憲法第9条はなぜ変わらなければならないのか

さて、今回は憲法第9条について考えたい。意外に思われるかもしれないが、憲法第9条は改正されなければならないと考えている。もともとは護憲だったし、人権に関する条項などはそのまま守られるべきだと考えているので広い意味では護憲派なのだが、憲法第9条だけは例外である。

なぜ憲法第9条は変わらなければならないのか。それは、設計思想が変わってしまった唯一の条項だからだ。

日本国憲法の設計思想は侵略戦争の禁止だ。戦勝国から受け入れてもらえるために日本が侵略戦争を行うことを禁止し、植民地を放棄させられた。当時はまだ国家の主権に「戦争をする権利」が入っていた時代だった。

その後、戦勝国は現在の体制を固定するために、戦争そのものを禁止した。日本は戦争に負けて主権が制限されていたので、憲法レベルでこうした操作ができる数少ない国の一つだった。もう一つの例外がドイツだったがこちらはヨーロッパの集団的自衛体制に組み込まれる。こちらの方はスキームがあったためにより新しい設計思想を取り入れることができたのである。

戦勝国にとって計算外だったのは、戦勝国が2つの大きなグループに別れてしまったことだったのだろう。このため二つの大きな国が自衛を名目にして戦争をするというスキームができてしまった。日本ではこれに合わせて後付けで自衛隊が作られた。自衛隊は東西冷戦を前提にした集団的自衛の一翼を担っているのだが、日本はあまり信用されていなかったので、日本の領域だけに活動領域が限定された。

設計思想が変わってしまったのだから、ここで憲法と自衛隊の役割は見直されるされるべきだった。が、日本はそれをやらずに乗り切った。大きかったのは岸信介総理が国民を説得するのに失敗し第反発を招いてしまったことだろう。国民を騙すような形で日米安保を改正し現在の状況を作った。のちの政権は国民の反発を恐れてこの件には触れられなくなった。司法も砂川事件で介入された歴史があり、この件については判断しなくなった。こうして岸信介の孫が首相になって憲法解釈をかき乱すまで、触れなくなってしまったのだ。

横道にそれて安倍晋三の功績を考えてみよう。安倍は無理やり理屈をつけて集団的自衛を解禁した。その他の私物化スキャンダルもあったので、集団的自衛は「ごまかし」ということになってしまい、今後また何十年も議論すらできない話題になってしまうかもしれない。祖父と孫は同じような禍根を日本の歴史に残そうとしているのではないだろうか。

ところが設計の前提はさらに変わってしまう。東西対立という図式がなくなってしまったのだ。だが、同時に核になる国もなくなった。「Gゼロ世界」などという人もいる。つまり、大きな巨大領域の中で反乱勢力が動くという状態になっているのだ。領域は統合されたが、中には主権国家が残っていて、国連は政治的には主権国家への干渉はできないという仕組みが残っているウエストファーレン体制というそうだが、1648年にできたスキームである。これが現在の矛盾のもとになっている。

例えばアフリカの状態を見てみるとこのことがよくわかる。国内政治が失敗すると抵抗勢力が現れるのだが、抵抗勢力は軽々と国境を超えて「国際紛争化」する。さらに混乱の結果、難民が流出し、周辺諸国やヨーロッパが混乱するのである。この抵抗勢力を戦争主体として位置付けるかというのは大きな問題になっている。

70年前の世界はそれぞれの国が国益のために行動すればよかった。つながりは限定的だったので、適当な相手と組んで軍事同盟を作ることもできた。ところが現在は、曖昧な枠組みの下で一つにつながったとても過渡的な世界になってしまっている。

こうした経緯があるから「戦争」と聞いて思い浮かぶことが人によって全く違ってしまっている。ある人は日本という国の栄光のために近隣国を武力で圧倒することが戦争だと思っているだろうし、別の人はアメリカが経済的利益を追求するために弱小国を傀儡化する手伝いをするのが戦争だと考えているのだろう。これが議論が曖昧になる原因である。

防衛で一番大きな説得材料は「中国が攻めてくる」というものだが、中国のような大国が日本のような大きな国に直接侵攻した事例は戦後70年の間起きていない。世界が緊密に連携しているために直接対決するリスクの方が大きいからだ。現在こうしたスキームに依存するのはもう失うものがない北朝鮮くらいだろう。周辺国に代理戦争させるというスキームはあったがこれすら過去のものになりつつある。

一方でアフリカ情勢などに興味がある人はほとんどいないので、現在型の戦争と呼べるかどうかがわからない状態について議論する人は少ない。アフリカでは南スーダンのほかにも中央アフリカで戦乱があるそうだ。

もちろん、アフリカは遠い地域なので、日本にはこうした厄介ごとから引きこもって、自国の防衛だけに専念するというオプションもあり、これは極めて合理的な選択だろう。あとは災害救助などに活躍する軍隊の装備を持った別の何かを作るという方向性もあるわけだ。

が、ここで考えるべきなのが日本国憲法のもともとの設計思想である。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

旧世代の戦争という概念を残しつつ、実はかなり国際協調を念頭において書かれていることがわかる。つまり、この憲法前文を尊重するという前提に立つのであれば、日本がどういう貢献ができるかということを考えて行かなければならない。今日言いたいのはこのことだけだ。

護憲派であろうとすれば憲法第9条を見直さざるをえなくなるのである。

国際的な経済協力についての憲法の規定はないので、皮肉なことだが軍事貢献だけがこの世界情勢の変化に影響を受けてしまう。外に開かれた唯一の条文なのである。

安倍首相の「積極的平和主義」という言葉はそれ自体は間違っていないということになる。彼が悪質なのは、こうした誰も否定できない題目を利用して憲法を私物化しようとしているという点である。そればかりか無能な防衛大臣を放置することを通じて、PKOを通じた国際貢献すらタブーになってしまうかもしれないという状態を作り出してしまった。

安倍首相は多分憲法前文を気に留めていないのだろう。韓国や中国を挑発して東アジアで協調関係をとるのを邪魔しているし、南スーダンに武器が流れ込むのを抑止する枠組みも黙殺した。さらに原子力爆弾を禁止して行こうという条約も無視したままである。

しかし、憲法第9条の擁護をしている人も日本国憲法前文をきちんと理解した上で世界情勢を見ているとは言えない。確かにすべての人たちがおとなしく現在の国際秩序に従ってくれればいいのだが、現実問題として紛争が頻発しており、何らかの対策が必要である。だから、戦争や争いごとという厄介な問題から目をそらしてはいけない。憲法第9条を守って前文の精神をないがしろにするということはあってはならないのではないだろうか。

憲法改正議論で重要なのは、国民が理解納得した上で憲法を変えてゆくということである。だから日本人が国際貢献をして憲法前文の精神を世界に広げて行こうという意欲がないなら、憲法第9条だけを変えても仕方がない。

現在、日報を隠したとか、報告を受けていたというようなことが問題になっている。これも元を正せば、設計思想が曖昧な上に法律を作ったことのツケなのだろう。稲田大臣はあまり質のよくない法律家なので、法律の設計思想が実は曖昧でそのまま実行するとエラーが起こるということを想定していなかったのではないだろうか。プログラムも法律も人間が作ったものにはバグがつきものなので、バグ取りはユーザーが行わなければならない。

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