ジョージ・フロイドさんが白人警官に殺害されて二週間近くが経った。この話について語る日本人を見ていて「日本人はあるものを完全に破壊してしまったんだな」と思った。おそらく、そのあるものを最初に置けば「ああそうだな」と思う人もいるかもしれない。だが、それなしで文章を書いていってもそれが何か言えない人はかなり多いのではないかと思う。それくらい完全になくなってしまっている「あるもの」が今回のテーマだ。
ジョージ・フロイドさん事件の最初の感想は「白人警官はひどいなあ」だった。これがすぐさま起訴されなかったことで抗議運動が起きた。アメリカでは抗議運動が起こると付随した便乗暴動が起こる。最後にトランプ大統領が出てきて「暴動を鎮圧するために軍を出せ」と言ったところで「アメリカは大丈夫なんだろうか?」という戸惑いに変わった。
これが日本の報道を見て得られる知識である。
どうやら日本人は中国に脅威を感じているようでアメリカの地位が低下することを恐れているようだ。民主主義が破壊される狂ったアメリカという印象を避けようと懸命に「解説」を試みるコメンテータもいた。日本ではこの話題は中国脅威論とセットで語られる。誰も当事者たちの感情には興味がない。
この辺りから「白人警官が起訴され一緒に傍観していた警官も逮捕されたのにまだ黒人が騒いでいるのはどうしてなのか」という質問が目立つようになった。つまり黒人は何をして欲しくて騒いでいるのかというのだが、問題は白人警官をひどく叩けば問題は解決するのではないかという前提がある。白人警官は空気を乱して騒ぎを起こしたのだから罰せられるべきだと日本人は考える。
確かに、日本であればおそらく「何かをしでかした白人警官の厳罰化」を求める声が出てくるだろうと思った。さらに問題を言い立てて騒ぐ人を「うるさい」「目障りだ」と思う人もいるはずである。これまでの問題をなかったことにしてきた日本人の肌感覚である。
アメリカの報道はかなり違っていた。
ジョージ・フロイド事件には根強いアフリカ系アメリカ人差別という背景がある。制度を変えてもなくならず警察改革もトランプ大統領に中止された。大統領がこれを中断した目的は簡単である。分断を選挙に利用したいのだ。トランプ大統領が白人の優位性を扇動し、アフリカ系だけでなくアジア系も叩かれている。新型コロナ騒ぎは人種間対立や経済格差の問題が浮き彫りにした。
例えば、電車で繰り返し足を踏まれる人がいたとする。痛いといっても足をどけてもらえない。ここで「痛い」ことを周りに訴えるのがアメリカ式である。アメリカ式というよりは人間として普通の感覚であろう。日本人が忘れてしまったのは実はこれなのだ。
この二週間、アフリカ系は「長年踏まれてきた、もう耐えられない」と訴えてきた。そしてそれに賛同する動きもあった。例えばインスタグラムは黒い画面で埋め尽くされた。社会が痛みを共有しようとしているのである。
日本ではまず周りの人が「それは気のせいだ」といい、でも確かに足を踏まれたとなると「それは足を置いていたお前が悪い」ということになるだろう。それでも騒ぎ続けたら「では電車に乗らなければいい」と問題を終わらせる。足を踏んだ当事者がいうわけではない。周りが言うのである。日本人は自分がいる空間で騒ぎが起きるのが嫌なのである。そこに大した理由はない。ただ目障りなことを考えるのが面倒だからという理由でそうする。
これを「日本は自己責任社会に陥っている」と書くと「ああそうだ」と納得する人は多いだろう。日本は自己責任社会になってしまった。だがこの言葉を使わないで「自己責任社会」という言葉にたどり着く人はそれほど多くないのではないかと思う。それくらい日本には自己責任論が浸透している。
アメリカではこの二週間の間に「黙っていても問題はなくならない」し「ただ騒いだだけでは問題は解決しない」ということが再確認されつつある。ジョージ・フロイドさんのメモリアルサービス(追悼式)も行われようやく服喪期間が明けつつある。この事件は新月の直後に起こり満月で一定の結果が出つつある。服喪期間には社会が問題を共有するという機能がある。
「黒人は落とし所もないのになぜ騒いでいるのか」という日本人には当たり前の感想を見て、日本人は社会に対する信頼というものを失ってしまったのだなということに気がついた。
日本人が持っている「国体」という大きなものへの陶酔の裏には実は圧倒的な社会に対する個人の無力感がある。社会悪は罰によってしかなくせないから個人として引っ張り出してきて徹底的に社会的リンチを与えるべきなのだと考えてしまうのである。社会が共に問題を考え防ぐという考え方をもう日本人は採用しないのである。
我々は社会というものが本来持っていた修復作用を完全に失ってしまったといえる。その裏にあるのがSNSの過剰な他罰反応だ。実はこれは免疫の暴走なのである。