ポピュリズムの本と一緒に「文明はなぜ崩壊するのか」という本を借りてきた。心ゆくまでローマ帝国の崩壊過程などが読めるのかなと思ったが、途中からアメリカの政治批判みたいになってしまいいささかがっかりした。が、一応マヤ帝国の崩壊過程とローマ帝国の崩壊過程については触れられていた。
ローマについては、ジェセフ・ティンターという人の「複雑な社会の崩壊」という本が紹介されている。ティンターの本はよく引用されるらしいのだが、邦訳がないらしい。
農業生産性が落ちてゆき人口は増えてゆく。その矛盾を解決するためには土地を広げざるを得なかったと言っている。これについて調べたところ、ローマが初期の過程でさえ外国から安価な食料品が入ってきて中小農家を潰していたというような記事(東洋経済)が見つかった。つまり崩壊の芽は最初からあったことになる。
いずれにせよ、内側で食料が供給できないと、増えすぎた人口を維持するために外側に拡張して食料供給力を維持する必要がある。帝国が拡大するとそれを維持するために通信・軍隊・統治のコストが増す。そこに新しい問題(外国人の侵入)が加わることで帝国は分裂したというのである。
しかしローマ人は問題を解決しなかった。自分たちは拡大(成長)していたのだから優秀だと信じ、国の大切な防衛などを外国人に任せるようになっていったのだ。日本のバブル経済も崩壊直前まで自分たちの実力だと信じていた人が多かった。崩れてからもしばらくはバブルであるということに気がつかなかったくらいである。ローマがそうだったとしてもおかしくはない。
東洋経済の記事の別のページには農業生産を担っていた中小農家が凋落し生産さえも外国人に任せたというようなことが書かれている。ローマはこうして堕落して行ったのである。
今回はポピュリズムの話の中で「帝国の崩壊過程」について見ている。この二つを組み合わせると「複雑になり理解ができなくなると単純な解決策に頼るようになる」ということだ。そしてその崩壊の芽は最初から組み込まれている。
いずれにせよ物事が複雑化しすぎて対応できなくなると単純な解決策に頼るようになる。それを提示するのがポピュリストだ。
日本では最終的に「自分たちを信じて付いて来れば何も問題はないし、異議申し立てをしている人たちは自分たちの社会を壊そうとしているのだ」という主張に行き着いた。これは前回のポピュリズムの定義によると大衆先導による反多元主義であると言えるだろう。
Quoraの政治議論を見ていても、人々は問題の解決など求めてはいない。あらかじめ「消費税はダメ」とか「韓国は気に入らない」というような意見ができていてそれを延々と語り合っている。そこに合理的な回答を提出しても意味はない。ただ、彼らが気にいる答えを書いてもまたそれは無意味である。なぜならばうすうすそれが解決策ではないことはわかっているからだ。だから彼らは問い続けやがて疲れて何も考えなくなる。
多くの人たちが質問を投げつけられ続けると疲れ果てて考えることそのものをやめてしまうようだ。回答は単純化され、やがて質問されることに対して怒り出すようになる。アメリカ人は自分たちの主張が通るまでいつまでも叫び続けるが日本人はそれが社会の正解にならないと嫌になってしまうようである。
実は「ポピュリズムとは何か」の中にも同じような現象が書かれていた。複雑さ二疲れた人々は合理的に利害調整することをやめて「道徳的価値観」(良い・悪い)で物事を判断するようになるのである。トランプ大統領のTwitterの「this is good/this is bad」はその典型だろう。
このトランプ流のTweetが人々を引き付けるのは、問題をわかった!と考えることそのものに快感があるからだろう。問題の解決に快感があるとすると、人々が政治的な議論に参加すればするほど、政治議論は「堕落」してゆくことになる。人々は複雑な問題ではなく適度に「高次元の」問題把握と解決を選好するようになるだろう。そしてそれを覚えると政治議論そのものが「快楽装置」になり衆愚化してしまう。そうなると一つの破滅に向かって走り出すか、あるいはポピュリストたちに搾取される植民地化された存在になってしまうのではないだろうか。
「議論と対話は解決策へと続いている」と漠然と思ってきたのだが、実は議論をすればするほど堕落してゆく可能性もあるということになる。今回の結論はあまり楽しいものにはならなかった。