日本の敬語体系の背景にある社会的構造と新しい敬語としての「尊大語」

尊大語という敬語体系ができているんだろうなと考えた。考えたのだが誰にも賛成してもらえそうにないので自分のブログにだけ書いておこうと思う。この文章で実際に言いたいのは日本社会のある構造の崩壊である。成果主義・自己責任社会になった日本では部分的に「謙遜ゲーム」が成り立たなくなっている。




芸能人の敬語の「やらさせていただく」に違和感がある。どことなく違和感があるのだが何がおかしいのかわからない。鍵になるのは謙譲語・丁重語である。最近は謙譲語を2つに分けてこう呼ぶのだそうだ。謙譲語Iと謙譲語IIに分けているものもある。このため、尊敬語・謙譲語I・謙譲語II(丁重語)・丁寧語・美化語の五体系になっていると説明する本が増えているようだ。

謙譲語は相手を高めて自分を低めるという謙遜ゲームによって成立している。謙遜することで社会的評価が得られるようになっている。

ただ、最近の敬語では「伺う」は謙譲語だが「参る」は丁重語(謙譲語II)と分類することがあるという。申し上げるは謙譲語だが申すは丁重語である。この仕組みが意外と複雑なのだがどの記事もこの仕組みを詳しく書いていない。国語村は背景にある社会構造を当たり前のものとして受け入れてしまっている。

どちらも自分を低めることで敬意を示しているという点に変わりはない。参る・申すは目下の者に使えるが、伺う・申し上げるは自分より目下の者には使えない。つまり「弟にそう申したところ」とは言えるが「弟にそう申し上げたところ」とは言えないのだ。

背景には「私たち」というコンセプトがある。「弟の家に参りました」というのは第三者に向けて状況を伝えている。これが弟の家に「伺いました」というと、弟に対してへりくだっていることになってしまう。

つまり、私たちという構造があり、その構造を第三者である「あなた」に伝えているという理解がある。高めたいのは「あなた」なので自分を低める操作をする。この時、私たちを同時に低めることができる動詞と私を低めることで弟を「あげてしまう」ので使えない動詞があるということになる。

日本の国語の先生は「これが当たり前である」と考えてしまいあえて伝える必要を感じないらしい。確かに言われてみればその通りなのだが果たしてどれくらいの人がこの複雑さを理解しているだろうか。

芸能人の「やらさせていただく」の「させていただく」は「やる・する」の使役的な謙譲表現だ。だから重ね方が「食べいただく」みたいなことになっている。つまりやらさせていただくを使っている人は「これがなんとなくきれいな言い方だ」ということは理解しているがその構造がわからずに使っている。

だが「先日主役をさせていただきました」という表現もどことなくおかしい。

例えば「バイトリーダーをさせていただく」で考えてみよう。バイトリーダーをすることを謙譲しているのだが、アルバイト先とアルバイトをしている「私」は相手に対して一体の関係にない。例えばこれが「御社担当としてXXというプロジェクトをさせていただきました」は成り立つ。会社と会社員は一体の関係にあり共同して顧客に対してへりくだっているからだ。つまり、バイトリーダーをさせていただくとか主役をさせていただくという人は「私たち」という社会関係が理解できないのである。

背景にある社会構造が消失しつつある。正社員はまだしも非正規雇用やアルバイトや芸能人のようなフリーランスには「私たち」構造が成り立たない。経験していないものは理解できない。だから、こうした社会階層の人たちは敬語を丁寧な美化語としてしか理解できない。つまり敬語がわからないことで社会的な地位がわかってしまうのである。

ところが最近さらにややこしいことに気がついた。最近、Quoraで質問をすると偉そうな書き方をしてくる人がいる。これが限りなく不快なのだが何が不快なのかがわからなかった。どうやら「知識をたくさん持っている方がえらい」という価値判断基準があるようだ。質問をしているということは「知識のないバカ」なのだから「偉い自分が教えてあげよう」という世界観だ。おそらく普段からそう扱われているクラスの人たちだろう。

SNSは個人の資格として参加するので、そもそも「私たち」構造がない。さらに人間関係も構築されていないので誰が偉いのかがわからない。そんな状態で何が起こるのかというのがSNS敬語体系を見ているとよくわかる。

まず、専門知識のある人たちは依然これまで通りの敬語体系を使って「自分たちの社会的背景」を誇示している。いわゆる「正しい日本語」を知っている人たちにはこれがわかるので「正しい日本語」ができる人たちだけのエコシステムができる。

問題はここから弾かれた人たちである。誰からも高められた経験がないので「自己責任で成果を示さねばならない」と考えて尊大語とでも言える体系を作ってしまうのである。つまり言い方をいちいち偉そうにして地位を示そうとするのだ。おそらく日本の敬語体系は謙譲ゲーム型の人と尊大語話者に分離してゆくだろう。

現在の敬語体系には「自分が偉いことを示すための体系」がない。つまり、これは尊大語という新しい敬語体系なのである。自分を直接的に高めるための言語体系なのだ。

ある程度の社会的地位があったり裕福なエリアで生まれ育ったいわゆる「育ちのいい」人はへりくだることである程度の尊敬が得られることが経験的にわかっている。だがそういう経験が偉えない人は直接的に自分が偉いということを顕示しなければならない。成果は自分で顕示しないと誰にも認めてもらえないと考える。

おそらく尊大語を使う人に細かな謙譲語・丁寧語の違いを説明しても理解はされないだろう。成果主義・自己責任の日本では新しい敬語体系が育っているように感じる。自分の地位は自己責任で顕示しなければならないという層の人たちが出てきている。彼らは決して尊敬されることはないだろうが、誰もそのことは指摘しない。だから尊大語は本人が気がつかないある種のスティグマになってしまうのである。

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