先日、選挙結果を見ながら記事を一つ書いた。記事で言いたかったのは「日本では都市と地方で関心が異なりつつある」ということだったのだが、それでは誰も興味を持たないと思ったので「安倍首相が民意をつかんだ」というようなタイトルにした。
日本の選挙結果には興味があるのだが、安倍政権側が勝つことはわかっているのだから分析してみてもあまり面白くはない。イタリアやスペインでは都市部と地方部の分離が起こっているので、なぜ同じ先進国脱落組の日本に同じような動きが起こらないのかという問題について普段から考えている。そこで都市部の票を見てみたのだ。
そこでわかったのは日本の都市部の広がりが思っていたよりも小さいということだ。せいぜい都心部だけが都市と言えるのであって、イタリアやスペインほどの広がりがないのである。カタルニアのようなことが日本で起こるためには九州程度の地域が繁栄する必要があるのだが、日本は全体が地盤沈下しているのでこうした動きが起こらない。さらに大阪のように南北格差がある地域もあり、南でポピュリズム汚染が起きても北部が同調しないという現象もある。
ここから予想できるのは日本で景気対策がうまく行くと「自民党離れ」が起こるので、自民党は景気を悪くしておいたほうが政権が維持できるという結論である。つまりなんらかの事象について観察すると、ある仮定が得られる。
その一方で、多くの日本人がこのような事象には全く興味を持たないこともわかっている。日本人は関係性には反応するが、政策などの「オブジェクト」に対する反応はほぼないと言っても良い。だから、人物の名前を挙げた方が「引きが強くなる」のである。だが、それが時にはハレーションを引き起こす。ではそのハレーションは良いことなのだろうか。悪いことなのだろうか。
結論から言うとハレーションにはそれほど良い効果はない。かといってそれほど害になることもない。これも日本人のコミュニケーションの特性になっているようだ。
このエントリーは書かれてからしばらくは忘れられていたが一週間程度経過して突然閲覧数が伸び始めた。いわゆる「バズった」。その波及の具合を確認してみよう。
最初に異変に気がついたのは11/1にメンション付きのツイートが増えたことだった。シェアボタンなどを押すと自動的に送られるものだ。
Facebookからの流入が増えていた。つまり誰か有名な人がエンドースした結果、そのフォロワーが閲覧し「読みましたよ」というつもりでシェアボタンを押したのではないかと思われる。
とはいえなんらかのコメントがついたわけではない。単に「読みましたよ」というだけだ。つまり、作者に対するリアクションではなく、紹介した人と同じ経験をしたという意思表明でありある種バッジの役割を果たしているのではないかと考えられる。注目すべきなのはエンドースメントに二次的な広がりはないという点だ。Twitterからの流入はそれほど期待できないのである。
そして次の日になってはてなブックマークからの閲覧が増えた。はてなブックマークは検索ができるので調べてみたところ否定的なコメントが多く見られた。単なるお遊びではないかというものと、分析が雑だというものだった。どちらも当たっている。本人も「雑だなあ」と思っているので特に反論するところはないのだが、こちらは一度シェアされるとそれなりに「外野」の人たちが見にくるのだなと思った。つまり冷笑的な広がりのほうが二次的に広がりやすいのである。
冷笑的なコメントには核がない。核がないゆえに若干広がりやすいのではないか。
このどちらも「書いた本人のあずかり知らぬところで盛り上がっている」という意味では完全に等価である。つまり、悪口もレコメンデーションも「同じ価値がある」ということである。だが、広がり方には違いがある。と同時に冷笑のほうが遅れてやってくる。少数のアーリーアダプターであるインフルエンサーがおり、冷笑はラガードなのだと言える。企業が好ましい効果を求めてインフルエンサーを探す理由がわかる。インフルエンサーは露出を増やすのだが、それは必ず冷笑系のコメントを伴うのである。
なぜこのような行動になるのかを考えてみた。いくつかの行動原理があるのではないかと思った。
第一に、日本人は接触によって他人から影響を受けることを極端に嫌うのではないかと思う。誰かに何かをいうということは相手から影響を受けるということである。日本人は賛成意見であれ、反対意見であれ影響を受けることを極端に嫌う。
例えば、最近「賛同的な意見がTwitterで寄せられたとしてもそれに追加的な譲歩を乗せてはいけない」ということを学んだ。相手は教えられたいとは思っていないことが多く、「追加意見に影響を受ける」ことを恐れて反応を止めてしまうのである。これは「違った情報が出てきたときにノーと言えない」からなのではないかと思う。つまり対象物ではなく「賛成」「反対」という態度表明のほうが優先順位が高いのである。
