日本人にとって個人主義はなぜ猛毒なのか

国会審議を見ながらこの文章を書いている。聞いているうちにとても不思議な気分になってきた。最初に書こうと思ったのはコールセンターで中高年が嫌われているという話だった。だが、国会審議を聞いているうちに「なぜ人々は過労死するのだろうか」という疑問が浮かんできた。そしてこの二つにはある共通点があると思った。それが個人の頑張りが社会全体に大きな害をもたらすということである。




文章はこういう書き出しになるはずだった。

先日面白い記事を見た。正義感を押し付ける中高年がコールセンターで嫌われているというのだ。この記事では中高年を悪者として扱っており、コールセンターの若者がかわいそうだという筋書きになっている。そこで、異議申し立てをしてみたいと思った。自分自身が「正義感を押し付ける」中高年の側だからである。

このあと、中高年が消費者として経験してきた企業文化と現在の企業文化が違っているという分析が続く。中高年は自分のクレームが企業を動かし、代理となった正社員が社内調整してくれることを期待している。しかし、現在のコールセンターは下請けの非正規雇用が主な担い手になっており社内調整する裁量はない。そこで中高年にはコールセンターが「サボっているように見える」という分析になるはずだった。

しかし、国会議論を聞きながら考えたのは「かつてあった企業の姿と現状」が一致しないにもかかわらずそれが露呈しないのはなぜかという点だった。スクリプトと呼ばれる対応マニュアルは極めてずさんにクライアントである企業担当者の都合で作られるのだが、オペレータはそのずさんさが露呈しないように現場で調整する能力が求められる。だから結果的に中高年の怒りを買って罵られることになる。

文章で着目したのは女性オペレータの頑張りだった。男性は「本来は正規雇用されていたかもしれないのに、俺はこんなところでくすぶっている」などと考えていい加減な対応をする。すると「ああ、この人はバイトなのだな」ということがわかる。

しかし女性は決められた規範に対して従順に振る舞うのが良いと教育されているので、きちんと製品についての教育を受けているわけではないのに頑張ってしまう。そこで、その矛盾を吸収するために「そうできない決まりになっている」とか「この製品にはそんな機能はない」と嘘をついてしまうのだ。これを調べて理詰めで追い込んでゆくと、次第に「自分そのものが否定された」ような気分になる。泣きそうになる人もいるし、中には怒り出す人もいる。つまり、個人の資質と制度によって決められていることがごっちゃになってしまう人が多いのだ。

彼らはスキルとか成長という言葉に呪われている。真面目に勉強してスキルをつけた人だけが生き残るという「自己責任社会」が染み付いているのだろう。だから、この体制は不十分なのではないかとか、ルールが間違っているのではないだろうかなどとは思わないわけである。実は自己責任というのは集団が個人の生産性をサポートすることを放棄した状態を意味しているのだが、彼らはそのことに気がつかない。生まれた時からそういう状態にあったからである。

と、ここで話は国会に戻る。働き方改革で安倍政権は「パンドラの箱」を開けた。そもそもは裁量労働制を拡大解釈すると過労死する人が出てきますよというような話だったのだが、審議が進むにつれて今の制度でも過労死が出ていることが明白になってしまった。

自民党は今でも「厚生労働省の調査は本質的には間違っていなかったが、ちょっとした統計操作場の間違いがあった」という認識で審議に臨んでいる。しかし、そもそも労働行政そのものがずさんに行われており、実質的には違法な労働が野放しになっているという実態が明白になった。さらに、現在の裁量労働制すら悪用されており、労働災害認定された人も出ている。つまり、国には違法な労働を取り締まる意欲も能力もなかったということである。

もちろんここで安倍首相を非難したくなってしまうのだが、まてよと思った。日本には奴隷労働は存在しない。つまり、過労死した人たちは鎖につながれて自分たちの労働者としての権利を知らなかったわけではない。つまり逃げ出そうと思えば逃げられたのである。にもかかわらず彼らが死ぬまで働いたのはいったいなぜなのだろうか。

これについて考えてみたのだが、全く答えが導き出せなかった。仕事に埋没しているということにある種の陶酔感を得ている人もいるかもしれないとは思った。それが麻薬のように働いて、人によっては過労死につながってしまうのかもしれない。しかし、高橋まつりさんのように人間関係に追い詰められた末に「もう死ぬしかない」と思ってしまう人もいるのだから、かならずしも仕事二陶酔して特攻隊のように死んでゆく人ばかりではなさそうである。追い詰められる原因は人によって様々なのだが、一つ共通しているのはこうした異常な働き方を客観視してくれる他人がいないという点だ。つまり、この点において過労死を生み出す会社は壊れているのである。

これを最初のコールセンターの事例と重ね合わせてみると「自分の能力でなんとかしなければならない」という根拠のない使命感が基底にあることは間違いがない。しかし、それだけでは不十分で所属する組織に人間関係とか紐帯のようなものがなくなっていて、誰にも客観視されないままで頑張ってしまうという事情もあるのではないかと思った。形としての会社はあるが中には砂つぶとしての個人しか詰まっていないというわけだ。

もともと、日本は集団主義の国とされているので、日本の集団がうまく機能していないという点について考察が及ぶことは少ない。しかし、その中に毒のような形で歪んだ個人主義が広がっている。それは「成果をあげるのは個人の頑張り次第」であるというものだ。成果が出たらそれを分配するのは集団の仕事なのだが、成果が出るまでは何の支援もしないで個人に頑張らせておこうというような気持ちがあるのではないかと感じた。

こうした洞察が当たっているかはわからないのだが、もし当たっているとすればこうした組織の機能不全を全て国で監視するのは不可能だ。やってできないことはないかもしれないが、全ての職場に監督官をおくくらいのコストが必要になる。つまり、成果だけを横取りするようになった企業のコストを全て税金で補完しろということになり、これは適切とは言えない。

もちろん、今回の裁量労働制は筋の悪い話なのだが、企業文化と労働者教育を変えない限り過労死は無くならないのだろうなと思った。

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