日本のお笑いはなぜくだらないといわれるのか

はっきり言って、エイプリルフールなんてウザいだけの行事だと思っていたのが、今年はちょっと状況が違った。Twitterのタイムラインに朝から厳しめのツイートばかりが並んでいたからだ。「朝生」の森友問題で興奮した人が多かったようである。そこで、ちょっと場を和ませたいなあと思って嘘ツイートとネタ投稿をしたのだが、当然のことながらタイムラインの緊張を和ませることはできなかった。

そこでいろいろ考えているうちに、茂木健一郎と松本人志氏のお笑い論争にゆきあたった。「なぜ日本のお笑いは面白くないのだろうか」というものだ。

それを考え出すと「よいお笑いとは何か」について考えなければならないのだが、今回の議論を聞いていると「よいお笑い」に関する理論的な構築は全くといっていいほどなされなかったようだ。茂木さんは最近でも「小沢一郎が民主党に復帰すると日本がよくなる」という何の裏打ちもないネタを披露しており、本来たいした学者ではないのかもしれない。これが議論が成り立たなかった原因だろう。

実は現在のTwitterの状況は「よいお笑いとは何なのか」を考える上で大きなヒントを与えてくれる。それは緊張だ。この緊張が不景気からきていることは間違いがない。だが、安倍首相とそのお友達は国家の私物化計画を着々と進めておりデタラメな理論で攻めてくる。それを不快に思っている人たちが騒ぎ、不快に思っている人たちを不快に思っている人たちが反撃するという状態である。つまり、政治は人々に緊張をもたらしているが、解消の糸口がないのだ。こうした極端な状況下でなくても、社会は緊張に満ちている。そこで笑いが必要になる。群れが窮屈だとそれだけで緊張が生まれるのだ。

では、笑いとは何だろうか。犬をくすぐると犬は逃げるかくすぐられても気持ちがいい場所を当ててくる。くすぐられるのが嫌だからだ。しかし人間は別の反応を示す。それは笑いだ。つまり、笑いには緊張の緩和という生理的な目的があるのだ。これは人間が群れで生活しており、逃げ場がない空間で緊張を処理する必要があったからだろう。Twitterも逃げ場がない情報空間を作っているが、人間にはそれを緩和するための手段をまだ獲得していないのだ。

つまり、笑いの基本構造は、緊張とその緩和であると言える。

日本のお笑いももともとは西洋喜劇の流れを汲んでいる。悲劇が劇空間が消滅することで緊張を緩和する一方で、劇中で緊張が起きて劇中で解消するのが喜劇である。例えば「フーテンの寅さん」もこのフォーマットに則っている。寅さんが恋に落ちて緊張する。また、マドンナも何らかの問題を抱えている。これを寅さんが解消すると見ている人たちはほっとできるだ。だが、寅さんは必ず振られるので劇空間が消滅して、緊張は完全に消滅するのだ。

だが、平成期に入って「群れ全体が緊張から解き放たれる」という笑いと並んで台頭したのが弱い人を叩いて笑いを取るという「いじめ型の笑い」だ。いじめられている人をみることによって「自分が攻撃対象でない」ことを知り、なおかつ生活で感じたストレスのはけ口にするというタイプである。いじめられるのは、知的に劣っている人や、見た目の著しく崩れた女性などである。これは「競争意識」に基づいて、かなり緻密に計算されている。

いじめ型の笑いは他人の犠牲を必要とする。だから笑いとしては低俗である。また、いじめによって緩和の緊張は起こらない。単に緊張が持続するだけである。

もちろん、その他の笑いも残っている。例えば権威を持っている人(校長先生)の口調を真似て見せるのには権威がもたらす緊張を無効化する役割があるわけだし、みんながもやもやしていることに言葉を与えて「腑に落ちる」形にするお笑いもみかける。中には力技で「そんなの関係ねえ」という人もいる。これらはすべて緊張の緩和に関連している。ダチョウ倶楽部では「キス」が緊張緩和に役立っている。

これらがすべて「くだらない」のはどうしてだろうか。それは、緊張緩和というオブジェクティブに日本人があまり関心を持たないからではないだろうか。関心は手段の緻密化に向かう。大元の原理には関心を向けず、精緻化に心を砕くのが日本人なのだ。そこで、自動化が起こってしまうのだろう。緊張緩和で笑いが起きたとしても「なぜ笑ってスッとしたのか」ということは考えず、次も同じ動きをしたら同じ感情が得られるのではと感がてしまうのだ。このため、一度流行ったネタを繰り返しやらされて消えてゆく芸人は多い。それは、笑いに理論的な裏付けがないからなのである。

さて、エイプリルフールで乙武洋匡さんが「車椅子を売っぱらった」というネタを披露していた。これにレスがついていたのだが、「センスがいいか松本人志さんに判断してもらおう」という書き込みを見かけて面白いなと思った。ネタを分析するとあまり面白くないのではないかと思う。なぜならば、笑いの前提になる緊張がないからである。緊張しているのは不倫がばれて自虐ネタを披露しなければならないと考えている本人だけで、その緊張を社会と共有しているとは言い難い。

しかし見ている人にも評価の軸がない。すると権威化と原理化が起こるようだ。つまり、松本さんがすべらないネタだと認定したら、それは笑うべきなのだということになるのだろうし、過去の累計で権威化することも起こるのではないか。

松本さんは今回の議論の中で茂木さんをいじろうとしたが、どのようなお笑いが良いものなのかという評価はしなかった。原因は二つ考えられる。松本さんはお笑いの実践家であって評論家ではないので論評を避けたか、お笑いについて構築的な議論なく「何が面白いのか自分でもわかっていない」という二点だ。

もし、後者が正しいとしたら、松本さんは過去に流行ったネタをみんなから飽きられるまでやってゆくしかなく、やがてはとんねるずのように「あの人オワコンだね」と言われるようになるのだろう。だが、松本さん自体のお笑いは「状況の無効化」を狙ったものが多いようだ。いわゆる「シュールな」というものだ。多分、原理があっていくつかの表現を駆使しているのではないかと考えられる。

ちょっと長くなったが、エイプリルフールの軽い嘘が楽しめるような世の中は健全な世の中と言えるし、他愛のない嘘は場を和ませる。来年こそはフェイクニュースやオルタナティブファクトなどに惑わされずに、くだらない冗談で笑いあえるような状況になっていて欲しいものだと思う。

 

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