相手は賛同しているのだから、ここではそのポジションを崩さずに「そうですね」などの共感的なフィードバックだけである。たまに語りが止まらなくなる人もいるが、大抵は同意されると満足するようだ。悪口をいっている人も、その悪口が相手に届いてしまうとそれに反論される「リスク」がある。反論されるとそれに影響されるリスクがあるので、2ちゃんねるやはてブのようなところから離れて冷笑的な態度を取るのだろう。
ここで本来考えるべきことは「変質」が必ずしも負けにはならないという点だ。変質は個人の成長につながる可能性があるのだが、受け身で情報を覚える教育ばかりを受けてしまうと「いうことを聞いたら負け」というような思い込みが生まれるのかもしれない。先生と生徒という関係が固着してしまうのが日本の教育だからだ。
従って、ここから二次的に出てくるのが他者には興味がなく優劣のバッジのようなものだけを欲しがっているのではないかと思う。賛成反対が「左右」だとしたら「高低」に当たる関係も固着するのだろう。
例えば「日本人は韓国人よりえらい」という高低の関係がある。いったんこういう思い込みが生まれるとどういうことになるのだろうか。
最近、柳美里という作家のところに「通名を使うのは止めてはどうですか」というTweetを送っている人がいるのを見て大笑いしてしまった。この人は「ユウミリ」という本名で活動しているのだが、そのことを知らなかったのだと思う。つまり、本人のプロフィールを知らずに、在日=通名=狡猾という図式を持っているのだと思う。だから特に韓国系の作家に興味があるわけではなく、単に「在日には何を言ってもいいのだ」と思い込んでいるということになり、それを自動的に当てはめているのである。
このことはある種の救いにはなる。例えば柳さんはこうした声を聞いても「単に記号としての韓国」に反応が集まっているだけなのだと考えればよい。その韓国は実際に東京から数時間で行けるあの韓国ではないし、柳さん個人に対しての中傷でもないということになるだろう。
これは応用ができる。丁寧に対応したり、同じ土俵に立っていないということを見せることによって「相手より格上である」という印象が与えられるのである。こうしたスキルに慣れている人がいて、SNSでコメンターを相手にしないという態度を見せつけることで「高低差を演出」している人たちがいる。
最後に日本人は公共や社会というものに関心がないのではないかと思う。つまり、お互いにアイディアを出し合えばよりよい智恵が得られるというようなことを信じていない。普段から「社会のためには個人を抑制して我慢しなければならない」ということだけを教えられるのだから押し付けにはうんざりだと考えても無理もない。新しい参加者に対して「お前は黙っていうことを聞いているべきだ」という高低の関係を押し付けることによって、コミュニティは核を失ってゆくのではないか。ある人たちは単にインフルエンサーに追随するようになり、別の人たちは冷笑的に外からコミュニティを見るだけになるのではないだろうか。
ここで重要なのは、集団がその要件を失ったとしても、個人主義が徹底しているわけではないので、自分一人の考えというものは持てないという点だろう。日本人は集団で行動しているように見えてしまうのだが、こうして作られる「集団」は集団の要件を満たしてはくれない。意思決定につながる情報伝達のプロセスがあるわけでもないし、集団による保護機能もない。
それがディスコミュニケーションを生み出しているのだが、このディスコミュニケーションは何を生み出すのだろう。
例えばこんな事例があった。トランプ大統領の娘が来日し、安倍首相がそこに57億円支出すると表明したというニュースが流れた。これは共同通信の報道を鵜呑みにした新聞社各社の誤報だったようだ。だがそれを鵜呑みにした人たちが、普段からの安倍首相の言動を思い出したのか「海外にばらまくのはけしからん」と騒ぎ出した。しかし、後になってこれは世界銀行が関与しているファンドであり、すでに国会にも報告があったようだという情報が加えられた。すると「サヨクの早とちりである」という応酬があった。これも普段からおなじみのパターンである。さらに夜になると「実は世界銀行はアメリカの関心をつなぎとめるために、トランプ大統領にすり寄っておりガバナンス上の問題が出ている」という話や、外貨準備金は塩漬け資金と言われているが実は利用しようと思えば利用はできるのだなどという情報が出てきた。
つまり、この事例を追いかけていると「世界銀行の問題点」とか「グローバルインバランス」について勉強することができるのだが、相手を叩くことにしか関心がないために、いつまでも知識が増えて行かない。
つまり、核がなくなった集団では知識が更新されないので、成長が止まってしまうのだと言える。逆に高齢化して成長が止まってしまったからこのようなディスコミュニケーションが起きてしまうのかもしれない。今まで「日本人」を主語にしてきたが、これを近所の頑固なおじいちゃんに置き換えても同じような文章が書けるように思えるからだ。