日本の国会は何も決めないことを決める

さて前のエントリーで「民主主義の根幹が破壊されてショックを受けている」と言うようなことを書いた。だが日本の議会では何も決めないことを決めてしまった。これはあってはならないことだと思う一方でこれしか落としどころはないのかなと言う気持ちにもなる。




舞台は参議院の予算委員会だ。予算は衆議院の議決が優先するため参議院の議論には実質的な意味合いはない。つまり単なる消化試合である。選挙を控えていることもありテレビ中継の入る予算員会は議員と政党の独自色を出すアピールの場になる。

ウクライナ情勢が緊迫する中で「諸課題審議」が行われたのだが全くもって時間の無駄と思えるような議論が延々と行われていた。だが議論を聞いているうちに「これが日本人としては正しい在り方なのかな」と言う気がしてきた。

おそらく西洋的には問題の所在を明確にし・情報を分析し・意思決定し・結果を測定し・反省すると言うやり方を取るべきだと思う。だからこのようなダラダラした議論は時間の無駄のように思える。いわゆるPDCAというサイクルが回っていない。

だが日本の議論はそうはならない。そしてそうなっていないのになぜか収まるところに収まってゆく。

青山繁晴議員は「国際情勢が変わったのだから安全保障についても議論すべきだ」と総理大臣に問いただす。福山哲郎議員は「NPTが機能不全に陥ったのは明らかである」と総理に迫った。森ゆうこ議員は対ロシアとの経済協力予算は撤回すべきではないかと主張する。

それぞれ論は通っている。

岸田総理は青山議員に対しては「フランスなどと協力して国連改革に取り組んでおり、新しい防衛大綱も準備中だ」と説明した。また福山議員に対しては「早期の情報発信は大切ですね」と応じた。さらに森ゆうこ議員に対して萩生田大臣は「撤退予算に使うかもしれない」と説明していた。

つまり各議員の懸念は受け止めた形だ。だが、青山議員に対する答弁には具体的な目標やスケジュールなどは盛り込まれていない。福山議員に対してもNPT以外の選択肢に具体的に取り組むとは言わなかった。さらに森ゆうこ議員に対してもロシア協力予算を撤回するとは表明しなかった。

つまり議論はしてもらっても構わないし懸念は受け止めたとする一方で「結論は決まっているから何もしません」という答えしか準備されていないのだ。何もしないということを決めてしまった上で聞き流している。

具体策がないと怒り出すのかと思っていたのだが、青山議員はテレビカメラに向かって「総理から画期的な御答弁をいただいた!」と喜んでいた。

考えてみるとこれは当然のことなのかもしれないと思った。彼らは漠然とした懸念を表明しているだけである。つまり具体的な情報分析でもなければ合意を形成しようという努力もなされていない。いちいち御懸念応じていたらおそらく予算案も外交も空中分解してしまうだろう。

消化試合である予算委員会はそれぞれの議員とその支持者たちのお気持ちを表明する場であり、総理はただ「お気持ちは受け止めました」と言っていればいい。あとはそれぞれの立場で成果があったと言ってみたり逆に何も答えてもらっていないという不満を表明すればいいのである。

おそらく日本人は「それぞれのゆれうごくこころもち」を表明している間になんとなく「わざわいがきえさってくれればいい」と考えているのだろうと感じた。つまり何もしないことが最善の策だと思っているのである。実に不思議な光景だがこうして「ききながす、うけながす」ことを議論と言っているのだと感じた。

具体的な利権に関してはこうはならないのだろうが、国防・安全保障というのは多くの日本人にとっては所詮他人事なのだ。かつて日本人は水と安全はタダだと思っていると指摘した人がいた。おそらく現実はもはやそうではないのだろうが、その気風は今も受け継がれていることになる。

ただ地方政治はそうはいかない。中央に利権を侵された石川県知事選の落選候補は「中央のやり方はウクライナ侵攻と同じ」と強い調子で自民党本部を批判したそうだ。彼らにとってウクライナの出来事は所詮は他人事なのだが地域利権と議員の椅子を確保するというのは自分の問題である。だからこれがウクライナ侵攻と同じだという感想になるのだろう。

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