ネットの政治議論について見ている。日本の政治議論には目的がなく自分を正当化することだけが目的なので議論がプロレス化しやすいのでは?と考えた。これを防ぐためには議論に目的を作ることが必要というのが仮説である。
しかし自分だけで考えていると見落としがありそうなのでQuoraで聞いてみた。ネトウヨとパヨクの議論には何が欠落しているのかという質問だ。
この質問のもともとのきっかけは中国の名前を持っている人と新疆ウィグル自治区について考えたことである。彼は都合の良い情報を持ってきて結論を組み立てているという意味ではネトウヨ的なのだが、そこに至るまでにきちんとした情報処理をしていた。議論そのものに納得したわけではなかったが、あらためてこれが議論だよなと思った。
そこから思い返すと日本人の議論は少し変である。ネトウヨの議論には結論と情報はあるのだが、それをどう内部処理しているのかということが全く見えない。なので論拠の羅列になってしまうのである。Quoraにも韓国を見下すような論壇ができつつあるのだが、ここにある意見はたいてい論の羅列だけで「話に筋道」がない。
質問にはいくつか答えが返ってきたが思ったような答えは戻ってこなかった。もちろん、多くの人が「結論がすでに決まっておりその結論に都合がよい材料だけを集めてくるのがいけない」のだろうという点までは指摘している。ところがインプットとアウトプットの間にあるであろう内部過程について触れた人は一人もいなかった。どうやら「インプットとアウトプットの間に何があるのか」などということは考えないようである。
このプロセッシングが「内心」の全部ではないにしても一部なのかなと思っていたのだが、日本人がここまで「内心」を持たないとは思っていなかった。つまり一人ひとりで感じ方や考え方が違うのではないかという可能性を(提示されない限りは)そもそも考えないということになる。
これは大変恐ろしいことなのではないかと感じているのだが、そもそもそれが恐ろしいという感覚が何なのかも全く伝わらないかもしれない。
一つ目の恐ろしさは「真実は一つしかない」と思い込んでしまう点にあると思う。情報が内部処理なしで結論になるなら、誰が情報を処理しても同じ結果が得られる「はず」である。つまり、正解は一つしかないことになる。だが実際には偏見によって情報が加えられたり、理解できないものを取り除いたりという情報操作は行われている。そもそも物事の解釈は立場によって違うはずで、例えば同じ行為がいじめに見えたり教育に見えたりする。内心を意識しないということはこれが理解できないということになる。つまり自分自身を絶対化しているということになってしまうのだ。
その結果、南京大虐殺はあったとかなかったとかというように「歴史の事実は一つしかないはずだ」という議論が生まれる。確かな真実がここにあるのに相手が折れないとしていつまでも抵抗する人が後を絶たない。なぜ事実は一つしかないと思い込むのだろうと不思議に思っていたのだが、内心や内部処理のプロセスがないと考えるとその謎が解ける。
もう一つの問題点は相手の言っていることが理解できないという問題だ。例えば今国会では根本厚生労働大臣がなぜ国民が怒っているのかさっぱり理解できていないという問題があり、解決のめどが立っていない。これは根本大臣を替えても解決しないだろう。
根本厚生労働大臣は「厚生労働省がごまかしをした」というインプットがあり「でもそれは選挙には影響がない」というアウトプットにつなげようとしている。だが、ここに内心があれば「でも、それは国が誠実であるべきであるという価値体系とはぶつかるのでは?」と考えるはずで、それが罪悪感になるはずだ。だが、根本厚生労働大臣には「そんな内心はない」ので、あのようなすっとぼけた答弁になる。
かといって、根本さんがバカというわけではない。彼は選挙に不利な情報を出さないということだけを一貫して考えており、目の前にある問題を「選挙に有利か不利か」という観点から見ている。
これは厚生労働省も同じである。お手盛りで第三者委員会を作って調査しましたと言っていたのだが、野党が「いやこれでは納得できない」と言い出したので調査をやり直しているという。もし厚生労働省に「隠蔽は恥ずかしい」という内心があれば「内心忸怩たる思い」をするはずなのだが、そんなものはないのだろう。だから「納得しないんだったらやり直しましょう」といってまた嘘をつく。彼らもネット中継で見ると化け物かロボットに見える。
