるかということを期待しているという人ばかりが議論に参加しているのである。
日本人が無駄な議論を繰り返しているうちに、憲法第9条の議論だけを見ても、前提条件になる東アジアの勢力図は急速に変わりつつある。ここ一年だけを見ても数ヶ月の間に北朝鮮を封じ込めるという姿勢から対話路線へと急速に転換しつつあるのだが、国内の議論がそれを織り込んだ様子はない。
「国際世論への訴求」という不毛
この「実際のキーパーソンが議論の中にいない」問題は国際問題にも波及している。例えば慰安婦問題も韓国と日本の問題のように思えて、実は当事者は「アメリカ」だろう。日本政府は、韓国や慰安婦の人たちにはさほど関心はない。このために、謝罪がとてもおざなりになものになり「日本は金で口封じをしている」という印象が韓国人の態度を硬化させる。
ここまでは主語を日本人と置いてきたのだが、実は韓国の方も日本を問題視しているわけではなさそうだ。だからサンフランシスコに銅像が立つ。韓国人の目的もまた「被害者としてのかわいそうな姿勢を世界(特にアメリカ)にアピールして「日本人の顔に泥を塗ること」なのだろう。
そう考えるとなぜ日韓合意にアメリカが関与したのかがわかってくる。どちらもアメリカに対して自分たちの立場を認めさせたいのではないだろうか。
このことから「世間を問題にする」というアプローチをとるのは何も日本人だけではないということがわかる。極めて東アジア的とも言えるしもしかしたらアメリカなどの個人主義の国にも同じようなことが起こり得るのかもしれない。
アメリカなどの個人主義の国には、世間の態度を変容させるために個人の意見を変えるというブレーキがある。日本や韓国のような集団志向が強い国ではこうしたブレーキが効きにくいのではないかと考えられる。多分アメリカは「当事者間で話し合ってくれ」というのだろうから、この慰安婦の問題が解決することはないのかもしれない。
解決策を個人を大切にすること、なのだが……
ここまで見てくると「個人の意見を重要視すれば政治的な問題は解決する可能性が高い」ということがわかる。一人ひとりの意見を変えて行けば、やがて世間も変わるからだ。だが、実際に政治的議論をやってみるとそもそも個人として問題提起するのも難しく個人としての意見を貰うのも困難だということがわかる。
もちろん、適切なモデレーションがあればそれなりに意見交換することはできるのだが、それはとても疲れる作業でもある。このためついつい「問題をなかったこと」にして異なる意見をブロックしたり、相手を人格攻撃したり嘘を並べてたりして議論そのものを無効化しようとする態度が横行するのではないかと思った。社会からはじっくり腰を据えて議論をする余裕や時間はなくなっており、気に障る意見は次から次へと流れてくる。
個人にアクセスしないかぎり政治的な問題は何も解決しない。そのうちに年収が200万円以下というアンダークラスや、政治的議論に参加する時間的余裕も精神的余裕もない中間層などが生まれて、どんどん政治や社会問題に対する関心が薄らいで行く。さらに、それがアンダークラスを増加させるという悪循環が生まれるように思えてならない。
個人の意見を大切にしないということは、実は我々の社会に大きな弊害をもたらしているのではないかと思う。