だが、これを展開してみると、野党も「まあ、どこでもごまかしはあるだろうが、これが露見したのが自分たちが政権を取った時でなくてよかった」くらいにしか思っていないかもしれないということになる。こちらは逆に厚生労働省や根本大臣が何を言っても納得しないだろう。彼らも選挙に勝ちたいだけだからである。つまり、国会では「選挙に勝つか負けるか」ということが優先されるあまり、国の統計はどうあるべきかということを誰も考えていないかもしれない。
だが、これを展開するともっと恐ろしいことになる。厚生労働省の不正に納得していますかと聞かれると多くの人が「いや納得できない」と答えるそうである。普通「政府は国民の信頼を裏切るべきではない」からそう答えているのだと思う。だが、それで内閣の支持率が変わることはない。つまり「嘘をついていいかと聞かれたからダメと答えただけ」なのかもしれない。つまり、内心や内部のプロセッシングは全くなく、単に「自動的に右から左」に回答しているだけということになる。
このように誰にも内心がなく単に右から左に情報がやり取りされているだけという図になる。こうした条件下では「消費税増税=下野」くらいの投票反応しか得られなくなる。これでは民主主義に必要な議論など起こりようがない。
一つひとつは大した問題ではないが、私たちはこうして身の回りの問題に対処できなくなりつつある。例えば、群馬県の鶴の尻尾だか頭だかに当たる地域は東京まで東武電車が通っている。そこで若者が東武電車に乗って東京に流れてしまう。地域の雇用を守るという約束で誘致したはずの工場はいつの間にか派遣労働者で溢れ、それでも人が集まらないとなると外国人ばかりになった。
こんな伊勢崎市で、「私たちの権利は誰にも奪われない」として「人権は相続権である」というめちゃくちゃな議論を続けることは可能である。結論は先に決まっているうえに、理解できないものは理解できるレベルに落としてしまい都合の悪い議論はすべてシャットダウンしてしまうから、彼らが議論に負けることはないからだ。
しかし、彼らが議論に勝っても外国人が街から消えることはない。外国人を呼び込んでいるのは彼らが心酔する安倍政権だ。そして、外国人を市民として受け入れない限りは伊勢崎市の不確実性は増してゆくだろう。地域にも溶け込めず意思決定にも参加できない人たちが増えてゆくが彼らの私生活を監視する人などいないからである。収容所に囲って不況になって用済みになれば返っていただくということをでもしない限り、不法滞在者も増えてゆくはずだ。工場は用済みになった外国人の首を切るだけで帰国までの面倒は見ない。堕落した日本の工場にとっては労働者もまた看板方式で管理できる部材なのである。
経験したことがない人はわからないかもしれない。工場地域のイートインスペースでは言葉がわからない外国人が昼ごはんを食べに集まってくる現場に遭遇したことがある。たまたま休日だったので日本人は休んでいたようである。たまたま派遣労働者の数よりも外国人が上回ったというニュースを読んだばかりなので「ああそうなんだな」と思った。彼らが日本滞在に満足してくれていれば我々も安心して食事ができるのだが、もし仮に「潜在的な不安を抱えていたら」と考えるとかなり恐ろしいことになるなと思った。何かの拍子にぶつかったとしても多分彼らは日本人が何を言っているのかわからないのだから、謝ったり説得したりということも、そもそも彼らが何に怒っているのかすらわからない。
問題は起きているが何が問題なのか共有できないという社会を既に我々は生きている。昭和から平成にかけて社会人になった人たちは正規雇用前提の職場が非正規雇用化して何が起こったのかを知っている。職場が分断され、様々な問題が「なんとかハラスメント」という形で表面化している。「なんとかハラスメント」はすべてマネジメントのイレギュラーケースなので、職場は問題解決能力を失っているということになる。
だが、我々はこれに対処できない。最近社会人になったくらいの人たちはそもそも終身雇用前提の時代を知らないので「なんとかハラスメント」が職場で解決されていた時代を知らない。だから、問題の発見も共有もできなくなった。したがって「なんとかハラスメント」が解決することはない。
我々はこうした社会の分断を今度は街中で目撃することになるだろう。多くの人たちが気分良く議論に勝っている間にもこれが進行する。表面上は戦争状態ではないが、敵が見えない分戦争よりもっと厄介かもしれない。これが内心を持たないことの恐ろしさの一つなのだろう。